全文は町山氏のブログを直接参照していただくとして
重要と思われる回答部を各項目の末尾に付記しておくことにしますが
(ついでにさらに回答についての疑問やコメントも付記しました)、
各ページを見てまわるのが面倒という方もいると思うので
ここでは合併版というかたちでまとめてアップしておくことにします。
『時計じかけのオレンジ』におけるキューブリックの「自由意思」について
すみません。
キューブリックはちゃんと「『時計じかけのオレンジ』は自由意志についての映画だ」と言っていますが、別のインタビューでした。
映画秘宝に原稿を書いたのが2001年頃なので、どうして混じってしまったのか思い出せません。
いいかげんで、すみません。おそらく、インタビューの言葉を最初に書き出しておいて、
あとで文章として構成する際にやらかしたのだと思います。
改訂を期待します。
しかし見る限り、そもそもキューブリックが語っているテーマと
町山氏が「解説」するテーマに大きな乖離があるように見受けられるのですが…?
まとめのこの部分ですね↓
「人間の本性が邪悪だからといって」に類する発言がありませんが・・・
というかキューブリックは一貫して人間の本性の未決定性について
そして善悪を判断すること自体の相対性について語っているように思うのだが
『猿の惑星』の猿のモデルは本当に日本人か?
すみません。私の世代は、様々な本や記事で「ピエール・ブールは日本の捕虜になった」と読み、聞かされていたんです。
私がこの原稿を書いた2001年頃は、そういう認識があったのです。
(中略)
特に高山正之氏は著書で何度となくブールは日本の捕虜だったと書いています。
13年後の現在、資料を見比べると、ブールについては、依然として複数の矛盾した記述がありますが、
それらを読んで、「ヴィシー政権下のインドシナで捕虜として労役を課せられた」という記述に信憑性があると感じました。
これも改訂版では、その説を有力なものとして書き加えようと思います。
聞かされたことをそのまま書くことが「評論家の仕事」なのでしょうか?
そこを調べて・検証して・「正解」を出すのが評論家の仕事だったのでは……?
『それでも夜は明ける』の愛憎のもつれをどう読み解くか。
これは解釈なので、人によって違うかと思いますが、
僕は、ファスベンダーは最初、自分で鞭打つのがしのびなくて、主人公に鞭打たせたが、
後で、自分の中にある恋心を否定するために自ら鞭打ったと解釈しました。
これは解釈の問題でなく
キャラクターの説明と事実関係の説明が間違っているという話だとおもうのですが?
ファスベンダー演じるエップスがソロモンに嫉妬していることを説明しないことの説明が完全に抜けているような?
『パシフィック・リム』のKAIJUのモチーフを巡るある断言。
すみません。「海底から登場する異次元の怪獣」という設定にクトゥルーが重ねられているのでは、
と思ったからそうつぶやきました。
デルトロ監督は「クロノス」や「ヘルボーイ」などクトゥルー神話を作品の中に盛り込むことが多いので。
作品を観て「ここには××の影響があるのではないか」と論じるのは批評の基本ですが、
僕のツイートでは断言になってますね。影響力を考えると、あくまで推量の言い方にしておくべきでした。すみません。
「ヘルボーイ」は原作コミックが元々クトゥルー神話を下敷きにしているので
これを根拠にするのは奇妙な話です(まさかこれも調べてないのだろうか)
評論家の言葉として、断言は多分それほど問題ではないと思います。蓮實重彦先生のありがたいお言葉のように。
そこでなく、「デルトロ監督としては」と勝手に代弁していたのがとても問題なのではないでしょうか
『X-MEN: フューチャー&パスト』の誤った紹介法。
すみません。プロフェッサーXはテレパスで、テレキシネスを使うのはジーン・グレイでした。
この説明だと、教授とジーンを取り違えていたということのようなのですが
ジーンは今回はメインキャラクターではないので何をどうすると取り違えられるのかわかりません。
大体ジーン・グレイはテレキネシスを使うだけでなくテレパスでもあるので
教授がテレバス、ジーンがテレキネシス使いという役割分担のような説明は妙です。
というか問題は、見てきた映画の解説をするコーナーで
見てきた映画の中で使われていない能力を使うキャラだと「解説」したことではないでしょうか。
記憶違いとか勘違いとかそういうものでは説明しれない何かを感じる……
誰が最初に『First Blood』を『RAMBO』と名付けたか。
東宝東和は当時から「『ランボー』という題名は自分たちがつけた」と雑誌などで言って来たのです。
僕の世代はそれを信じて来た人が多いはずです。
受け売りを「事実の調査・検証」を売りとする評論家が語ることの問題は(以下略)
『大人は判ってくれない』の原題の意味を判っていない?
これは原題「400発のパンチ」で間違いありません。「それはフランス語独特の言い回しで…」とまで書いてないだけです。
そこを書いてないのが問題なのではないでしょうか?
ただ400発のパンチであるというのと、慣用表現として一般的なものであるというのでは、言葉のニュアンスがまるで違います。
嘘ついたら針千本呑ます、をそれを慣用表現と知らない外国人相手に
直訳して言ったらぎょっとするんじゃないかな? 私ならめちゃめちゃ驚きます。
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の結末の記憶が曖昧でもワンスアポンアタイムのことなので仕方ない?
すみません。これは前後関係を忘れてました。
すみません。忘れたかどうかではなく
全く違う内容を「解説」したことが問題なのでは(このパターン多いなw)。
そもそもこれは「忘れていた」ではなく「全然違った内容として記憶していた」件であるように見受けられるのですが……?
『狼たちの午後』ってどんな午後?
どうも聞いた話をそのまま吹聴しているパターンが多いような……
それを「解説」するのが評論家の仕事なのではないでしょうか。
「思い込んでいる人が多い物件」を「それは間違っている」と質すのが評論家の(以下略)
『桐島、部活やめるってよ』の結末ちがう。
すみません。電話がかかってきたんだと思ったんですが、実際はこっちからかけてました。
思い込んだうえ、存在しない場面を「解説」したってわけですね。
それって予習でも復習でもないですよね。
クエンティン・タランティーノの生い立ちをいかにドラマチックに語るか。
タランティーノは「大学ではなくビデオで映画を学んだ」ということが言いたかったので、そういう表現になりました。
こういうのをまさにサジェスティブというのでは……。
『あまちゃん』とキルケゴールちゃん。
リープ・オブ・フェイスはたしかにキルケゴールにおいては信仰に飛び込むことですが、
その後、哲学においては、何かの行動に身を投じる、実存主義的行動として論じられるようになりました。
ただ、この場合は、僕は、ドラマや脚本作りにおいて主人公が迷いを振り切って、
愛や戦いに身を投じる場面について言っています。
キルケゴールはそんなことを言っていない。
まとめにあるように英語にすればリープトゥフェイスに相当する事しか言っていないようです。
それ以前に
そもそもキルケゴールの言葉として語っていたのに、その後の哲学においてはとか話をそらされても何のことやら。
「キルケゴールが言っていた」とはいったいなんだったのか。
おまけ
また、ノーラン脚本の『マン・オブ・スティール』にも、
迷いが断ち切れないスーパーマンが「リープ・オブ・フェイス」という言葉によって戦いに身を投じます。
「マン・オブ・スティール」の脚本はデヴィッド・S・ゴイヤー。
まとめた感想。
どうも人のせいにしたり、単なる勘違いでしたという言い訳が多いような気がいたします。
最終更新:2014年07月01日 00:28