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  • 世界の鉄道 @ ウィキ | World in the Train
  • JNR103系

世界の鉄道 @ ウィキ

JNR103系

最終更新:2024年11月30日 15:14

lsderahiuya

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性能

電気方式 直流1,500 V
最高速度 100 km/h
車体 普通鋼製
主電動機 直流直巻電動機MT55形
駆動方式 中空軸平行カルダン駆動方式
制御方式 抵抗制御、直並列組合せ、弱め界磁、バーニア制御
制御装置 国鉄制式CS20形
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(応荷重装置付)手ブレーキ
保安装置 ATS-B/S/Sn/ST/SW/SK/P,ATC
運用開始 A.D.1964年

詳細

国鉄初の新性能通勤電車として1957年に登場した101系を基本に、駅間距離の短い線区の運転やMT比1:1の編成を組成可能な経済性を重視し、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で設計され、3,447両が製造された。新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、後述する105系への改造や老朽化、事故廃車などにより、全車が同時に存在した時期はない。基本的な構成は、前級に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・幅1,300 mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・主電動機に直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)が所有していた該当車両は2001年(平成13年)、東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有していた該当車両は2009年(平成21年)に形式消滅となっており、2023年2月1日現在残存するのは西日本旅客鉄道(JR西日本)が関西圏で運用する40両と九州旅客鉄道(JR九州)が筑肥線で運用する15両の合計55両である

運用地区分け

山手線・赤羽線


103系の初投入路線である山手線には、1963年に試作車が登場し、翌1964年より量産車の投入が開始された。車体塗装はウグイス色(■)が初めて採用された。量産車は1964年より池袋電車区・品川電車区への投入が進められ、101系の置き換えにより1969年に山手線の全車が103系となった。当初は8両編成であったが、混雑緩和のため10両編成化が行われ、1971年までに全編成が10両編成となった。1968年10月1日のダイヤ改正には、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭で、56編成のうち34編成を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に夜間疎開していた。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年(昭和40年)3月に開始すると共に、山手線のホーム有効長延伸工事も進めた。1967年(昭和42年)4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らした。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した。9月から増車用の新製車が山手線に配属されて、10月1日から8両編成の中間に組成し10両運転を開始した。このことにより山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみの貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事であり、余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増車用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が緩和された。山手線の一部であった池袋 - 赤羽間は、1971年3月15日に正式に赤羽線となった。赤羽線では1978年に従来の101系に代わり103系8両編成が投入されたが、103系で初となるカナリアイエロー(■)に塗装された。1972年6月23日、日暮里駅で京浜東北線の北行電車に山手線の内回り電車が追突する事故が発生した。これを契機に山手線と京浜東北線の保安装置のATC化が決定し、1974年より先頭車のATC対応車への置き換えが開始された。1981年12月6日より山手線・赤羽線のATC運転が開始されている。1983年からは赤羽線の8両編成に2両を増結し、10両編成での運転が開始された。1984年2月1日のダイヤ改正で増備された1編成10両は、電動車ユニットに103系最終増備車の2ユニットと福知山線6両編成の4両編成短縮化で捻出された1ユニットが組み込まれたほか、先頭クハは中央・総武緩行線から転入の非ATC車がATC車に改造された。1985年3月より山手線への205系の投入が開始され、103系は置き換えの対象となった。1985年9月には埼京線が開業し、赤羽線区間も埼京線の系統に組み込まれるとともに、山手線・赤羽線から捻出された103系は埼京線用として川越電車区に転出した。1985年11月には品川電車区が山手電車区に名称変更され、1986年には池袋電車区の車両も転入して山手線の全車が山手電車区へ集中配置となった。1987年の国鉄分割民営化により、山手線用の103系は10両編成20本の210両がJR東日本へ継承された。民営化直後の1987年4月11日と12日には、JR東日本の103系5色を2両ずつ組み込んだ10両編成による「JRおもしろ電車」が山手線で運転された。分割民営化後も引き続き205系への置き換えが実施された。1988年6月26日にさよなら運転が行われ、103系の山手線での運転は終了した。

京浜東北線・根岸線


山手線に引き続き、1965年からは京浜東北線への103系の投入が開始された。蒲田電車区、浦和電車区、下十条電車区に順次配置され、旧性能車が順次置き換えられた。車体塗装はスカイブルー(■)が初めて採用された。当初は8両編成であったが、10両編成化が念頭に置かれていた。下十条電車区では検車庫の長さが8両分しかなく、10両編成を7両と3両に分けて検査を行うこととなり、クモハ103形とクハ103形500番台が登場している。1970年からは101系も転入し、1971年までに京浜東北線の新性能化が完了した。根岸線は桜木町 - 磯子間の開通とともに横浜 - 桜木町間が編入され、1970年に磯子 - 洋光台間が、1973年に洋光台 - 大船間が延伸されて全通し、大宮 - 大船間での直通運転が開始された。1976年からの103系追加投入により101系は武蔵野線に転出し、京浜東北線の全車両が103系となった。山手線と同じく京浜東北線にもATCが導入されるのに伴い、1974年より高運転台のATC車の投入が開始された。10両貫通編成も登場したほか、7両 + 3両の編成は6両 + 4両に組み替え、先頭に出る両端の先頭車がATC車となった。1981年に大宮 - 蒲田間で、1984年に蒲田 - 大船間でのATC運転が開始された。1986年のダイヤ改正より、京浜東北線の車両の所属は浦和電車区に集約された。国鉄分割民営化ではJR東日本に継承された。1988年3月のダイヤ改正より、日中の田端 - 田町間で快速列車の運転が開始された。1989年には205系の10両編成4本が京浜東北線に配置され、捻出された103系は京葉線に転出した。1992年には新系列車両の試作車である901系が京浜東北線に投入され、翌1993年からは209系として量産が開始された。209系の増備に伴って205系も他線区に転出し、京浜東北線の103系は1998年3月13日に運転を終了した。

常磐線・成田線


1966年頃、当時複線であった常磐線は混雑の悪化が著しく、旧性能車による10両編成での運転も行われていたが、慢性的な遅延が発生する状況にあった。この対策のため、京浜東北線に追加投入が検討されていた103系が1967年より常磐線に10両編成で投入され、松戸電車区に配置された。車体塗装はエメラルドグリーン(■)となった。1971年に常磐快速線と常磐緩行線による綾瀬 - 我孫子間の複々線化が完成し、常磐緩行線と営団地下鉄千代田線との相互直通運転が開始された。緩行線には地下鉄直通車として103系1000番台が投入され、グレーの車体にエメラルドグリーンの帯が入る外観となっている。快速線は緩行線への利用客転移を見込んで8両編成に減車されたが、利用客転移は進まず快速線の混雑が悪化したため、1972年に再び10両編成に増車された。1973年に成田線の成田 - 我孫子間(我孫子支線)が電化され、103系による上野 - 我孫子 - 成田間の直通運転が開始された。1982年には常磐緩行線の運行区間が取手まで延長され、朝夕の通勤時間帯に取手まで乗り入れるようになった。1984年より緩行線に203系が投入・増備され、1986年までに103系1000番台の置き換えが完了した。捻出された103系1000番台は地上の快速線に転用されたほか、56両が105系へ改造され、奈良線・和歌山線の電化開業と可部線の新性能化に充当された。103系1000番台は千代田線内での主抵抗器からの発熱や故障の多さなどが問題視されており、203系への置き換えにより解消される形となった。国鉄分割民営化ではJR東日本に継承され、1988年3月13日のダイヤ改正より常磐快速線で103系15両編成の運転が開始された。10両編成に増結する5両編成は、京浜東北線の6両 + 4両編成を常磐線増結用として5両 + 5両編成に変更して転用され、京浜東北線には山手線の205系転入で捻出された10両貫通編成5本が転入している。常磐線は上野 - 取手間の通勤形直流電車を用いた運転と取手以北の近郊形交直流電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正で近郊形電車は15両に編成を増強したが取手以南の通勤形電車は10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252 %と首都圏で最も混雑する路線となった。そこで通勤形車両の編成増強のため1988年3月改正をめどに設備工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完了することから12月1日より一部電車の15両運転を開始した。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである。1989年、中央・総武緩行線の地下鉄東西線直通車1200番台と301系の冷房化改造時の予備車として、1000番台10両編成1本が三鷹電車区に転出した。1991年の東西線直通10両編成化では1200番台の12両が余剰となり、常磐快速線に転用され松戸電車区に転入した。2002年よりE231系0番台が常磐快速線へ新製投入され、103系の置き換えが開始された。松戸電車区は2004年6月1日に松戸車両センターへ改称された。常磐快速線の103系は2006年3月17日に定期運用を終了し、4月8日にさよなら運転が行われた。これにより首都圏の103系は消滅となった。

中央本線快速線

101系による新性能化が完了していた中央線快速には、1973年の武蔵野線開業用の101系を捻出するため、103系の新製冷房車10両編成7本が豊田電車区に配置された。車体塗装はオレンジバーミリオン(■)となった。冷房車であったことから、当初は主に特別快速で使用された。103系はその後も他線区からの転入や101系置き換え用の新製投入で増備されたが、1981年より201系量産車の中央線快速への投入が開始され、中央快速線の103系は101系よりも早く1983年に撤退した。

中央本線・総武本線緩行線

1963年より101系による新性能化が進められていた中央・総武緩行線には、1979年に103系の投入が開始され、津田沼電車区に配置された。車体塗装は101系と同じカナリアイエロー(■)となった。1981年からは中央快速線への201系投入で捻出された103系が転入し、中央・総武緩行線への201系の新製投入も含めて101系の置き換えが進められた。1986年には中野電車区の配置車両が三鷹電車区へ移管、津田沼電車区は習志野電車区へ改組された。101系はJR化後の1988年3月に中央・総武緩行線から撤退し、103系が習志野電車区、201系が三鷹電車区の配置となった。1990年代末から2000年代に入ると、103系は故障が頻発するようになった。1998年より209系500番台が投入され、103系の置き換えが開始された。1999年には209系950番台が投入され、2000年からはE231系による置き換えが進められた(209系950番台はE231系900番台に改番)。これにより、中央・総武緩行線の103系は2001年3月に撤退した。

横浜線

横浜線では旧性能車の72系が使用されていたが、1973年より蒲田電車区に配置された103系の運転が開始された。スカイブルー塗装(■)のままで京浜東北線・根岸線との直通運転も行われ、誤乗防止のため正面に「横浜線」の大型方向板が掲出された。旧性能車は1979年までに置き換えが完了し、103系に統一された。京浜東北線・根岸線のATC化に伴って、同線へ直通する横浜線の103系も先頭車がATC対応の高運転台車に変更された。塗装は山手線と同じウグイス色(■)に統一された。103系は東神奈川電車区にも配置されていたが、1981年6月1日に蒲田電車区の配置に集約された。JR化後の1988年より205系の新製投入が開始され、横浜線の103系は1989年をもって運用を終了、3月13日のダイヤ改正で205系に統一された。

埼京線

1985年9月30日に大宮 - 赤羽 - 池袋間の運転系統として開業した埼京線では、開業時より103系が投入された。山手線や赤羽線で使用されていた車両から捻出され、川越線内に新設された川越電車区に配置された。大宮 - 川越間では川越線に乗り入れている。1986年には山手貨物線の線路への乗り入れにより新宿まで延伸された。しかし騒音問題が発生した為、1989年より205系の投入による置き換えが開始され、1990年12月10日で205系に統一、103系の埼京線での運用は終了した。

川越線・八高線

1985年9月30日の埼京線の開業とともに、川越線は大宮 - 川越 - 高麗川間が電化し、大宮 - 川越間は埼京線の列車の乗り入れが開始された。大宮 - 川越 - 高麗川間の区間列車用として、103系3000番台の3両編成5本が川越電車区に配置された。3000番台の改造種車は、仙石線で使用されていた72系のアコモ改造車である。1990年には区間運転が川越(一部南古谷) - 高麗川間に短縮され、川越線内用編成による大宮駅への入線はなくなった。1996年に八高線の八王子 - 高麗川間が電化され、川越線の川越 - 高麗川間との直通運転が開始された。3000番台は豊田電車区よりサハ103形3000番台が転入し、全編成が4両編成に増結された。同時に0番台に半自動ドアボタンの設置を行った3500番台の4両編成1本が投入され、209系3000番台も4両編成4本が新製投入された。2002年からの山手線E231系500番台の投入に伴い、捻出された205系の川越線用改造車である3000番台が投入され、103系3000番台の廃車が開始された。川越電車区は2004年6月1日付で川越車両センターに改称された。2005年には東京臨海高速鉄道の70-000形を209系に編入した209系3100番台も登場し、残る103系3000番台と3500番台が順次廃車となった。川越・八高線の103系は、2005年10月の川越線電化20周年記念列車をもって営業運転を終了した。

青梅・五日市線

旧性能車が使用されていた青梅線・五日市線では、1976年より103系の営業運転が開始された。京浜東北線へのATC車投入に伴う捻出車が豊田電車区に転入したもので、塗装は京浜東北線時代のスカイブルーからオレンジバーミリオンに変更された。編成は当初は4両編成が入り、1977年からは3両編成も転入した。1977年からはラッシュ時に4両 + 3両の7両編成での運転を開始している。翌1978年には五日市線の旧性能車クモハ40形・72系の置き換えのため、京浜東北線からの103系が5両編成で転入した。これにより中央線快速から直通の101系を除く青梅・五日市線内の列車が103系で揃えられ、旧性能車は1978年3月29日のさよなら運転をもって運用を終了した。1985年のダイヤ改正で5両編成が6両編成となり、101系から改造のサハ103形750番台が増結された。1986年に3両編成が4両編成化される際は、仙石線の72系アコモ改造車から川越線用103系3000番台への改造で余剰となったモハ72形5両がサハ103形3000番台に改造されて編入された。2000年からの中央・総武緩行線へのE231系投入により、捻出された三鷹電車区の201系が豊田電車区に転入し、103系の置き換えが開始された。青梅・五日市線の103系は2002年3月7日に定期運用を終了し、4月13日のさよなら運転をもって全廃となった。

武蔵野線

1973年の開業時より豊田電車区配置の101系1000番台が使用されていた武蔵野線では、1980年に103系の高運転台非ATC車ほか6両編成1本が配置された。その後も103系は他線区からの転入も含めて増備され、1986年までに101系の運転が終了した。同年には豊田電車区所属の201系6両編成も武蔵野線に投入されている。1988年には京葉線が新木場駅まで延伸開業し、武蔵野線の列車は京葉線への直通運転を開始した。1990年には京葉線の新木場駅 - 東京駅間が延伸開業した。1991年より武蔵野線の8両編成化が開始され、205系の投入と103系の増結により1996年に全編成の8両編成化が完了した。なお、201系はこの8両編成化完了により武蔵野線から撤退している。1998年3月より武蔵野線列車の京葉線海浜幕張駅への乗り入れが開始された。2002年には増発用として中央・総武緩行線から捻出された205系のVVVFインバータ化改造車2編成が投入されている。2003年度より、山手線E231系投入に伴う205系の転入と103系の置き換えが開始された。転入の205系はいずれもVVVF化改造車である。2004年3月には武蔵野線車両全車が京葉電車区に転属し、京葉電車区は2004年4月に京葉車両センターへ改称された。2004年には、4両編成4本の16両がインドネシアの首都ジャカルタに渡った。2005年6月25日に三鷹駅と三鷹電車区の開業75周年を記念したイベントが実施され、武蔵野線用で京葉車両センター所属の103系8両編成(E38編成)による臨時快速列車「三鷹駅・電車区開業75周年号」が中央線の三鷹駅 - 高尾駅間で1往復運転された。このE38編成は2005年7月23日に廃車となったが、JR福知山線脱線事故による車両不足を補うためJR西日本に譲渡されている。武蔵野線の103系は、2005年12月8日に運転を終了した。

京葉線

京葉線は今でこそ赤色の車両が使われているが103系の赤色は当初なく後に赤色の103系は播但線のみに運用されている。代わって京葉線はスカイブルー(■)が運用された。1986年3月3日のダイヤ改正により京葉線が西船橋 - 千葉港(後の千葉みなと)間で暫定開業し、蒲田電車区から京浜東北線用の103系が6両 + 4両の10両編成で津田沼電車区に転入した。日中は付属4両を切り離した6両編成で運用されたが、乗客が少ないことから後に基本編成が4両、付属編成が6両に振り替えられた。京葉線は1988年3月1日に新木場 - 南船橋間、市川塩浜 - 西船橋間、千葉港 - 蘇我間が延伸開業し、1990年3月10日に新木場 - 東京間が開業して全通した。全通に合わせて京葉電車区が発足し、京葉線車両は京葉電車区の所属に移管された。外房線・東金線への103系の乗り入れも開始され、誉田駅での分割併合に備えて電気連結器の設置改造も行われた。最初は外房線は上総一ノ宮駅、東金線(4両編成側)は成東駅までであったが、のちに総武快速線E217系4両付属編成の勝浦乗り入れを京葉線からの基本6両編成に置き換えたため1998年12月8日から勝浦駅まで運用が拡大された。2000年からの中央・総武緩行線へのE231系投入により捻出された三鷹電車区の201系が京葉電車区に転入し、103系の置き換えが開始された。2002年からは山手線へのE231系500番台の投入で捻出された205系が転入し、103系の分割併合可能編成が消滅した。モハ103-502はDDM(ダイレクトドライブモーター)駆動へ改造され、2003年5月より営業運転での試験が行われた。京葉電車区は2004年1月1日付で京葉車両センターに改称され、2004年3月には豊田電車区所属の武蔵野線用103系が京葉車両センターに転入した。205系の転入はその後も続けられ、京葉線の103系は2005年11月18日に営業運転を終了した。

南武線

南武線の川崎 - 立川間は101系による新性能化が完了していたが、101系の老朽化と冷房化率向上のため、1982年より豊田電車区の103系が中原電車区に転入した。1987年のJR化後も残存していた101系の置き換えは、103系の転入と205系の新製投入で行われた。川崎 - 立川間の101系は1991年に運転を終了し、以後は尻手 - 浜川崎間の南武支線の2両編成3本6両のみが101系で残った。1987年頃、川崎アゼリアとタッグを組み、「アゼリア号」を運行した。南武線の保安装置のATS-P化に伴い、103系の先頭車は高運転台ATCタイプのクハを両端に配する編成に統一された。1993年に209系の6両編成1本が南武線に投入されたが、横浜線の増発に伴う205系1編成の捻出用であり、103系への影響はなかった。1997年2月にも209系の6両編成1本が南武線に投入されたが、南武線の増発用であり、103系への影響はなかった。2002年より、山手線E231系500番台の投入に伴って捻出された山手線の205系が転入し、103系の置き換えが開始された[240]。205系にはサハ205を先頭車化改造した1200番台も投入され、103系は順次廃車となった。南武線の103系は、2004年12月16日をもって営業運転を終了した。

鶴見線

鶴見線では大川支線を除いて1980年度中に101系による新性能化が完了しており、103系は中原電車区配置車によりJR発足後の1990年7月28日に運用を開始した。103系は3両編成10本が投入され、101系の営業運転は1992年5月に終了した。大川支線では武蔵白石駅の大川支線ホームの構造上の都合から、JR化後も17 m級旧型国電のクモハ12形が使用されていたが、大川支線ホームの撤去により1996年より103系の運用に置き換えられた。山手線へのE231系500番台の投入に伴い、205系1100番台が2002年から2005年にかけて103系置き換え用に投入された。鶴見線の103系は2005年12月に運用を終了し、最後に残った1編成は2006年4月28日付で廃車となった。

仙石線

東北地区唯一の直流電化路線である仙石線では旧性能車の置き換えとして首都圏の103系が陸前原ノ町電車区へ転入し、1979年10月1日に運転を開始した。転入の際には寒冷地向けの改造が行われ、一部区間で存在したタブレット閉塞への対応で運転席後部の戸袋窓が閉鎖されるなど、仙石線の事情に合わせた工事が行われた。旧性能車は72系のアコモ改造車970番台を除いて1980年までに、72系970番台も1984年に置き換えられ、仙石線の新性能化が完了した。72系970番台は103系3000番台に改造され、川越線と青梅・五日市線に投入された。1983年には仙石線全線が自動閉塞となった。国鉄時代末期には2編成8両が冷房化改造された。このうち1編成4両は国鉄最終日の1987年3月31日に105系の2編成4両に改造され、石巻 - 矢本間の区間列車向けに投入された。1990年より非冷房車置き換えのための103系が首都圏より転入し、仙石線向けの更新工事が施工された。前面ガラスの2枚窓化や側面ガラスのユニット窓化、運行番号表示器の種別幕化などが行われ、塗装も白と青の新塗装となった。1998年には高運転台車2編成が首都圏より転入し、これを機に「SENSEKI LINE」の文字の入った新塗装に変更されている。陸前原ノ町電車区は1990年に移転して宮城野電車区となった。2000年には仙台 - 陸前原ノ町間が地下化され、仙台 - あおば通間が延伸開業した。2003年には宮城野電車区が仙台電車区宮城野派出所に改組された。2003年より、首都圏でのE231系投入に伴って山手線の205系を先頭車化改造した3100番台が仙石線に転入した。103系は205系に置き換えられ、2004年をもって仙石線での103系の運転は一旦終了したが、1編成は廃車とならずに郡山工場で留置された。なお、2004年4月1日付で郡山工場は郡山総合車両センターに、仙台電車区宮城野派出所は仙台車両センター宮城野派出所に改称されている。その後、多賀城駅の高架化工事の影響で運用本数が1本多く必要になり、郡山総合車両センターに留置されていた103系の1編成(RT-235編成)がトイレ設置やシングルアームパンタグラフ化などの改造を経て、2007年3月より営業運転を再開した。運用は平日の朝のみで、小鶴新田からあおば通へ、あおば通から東塩釜まで1往復、その後小鶴新田へ入庫となる限定運用であった。2009年、京浜東北線へのE233系1000番台の増備により209系1編成が南武線に転出し、南武線の205系1200番台1編成が仙石線に転出して3100番台に改造された。この205系3100番台の追加転入に伴い、仙石線での103系の運転は2009年10月21日をもって終了となった。これをもってJR東日本管内の103系は全廃となった。

名古屋地区

中央本線の名古屋口で最初の電化区間である名古屋 - 瑞浪間では、72系が5両 + 5両編成の10両編成で運用されていたが、1977年3月11日より103系の6両 + 4両の10両編成への置き換えが開始され、4月13日に103系化が完了した。当初投入分の52両(予備車含む)は京浜東北線へのATC対応車の投入に伴う捻出車であり、先頭車側面へのサボ受けの設置や前面窓のデフロスタ設置等の工事が施工され、神領電車区に転入した。塗装はスカイブルー(青22号)とされたが、1978年に転入した10両には横浜線から転入したウグイス色の車両が含まれており、混色編成も存在した。前面方向幕は当初は使用せず、1979年10月より「中央線」のステッカーが貼られた。1980年には冷房化改造車が登場したが、側面幕も白幕のまま使用されなかった。1985年度以降は青梅・五日市線からの転用で豊田電車区より冷房車6両含む8両が転入したが、オレンジバーミリオンのままの車両も一時期存在した。1986年11月1日のダイヤ改正では輸送力適正化のため7両 + 3両に組み換え、3両編成単独での運用も開始された。冷房車は前面・側面の方向幕の使用が開始されている。民営化によるJR東海への継承後は211系5000番台が大量増備され、103系はラッシュ時のみの運用となった。1995年からは関西本線での運用も開始され、3両編成が亀山まで入線した。1999年の313系の投入に伴って103系は1999年12月に運用を終了し、2001年に全廃となった。

大阪環状線・桜島線

大阪環状線・桜島線では、1969年12月から2017年10月3日まで103系が運用されていた。車両の車体色はオレンジヴァーミリオン(■)。なお桜島線には6両編成も存在した。大和路線直通の区間快速として、JR難波駅から加茂駅まで乗り入れる運用もあったが、2016年(平成28年)10月3日より221系に置き換えられ消滅した。関西では京阪神緩行線に次いで投入された大阪環状線の103系は、最初の編成として1969年12月に6両編成2本が森ノ宮電車区に配置された。車体塗装は103系で初のオレンジバーミリオン(朱色1号)となった。1971年より103系で初となる8両編成化が開始され、1976年に桜島線直通を除く全編成が8両編成となった。この増備では中間車の新製投入とともに、先頭車は首都圏のATC化に伴って捻出されたATC非対応車が転入している。103系の増備により捻出された101系は淀川電車区へ転属し、片町線の新性能化に充当された。1985年には京阪神緩行線への201系導入で捻出された103系が転入し、大阪環状線・桜島線とも全車両が103系となった。国鉄分割民営化時、大阪環状線・桜島線の103系は森ノ宮電車区の8両編成28本、6両編成5本の254両がJR西日本に継承された。大阪環状線では8両編成、桜島線では6両編成で運転されていた。桜島線内運転用の6両編成は、森ノ宮支所への入出区のため西九条駅-京橋駅間でも営業運転されていた。1989年に103系の6両編成2本が淀川電車区に転出し、101系6両編成2本が淀川電車区より転入した。101系は桜島線での運用を再開したが、101系の営業運転は1991年3月13日をもって終了した。1995年には8両編成1本が体質改善40N工事のプロトタイプ車として投入され、1995年4月8日より営業運転を開始した。他の車両に対しても翌1996年度より改造が開始されている。2002年度以降は工事内容を簡素化した体質改善30N工事に移行した。2001年、大阪市此花区にテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ)が開業するのに伴い、桜島線ではユニバーサルシティ駅の開業とともに、西九条 - 桜島間に「JRゆめ咲線」の路線愛称が付与された。大阪環状線と桜島線の直通運転が実施されたほか、103系のうち桜島線内折返しの6両編成4本を体質改善40N車に揃えた(2本は日根野・宮原・奈良から転入)上で、USJのアトラクションにちなんだラッピングが施工された。生え抜き車からは2本が「パワーオブハリウッド号」と「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。2001年7月1日の山陽本線兵庫 - 和田岬間(和田岬線)の電化用として、森ノ宮区の8両編成1本が6両編成に短縮され、2001年6月21日付で網干総合車両所明石支所へ転出した。2005年からの京阪神緩行線への321系の投入に伴い、201系が森ノ宮電車区に転入した。これにより103系の一部廃車と奈良・日根野電車区への転出が行われ、2007年の時点で8両編成11本、6両編成4本となった。この大転配の際に、体質改善40N車から2両の余剰廃車が発生し、2006年2月1日付けでサハ103-486が、同年5月29日付けでサハ103-410がそれぞれ廃車された。2011年のダイヤ改正で阪和線・大和路線との直通快速列車が増発され、環状運転の列車が減少したため、103系の28両が日根野電車区へ転出した。これにより森ノ宮電車区の103系8両編成は5編成に減少し、8両編成のクハは高運転台車のみとなった。2011年4月25日には大阪環状線が1961年の開業から50周年を迎え、103系1編成と201系1編成に記念ヘッドマークが掲出された。2012年3月のダイヤ改正では、桜島線の線内折返し列車もUSJラッピング車を含めて8両編成となった。103系によるUSJラッピングは2012年12月をもって終了し、以後は201系にUSJラッピングが施工された。2012年6月の組織改組により、森ノ宮電車区の車両は吹田総合車両所森ノ宮支所の所属となった。「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、103系の1編成で関西のラジオ局「FM802」とJR西日本のコラボレーションによる「OSAKA POWER LOOP」のラッピングが施工され、2014年6月1日より運行を開始した[271]。2014年(平成26年)3月18日に玉造駅に隣接して開業した商業施設「ビエラ玉造」は、大阪環状線の103系をモチーフにした外装デザインとなっている。3扉車による快速の直通運転の増加で4扉車と3扉車が混在する中、整列乗車の課題解消や将来のホームドア設置への対応のため、4扉の103系・201系は2016年(平成28年)より3扉ロングシートの323系への置き換えが決定した。323系導入前の2016年度初頭時点で103系は8両編成7本が存在したが、2016年12月24日の323系の営業運転開始より順次置き換えが進められ、2017年(平成29年)度初頭時点の103系の稼働編成は2編成のみとなっていた。103系で最後に残った2編成のうち、「OSAKA POWER LOOP」編成は2017年(平成29年)9月7日に営業運転を終了した。オレンジバーミリオンで最後まで残った1編成も、形式数字の「103」にちなんだ2017年10月3日が最終運行となり、約48年間に及ぶ大阪環状線での103系の運用が終了した。また当編成の引退と同時にオレンジバーミリオン(朱色1号)の103系の稼働車が消滅した。引退後に先頭車のクハ103形843・802号車が京都鉄道博物館にて11月3日から6日まで展示された。当初は大和路線ウグイス色の103系も展示される予定であったが輸送上の都合によりクハ103形802号車に変更された。

関西本線(大和路線)・奈良線・おおさか東線

吹田総合車両所奈良支所所属の4両編成があり、奈良線を中心に運用されていた。車体色はウグイス色(■)で、先頭車の前面窓下に白色の警戒帯を配する。関西本線の湊町(後のJR難波) - 奈良間電化時に投入された101系の置き換えのため、京阪神緩行線への201系投入によって捻出された103系が1983年より投入された。当初は日根野電車区(現:吹田総合車両所日根野支所)の配置であり、日根野区への入出庫との兼ね合いから、編成の向きが(日根野区の阪和線用車両等と)逆になっている。その後も淀川電車区(当時)・森ノ宮電車区など関西圏やのほか首都圏の各地から転入している。1985年2月には、関西本線の101系の103系への全面置き換えが完了した。1985年3月14日のダイヤ改正で奈良電車区が開設され、1986年11月1日国鉄ダイヤ改正で編成両数を短くしつつ日中の運転本数を増やす施策が取られたため、国鉄末期から1994年にかけては日根野電車区等から転入したクモハ103 + モハ102 + クハ103の3両編成が投入され、単独運転またはラッシュ時には2編成を併結した6両編成で運転されていた。101系クハ100形からの改造車であるクハ103形2000番台も登場している関西本線の103系は同区の所属となった。分割民営化後は、6両編成12本、3両編成10本の計102両がJR西日本へ継承された。1987年度には、阪和線への205系1000番台投入で捻出された日根野電車区の車両が転入した。短編成高頻度運転の輸送力増強のため、6両編成の一部はモハ103 + モハ102を電装解除・先頭車化改造したクハ103形2550・2500番台を組み込み4両編成化された。1988年3月13日のダイヤ改正で関西本線の加茂 - 木津間が電化され、加茂 - 湊町間には「大和路線」の路線愛称が制定された。加茂・奈良 - 湊町間には103系4両編成(ラッシュ時は併結8両編成)による快速列車が設定された。1988年4月から10月にかけて、奈良県奈良市で博覧会「なら・シルクロード博覧会」が開催された。その開催期間には関西本線から梅田貨物線を経由して新大阪へ直通する臨時快速「シルクロード号」が運転され、奈良電車区の103系が使用された。1993年以降、片町線やJR京都線・神戸線への207系の投入で捻出された103系が奈良電車区に転入し、より車齢の高い103系が代替された。片町線用であった淀川電車区からの転入車には自動解結装置を持つクモハ103・モハ102形5000番台とサハ102形もあり、1994年に自動解結装置の撤去と改番が行われている。1994年より3両編成に付随車が組み込まれ、4両編成化された。一部編成にはATS-SWが設置され、3月より奈良線にも進出し、同線の113系の運用が終了した[285]。また、桜井線や和歌山線でも103系が運用された。明石電車区から奈良電車区へ貸出の4両編成2本のうち、岡山電車区へ転属予定とされた1編成(クハ103-221ほか)は、緑のマスカット色に白帯3本の塗装で運用された。1994年度には明石電車区と日根野電車区から10両が転入し、6両が宮原電車区に転出している。関西本線の湊町駅は1994年9月4日にJR難波駅に改称され、1996年3月22日に地下駅となった。国鉄時代からの前面の黄色警戒帯は1990年度に撤去されていたが、1996年度に白色の警戒帯が設けられた。ウグイス色の車体が沿線の緑に溶け込み、保線作業員による識別が困難なためとされている。2001年にはUSJ開業に伴うラッピング列車の運行開始により、森ノ宮との間で、先頭車の交換が行われた。転属された車両は「アメリカの街並み風景号(後のスパイダーマン号)」となった。2005年より京阪神緩行線への321系の投入が開始され、同線の201系が森ノ宮電車区へ転属となった[286]。これにより森ノ宮電車区の103系の一部が他線区へ転出し、奈良電車区への転入では103系老朽車やWAU102形による冷房改造車等に廃車が発生した。2006・2007年度には201系の6両編成が奈良電車区に配置され、103系6両編成の本数が減少した。2008年3月におおさか東線が放出 - 久宝寺間で部分開業し、大和路線と同じく103系と201系の6両編成が投入された。2012年6月の組織改組により、奈良電車区の車両は吹田総合車両所奈良支所の所属となった。環境省が2015年(平成27年)に国土交通大臣に提出した、奈良線の複線化事業に係る環境影響評価における、沿線環境対策についての指摘項目では、「適切な環境保全措置を講じ、転動音、車両機器音及び構造物音の低減を図ること」として、ロングレール化や、鉄橋におけるコンクリート床版化の極力導入と並び、「103系車両からの代替による低騒音型機器搭載車両の導入推進」が挙げられている。4両編成は奈良線のほか、大和路線でも2本併結の8両編成で大阪環状線へ直通する区間快速でも使用されたが、2016年(平成28年)10月2日の運用改訂で221系に置き換えられ[、以後は奈良線系統のみとなった。ダイヤ乱れ時など都合によりみやこ路快速の代走運用に入ることもある。4両編成は両端クハの編成とクモハを含む編成が混在することになったが、2007年にクモハ103-2505の4両編成が日根野電車区へ転出したことにより前者に統一された。大阪環状線から撤退した吹田総合車両所森ノ宮支所の201系に置き換えられ、2018年1月24日をもって103系は関西本線(木津駅 - 奈良駅間を除く)、おおさか東線から撤退した。奈良線についても、吹田総合車両所日根野支所の205系による置き換えが進められ、最後に残ったNS407編成、NS409編成も2022年3月11日の営業運転が最後となり、定期運用を終了した。定期運用終了後も予備車扱いで吹田総合車両所奈良支所に留置されていたが、一度も運用に入ることはなく、2022年7月27日に2編成とも吹田総合車両所へ回送され、同月28日付で廃車された。

阪和線

吹田総合車両所日根野支所所属の6両・4両・3両編成があり、阪和線(鳳 - 東羽衣間の羽衣支線含む)で使用されていた。1968年10月1日のダイヤ改正(ヨンサントオ)により、関西初の103系となる6両編成4本が鳳電車区に配置され、当初は主に快速列車で使用された。車体色はスカイブルー(■)となった。阪和線の天王寺 - 鳳間は1965年(昭和40年)6月から6両運転を開始[295][296]したが、鳳以南から天王寺に運転されている快速列車の朝ラッシュ時の混雑が1965年(昭和40年)11月現在で319 %となっていた。さらに鳳以南では1968年度までに26,000戸の住宅開発が予定されており快速列車の6両運転を計画していたが、1968年10月改正に合わせて設備が完成することから6両編成の103系を快速列車用として投入した。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山)- 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用に使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。103系投入により快速のスピードアップが図られ東和歌山(現在の和歌山)- 天王寺間で通勤時間帯9分、日中7分の時間短縮が行われた。103系は山手線や京浜東北線という緩行線用に使用しており、快速用として使用するのはこのときが初めてである。1974年には山手線から103系の6両編成10本が転入し、当初はウグイス色のままで、関西本線の101系と同じく前面に警戒帯としてカナリアイエロー(黄色5号)の帯が配されていた。1976年以降も京浜東北線からの103系の転入が進められ、1977年3月15日のダイヤ改正で羽衣支線を含めた新性能化が完了した。この新性能化で3両編成が必要となったため、関西初となるクモハ103形が浦和電車区より転入している。旧性能車は同年4月14日のさよなら運転をもって阪和線での運転を終了した。阪和線の支線である鳳 - 東羽衣間(羽衣線)は3両編成の旧形国電により運転されていたが、1977年(昭和52年)春に阪和線用を含め33両が増備され、同区間用には103系を3両編成に組成して投入した。この投入により、同年4月14日改正にて阪和線新性能化が完了した。3両編成を組むため編成はクモハ103-モハ102-クハ103となったが、103系の3両編成による運転はこの阪和線が最初のケースとなった。1978年に紀勢本線の和歌山駅 - 新宮駅間が電化され、103系を含む鳳電車区の所属車は日根野電車区に転出した。1980年には、高運転台非ATC車を含む冷房車6両編成3本が新製投入された。1986年11月1日のダイヤ改正では短編成・高頻度運転化により4両編成が登場し、101系より改造のクハ103形2050番台も配属された。阪和線の103系は、6両編成29本、4両編成17本、3両編成2本の計248両がJR西日本に継承された。JR化後の1987年6月21日、父の日にちなんで運転された臨時列車「お父さん感謝大漁号」は、日根野電車区の103系3両編成の間に同区の165系3両編成を挟んだ混結6両編成で天王寺駅 - 和歌山駅 - 和歌山市駅間を走行した。編成はクモハ103-モハ102 + クモハ165-モハ164-クハ165 + クハ103の6両編成であった。1987年7月1日に123系クモハ123-5・6が羽衣線に投入されると、日中はクモハ123形のみ、朝ラッシュ時にはクハ103-194を連結した3両編成での運転が行われた。クモハ123 + クモハ123 + クハ103という編成で、始発から朝ラッシュ時は3両編成、日中は1両、夕ラッシュ以後は2両編成という柔軟な運用になった。羽衣線では1989年10月20日から車内での運賃収受のないワンマン運転を103系で開始され、123系2両とともにワンマン化改造が行われた。1994年の紀勢本線紀伊田辺駅・周参見駅への延長運転に備えて、4両編成4本にATS-SWが設置され、識別のため前面に白帯が設けられた。後にATS-SWが対象全編成に設置されたため区別が不要になり、白帯は1999年度から2003年度にかけて撤去された。1995年1月の阪神・淡路大震災後は先頭車が必要になったため、クハ103-194を他線区に転用する代わりに森ノ宮区のサハ103-758をワンマン化改造してクモハ123形2両の中間に組み込んだ。クモハ123-5・6は1995年に宇野線のクモハ84形置き換えのため岡山電車区へ転出し、羽衣線は103系による終日3両編成での運転に戻った。2001年にはUSJの開業に伴い、6両編成1本が森ノ宮へ転属され、同車は「ユニバーサルグローブ号(後のセサミストリート号)」となった。1999年には8両固定編成が登場し、同年5月10日のダイヤ改正より朝夕ラッシュ時の快速に充当された。2003年から2006年まで鳳駅 - 大阪環状線間で運転された区間快速には8両固定編成が充当された。225系5000番台の導入により、4両2本併結の8両編成は2011年3月12日のダイヤ改正で姿を消した。このダイヤ改正では関空・紀州路快速の増発と紀州路快速の日根野以南の各駅停車化が行われ、103系と205系は日中は専ら天王寺駅 - 鳳間の普通列車の運用となり、日根野・和歌山方面は朝夕と夜間のみの運転となった。2016年(平成28年)7月からの225系5100番台の投入に伴って、阪和線の103系は同年12月23日に4両編成が定期運用を離脱、2017年(平成29年)7月には6両編成が置き換えられ、阪和線本線での運用は終了した。2018年(平成30年)3月17日のダイヤ改正では羽衣線用の3両編成が225系5100番台4両編成に置き換えられ、阪和線の103系の運用は終了した。置き換えられた103系は全車廃車となった。2017年10月12日、阪和線のHK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が吹田総合車両所日根野支所から網干総合車両所明石支所に回送された[309]。日根野から明石に転属し、編成はR2編成となり、和田岬線用R1編成を置き換えると思われたが、営業運転に入ることなく2018年2月15日付で廃車となっている。なお後述の通り、R1編成は2023年(令和5年)3月18日をもって引退した。

東海道・山陽緩行線(京阪神緩行線)(現JR神戸線・JR京都線)

東海道・山陽本線の京都 - 西明石間で複々線の内側線(電車線)を走行する各駅停車の運転系統は京阪神緩行線(東海道・山陽緩行線)と呼ばれ、戦前型3扉車の51系や72系といった旧性能電車が使用されていたが、大阪万博前年の1969年より103系の投入が開始された。1969年8月に最初の7両編成1本が落成し、同年10月1日改正で運用が始まり、万博開催前の1970年2月までに7両編成15本の105両が投入された。配置は明石電車区、車体塗装は阪和線に続いてスカイブルー(■)となった。当時の京阪神緩行線では前面の行先表示を省略しており、前面方向幕には「普通」とのみ表示していた。運用開始後、前面窓にデフロスタが追設された。山陽新幹線の岡山開業に伴う1972年3月15日のダイヤ改正では、新快速の153系による日中15分間隔運転が開始されたが、同じ線路を走る緩行線の普通列車は、旧性能車では待避駅まで逃げ切るのが困難なため、新快速運転時間帯は103系に統一することとなった。103系は増発分を含む増備車109両が明石電車区に配置されたが、非冷房車ながらユニット窓とシールドビーム2灯となり、量産冷房車への過渡的な形態となった。この改正では緩行線の運転系統も変更され、従来は京都 - 西明石間と吹田 - 甲子園口間であったが、京都 - 甲子園口間と吹田 - 西明石間に分割された「串刺しダイヤ」となった。1974年1月から3月にかけて、関西初の量産冷房車が京阪神緩行線に77両投入された。中間車は高槻電車区に新製配置されたが、先頭車は山手線・京浜東北線にATC対応車を投入して差し替えられたATC非対応の量産冷房車が転入した。当初は側面方向幕も含めて「普通」のみ表示であったが、同年秋頃より「京都」「西明石」など行先の表示が実施された。1975年には完全新性能化を目的に80両が投入され、京阪神緩行線の全車両が103系となった。1982年12月より、201系の7両編成32本が京阪神緩行線に投入された。103系は関西本線・片町線の101系置き換え用として転出し、付随車は阪和線の快速8両編成化に用いられたほか、首都圏にも転出した。1985年3月14日のダイヤ改正では、京阪神緩行線の一部列車が草津・加古川まで延長された一方、昼間時間帯(10時から15時)は京都に入らず高槻折返しとなり、高槻以遠は快速が各駅に停車した。これにより日中は201系のみでの運用が可能となり、スピードアップと「串刺しダイヤ」の解消が行われ、103系の運用は朝夕のみとなった。1986年11月1日のダイヤ改正より205系の7両編成4本が投入され、103系は阪和線、首都圏に転出した。京阪神緩行線の103系は、7両編成19本の133両がJR西日本に継承された。103系は引き続き201系・205系とともに運用されたが、103系の運転区間は京都 - 西明石間とされた。1988年には京都 - 大阪間にJR京都線、大阪 - 神戸 - 姫路間にJR神戸線の愛称が制定された。民営化直後は非冷房車が7編成あったが、冷房化改造や宮原・淀川電車区への転出も進められ、1988年度時点で非冷房車は1編成となった。1990年には日根野電車区との間で非冷房車の1編成が差し替えられ、101系からの改造車であるクハ103-2052が転入した。同年3月31日付けでモハ103-230が廃車となり、JR西日本所属車では初の廃車となった。明石電車区で保留車となっていたモハ102-385は、1989年に事故廃車となった105系クハ105-7の代替として1990年に電装解除・先頭車化・冷房化の改造が実施され、105系のクハ104-551となった。同車は末期は日根野支所新在家派出所に配置され、2019年12月2日付けで廃車された。1991年時点では明石電車区に7両編成15本(うち非冷房車1本)と保留車を含む110両が配置されていたが、103系の運用は朝夕ラッシュ時に限定されており、日中は京都駅や明石電車区などに留置された。クハ103-2052を含む非冷房車編成は1992年に4両編成化され、明石電車区の訓練車となったが、同年内にクハは廃車となり、電動車ユニットも奈良電車区に転属して旅客営業に復帰したことで消滅した。これにより明石区の103系は全車が冷房車となった。1993年3月18日改正で福知山線(JR宝塚線)に207系0番台が投入されたことに伴い、福知山線103系の一部が宮原運転所から明石電車区へ転入、カナリアイエローからスカイブルーへ塗り替えとともに京阪神緩行線初の高運転台となった。1994年には吹田工場高槻派出所に207系1000番台が新製配置され、同年3月1日に運用が開始された。103系は1994年3月24日に京阪神緩行線での運用を終了し、宮原・森ノ宮・奈良・日根野・岡山の各電車区と広島運転所に転出した(そのまま廃車にするのは勿体からね。)。

片町線(学研都市線)

片町線では40系・42系・72系などの旧性能電車が1970年代まで使用されていたが、1976年に101系の導入が開始され、1978年には冷房車が導入されるなど近代化が進められた。1979年10月1日のダイヤ改正では片町線の四條畷 - 長尾間の複線化、関西の国鉄で初の自動改札機の導入、6両編成化などの輸送改善が実施され、これに合わせて103系の新製冷房車が投入され
た。103系は1979年に6両編成1本が淀川電車区に新造投入され、先頭車は高運転台車で初の非ATC車となった。車体塗装は大阪環状線と共通のオレンジバーミリオン(■)となった。翌1980年には7両編成3本が新製投入され、このうち1本は大阪環状線から転入の低運転台車が先頭に立った。1983年からは京阪神緩行線への201系投入で捻出された編成が転入し、1984年2月の福知山線103系6両編成の4両編成短縮化で捻出された電動車ユニットも転入した。1985年、淀川電車区が桜ノ宮駅北側から放出駅付近に移転したため、吹田工場への入場経路変更の関係から全編成が方向転換された。同年から翌1986年にかけては、京阪神緩行線への201系投入で捻出された103系のサハが明石電車区より転入し、各編成が7両編成となった。淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承された。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された。淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承され。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された。1989年3月11日に長尾 - 木津間の電化が完成し、長尾 - 大住間に松井山手駅が開業した。松井山手駅で分割併合を行うため、103系7両編成のうち13本を4両と3両に分割し、自動解結装置を設置する改造が行われた。奈良電車区や明石電車区からの転入車もあり、基本編成は付属編成より3本多い16本の配置となった。片町 - 松井山手間は7両で運転し、ホーム長の短い松井山手 - 木津間は3両で運転された。昼間時間帯は付属4両を切り離し、3両編成単独での快速運用も行われた。101系の2編成は1989年に桜島線用として森ノ宮電車区へ転出し、片町線は103系に統一された。1990年には木津へ乗り入れる編成が4両編成となり、4両 + 3両から3両 + 4両に編成替えが行われ。転入車改造の3編成では、2編成に明石電車区から転入のサハ103形が、1編成は奈良電車区のモハ103-232がサハ103-2501に改造されて組み込まれた。1991年には207系0番台の試作車7両編成1本が投入され、103系の非分割編成1本が森ノ宮電車区へ転出した。その後の207系の4両・3両編成の増備により103系は増解結運用から撤退し、快速は207系の運用となり、103系は片町 - 四條畷・松井山手間の普通列車での運用となった。103系の配置両数は半減し、森ノ宮、日根野、奈良、明石の各電車区のほか広島・下関の各運転所への転出が行われた。1996年9月8日、最後に残った103系7両編成1本によるさよなら運転が行われ、11日で営業運転を終了した。運用終了後の103系は宮原電車区に転出した。1997年3月8日のダイヤ改正でのJR東西線の開業に伴い、片町線は京橋 - 片町間が廃止となった。淀川電車区も車両の配置がなくなり、森ノ宮電車区放出派出所となった。

福知山線(JR宝塚線)

1981年4月1日に福知山線の尼崎 - 宝塚間が電化されるのに伴い、103系の6両編成6本36両が宮原電車区に新製投入された。クハは高運転台の非ATC車であり、車体塗装は関西の103系で初のカナリアイエロー(■)となった。乗客数の伸び悩みから、1984年2月1日のダイヤ改正で4両編成に短縮され、中間電動車ユニットは他線区に転出した。1986年に福知山線が全線電化されると、103系は新三田まで運用範囲が拡大された。福知山線の103系は、4両編成6本の24両がJR西日本に継承された。PRの施策として、103系には編成ごとに異なる「イエローライナー」のヘッドマークが掲出された。篠山口までの乗り入れも行われたが、1991年度には運転区間が新三田までに短縮された。1989年3月11日のダイヤ改正では、明石電車区より非冷房・低運転台の4両編成3本がスカイブルー塗装で転入したが、同年5月にはWAU102形分散冷房装置での冷房化改造とカナリアイエローへの塗装変更が行われた。このうち1編成は1989年度内に日根野電車区に転出している。1991年時点では宮原電車区に8編成32両が在籍し、分散冷房の低運転台車が2編成、残り6編成が高運転台車(宮原新製配置)となっていた。1992年度には宮原電車区に207系の4両編成4本が配置され、103系は低運転台車2本が広島運転所に、新製配置車のうち2本が明石電車区へ転出した。残る103系は宮原新製配置の4両編成4本となった。1993年度には明石電車区から転入の電動車ユニットが組み込まれ、再び6両編成となった。1994年8月に三田 - 新三田間で発生した踏切事故により、クハ103-839が廃車となっている。補充として奈良電車区より6両編成1本が転入したほか、事故編成の残存車は1995年の阪神・淡路大震災後の輸送力増強用として広島運転所からの借入車と組成した6両編成で使用された。JR東西線が開業した1997年3月8日のダイヤ改正では、宮原区の103系は全編成が7両編成となった。この改正では東海道本線の高槻までの乗り入れも開始された。207系の淀川・高槻電車区への転出と103系の淀川・森ノ宮電車区等からの転入により、宮原区の103系は低運転台車を含む7両編成8本となった。1997年9月1日のダイヤ改正では、東海道本線への乗り入れ区間が京都まで延長された。平日朝ラッシュ時・夜間には103系による尼崎 - 京都間の列車も設定され、尼崎 - 大阪間では塚本駅に停車する内側線を走行した。1998年度より車体塗装のスカイブルーへの変更が実施され、2001年度をもって関西からカナリアイエローの103系が消滅した。2001年にはUSJの開業により、サハを抜いた6両編成1本が森ノ宮へ転属し、同車は「ウッドペッカー号」となった。2003年に網干総合車両所明石支所へ207系2000番台が56両投入されたのに伴い、宮原区の103系は2003年8月17日に営業運転を終了した。運用終了後は一部の付随車を除いて日根野・森ノ宮・奈良の各電車区と広島運転所に転出した。2005年4月25日に福知山線の尼崎 - 塚口間で発生した脱線事故の影響により、森ノ宮電車区の103系1本がオレンジバーミリオン塗装のまま7両編成で貸し出され[324]、8月1日より京都 - 甲子園口・新三田間で運用された。9月1日からはJR東日本からの譲渡車(元武蔵野線E38編成)を組成変更してスカイブルーに塗装変更した7両編成に変更され、321系投入前の11月30日まで運用された。運用離脱後は付随車が廃車となり、残る6両が日根野電車区へ転出した。

和田岬線

山陽本線の支線で兵庫 - 和田岬間を結ぶ和田岬線では、客車列車時代にはオハ64形・オハフ64形が、1990年以降は気動車のキハ35形・キクハ35形300番台が使用されていたが、2001年7月1日の電化に伴って103系の6両編成1本が和田岬線専用として投入された。森ノ宮電車区から網干総合車両所明石支所への転属車が使用され、塗装はスカイブルー(青22号)となった。編成はR1編成で、全車が延命N40工事車である。和田岬線は朝夕のみの運転であり、休日は朝夕1往復ずつのみの運転となる。日曜日の日中や指定の日には、大久保駅での折返しを経て西明石まで回送され、明石支所へ入庫する。和田岬線への入線は鷹取駅と兵庫駅和田岬線ホームを結ぶ小運転線で行われるが、この小運転線を利用した「神戸乗務員訓練センター」(2000年開設)が設けられており、営業列車のない日中には103系R1編成による乗務員訓練も実施されている。103系は1編成のみのため、検査等の場合は他形式による代走となる。当初の代走編成は201系と207系が使用されたが、201系の京阪神地区撤退後は207系で運用されている。車内広告の掲出は行われていない。明石支所の103系はR1編成のみであったが、2017年10月13日付で吹田総合車両所日根野支所より元HK607編成(クハ103-837ほか6両編成)が転入し、R2編成となった。両端の先頭車は高運転台の体質改善40N車、中間車4両は体質改善30N車であった。R2編成は転属後、営業運転に入ることは一度もなく、2018年2月14日に吹田総合車両所本所へ回送され、翌2月15日付で廃車となった。2020年1月に検査出場したR1編成は、床下が台車のみグレーに塗装された。103系のスカイブルー色(青22号)および基本番台最後の定期運用となっていたが、2023年3月18日の運行をもって207系に置き換えられ運行を終了した。

加古川線

2004年12月19日の加古川線の電化に合わせて、103系のワンマン化改造車3550番台の2両編成8本が125系新造車4両とともに投入され、厄神駅に隣接する加古川鉄道部に配置された。3550番台は体質改善40N工事済の0番台中間電動車ユニットの先頭車化改造車であり、森ノ宮電車区や奈良電車区からの転入である。加古川鉄道部は2009年7月に網干総合車両所の加古川派出所となった。車体塗装はエメラルドグリーン(■)。103系の定期運用区間は加古川 - 西脇市間であり、西脇市 - 谷川間の定期運用は125系のみである。103系は通勤通学時間帯を中心に運用され、日中は125系単行が主体となっている。西脇市 - 谷川間では125系の代走として使用されたことがあるほか、団体臨時列車「歌声列車」として入線した実績がある。2004年の電化当時より、103系の4編成で西脇市出身の美術家、横尾忠則によるデザインのラッピングが行われ、2012年まで運転された。2020年(令和2年)現在、運行中の103系エメラルドグリーン色(青緑1号)車両の唯一の配置線区となっている。

播但線

1998年3月14日に播但線の姫路 - 寺前間が電化されるのに合わせ、103系のワンマン化改造車3500番台の2両編成9本が投入され、網干総合車両所に配置されている。クモハ103形2500番台を含むユニットが種車であり、奈良電車区や日根野電車区から転入した。2両編成のほか、2編成併結による4両編成の運用もあり、姫路・福崎・寺前の各駅では分割併合作業も行われる。1998年の電化開業以来、播但線では朝ラッシュ時に本線からの応援車両として宮原電車区の113系6両編成、後に網干総合車両所の221系6両編成が1往復運用されていたが、2006年3月26日の姫路駅山陽本線ホームの高架化で山陽本線と播但線の行き来が複雑になり、この運用が独立した。2006年3月18日より、日根野電車区から網干総合車両所に転属した103系0番台の6両編成1本が播但線での運用を開始した。転入した103系0番台はクハ103-15ほか6連で、編成番号はR10編成となった。塗装はスカイブルーのままで、平日朝ラッシュ時に運用される。所属標記は「神ホシ」に変更されたが、塗装変更はされず、1999年10月に次ぐ全般検査は行われなかった。103系0番台6両編成は、2006年11月に223系2000番台4次車の投入で運用に余裕が発生した113系6両編成に変更されるまで運用された。全車最初期の1964年製造で老朽化が進んでいたため、2006年12月15日付で廃車された。

岡山・姫路地区

下関地区と同様に115系非冷房車を置換えるため、1994年より広島支社に続いて岡山支社にも投入、同年4月25日より営業運転を開始した。岡山電車区に4両編成5本20両配置で、山陽本線岡山地区や宇野線などで運用された。塗装は独自の「マスカット色」に変更された。薄緑に太い白帯1本と細い白帯2本というもので、薄緑はマスカット(もっともマスカットは広島出身の葡萄の一種だが........)が岡山県の名産品の1つであることに由来している。編成構成はすべて0番台でクハ103形は1次改良型と初期量産冷房車、中間車も1971年以降のユニット窓装備車で統一された。冷房装置は全車一般的なAU75形を搭載する。中間MM'ユニット3組は延命N40工事車、他の14両は延命N工事車で、戸袋窓は全車とも閉塞施工済である。長らく20両で推移したが、2004年に213系「マリンライナー」の転用により運用離脱し、3編成が広島支社に、N40施工MM'ユニット1組が奈良電車区に転属し、MM'ユニットと編成を組成していたクハ2両は廃車された。広島地区への転属車両もしばらくはマスカット色で残り、瀬戸内色の車両と共通運用されていた。残存1編成は2005年10月改正で定期運用を失い予備車とされたが2006年に廃車され、完全に運用を離脱していた。その直後にアーバンネットワークでの車両置換えに伴い、奈良電車区・日根野電車区からの余剰車が転入して、本系列の運用が再開された。1994年転入車と同じ0番台であるが、クモハ103形を含む編成構成かつ初期車の率が高く、1編成は戸袋窓が存置されていた。その後も車両交換があり、1994年転入車と同構成の編成も在籍するようになった。ただし、塗装は統一されていない。2008年末からは、広島運転所からの転入も行われたが、こちらも塗装変更は未施工のままである。なお岡山地区から103系は引退している。2010年3月の定期運用終了後も、代走や臨時列車での運転があったが、2010年12月までに廃車となり、岡山地区の103系は消滅した。

広島・下関地区

115系非冷房車の置き換えを目的として下関運転所に転属した103系は、1992年5月から運用開始したが、トイレを装備した近郊型電車に置き換えられ、1993年に広島運転所に転属した。以降は広島地区の山陽本線・呉線・可部線での運用となった。2002年にクモハ-モハ-サハ-クハの4両編成3本がサハを脱車した3両編成となり、呉線の快速列車「安芸路ライナー」のワンマン運転用としてワンマン化改造が施工された。脱車されたサハは日根野電車区へ転属している。2008年にはこの3両編成3本のクハ103(86・170・171)にトイレが新設され、側面方向幕が移設されている。4両編成は2007年から関西地区で余剰となった113系に順次置換えられ、2011年3月1日のE-07編成の廃車をもって全廃となった。残る3両編成3本は、2012年から2015年にかけて車体塗装が濃黄色(山吹色)(■)の単色に変更された。この塗装は2009年度以降のJR西日本の地域色の1つで、瀬戸内地方の豊かな海に反射する陽光をイメージしたものである。床下機器もグレー一色に塗装された。3両編成は227系への代替により2015年3月14日に全車が運用離脱、広島地区から103系が完全撤退した。運用離脱後の103系は下関総合車両所本所に回送され、その後に解体された。

築肥線

1983年3月22日に筑肥線姪浜 - 唐津間、唐津線唐津 - 西唐津間が直流電化され、福岡市地下鉄空港線との相互直通運転を開始した。国鉄では相互直通用車両として103系1500番台の9編成54両が投入された。編成番号は3両単位で付与されており、E1 - E18編成となっている。配置区所は西唐津機関区に仮配置とされたが、電化開業と同時に唐津運転区が開設され、103系は正式に同区の所属となった。名称は民営化後の1991年に唐津運輸区、1997年に唐津鉄道事業部唐津運輸センターと経て、2011年4月1日より唐津車両センターへ改称された。1989年より、輸送量の少ない筑前前原以西で3両編成の運転が開始された。2000年からは筑前前原以西でワンマン運転が開始され、3両編成が駅収受タイプのワンマン対応車となった。2002年度末からは6両編成を含む全編成にトイレが設置された。1995年10月28日の美咲が丘駅の開業に合わせて103系の塗装変更が開始され、前面が赤、側面が銀と扉部の赤を基調とした塗装となった。当初はシルバーと濃いグレーのツートーンに前面とドア部分のみレッド(乗務員扉はイエロー)であったが、2004年以降は塗装簡略化のためシルバーにドア部分のみレッドという303系に準じたカラーリングの車両も登場している。地下鉄空港線(姪浜駅を含む、以下同様)には2004年までにホームドアが設置されており、その動作には本来自動列車運転装置 (ATO) 内にある定位置停止装置 (TASC) 、ホームドア開閉を連動する戸閉制御切替装置などが必要とされる。しかし本番台にはこれらの機器は搭載されておらず、地下鉄区間に乗り入れる際は必ず車掌が乗務し、停止位置は運転士が目視で調整、ホームドアは車掌がホーム設備のスイッチで操作していた。本来の製造目的であった地下鉄区間への乗り入れは、VVVFインバータ制御でATOを搭載する303系の導入・増備時に車両運用を見直したことから、305系運用開始前の2015年1月時点では1日18往復と減少した。E01 - E10編成は、6両編成の運用において、検査などで編成の一方が運用を離脱したときには、両方のまたは一方の編成をE11 - E18編成で補ったことがあった。後者の場合でも幌枠のある先頭車(クモハ)が中間車(モハ)と連結され、貫通幌は通常どおりに使用可能であった。地下鉄乗り入れの末期には、主に夏季を中心に地下鉄線内でのトラブルが続発した。2011年7月1日、大濠公園駅到着時に主回路故障、き電停止が発生し、所定停止位置より約10 m過ぎて停車、さらに煙が出ているとの通報があったため、乗客を地上部まで避難させる事態となった。原因は減流抵抗器内碍子に塵埃等が付着し、碍子の絶縁が低下したことで抵抗体の一部に電流が流れ、溶損に至ったというものであり、減流抵抗器内碍子の一斉点検を行い、不良の碍子を取り替えるなどの対策が講じられた。2012年7月29日には、唐人町駅で床下から火花と煙が出ているとの通報があり、運行を中止するトラブルが発生した。原因は、主制御器内にあるモーター電流を安全に遮断するためのタイミングを調整するタイマーリレーの不具合により、温度上昇で誤作動を起こし、モーター電流を完全に遮断する断流器にある減流抵抗器に過大な電流が流れて焦損したためであり、JR九州は全編成のタイマーリレーを交換するなどの対応を行ったが、同年9月には地下鉄線内で照明が消えて非常灯が点灯し、またしても運行を中止するトラブルが起こり、事態を重く見た福岡市交通局はJR九州に対して103系の早期更新を要請した。このため2015年2月5日より筑肥線・福岡市地下鉄直通運転向け新型車両305系の運行を開始、同年3月14日のダイヤ改正までに計画の6編成36両が出揃った。これに伴い、2015年3月をもって本系列による福岡市営地下鉄空港線への乗り入れ運用は終了し、以後は筑前前原 - 西唐津間のみで運用されている。305系投入と前後して、E02編成・E01編成・E03+E04編成・E05 + E06編成・E07 + E08編成が順次小倉総合車両センターへ配給回送されており、E01・E02編成の6両は2014年度中に廃車となり、その他の6両編成もすべて保留車となっている。
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