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JNR103系
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lsderahiuya
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性能
電気方式 | 直流1,500 V |
最高速度 | 100 km/h |
車体 | 普通鋼製 |
主電動機 | 直流直巻電動機MT55形 |
駆動方式 | 中空軸平行カルダン駆動方式 |
制御方式 | 抵抗制御、直並列組合せ、弱め界磁、バーニア制御 |
制御装置 | 国鉄制式CS20形 |
制動装置 | 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ(応荷重装置付)手ブレーキ |
保安装置 | ATS-B/S/Sn/ST/SW/SK/P,ATC |
運用開始 | A.D.1964年 |
詳細
国鉄初の新性能通勤電車として1957年に登場した101系を基本に、駅間距離の短い線区の運転やMT比1:1の編成を組成可能な経済性を重視し、当時の国鉄の財政・設備・保守などの各事情を考慮の上で設計され、3,447両が製造された。新造車3,447両のほか、20両が72系から、36両が101系から編入され、総数は3,503両であるが、後述する105系への改造や老朽化、事故廃車などにより、全車が同時に存在した時期はない。基本的な構成は、前級に当たる101系を概ね踏襲している。切妻形車体・3枚窓による運転台のシンプルなデザイン・幅1,300 mmの両開き4扉・扉間7人掛け車端部3人掛けのロングシート・コイルばね台車はウイングばね軸箱支持・主電動機に直巻整流子電動機を用いた抵抗制御・MM'ユニット方式である。JRグループ発足時に、事故廃車2両と105系改造車65両を除いた3,436両が、北海道旅客鉄道(JR北海道)と四国旅客鉄道(JR四国)を除く各旅客鉄道会社に引き継がれた。その後老朽化による新型車両への置き換えによって廃車が進行し、東海旅客鉄道(JR東海)が所有していた該当車両は2001年(平成13年)、東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有していた該当車両は2009年(平成21年)に形式消滅となっており、2023年2月1日現在残存するのは西日本旅客鉄道(JR西日本)が関西圏で運用する40両と九州旅客鉄道(JR九州)が筑肥線で運用する15両の合計55両である
運用地区分け
山手線・赤羽線
103系の初投入路線である山手線には、1963年に試作車が登場し、翌1964年より量産車の投入が開始された。車体塗装はウグイス色(■)が初めて採用された。量産車は1964年より池袋電車区・品川電車区への投入が進められ、101系の置き換えにより1969年に山手線の全車が103系となった。当初は8両編成であったが、混雑緩和のため10両編成化が行われ、1971年までに全編成が10両編成となった。1968年10月1日のダイヤ改正には、山手線に103系10両貫通編成が登場した。山手線ではラッシュ緩和を目的として編成を8両から10両に増強する工事を進めていたが、当時の山手線の電車区の状況は品川電車区が手狭で、56編成のうち34編成を京浜東北線の蒲田電車区や下十条電車区に夜間疎開していた。京浜東北線の車庫を間借りしながら10両編成化を進めるには無理があるので、山手線内に新しい電車区を新設することになり、大井工場の敷地内に新たに収容能力490両の2階建て電車区を建設して、品川電車区を移転する工事を1965年(昭和40年)3月に開始すると共に、山手線のホーム有効長延伸工事も進めた。1967年(昭和42年)4月3日に新品川電車区の留置線のみ一部供用を開始し、京浜東北線の夜間疎開を24編成に減らした。同年10月、検修設備など電車区としての設備も含めた一期工事が完成し、京浜東北線の夜間疎開は18編成に減り、翌年の10両編成化への準備を着々と進めていった。当初、1968年12月に新品川電車区は完成する予定だったが、同年10月1日に予定されている全国ダイヤ大改正に合わせて準備を進め、山手線を10両編成運転にするための車両の増備も昭和42年度第3次予算で中間車2両を20編成分、合計40両発注した。9月から増車用の新製車が山手線に配属されて、10月1日から8両編成の中間に組成し10両運転を開始した。このことにより山手線の10両編成は運転台が編成の前後のみの貫通編成となったが、これは通勤形電車では初めての事であり、余分な運転台がない分だけ定員が増え、ラッシュ輸送に適した編成となった。増車用の車両は10月中に出そろい、10月24日までに8両編成18編成が10両編成に生まれ変わり、ラッシュ時は内回り12編成、外回り6編成が10両編成化され、池袋駅では内回り7時50分から8時17分まで連続して10両編成が来るダイヤとなり、混雑が緩和された。山手線の一部であった池袋 - 赤羽間は、1971年3月15日に正式に赤羽線となった。赤羽線では1978年に従来の101系に代わり103系8両編成が投入されたが、103系で初となるカナリアイエロー(■)に塗装された。1972年6月23日、日暮里駅で京浜東北線の北行電車に山手線の内回り電車が追突する事故が発生した。これを契機に山手線と京浜東北線の保安装置のATC化が決定し、1974年より先頭車のATC対応車への置き換えが開始された。1981年12月6日より山手線・赤羽線のATC運転が開始されている。1983年からは赤羽線の8両編成に2両を増結し、10両編成での運転が開始された。1984年2月1日のダイヤ改正で増備された1編成10両は、電動車ユニットに103系最終増備車の2ユニットと福知山線6両編成の4両編成短縮化で捻出された1ユニットが組み込まれたほか、先頭クハは中央・総武緩行線から転入の非ATC車がATC車に改造された。1985年3月より山手線への205系の投入が開始され、103系は置き換えの対象となった。1985年9月には埼京線が開業し、赤羽線区間も埼京線の系統に組み込まれるとともに、山手線・赤羽線から捻出された103系は埼京線用として川越電車区に転出した。1985年11月には品川電車区が山手電車区に名称変更され、1986年には池袋電車区の車両も転入して山手線の全車が山手電車区へ集中配置となった。1987年の国鉄分割民営化により、山手線用の103系は10両編成20本の210両がJR東日本へ継承された。民営化直後の1987年4月11日と12日には、JR東日本の103系5色を2両ずつ組み込んだ10両編成による「JRおもしろ電車」が山手線で運転された。分割民営化後も引き続き205系への置き換えが実施された。1988年6月26日にさよなら運転が行われ、103系の山手線での運転は終了した。
京浜東北線・根岸線
山手線に引き続き、1965年からは京浜東北線への103系の投入が開始された。蒲田電車区、浦和電車区、下十条電車区に順次配置され、旧性能車が順次置き換えられた。車体塗装はスカイブルー(■)が初めて採用された。当初は8両編成であったが、10両編成化が念頭に置かれていた。下十条電車区では検車庫の長さが8両分しかなく、10両編成を7両と3両に分けて検査を行うこととなり、クモハ103形とクハ103形500番台が登場している。1970年からは101系も転入し、1971年までに京浜東北線の新性能化が完了した。根岸線は桜木町 - 磯子間の開通とともに横浜 - 桜木町間が編入され、1970年に磯子 - 洋光台間が、1973年に洋光台 - 大船間が延伸されて全通し、大宮 - 大船間での直通運転が開始された。1976年からの103系追加投入により101系は武蔵野線に転出し、京浜東北線の全車両が103系となった。山手線と同じく京浜東北線にもATCが導入されるのに伴い、1974年より高運転台のATC車の投入が開始された。10両貫通編成も登場したほか、7両 + 3両の編成は6両 + 4両に組み替え、先頭に出る両端の先頭車がATC車となった。1981年に大宮 - 蒲田間で、1984年に蒲田 - 大船間でのATC運転が開始された。1986年のダイヤ改正より、京浜東北線の車両の所属は浦和電車区に集約された。国鉄分割民営化ではJR東日本に継承された。1988年3月のダイヤ改正より、日中の田端 - 田町間で快速列車の運転が開始された。1989年には205系の10両編成4本が京浜東北線に配置され、捻出された103系は京葉線に転出した。1992年には新系列車両の試作車である901系が京浜東北線に投入され、翌1993年からは209系として量産が開始された。209系の増備に伴って205系も他線区に転出し、京浜東北線の103系は1998年3月13日に運転を終了した。
常磐線・成田線

1966年頃、当時複線であった常磐線は混雑の悪化が著しく、旧性能車による10両編成での運転も行われていたが、慢性的な遅延が発生する状況にあった。この対策のため、京浜東北線に追加投入が検討されていた103系が1967年より常磐線に10両編成で投入され、松戸電車区に配置された。車体塗装はエメラルドグリーン(■)となった。1971年に常磐快速線と常磐緩行線による綾瀬 - 我孫子間の複々線化が完成し、常磐緩行線と営団地下鉄千代田線との相互直通運転が開始された。緩行線には地下鉄直通車として103系1000番台が投入され、グレーの車体にエメラルドグリーンの帯が入る外観となっている。快速線は緩行線への利用客転移を見込んで8両編成に減車されたが、利用客転移は進まず快速線の混雑が悪化したため、1972年に再び10両編成に増車された。1973年に成田線の成田 - 我孫子間(我孫子支線)が電化され、103系による上野 - 我孫子 - 成田間の直通運転が開始された。1982年には常磐緩行線の運行区間が取手まで延長され、朝夕の通勤時間帯に取手まで乗り入れるようになった。1984年より緩行線に203系が投入・増備され、1986年までに103系1000番台の置き換えが完了した。捻出された103系1000番台は地上の快速線に転用されたほか、56両が105系へ改造され、奈良線・和歌山線の電化開業と可部線の新性能化に充当された。103系1000番台は千代田線内での主抵抗器からの発熱や故障の多さなどが問題視されており、203系への置き換えにより解消される形となった。国鉄分割民営化ではJR東日本に継承され、1988年3月13日のダイヤ改正より常磐快速線で103系15両編成の運転が開始された。10両編成に増結する5両編成は、京浜東北線の6両 + 4両編成を常磐線増結用として5両 + 5両編成に変更して転用され、京浜東北線には山手線の205系転入で捻出された10両貫通編成5本が転入している。常磐線は上野 - 取手間の通勤形直流電車を用いた運転と取手以北の近郊形交直流電車を用いた運転とに分けられ、ラッシュ時の混雑が増大してきた1985年(昭和60年)3月のダイヤ改正で近郊形電車は15両に編成を増強したが取手以南の通勤形電車は10両のままであり、JR化後ラッシュ1時間の混雑率252 %と首都圏で最も混雑する路線となった。そこで通勤形車両の編成増強のため1988年3月改正をめどに設備工事を行ってきたが、昭和62年11月にほぼ完了することから12月1日より一部電車の15両運転を開始した。通勤形電車における15両編成化はこの時の103系によるものが全国で初めてである。1989年、中央・総武緩行線の地下鉄東西線直通車1200番台と301系の冷房化改造時の予備車として、1000番台10両編成1本が三鷹電車区に転出した。1991年の東西線直通10両編成化では1200番台の12両が余剰となり、常磐快速線に転用され松戸電車区に転入した。2002年よりE231系0番台が常磐快速線へ新製投入され、103系の置き換えが開始された。松戸電車区は2004年6月1日に松戸車両センターへ改称された。常磐快速線の103系は2006年3月17日に定期運用を終了し、4月8日にさよなら運転が行われた。これにより首都圏の103系は消滅となった。
中央本線快速線
中央本線・総武本線緩行線

横浜線

埼京線
1985年9月30日に大宮 - 赤羽 - 池袋間の運転系統として開業した埼京線では、開業時より103系が投入された。山手線や赤羽線で使用されていた車両から捻出され、川越線内に新設された川越電車区に配置された。大宮 - 川越間では川越線に乗り入れている。1986年には山手貨物線の線路への乗り入れにより新宿まで延伸された。しかし騒音問題が発生した為、1989年より205系の投入による置き換えが開始され、1990年12月10日で205系に統一、103系の埼京線での運用は終了した。
川越線・八高線

青梅・五日市線
旧性能車が使用されていた青梅線・五日市線では、1976年より103系の営業運転が開始された。京浜東北線へのATC車投入に伴う捻出車が豊田電車区に転入したもので、塗装は京浜東北線時代のスカイブルーからオレンジバーミリオンに変更された。編成は当初は4両編成が入り、1977年からは3両編成も転入した。1977年からはラッシュ時に4両 + 3両の7両編成での運転を開始している。翌1978年には五日市線の旧性能車クモハ40形・72系の置き換えのため、京浜東北線からの103系が5両編成で転入した。これにより中央線快速から直通の101系を除く青梅・五日市線内の列車が103系で揃えられ、旧性能車は1978年3月29日のさよなら運転をもって運用を終了した。1985年のダイヤ改正で5両編成が6両編成となり、101系から改造のサハ103形750番台が増結された。1986年に3両編成が4両編成化される際は、仙石線の72系アコモ改造車から川越線用103系3000番台への改造で余剰となったモハ72形5両がサハ103形3000番台に改造されて編入された。2000年からの中央・総武緩行線へのE231系投入により、捻出された三鷹電車区の201系が豊田電車区に転入し、103系の置き換えが開始された。青梅・五日市線の103系は2002年3月7日に定期運用を終了し、4月13日のさよなら運転をもって全廃となった。
武蔵野線

京葉線

南武線

鶴見線

仙石線

名古屋地区
大阪環状線・桜島線

関西本線(大和路線)・奈良線・おおさか東線

阪和線

東海道・山陽緩行線(京阪神緩行線)(現JR神戸線・JR京都線)
片町線(学研都市線)

た。103系は1979年に6両編成1本が淀川電車区に新造投入され、先頭車は高運転台車で初の非ATC車となった。車体塗装は大阪環状線と共通のオレンジバーミリオン(■)となった。翌1980年には7両編成3本が新製投入され、このうち1本は大阪環状線から転入の低運転台車が先頭に立った。1983年からは京阪神緩行線への201系投入で捻出された編成が転入し、1984年2月の福知山線103系6両編成の4両編成短縮化で捻出された電動車ユニットも転入した。1985年、淀川電車区が桜ノ宮駅北側から放出駅付近に移転したため、吹田工場への入場経路変更の関係から全編成が方向転換された。同年から翌1986年にかけては、京阪神緩行線への201系投入で捻出された103系のサハが明石電車区より転入し、各編成が7両編成となった。淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承された。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された。淀川電車区に所属する片町線の103系7両編成19本は、101系7両編成2本とともにJR西日本に継承され。1988年3月には片町線に「学研都市線」の路線愛称が制定され、ダイヤ改正により快速列車の運転が開始された。1989年3月11日に長尾 - 木津間の電化が完成し、長尾 - 大住間に松井山手駅が開業した。松井山手駅で分割併合を行うため、103系7両編成のうち13本を4両と3両に分割し、自動解結装置を設置する改造が行われた。奈良電車区や明石電車区からの転入車もあり、基本編成は付属編成より3本多い16本の配置となった。片町 - 松井山手間は7両で運転し、ホーム長の短い松井山手 - 木津間は3両で運転された。昼間時間帯は付属4両を切り離し、3両編成単独での快速運用も行われた。101系の2編成は1989年に桜島線用として森ノ宮電車区へ転出し、片町線は103系に統一された。1990年には木津へ乗り入れる編成が4両編成となり、4両 + 3両から3両 + 4両に編成替えが行われ。転入車改造の3編成では、2編成に明石電車区から転入のサハ103形が、1編成は奈良電車区のモハ103-232がサハ103-2501に改造されて組み込まれた。1991年には207系0番台の試作車7両編成1本が投入され、103系の非分割編成1本が森ノ宮電車区へ転出した。その後の207系の4両・3両編成の増備により103系は増解結運用から撤退し、快速は207系の運用となり、103系は片町 - 四條畷・松井山手間の普通列車での運用となった。103系の配置両数は半減し、森ノ宮、日根野、奈良、明石の各電車区のほか広島・下関の各運転所への転出が行われた。1996年9月8日、最後に残った103系7両編成1本によるさよなら運転が行われ、11日で営業運転を終了した。運用終了後の103系は宮原電車区に転出した。1997年3月8日のダイヤ改正でのJR東西線の開業に伴い、片町線は京橋 - 片町間が廃止となった。淀川電車区も車両の配置がなくなり、森ノ宮電車区放出派出所となった。
福知山線(JR宝塚線)

和田岬線

加古川線

播但線

岡山・姫路地区
広島・下関地区

築肥線
