Chapter 7-3 : 代償の乙女・結

(投稿者:怨是)




 屋上の静寂は未だ止まず、緩やかな風だけが各々の髪を撫でる。
 優に三十分を超えているであろう、その長い沈黙にしびれを切らしたベルゼリアは、柵にもたれながら貧乏ゆすりを始めていた。

「んー……どうしよう」

 退屈に堪えかねてここまで来て、そしてまた重苦しい退屈と沈黙に包まれてしまったのか。
 ジークフリートもそれに関して若干の負い目を感じずにはいられなかったが、それ以上に彼女の胸中に渦巻く自己愛が喉を塞ぐのだ。
 放って置いて、もう一度物思いに耽る事もまた「人前で同じ事ができるのか」という問いによって阻まれる。
 進退窮まるこの状況を打開するには、場所を移すほかに選択肢は見当たらなかった。
 中庭辺りなら、ベンチに座って星を眺める事もできようか。

 鉄壁を周囲に築き上げ、もう一度あの星空に思いを馳せるべく、足を一歩踏み出す。
 傍から見れば冷徹極まりないものだと非難の対象にもなりそうなものだが、既に板に付いてしまった“寡黙な鉄壁”の印象を今更覆す事もない。
 センチメンタリズムは独りで浸るものだという事は、教訓として肝に銘じていた。

「私は、大丈夫。パーティに戻るといい」

「でも一人でいるの、さみしくない?」

 またひとつ、思考に矢が突き刺さる。無垢な瞳に見つめられながらの波状攻撃が、心をこれでもかと揺さぶる。
 どう接してよいものか。この状況をどうしたら良いのか解らない。心のバルブが吹き飛び、蛇口から「どうしよう」という文字が湯水のように飛び出てきた。

「……何故そう思う?」

「さみしそうな目してる」

「いつもの事だ」

 首を傾げて覗き込む彼女を、もう一度踵を返して拒絶する。
 これ以上つき合わされればまた一つ、また一つと良心の呵責に苛まれるに違いないのだ。
 蛇口からはまだ「どうしよう」という文字が流れ出てきている。バケツに入りきる量を超えてしまえば、思考がフリーズを起こしてしまうかもしれない。


 ――逃げよう。逃げて体勢を立て直し、明日あたりにできるかどうかも判らない謝罪の予定でも立てておこう。
 明日に立てた予定を完遂できる程の器用さをジークは持ち合わせていないが、それでも小声で小さく謝っておけば聞いてくれる筈だ。
 負い目は呼吸と共に霧散する筈なのだ。

「ごめんなさい……」

 息を吸い込み、足早に歩みを進める。部屋に戻り、明日の準備をせねば。
 せめて戦闘中ならば、積み重ねてきた負い目を忘れる事ができる。その術も学んできたし、実践している。

 今日できなければ、明日やれば良い。明日できなければ、明後日に持ち越せば良い。
 どこかの誰かは、残り少なくなったMAIDをわざわざ刈り取る事ももう無いだろう。それに、おそらくは様々な人間が摘発に尽力している。

 これで良いのだ。出来ない事は誰かに任せれば良いではないか。
 冷や汗に背中を湿らせながら、足早にその場を立ち去るべく、慣れないハイヒールで屋上の床を鳴らす。



 されども足音は別の足音に引きとめられた。
 夜風に乗って「……仕方ないなぁ」という呟きが聞こえてきたのだ。

「――ッ?!」

「ジークは口は堅いほうだよね?」

「べっ……ベルゼ、リア……?」

 振り向けば、ジークがベルゼリアに今まで抱いていた印象とはまるで違う、悪戯っぽい笑みを浮かべる彼女の姿がそこにあった。
 人差し指を口元に当てて黙秘を求めるその仕草は、おそらくはこの豹変を秘密にしておけという事だろうか。
 バケツ一杯の「どうしよう」がとうとう限界を超えて思考が凍結状態に陥るところを、ベルゼリアが付け足す。

「多分内緒にしてくれるとは思うけど、私はあどけない純真無垢なキャラで通ってるから。
 あまりイメージを壊したくないの。でも、ジークにだけ特別公開しちゃおう。絶対に内緒だよ」

「ぁ、ぅ、うん……」

 緩慢な動作でどうにか首を縦に振ると、ベルゼリアの表情が更に明るくなる。
 何が起こったのか、ジークには未だに理解できずにいた。いつものベルゼリアと、今こうして目の前に居るベルゼリアの雰囲気が全く一致しない。
 あの寡黙であどけない彼女が、今は小悪魔のような表情でこちらに耳打ちしている。

「今度は受け取ってくれるよね? 林檎」

「……ぅん」

「あはは、そんな恐がらなくても大丈夫だよ。毒も無いし」

 そういって目の前の少女はバスケットから林檎を一つ取り出し、齧ってみせる。
 ジークもそれに釣られる。固まっていた手が緩やかに硬直を終え、もう一つの林檎へと伸ばしていた。
 月明かりが妙に幻想的で、それが余計に彼女の神秘性を強く照らしている。

「本当に、ベルゼリアなの……?」

「うー。ほんとだよ。こっちのベルゼも」

 一瞬だけ“いつものベルゼリア”の表情を作り、それから本日初めて見せた“小悪魔ベルゼリア”の表情へと変える。
 一方こちらの表情は、今までに無い程の間の抜けたものに違いない。ぽかんと開けた口から、涼しい空気が入り込んでいた。

「こっちのベルゼリアも、本当の私。女の子は、生まれた時から役者さん。ホントは解ってるんじゃない?」

 くるくると回ってみせ、最後にスカートの裾をつかんでお辞儀を一つ。
 表情一つでこうも雰囲気が変わるとは、げに恐ろしきかなと、ジークは胸中で呟く。
 俄かには信じられない。心の中のバケツが倒れて「どうしよう」がそこかしこに散らばっていた。
 目が回って、その場にへたり込むジークに、ベルゼリアが覗き込む。

「私の目的、教えたげる」

 そうだった。ようやく冷静さを取り戻してきた思考に、ひとつの疑問符がゆらりと浮かび上がってきた。
 ここまで知恵の回る少女ならば――いや、悪戯盛りの十代の少女はこれくらい知恵が回って普通かもしれないが――何らかの目的を持っている筈なのだ。
 ここまでの会話やベルゼリアの名演技で、彼女が充分な“やり手”だという事はよく理解できた。
 やはり叱責が目的なのか。林檎を片手に語らいながら、ここまでの出来事を断罪されねばならないという事か。
 それを思い浮かべると、足の震えが止まらなくなる。
 とうとう潮時か。
 シュナイダー教官の鉄拳よりも、数倍か数十倍の痛みを伴う強烈な制裁が頬に飛ぶのだ。
 だが、いっそ、ならばいっそ、それくらいやってくれれば心も晴れるというものではないか。

「私もまだ生まれてからあまり多くの事は知らないから、ジークの事をもっと教えて欲しいな」

「――?」

「だって、見過ごせないよ。ひと目見ただけで苦しんでるって解るんだよ?」

 恐怖心が、静かに崩れる。
 ジークの中のもう一人の自分が鎌首をもたげ、この子になら何を話しても良いのではないかと囁く。
 目の前に座り込んだベルゼリアが、真剣な表情で手を差し伸べていた。

「私は……」

 差し伸べられた手を、しっかりと握る。
 シュナイダーは決してこのような行動に出る事は無かった。手を差し伸べず、ただ「立て」と云うだけだった。
 彼の鉄拳は、拒絶ではなかったか。つい先ほどまで、ジークがベルゼリアに対して行ってきた行為と同じように。

「私は、どうすればいいのか、解らない」

 真剣な表情で相槌を打つベルゼリアを見て、次の行動が完全に決まった。
 打ち明けてしまえばいい。今までどう打ち明けるべきかと悩んだ挙句に仕舞いこんできたこの悩みの数々を、教官への腹いせも兼ねて。
 そう考えた途端、口の重りがどこかへ転がって行ってしまったのだ。

「私には少し前まで、教官が居た。でも、教官は戦闘技術以外は何も教えてくれなかった。
 私はあの人に今まで教わった分の恩返しも……あと、できたら、その……」

 言葉が詰まる。親睦を深めたいのか。結婚したいのか。恋仲になりたいのか。家族のような存在になりたいのか。
 背中を任せる相棒になりたいのか。彼の失った右手や右目の代わりになりたいのか。
 引っ切り無しに喉がノックされ、出口を失った言葉が顔中を熱する。

「その……仲良く、なりたかった。でもあの人に拒絶されて、どうすればいいかわからなくて……
 考えるのをやめて、ずっと戦ってきたら、いつの間にか色々な事が起きて、周りの空気がどんどん冷たくなっていくような気がして」

 顔に溜まった熱が目尻へと伝わり、その熱を冷やさんとするのか、両の頬が湿り気を帯びた。
 視界が滲み、鼻腔の中で空気が回転する。加速し始めた回転はもはや止める事は叶わず、すすり泣く声が辺りに響く。
 それでもジークにはこの涙を止める術がどこにも見当たらなかった。記憶のどこを探しても、涙の止め方など教わった事が無い。
 予防方法は自力で編み出したが、対症療法はついぞ今まで学習する事など無かったのだ。

「私は一人で戦わなくてはならないのに、誰にも頼れないという事実に怯えてしまっている……もう、どうすればいいのか解らない」

 ただ、ただ、嗚咽が両目を熱する。
 いつしか膝を折って座り込み、両手で顔を覆っていた。林檎はどこかへ転がって行ってしまったのだろうか。

「皆が考えているほど私は強くなんてないのに、私のせいで、何もかも……私のせいで……私のせいで……!」

「そっか……そうだね……辛かったでしょ。それをどう伝えたらいいか、解らなかったんだから」

 風に撫でられていた全身が、小さなぬくもりに抱きとめられる。
 溢れ返る複雑な感情の数々が、少しずつ穏やかになって行く。
 顔を覆う手を離してみれば、ベルゼリアの安くはないであろうドレスに、指の隙間から流れ落ちたであろう涙が染み込んでいた。

「たぶん、ジークは利用されてる。どう利用されてるのかは、私にもまだ解らないけど」

「利、用……」

 視線を上へと――ベルゼリアの顔へと移す。
 温和な笑みで、しかし静かな炎を灯した双眸で、彼女はこちらを見つめていた。

「薄々は気付いてるんじゃない?」

「……」

「誰かが何をしようと、心そのものはジークのものなんだから。もっと自分に対してわがままになってもいい筈だよ」

 バスケットからナプキンを取り出し、ジークの顔にゆっくりと当てる。
 頬に布の当たる感触を受けながら、ベルゼリアの言葉に再び耳を傾けた。

「例えば、今日中に皇帝陛下に直訴するとか。()()よコレは。今まで利用しようとしてた連中がドン引きするかもね」

 今この布を取り払えば、そこには悪戯心満点の小悪魔じみた表情を見ることが出来るに違いない。
 もし直訴して、それが見当違いの方向だとしたら。間違った方向に進んで、無用な犠牲を生み出してしまったら。
 いざ前に進むとなると、恐怖心の壁を乗り越えるだけの活力が自分には無かった。

「そッ――それは出来ない……!」

「何で? 陛下はジークを一番愛してくれてるよ。きっと親身になって聞いてくれる。ジークの為に戦ってくれる」

 違う、そういう事ではないのに。
 震える口で、一つ一つ、言葉を吐き出す。うまく説明がまとまらない。
 何が、いつ、どのようにして、という単純な単語すら思い浮かばず、たどたどしい説明となる。

「恐い……その後、何が起こるのかが……もし、遣り方を間違えたら……?」

「大丈夫。何が起こっても私が駆け付けてあげる。一緒に戦ってあげる。
 他にもジークのこと気にしてる人はいっぱいいると思う。これから一緒に探そ」

 ――ジークの話を聞いたら、そうしないわけには行かないよ。
 その言葉を耳にする頃には、再び涙腺が決壊していた。
 目の前の少女の小さな両肩を強く掴み、一身に声を上げる。
 悲鳴にも似た嗚咽が、滝のように流れる涙が、今の今まで溜め込んできた苦しみと共に吐き出される。

「私は……!」

 どうして今まで見過ごしてきてしまったのだろう。
 俯いて走らずに、時おり立ち止まって顔を上げれば、こうして頼れる友人が居たのではないか。
 この小さな友人の力をこの日までに一度でも借りれば、もう少し良い結果へと運ぶ事とて出来たのではないか。
 戦友の数々を失う事無く、この日を共に出来たのではないか。

 口を開く事を拒んだからこそ、人は近寄らなくなってしまった。
 壁を築いてしまったからこそ、心の声は届かなくなってしまった。
 されども再びこのように心を開くべき相手が見つかるのか。
 そう考えてしまう自分自身と、それを咎める自分自身とが衝突し、喉が炎上する。

 咳き込むジークをベルゼリアが抱きかかえ、頭を撫でる。
 その状況に気付くや否や、また負い目のあまりに嗚咽に抗う事を忘れてしまうのだ。






 束の間の休息をひと段落させ、今までずっと抱きかかえてくれていた彼女の肩を軽く叩く。

「――もういいの?」

「ありがとう……すごく、助かった」

 立ち上がるに当たって足の内側に痺れが走ったが、今はそこよりも泣き腫らした両目の痛みが気になっていた。
 ホールのほうからはまだ音楽が聞こえてくる。まだパーティは続いているが、これではどの道参加しようもない。

「そっか。あーあ、ジークってば涙で酷い顔になってる。顔を洗ってから直訴しないとだね」

「うん……」

「それじゃあ、私はパーティで色々説明してくるから」

 若干汚れてしまったバスケットとぬいぐるみを両脇に抱え、ベルゼリアは立ち上がる。
 お別れの時間だ。小さくも頼もしい彼女へ、精一杯の礼を右手に込めながら、手を振ろう。
 気がつけば、無意識のうちに小さな声で「ありがとう」と云っていた。心からの感謝とは、こういうものだったのか。
 ベルゼリアが振り向きざまに、もう一つ挨拶をする。

「ジーク。頑張るのは大切だけど、もう溜め込んじゃダメだよ」

 小さな背中を見送り、もう一度星空を眺め、それから屋上のドアへと視線を戻す。
 何かの儀式というわけでもないが、夜風で涙腺を冷やすのには丁度良い角度だった。

「……ありがとう」


 ゆっくりと、歩みを進める。
 視線は前方へ。目指すは洗面台。
 顔を洗えば次にすべき事はただ一つ。エントリヒ皇帝へ悩みを打ち明け、壁の一つを打ち壊す事ではないか。



最終更新:2009年02月15日 21:57
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。