(投稿者:Cet)
ざあざあとエントリヒ中枢の城塞都市に降る雨は、ダウンタウンに敷き詰められた石畳の坂道を灰色に染め上げていた。その左右には様々な商店が並び、大抵の日用品を手に入れられるようになっている。
女性が一人、坂道を下っていく。その手には紙袋、大事そうに右手で抱え、左手で傘をさしている。何やら鼻歌を歌っていたが、ふいにそれを中断した。同じように続いていく坂道の脇に、少年が立ちすくんでいた。
商店から張り出した屋根の下、雨宿りをしている。その視線はどんよりとした灰色の空に固定されており、微動だにしない。
それは女性がその傍まで歩み寄ろうが変わらない。
「ねえ君、何をしてるの?」
少年は視線を固定したまますぐには答えなかった。
「お母さんを待っています」
「お母さんはいつから君を待たせてるの?」
女性は少年のみなりを観察する、くすんだ紫色の厚手のシャツに綿のズボン。それらは例外なく濡れそぼっており、また少年の顔色もどことなく、くすんで見える。
「二日前」
少年は空を見上げていた。女性は微笑む。
「そんなにか、じゃあお腹空いてるでしょ」
「気になりませんから、大丈夫です」
そこで初めて女性の方を覗う。しめた、と女性は畳み掛ける。
「この紙袋の中ね、長いパンと、野菜と肉と、それから各種調味料。お酒もあるけど、君にはまだ早そうね。でもスープくらいならまともな物が出せそうなんだけど、どう?」
泣き出しそうな表情を浮かべると、こくりと頷いた。
まず女性は少年に温かい飲み物を出して、それから入浴を勧めた。少年はさして遠慮をしなかった。
そして今、女性は食事の準備をしている。その顔は無表情だがどことなく喜びが覗えなくもなく、再び鼻歌が突いて出る。もはや隠しようも無い。
浴室からの水音が止まる。
その頃には淡い麦色をしたスープで玉葱と人参、ジャガイモとウインナーを煮込み、それらと白パンを入れた料理が完成している。
「ミシェルさん」
浴室の方から声がする。なーにー? と大きく返事をした。
「着る物が」
「私も途中で気付いたんだけどね、私のじゃサイズ合わないし、まあちょっと待ってよ」
そう言いながら手を止め、彼女は自分のクローゼットを漁った。適当なシャツとスラックスを手に浴室へと向かう。廊下と脱衣所を隔てた扉が開いて、にょっきりと手が出ていた。
「アレ、私入っちゃいけない?」
暫くの沈黙。
「勘弁して下さい」
「はいはいごめんなさいね、体が冷える前に着替えてね」
少年は少しばかりの赤面を隠し通す。こくりと頷く。
女性は笑う。
暫くして出てきた少年の格好は、何と言っていいのか、冗談みたいだった。
シャツの袖余りは十センチ強、スラックスの裾は何重にも折りたたんで少し窮屈そうだ。
「とりあえず食べて、それから、明日は服を買いにいこうかしら」
しかし少年は席に着こうとしない。
「どうしたの?」
困惑と躊躇の後、俯きがちに答える。
「母は、僕を捨てたんです。それは分かります、でも貴女が私の面倒を見る必然性はどこにあるんですか?」
「必然というならば、運命と答えよう。なんて」
女性は微笑んだ。少年は暫し黙り込んでから席に座る。冷める前にどうぞ、という女性の言葉以上に、素早く平らげていく。
女性は笑う。サラダが要ったかな、などと考える。
女性は次の日、彼に大抵の衣服を買い与えた。それからダウンタウンの共同住宅の二階にある部屋に帰ってくると、少年にある程度の自由を与えた。ある程度の出入りは構わないと、後日合鍵を渡すとも言った。少年はよく分からなかった。それから現金を渡し、自由に使いなさいと言った。同じ年頃の男の子が受け取るような小遣いよりも大分多かった。
ただし一つだけ、と条件を掲げた。私のノックの音をよく聞いて、コンコンコン、コンコン、コンコンコンだよ。私が入ってくるまで、絶対返事しちゃ駄目だからね。少年は了解した。
女性はほとんどの場合家におらず、朝早く出掛け、夜遅くに戻った。少年はその間家事をすることを思いついたが、果たして彼女が残していく面倒はほんの僅かなもので、まして自分自身の身の回りの世話の方が多いくらいだった。
女性はたまに夕飯の前に戻ってくることもあった。しかし一緒になって作った夕飯を食べ終わると、気がついたらいなくなっているのだ。少年にとっては、多忙なのだな、くらいしか分からず、また女性はどんな時も同じ態度を崩さなかった。多忙にも関わらず彼女の白い肌と金髪はいつも美しく整えられていた。
少年は自分の身支度以上のことも少しだけ済ませると、晴れた日は住み慣れたダウンタウンを歩き回った。それ以外はずっと女性の部屋で時を過ごした。
しばらくの間はそうだったが、どうしても退屈が突いて出る。少年が女性にそうほのめかすと、女性は慌てて自分のクローゼットを漁った。その中からはたくさんの本が出てきた。好きに読んでよかったのに、と彼女は言う。だけどクローゼットは漁らないこと。絶対。秘密だから。
少年は頷いた。少年は本ばかりを読んで過ごすようになった。
そんなある日の朝、女性は少年を外へと連れ出した。
「何をすればいいか分からないの、子育てすればいいの? できないものはしない方がいいかなと思って」
「構いませんよ、僕は十分幸福に思っています」
それは良かったと、抜けるような青空の午前。女性は笑う。
「私のこと聞かないの?」
「聞きません、何だか答えてくれそうにないし」
「ごめんねー」
そう言って女性は笑った。
その城塞都市にはたくさんの段差があった。戦略的な意味があるのかもしれない、それとも防衛の意味が廃れて、景観を保つような指向性がはたらいたのかもしれない。
少年と女性は正面に広がる、石畳で模様の描かれた広場を、都市区画に含まれた階段の上から眺めた。背後には人通りの少ないダウンタウンが広がっている。
ある日の午後だった。少年と女性が出会った日のように雨が降っていた。まだ外が暗くなり切らない時刻に、少年は玄関扉が開く音を聞いた。それから読んでいた本を置いた。
ざあざあと雨が降っていた。少年は言いつけ通りに、クローゼットの一番下の段を開けた。黒光りする拳銃があった。使い方は、よく分からなかった。その時に説明する、と女性は言っていた。とりあえずトリガーを引ければいいと考えた。
少年は足音を殺して玄関へと向かった。開け放されたドアに引っかかるように、女性が倒れていた。少年がその体を部屋の中にまで引き入れると、扉は閉まった。
雨の音が遠くから聞こえていた。女性は細い息をしながら、薄らと目を開ける。
「しくじったよ、アドルフ君」
「何で、何で」
「落ち着いてアドルフ君」
女性はぽつりぽつりと言った。何でアンタはそんなに落ち着いてられるんだっ、少年は心の中で叫んだ。
「それの使い方ね、弾は入ってる。点検も毎日してるから、動作もバッチリ。でね、スライドって分かる? 引ける?」
女性は少年の膝に頭を横たえた状態で喋っている。
少年が戸惑いながら手をかけた部分に、そうそれ。と答えた。
がちり、と重々しい音がして、薬室に弾丸が装填される。
「セーフティーを外して、そう、いいね」
女性はふう、と息を吐いた。
「撃って」
「どこに」
「頭」
「どうして」
「もう逃げられないから、さあ早く」
「どうして」
少年は半ば泣きそうになっていた。
「貴方も殺されるよ」
「それでもいいです」
誰に、とは聞かなかった。少年にとってそれはどうでもいいことだったからだ。
「でも私はほっといても死ぬし、殺されるし」
「僕が守ればいい、待っていて下さい、すぐ、手当てができるようにしますから」
少年はそう言って、女性の頭をゆっくりと床に横たえようとする。
「ありがとう。でももう、遅いみたいね」
女性は少し辛そうに微笑んだ。ぬれそぼった黒い衣服の腹部は切り裂かれていて、床に血溜まりをつくり始めている。
「まだ間に合うはずです、だから」
「好きなように、すればいいよ」
だから、と呟く少年の手を握り女性は身を起こした。力強い動作で少年を押し倒すと、少年の手首を握った。
「私のこと好き?」
少年の言語野が空転する。
「だったら撃って、早く撃って、撃って、うって」
ゆっくりと少年の震える手を握り締めると、それを拳銃ごと、自分の額へと持っていく。少年の抵抗はかなわず、女性の動作を押し留めることができない。体は半ば組み伏せられているために動かない。
微笑んだ。不意に女性が手の力を抜いた。
慌てて支えようとした指が、滑るように引金へと走った。
ざあざあと雨が降っていた。
暗い玄関を埋めていた。
そこにいる人間は全部で三人。一人は少年、一人は女性、一人は男性。
「選択肢は二つです」
金髪の男が着る黒いコートは、女性が雨に濡れているのに対し、そうでない。
「生きるか死ぬか、決定権は君にあります」
男は拳銃を持って座り込む少年にそう言った。
「私の名前はフォッカー。君の名前は?」
「アドルフ、アドルフ・アードラ」
少年は短く答えた。
「では少年(
クナーベ)、選びなさい」
ざあざあと雨が降っていた。雷鳴が低く唸った。
時は五月。
最終更新:2009年02月26日 21:28