(投稿者:Cet)
少年がこの世に生を受けて、まず目にしたのが血の海だった。
どこまでも広がる血の海に半身を埋め、仄かな温かさの中で産声を張り上げた。
少年はその世界に一人きりだった。
夕焼けのような橙色の空、敷き詰められた血液。
その世界では、時間の流れだけを如実に感じることができた。
少年が自分以外の人間を初めて認識したのは、十五歳の時だった。
血の海に一人、人間が立っていた。
「こんにちは」
金髪の、黒いコートを着た男はまずそう言った。
少年は生まれてこの方会話というものをしたことがなかったので、初め、男が何を言っているのかが分からなかった。
「貴方の名前はテオドル・ハルトマンで間違いはありませんか?」
男の問いに、少年は頷いていた。
いつかそのように呼ばれた事のある気がしていた。
というのも、空の彼方から時折声が響いては、少年を呼んでいたのだ。
「テオドル。貴方はこの世界から出たくはないですか?」
男の問いに、少年は応える術を知らない。
何となく意味を量ることはできたものの、自分自身の中に論理を構成する術もまた知らなかった。
「とはいえ、私を認識できた時点で、貴方はこの世界から抜け出しているも同然なのですが」
考えに耽っていた少年に、男はそう言った。
「また来ますね」
そして踵を返し、僅かに歩いたところで突然見えなくなった。
牢獄という表現がもっとも的確であろう、檻の中に少年はへたり込んでいた。
先ほどまでその牢の前に立ち、少年と対話を試みていた男、フォッカーは一つ溜息を吐く。
踵を返し、背後に立つ看守に正面からまみえる。
「とまあ、こんなものです」
「驚いたな……きっと失語症か何かだと思っていたんだが」
少年が収監されている理由は、殺人によるものだった。両親は既に亡くなっており、何年も前からストリートチルドレンとして、強盗殺人と猟奇殺人を頻繁に繰り返してきたらしい。その上看守などの見解によるところ、少年は他者を客観的にも主観的にも認識し得ない、一種の障害を抱えているのだそうだ。
「何故彼が本来認識できないはずの他者を襲い、永らえてきたのか、分かった気がします」
「どういうことだいそりゃ」
「まあ人間を襲おうが強盗をしようが、彼にはどうでもよかったのでしょう」
要領を得ない説明に看守は首を傾げるが、フォッカーはそれ以上に説明しなかった。
「という訳で彼の身柄は皇室親衛隊の名のもと、公安部が引き受けます。よろしいですね」
「ああ頼むよ、殺人鬼と長い間一緒にいるのは御免だからね」
というのも一々看守に許しを乞うような問題でもないのだが、そこはそれ、コミュニケーションというやつである。
本来引き渡しなどを監督すべき立場の刑務所長は、この隔離棟に入ることに難色を示したのだ。かくして今、現場に交渉が鎮座している。
「ああ、それで俺が所長の方にお伺いを立ててくりゃいいんだね? フォッカーさん」
「ええ、後は私たちや貴方々の、お誂え向きの方々の領分です」
その看守は気安げに返事をして、この牢獄から立ち去っていった。
フォッカーはその後ろ姿が通路の角に消えるのを見送ると、再び少年へと視線を戻す。
短い金髪を血まみれにうずくまった少年が一人、ゆっくりとした呼吸を繰り返していた。
手錠で拘束された少年が隔離棟から姿を現す。その付添には数人の看守とフォッカーが当たった。刑務所長他警察幹部からの視線が遠巻きに注がれる。護送車が横付けに停車しており、その正面には二人の皇室親衛隊員が直立不動でいた。
不意にフォッカーがその足を止める。姿勢を正すと居並ぶ幹部たちの方を向いた。
「では失礼致します。ハイル・エントリヒ」
遠間からフォッカーに声を掛けられて、一瞬刑務所長がたじろぐ。
「ハイル・エントリヒ。貴殿らの職務遂行に感謝する」
澱みある口振りでの返答に、彼は一礼を返す。それから再び歩を進めた。
二人の隊員がこちらを見遣る、フォッカーの頷きに反応して、こちらは澱みなく少年の傍らに移動する。そしてそのまま護送車の後部スペースへと乗せた。フォッカーは車両右手の助手席へ。
彼の敬礼に刑務所員らが一斉に敬礼を返す。
誰が言うでもなく、車両が発進した。そして助手席の彼が口を開いた。
「……公安部からの委任状は処理してあるので、お咎めもなし、と」
「課長、この餓鬼っころ一匹にどんな価値があるっていうんで?」
後部スペースの二人の内の一人、パスカル・ローテが非難めいた声を上げる。
「私はフレデリカの『予測』に従っているまでですよ、どうやらその彼は戦闘能力に特化した性質があるのだとか」
「へえへえ、まあどこまでが世迷言かは存じませんがね」
とはいえローテにしても、フレデリカによる予測の範疇がいかに広いかは実感を以て理解しているのだ。だからその時点で非難することを止めた。
「狼さんは利害の鼻がよく利きますねぇ、っと」
と、これは後部座席に座るもう一人、トーマス・ギュンターの言葉。
「まあね、これはまあ一種の慈善事業とでも思わせてもらいますよ」
「偽善事業?」
「違いないですな」
後部座席で一つ笑いの花が咲いた。フォッカーは一切の反応を示さないまま、運転手が一瞬表情を動かした。
フォッカーはそれを見逃さなかった。
「
クナーベ、どうしましたか?」
「いや……」
多少の歯切れの悪さを醸し出しながらも答える。
「いっそのこと、この車両が襲撃にでも遭えばいいのに、なんて思いました」
「私達はその為の訓練を日頃行ってきているのですよ、職務に忠実なのは結構ですが」
ハハ、とクナーベは渇いた笑いを洩らす。
「ところであそこの少年、というのも君のことじゃないですよ。
彼は一種の失語症のような症状を抱えていますが、復帰自体は容易いと私は考えています」
「教育、ならフレデリカの領分ですね」
「まあ押しつけようとしているわけではないんですよ、ご安心を」
こちらにも笑いの種が芽吹いた。
「何故って、彼には自覚が無いながらも過去幾度となく対話を繰り返してきたはずだからです」
「他者を認識できないのに?」
「ええ、それとこれとは別。というより、彼にとっては人と対話をしようとせまいと、大差ないというだけのことです」
「どういうことです?」
クナーベは運転しながら問いを投げかけた。
「何故って、猟奇殺人犯の彼には生まれてこの方血の海しか見えていなかったからですよ、彼が話そうと話さまいと、全ては血の海に還元されるのです」
「詩的なのやら、ただ理解が及びにくいだけなのやら」
クナーベはぼやいた。
後部座席では密やかに、時折の皮肉を含んだ雑談が男二人によって交わされていた。
そして拘束され座り込み、一切の反応を示さなかった少年の瞳にふと光が宿った。
最終更新:2009年04月13日 00:04