Chapter 2-1 : 彼女はゴドーと共に居る

(投稿者:怨是)



 ――1945年2月21日、22時頃。
 エドワウ・ナッシュことアシュレイ・ゼクスフォルトは、号外で配られていた新聞に目を通す。
 ベーエルデー某所のひなびたコーヒー屋も、今夜はいつになくざわめいていた。
 本日開催のFrontier of MAIDが、完膚なきまでに叩き潰されたのだ。壊滅したはずの軍事正常化委員会によって。
 展示品の十二体のMAIDも全滅していながら、民間人への被害は全く無いという結果がかえって気味が悪い。


「よぉ、エディボーイ」

「ジャンか」

 これで二度目の対面か。
 サングラスに黒いスーツのその男、ジャン・E・リーベルトは初対面の時と寸分違わぬ人懐っこい笑顔をこちらに向ける。
 アシュレイもそれに応じ、椅子に座ろうとする彼へ片手で挨拶した。


「今日のニュースは?」

「号外だとさ。Frontier of MAIDに出展された12体のMAIDが黒旗によって全滅。それと、タイフーン計画の空戦MAIDが離反」

「あいつ等もなかなか派手にやってるじゃねぇか」

「問題は、展示会を襲った連中が黒旗を名乗ったのかどうかだ。名乗ったとして、こいつらが黒旗だという事実を裏付ける証拠でもあったのか?」

 このとき警備に当たっていた兵士の生き残りの供述によるとシザーリオというMAID――これもまた、テスト戦闘中に事故死したというニュースが出ていた筈だ――が、まず最初に攻撃を仕掛けた。
 その後、便乗するかのように黒旗の兵士達がやってきたというが、彼らを黒旗と断定する要素は何処にあったのだろうか。


「仮に制服が黒旗のものだったとしても、それだけで黒旗って決め付けられるか?」

 戦闘服の形か。エンブレムか。大規模な模倣犯という可能性も捨てきれない。
 アシュレイがそう思ったのは、昨年末のライールブルクにおける大規模な戦闘以降、大量の脱走者が出たという話を仕事先で聞いた事があるからだった。
 捨て去られた制服が闇ルートへと流出、横流しが行われていたとしたら。
 しかしアシュレイの勘繰りも、ジャンの嘲笑めいた言葉に霞へと消えて行く。


「“実際にどうだったか”が問題じゃねェ。“観客が何を求めているか”が大事なのさ。もっともこいつらの場合、通信機の電波でも傍受されてツラが割れたんだろ」

「戦闘中のデートはパパに筒抜けって事か。クールだな」

「だろ? 物事を疑うのは大事だが、情報屋の連中だって馬鹿じゃない。それなりの裏を取ってからブン屋に流すのが信用獲得への第一歩さ」

「裏、ねぇ……生憎と、俺はマスコミアレルギーでね」

 アシュレイは憎々しげに口元を歪め、吐き捨てる。
 正直、ジャンが活字アレルギーでなければ帝都栄光新聞の切り抜きを何枚か読ませたいくらいだった。
 ジャンの云う通り、あの新聞は特にそうだ。観客が何を求めているか、そして“世論をいかに自分たちの望む方向へと導くか”があの新聞には含まれている。
 恣意的な拡大解釈に過小評価、文面から溢れ出る悪意に満ち満ちたミスリード、酔っ払いの演説のような挨拶など、枚挙に暇が無い。
 あの新聞社の“あの記事”だけは、アシュレイは絶対に許せない。
 シュヴェルテとの個人的な関係は、結果的に円満な解決に至った。

 が、べったりと塗りたくられた汚名のコールタールだけは剥がしようが無い。
 この社会にとって、シュヴェルテは最期まで罪人なのだ。ヴォ連スパイという全く謂れの無い罪を背負わねばならないのだ。
 それに比べれば、彼女が黒旗に下った事など些細な事ではないか。何故ならその時期の彼女は“既に断罪された後”である。死人だ。


「……なんにせよ、黒旗の連中が世直しのついでに世界中のクソ官僚どもまでお掃除してくれたら万々歳だ。
 鼻持ちならない奴らが不幸のドン底に落っこちてきてくれれば、俺達は仲良くそいつらの慰問パーティができる」

「悲劇にはもういいかげん慣れたって口ぶりだな」

「一線を越えると、それはただの三流喜劇だ。そうだろ?」

「違ぇねェ。ワインとステーキがあれば、ショーを満遍なく楽しめるって寸法さ」

 久々に煮えかけている感情のせいか、この時ばかりはアシュレイもジャンにつられて口元を吊り上げた。
 何故笑ってしまうのかはアシュレイ自身も判らないが、向精神薬が無くともこれだけの上昇気流を脳内で生み出せるという事実は確認できた。
 精神が暗いぬかるみへと足を踏み入れてから、随分と月日が経ったように感じられる。
 なんでもない笑顔、裏表の無い、病理を含まない、屈託の無い感情というものを忘れるには充分すぎる時間だった。


「あとは高台が必要だぜ。俺は今、迷子らしい。然るべき観客席がどこにあるかが判らないんだ」

「シャブでもカッ喰らっちまったのか?」

 ウェイターにコーヒーを注文したジャンは、煙草に火をつけながらアシュレイに問う。

「ほんのちょっと前までは。今はやってない」

 アシュレイがかつて薬局から買い付けた精神安定剤は、大量に服用するとある種の幻覚作用が副作用として現れるものだった。
 特に、アルコールと併用するとその副作用は増大する。そして同じく、依存性も。
 当時のアシュレイはそれを気にする余裕すら無かったが、今一度思い返すと背筋が凍った。

「そいつぁいけねぇな。ラリってると一ブロック先のお楽しみを見逃しちまう」

「人生の土地勘をスられちまったから、俺はその“一ブロック先”とやらも運が良くないと巡り合えないんだよ」

 土地勘を盗まれたという云い方は、実際には被害妄想である。
 その自覚はアシュレイにもあったが、消耗した心身は未だに癒えるものでもなかった。
 だからこそ、悲劇に飾られた新聞紙を三流喜劇と笑い飛ばしたのだ。

「そいつぁ気の毒だ。地名だけは教えてやるよ」


 注文から暫くし、コーヒーがテーブルへ運ばれるまで、ジャンとアシュレイは沈黙を守った。
 ジャンは湯気の立ち込めるコーヒーカップを口へと運び、一気に飲み干す。
 それから間も無くして、テーブルとカップが小さな音を立てると同時にジャンは口を開いた。

「……地獄さ」

「煉獄じゃなくて、地獄か」

 煉獄と地獄は、明確な区別がある。
 煉獄は浄罪界と呼ばれ、現世で犯した小さな罪を償えば後の世で赦されるための場であり、懸命に贖罪を行う事で評価される灰色の世界だ。
 ジャンはこの現世を、地獄と呼んだ。償いきれないほどの罪を、償い続けねばならないという事だろうか。

「煉獄なんてもんは、はなっから存在しなかった。天国は随分昔に貧乏人で溢れかえってスラム街みたくなっちまった。今の俺達にゃ地獄しか残されちゃいないのさ」

「生まれた時から地獄ってのはちょっと納得行かないな」

「何も生まれた時からとは限らないさ。お前さんはきっと、まだ何も見えないうちから地獄に踏み入っちまったからな。
 だが人生のどの道でも“汝ら此処に入る者、一切の希望を棄てよ”って標識がどっかには突っ立ってる。本当の地獄ってのはそっから始まるんだ」

「その地獄の門みたいな標識は、誰の人生にもあるのかい。あるんだとしたら、みんな通らなきゃいけないって事なんだろ?」

 ジャンは紫煙を燻らせながら頬杖を付いた右手に顎を乗せ、静かに頷いた。
 憂いの都に住み、永遠の苦患に身を捩る滅亡の民になる機会は誰にでも平等かつ必然的に存在するのかという問いに、ジャンは確かに頷いて見せたのだ。

 同意すべきかせざるべきか。この期に及んでアシュレイは回答に至るほどの余裕を持つことは出来なかった。
 彼の云う通り、全ての人間は死ぬまで種々の苦悩に頭を痛めねばならない。死はいずれ訪れ、避け得ぬものであり、都は原則として数知れぬ程の権謀術数と憂いが渦巻いている。この世界こそが地獄であると断定した時もあった。
 しかし、それが誰の人生にも存在するのだろうか。花畑にてどの花を篭に入れるかという、その程度の悩みに終始する人生も、この世のどこかにはあるのではないか。

 否、違う、とアシュレイの心に巣食う“エドワウ・ナッシュ”が叫ぶ。
 本当に地獄門を通るのは、気が狂う程の不幸に見舞われた者だけだ。そう遠くは無い過去に、魂のおよそ八割ほどを自分の本来の名前と共に捨て去っていた時期があった筈だと胸中のエドワウはアシュレイを糾弾した。
 あれだけの経験は、特別なものではなかったか。祖国を追われて間もない頃、かつて一度このベーエルデーを訪れた時だ。
 ここではない、首都ベオングラドを訪れた時の、あの石畳の色を俯きながら眺め続け、冷雨に身を震わせてこの世の全てを呪った時!
 あの時こそが地獄そのものではなかったのか!

 分裂し、所々がひび割れたアシュレイの思考は、急カーブを繰り返しながら崖下の頭痛へと転落した。
 溶けかけた頭を両手で抱え、必死に形状を保持する。そうでもしなくては、彼は“また”狂気の海を笑いながら泳がねばならなくなる気がしたのだ。
 その様子を案じてか、立ち上がったジャンがアシュレイの肩に手を置く。


「真っ直ぐ頑張っても、折れるだけってこった。寄り道しながら要領よくやんな。お友達の紹介は必要かい?」

「いや、ダチは少ないほうが気楽でいい……」

 彼の事だからろくな友人関係などありはしないのだろう、とアシュレイはジャンの好意を断った。
 そうでなくともアシュレイは人間そのものに辟易していた。確かに地獄だ。大嫌いな人間と、五臓六腑の感覚が無くなる今際の刻までずっと付き合わねばならないのだから。

「寂しい事云うなよ。大所帯ならではの楽しみ方もあるぜ」

「今度考えておくよ」

 アシュレイがそう返すと、ジャンは「そうかい」と一言だけ発し、寒空へと出て行った。
 今回の会計もアシュレイ持ちではあったが、ジャンはコーヒーしか口にしていなかった。
 どうやらあの男は、事前に食事を済ませてきたらしい。

 灰皿を見下ろすと、先客がまだ煙を発していた。アシュレイはそれを捻って消す。
 煙草の箱から一本口に運び、拡散を続ける思考をそろそろ整列させるべく、火を灯す。


「ルームナンバーの話、訊きそびれちまったな……」



最終更新:2009年11月14日 01:05
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。