Zero

(投稿者:Cet)



[トリアをロスト、トリアをロスト、たすけて、たすけて]
「心配するな、すぐに助けてやる」
 赤と黒の二人が、空を飛ぶ。
 何よりも速く、何よりも早く空を駆ける。
 黒い一条の光が、赤のそれよりも一歩抜きんでた速さで、先頭を進んだ。





『戦線が延び切ってます! 南方へ、援護を! はやく!』
 ドレスの叫びは、全くのでまかせであった。そもそも、戦線はそこまで及んでいない、というのが本当のところだ。
 しかし何にしても、援護の必要なことは確かである。
 襲いかかる火の粉を払う為に。
「化け物っ! 化け物っ」
 蒼白な顔で叫ぶのはミテアだった。
「逃げろ隊長、ドレスと一緒に、さあ早く」
 彼女の目の前に降り立ったのは、緑色の燐光を振りまく一人の女性、ナーベルである。
「はっ、あぁ」
 こくり、とミテアは頷くだけ頷いて、反転する。
 高度を下げ始める。下方へ下方へと逃げに逃げ、戦闘領域から離脱しかけているドレスを回収する為だ。
 やらせはせん、と一つ呟いて、ナーベルも下方へと疾った。
 青い光が彼女に並ぶ。ルーラの翼である。
 そして、その風は遥か上方からやってきた。叩きつける風、それこそがそいつの武器であった。
 突然に二人に押し寄せてきた暴風が、夥しい擦過傷を彼女らの生肌に刻んでいく。
 眼窩から血が吹き出してそれでも、彼女らはそいつを見逃さまいとしていた。
 風はそいつの動きに伴って吹くものだ、つまりそいつが今間違いなくこちらへと迫りつつあるからこそ、暴風は勢いを増しているのだ。
 次瞬、ナーベルが風上へと飛び出し、裂帛の気合を吐き出しながら、鈍器に近い形状の剣を縦一文字に振るった。
 果たして、その手応えはなかった。
 おせえ、と何者かの声が彼女の耳朶を震わせた。
 打撃の嵐が彼女の頬を打った、腹を打った、胸を打った一撃で、肋骨が二本圧し折れた。
 戦闘能力を剥奪され、降下していくナーベルに対し更に打撃を続けようとするそいつに、ルーラがガトリング砲の銃身を巡らせた。
 鉄が回転する甲高い音と共に、オレンジ色の閃光が吐き出される。独特の軌跡を描いて、火砲からそいつの影が離脱していく。
 声にならない叫びを上げながら、その蛇行する影に向けてガトリング砲を吐き出させ続ける彼女であったが、その火線は一向に影を捉えることができない。
 続けて影が、再び軌跡を曲げ、ルーラの方へと向かってくる。
「あァ」
 下方から聞こえてきた声は、ナーベルのものである。未だに手放さずにいた大剣を引きずるように携えて、影がルーラへと接触するのを阻もうとした。
「くそぉッ」
 ルーラが盾の内側に格納されていたソードを抜き放ち、正面へと駆けた。
 剣を携えた二人が、その影に接触しようとした瞬間、影は彼女らの視界から掻き消えた。ただ二人の剣だけが空を切って、そして彼女らが呆気に取られただけだ。
「おせぇよ」
 その再びの言葉はひどくはっきりと聞こえた。
 ルーラの脇腹に、一振りの業物で切り裂かれたかのような傷口が、ぱかりと開いた。
 溢れ出す血に、ルーラは溺れるかのように吐血する。ナーベルの身体に幾つも裂傷が刻まれて、悶えるようにして彼女は身体を掻き抱く。
 戦闘が継続できるような状態でないことは明らかであった。
 しかしそれでも、彼女らの背中からは、光り輝く翼が生えている。その光が失われない限り、彼女らはまだ、戦うことができるのだ。
「だけど、もう無理だろう」
 彼女らの背後から、その声は冷たく言った。
 冷静に、と言い換えられもするような口調であった。
 ルーラが鈍い動きで頭を巡らせ、そいつの姿を直視した。蠅のような一対の翅が生えた男であった。
「諦めろ、死ね」
「そうはいかない」
 壊れかけた機械が、軋みを上げるように、背を向けたまま平坦な口調でナーベルは応えた。
「じゃあ、死ね」
 影が動いた、ナーベルも振り返ると同時に突進した。影が一瞬で視界から掻き消えて、そしてルーラが信じられないものを見たような顔で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
 互いに距離を詰めた二者の間に、黒い光が割り込んだ。上方から、重力の分の衝撃力が上剰せされた一撃が、男を襲った。
 弾けるようにその一撃を回避した男は、続けて黒い光に迫るべく、急降下を開始する。黒い光は続けざまに、一瞬で機首を百八十度近く持ち上げて、なお減速をほとんど伴わずに、上昇を始める。
 影がそれを追った。直線的に移動する黒い光に比べて、影は黒い光に対し付かず離れずの蛇行軌道を描いている。つまり、実際の速力では黒い光より、影の方が勝っているということだ。
「よく耐えてくれた」
 赤い光がやってきて、二人の傍らに舞い降りて、そして黒い光と影の描き出す航跡を、見た。
「後は任せてくれ」
 ぎり、と奥歯を強かに軋ませて、赤い光を抱いた少女は黒い光と影を追った。後に残されたナーベルとルーラの二人は、その合わせて三つの機影を見遣った。
「トリア、トリアを見付けなくては」
 忘我の表情で呟くのはルーラだ。
「違う、逃げろルーラ。我々にはもう何もできない、生きて帰ることのほかには何も」
「おおっ」
 呻き声を上げ始めたルーラの頸を、ナーベルは背後から腕で速やかに締め付けた。暴れまわる彼女から武装が剥離されて地面へと舞い落ちる、ナーベルもまた、かの大剣を放り捨てている。
 ナーベルは麗人の横腹を殴りつけた。それからふと首を傾げ、ルーラの打ち放った裏拳を躱した。
「離せっ」
「逃げろ、今のお前にはそれしか出来ん」
 そう投げかけられ、遂にルーラの瞳から涙が零れ始めた。





「例えばの話なんだが、お前『遅い』ということがどういうことだか分かるか?」
 音さえも追いつくことのかなわないその空間で、その声は響いていた。
 音さえも、追いつくことが叶わないはずのその空間で、だ。
 つまるところ慣性故にか? とそう問うたところで、彼女には明確な返答が為し得ない。
「つまりそれは、認識の上での判断だ、基準は様々『ああ、遅い』
 ってだけの話だ」
 高度がぐんぐんと上昇していく。彼女は限界の速度で男に対して対峙する。もっと速く、もっと速く、ベーエルデーメードの中で、最速たるその翼を急かす、もっと速く、もっと速く。
 やがて空気が真空を帯び始める、ずっと透明に透き通って、そして暗く、暗くなっていく。深い青の世界が、周囲を満たし始める。
「ただ、『速い』ってーなると、話は少し違ってくる。相手の認識の外、において
 初めて『速い』と認められることも
 ままある」
「やぁぁぁっ」
 クリューアル・ファングの一撃を、少女の機動に並行する男は、難なく距離をあけて躱した。まだ相手の速力には余裕がある。ならばもっと、速く。
「こっからが面白いんだ、つまり、つまりさ」
 哄笑が響き始める、この空一帯を覆っているかのような哄笑が。
 それは、恐怖そのものだった。どこまでもどこまでも、笑い声だけが彼女を追っていく。幾ら加速しても、加速しても。
 彼女は追いつこうとしていたはずだった、しかし違った。彼女は今や、逃げ始めている。
「つまり、それ」
 男の語りが中断するのに応じて、哄笑も止んだ。
「チューリィィィィップ!!!!」
 はっ、と恐怖から解き放たれて、少女の理性はがちりと脳裏を回転し始める。
 横合いから割り込んできた赤い少女のショートソードの一撃を回避して、男の速度が弾けた。とっくに達成していたはずの限界をすら、振り切ったかのように。
 男は引力に対し正反対の方向へ飛んだ。
「墜ちろっ」
 少女の背から炎の手が伸びる。男を延焼せしめんと。
「ぎゃははははははっ、面白いよ、面白過ぎて涙が出てきちまう!」
 男はそれらを掻い潜って、更に上空へと疾った。
 そいつは音速をとっくに超越しているはずであった。しかし、そいつの声は常々少女らの耳朶を打った。元からそうなるように、意図されているかのように。
「おいおいおい、今あんた動いてたのか? 止まって見えるぜ!」
「     」
 空気が抜けるような音がして、風が止んだ、大気が全て赤い少女へと収斂していく。戦闘の中心、世界の中心が一つに定まったかのように、男の声がただの雑音へと還元される。
「墜ちろっ!」
 炎の手が伸びる、空間の縦横から男へと延びてくる。
「ひゃはぁぁぁぁあっ」
 男は急降下の姿勢を取る、音速を身体は優に越えて、そしてその風圧で、赤い少女を圧殺せしめんと、駆ける。
 赤い少女は、男と交差するような形で、炎の手を靡かせながらに駆けた。刺し違えるつもりでいるようにも見えた。
 そして、男の表情が凍りついた。
 視角の果てから舞い込んできた黒い光に、驚愕したのだ。
「やあぁあああああッ」
「はや」
 男がぽつりと呟いて、そしてその脇腹を、相対的にマッハ三以上のスピードで黒翼が抉り取った。下半身が皮一枚で繋がる形となった男の奇形を、赤い少女が炎で焼き尽くす。
 留まることなく、更に赤色の少女は加速する。間違いなく必殺であるところの一撃を、少女はその剣に賭けた。

 そして少女は呟きを聞いた。

 確かに少女の剣は、その男の心の臓を突いたかのように思えた。
 燃やし尽くされ、少女の剣に貫かれ、男の残骸となったそれが、墜ちていく。
 男の頭髪がはらはらと宙を舞って、男の顔面が、はらはらと宙から墜ちていく。
 男の纏っていた黒い衣装が、一片一片の欠片となって、宙を舞っている。
 男の肉体が、全て塵芥となって、それでも男は宙空に存在していた。
 驚愕の表情で、二人の少女が、男の姿を見つめた。
『俺が思うに、速いっていうのは、認識を超えたところにあるんだ』
 そして男は言った。声帯という機関から溢れた声には到底思えない。平坦で、粗雑なイントネーションの、壊れた録音機のような声であった。
『多分、速いっていうのを極めるとさ』
 蟲がそこにいた。
 蠅。
 ベルゼブブ、と呼ばれる悪魔について御存知であろうか。
 彼は、翼を持つ者の頂点を占める存在であるとも言われている。
 また彼の名をして、蠅の王とも呼ぶ。
『"気付かれやしねぇ"のさ』
 悪魔が駆けた。とはいえ、彼女らにとっては、彼がどのタイミングで駆け始めたのか、分からなかった。
 つまりそれがどういうことかと言えば、少女らにとって、かの悪魔の駆け始めるタイミングと、到達するタイミングとが、同一であったということだ。
『"速い"ッてのはな、こういうことを言うんだ!!』
 赤の少女がそれに気付いた時には、彼女が滞空していた高度は急速に下がり始めていた。
 ぞぶり、と肩口を突き刺した肢。
 脇腹をまさぐるように、臓腑を掻き回す、肢。
「……かっ」
 傷口からは、赤が溢れ出す。
『まだ、身体が上手く動かねえ』
 呟きは、赤の少女に取って鮮明に、あるいはうわごとのように、聞こえた。
 見る見るうちに墜ちていく空の中で、風景は移り変わった。濃紺が、再び透明を帯び始める。
 赤い少女の脳は、今や言葉を持たず、はたらいていた。
 蠅男の肢が突き刺さった肩口を巡らせて、ショートソードをその胸部に外殻の隙間から突き刺す。速やかにそれを行う。
 片方の腕では生命維持を行う。心臓にまで到達せんとする、かの肢の一本を掴み、押し留める。
「まだだ、まだ終わらんよ」
 吐血する唇からは、なお言葉が溢れ出た。
 絡み合った二つの影は、墜ちていく。
 少女は残った二本の足で、蠅男の胴体をがっちりとロックした。
『マジかよ』
「形骸の理想を抱いて死ね、お前の求めているものはどこにも存在しない」
『そんなもんとっくに』
 赤い少女の視界はほとんど閉ざされていた。真っ暗だ。
 しかし、光が見える。その中でも微かな、黒い光が、彼女の目に焼き付いた。
「躊躇うなよ、チューリップ
 上空から下方へと、黒い光が擦れ違った。
 急降下による加速を伴った一撃が、正確に、その蠅男の石を持っていった。
『気付いてるさ』
 果たしてその言葉は発せられなかった。しかし赤い少女は確かにそれを聞いた。
 少女の意識が闇に包まれる。


最終更新:2009年12月24日 23:13
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