(投稿:迅鯨)
*

――その耐久性は、我々が個人的存在のはかない本質と永久に手を切ったおかげなのです。それがつまり、先ほど申し上げた完全な互換性のことなのです。

スタニスワフ・レム著「泰平ヨンの航星日記」より。
*




 ――夢。

 ――夢に御座います。

 「夢、とな?」とラサドキンが聞き返す。
 「はい。彼女は夢を見ているのです。それもずっと見つづけているのです」

 術後、彼女はずっと眠り続けている。MAIDは人にコアを埋め込んでからすぐになるというものではない。
 コアが体に馴染むまでにいくらか時間がかかる。その間コアを埋め込まれた人間はずっと夢を見続ける。そし
てその夢の終了を基準として、コアを埋め込まれた人間は以後MAIDとして扱われることとなっている。

 そういってオルロフは説明をはじめる。訥弁なこの男も自分の専門分野となれば能弁だ。

 「どのような夢を見ているかは、我々には判りかねます。脳波や眼球の動きなどから、夢を見ているときと同
じ現象が見られることから、夢を見ているとしているだけなのです。ですがその夢が人間からMAIDへの移
行プロセスとされることにはそれなりの理由があるのです。まだ仮説なのですが。MAIDとなった段階で脳
の活動はほぼ停止し人間であったときの記憶が殆ど失われてしまいます。それでも断片的ながら記憶を保持し
ている例もあり、また日常動作や言語能力の回復が早いということは脳からコアへと記憶が移送されたものと
考えられるのです」
 「それが夢とどう関係あるのかね?」
 「夢というのは脳が行う記憶の編集作業なのです。脳は、毎夜寝てる間に記憶野から記憶を出力します。夢の
内容は出力された様々な記憶の合成物であるとされています。MAIDになる段階で記憶がコアに移送されて
いるとするならば、移送時に脳内で夢を見ているときと同様記憶が出力されているのです。それは原理的には
夢と一緒です。であるとするならば、夢が終わるということはつまり移送が終了したということなのです。
ですがその過程で記憶は繋がりを失ってしまいます」
 「それは何故かね?」
「ある学説によれば記憶は知覚情報のゲシュタルトであり、人格は記憶のゲシュタルトであると言われています。
それが移送される過程で、個々に分割されて送られる為に結びつきを失って崩壊し、その記憶の多くは再構築が
不可能なほど混沌としたまま、崩壊したゲシュタルトの欠片としてコアに保存されてしまうのです。」

 静謐の帳に囲われた病室には、マリューシャを取り囲む装置がたてる単調な作動音だけが、読経のように響いていた。


*


 彼女が夢を見続けてる数ヶ月のあいだ、ラサドキンとオルロフは具体的な施術方法を煮詰める作業にかかりっ
きりとなった。
 具体的にはラサドキンが要求を提示し、オルロフが技術的見地から実行できるかどうかを検討して、修正案を
提示する。そしてまたそれをラサドキンが、用兵側の見地から軍事面からの実用性を検討し、それに従ってオル
ロフがプランに修正を加えるという作業を繰り返すのだ。
 そうして用兵側の要求に、実行可能な範囲で技術者側はそれに答え、かつ技術的な信頼性を確保するために用
兵側に妥協を申し込む。
 そんな、兵器開発の現場では極々ありふれた光景はMAID開発においても同様だった。

 ラサドキンがオルロフに要求したMAIDの使用は、主にソフト面のことで、それを要約すれば、まず従順で
扱いやすいこと。なるたけメンタルの起伏を押さえ、常に一定の力を発揮しうることであった。

 そのためにはMAIDが命令に従うことに、常に幸福を感じさせることだとラサドキンは説いた。
 オルロフはそのために、幸福を感じるように、つまり脳の快楽中枢が捉える、特定の神経伝達物質を受容する
レセプターの感度を強化した。
 これによって、彼女は人一倍幸せを感じやすいユーフォリアとなる。
 しかし常に幸福に浸ってもらっては、判断力に支障をきたす。それにこの処置はあくまで幸福を感じやすくす
るというだけのことで、それで幸福を常に感じ続けるというわけではない。そこで今度はレセプターの感度をや
や抑え、幸福を感じるための条件を設定するのだ。

 その条件とは、多くの人間がそうであるように誰かに必要とされることだ。
 命令を与えれば、自分を必要と感じ幸福となる。愛情を持って接してやれば一層幸福に。

 ここからは心理学の出番である。命令を与え、うまくこなせばご褒美を与え愛情一杯にほめてやる。それだけ
で彼女は無常の喜びを感じるだろう。
 それを繰り返すうちに、体が命令をこなせば幸福になるとことを無意識のうちに覚え、彼女は命令を与えるだ
けで、条件反射的に幸福感に浸るのだ。
 なんのことはない。軍事教練で当たり前のように行われてる、古典的なオペラント条件付けの応用である。

 喜ぶべきときに、喜ぶように。
 悲しむべきときに、悲しむように。
 怒るべきときに、怒るように。

 日頃あらわさせれる感情もまた習慣の中で条件付けていく。

 なんとも都合のいい使用であるが、闘争の道具として使役すると決めたからには、徹底的に道具したほうがよ
いとラサドキンは考えている。
 軍事が政治目的を達成するための道具なら、軍人はその道具の部品である。MAIDもまた斯くあるべきだ。
 軍人としてのラサドキンもまた手段に徹している。そういう割りきりが出来ない人間は軍人には不向きである。

 MAIDは人のよう姿でありながら、人とは見做されなれず兵器として使用されることに矛盾を覚え煩悶とする
ことであろう。煩悶は嵩ずればいずれ反抗となるだろう。
 ブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争ならまだしも、人間と主体性に目覚めたMAIDの相克などあ
ってはならない。

 であるならば徹頭徹尾手段のためにある道具であるようにすればよい。

 出来ることならMAID自ら進んでそうなるように。

そしてラサドキンは言った。

「私が彼女に施すところは麻薬の教えと、石くれのような幸福だ」

 その顔には、この方式の着想を得たときに見せた狂気の色は既になく、自分の成し遂げた仕事に確かな手応え
を感じている職人のそれとなっていった。


*

 ――夢。

 ――どこまでも続く長い坂の夢。

 友達とわかれてからずっと。ずっとずっとくだっていく。
 遠くに霞んで見えるほど、坂は果てしなく続いている。
 その先に何があるのかと考えるだけで、ワクワクしていた。

 不意に足元で小石の鳴る音を聞いた。
 坂は途切れていた。目の前には地平線の向こうまで、砂漠が広がっている。
 今来た道を振り返れば、雲の上まで坂が続いている。

 私は砂漠に向けて歩き出したが、数歩行ったところで足を止めて引き返した。
 しばらく砂漠を見つめてるうちに私は悟った。ここから先はどこまで行っても砂漠しかないってこと。
 私は砂漠と坂の境に座りこみ、そのまま動かなくなってしまった。
 徐々に視界は色を失っていく。

 そうしてるうちに、何故だか静けさに安らいで幸せな気持ちになった。
 坂の上から下まで、その果てまでを知ったからもう大丈夫。

 気が付くと私は石になっていた……。
















 。




 …。


 ……ダ。

 ……ンダ…る。

レゲンダ起きる」

 いつものように揺すぶられて、レゲンダはうっそりと目蓋をひらく。

「うー……」

 眼を開くとククーシュカが今日は心なしか気遣わしげな表情で、レゲンダの顔を覗き込んでいる。
 不意にククーシュカは「それ……」とだけ言ってレゲンダの頬を指差した。彼女の言葉は極端に短く、時々
主語が欠落して言ってる意味を解しかねることがある。
 寝起きでまだ頭がよく働かない状態であればなさらで、レゲンダは首をかしげた。
 するとククーシュカは黙したまま人差し指をレゲンダのおとがいに当て、すうっと左の目尻までなぞりあげた。
 冷たい指の感触にレゲンダは一瞬ゾクリとして、思わず目を瞑ったがそれが過ぎ去って目を開くと、眼前にク
クーシュカの指が差し出されていた。
 その指先は濡れている。
 レゲンダは目をこすってみた。生暖かい雫が指に触れた。

 「なぜ?」

 と、だけククーシュカは言う。――泣いているのか?という意味であろうとレゲンダは受け取った。
 しかしそれはレゲンダにも判らなかった。

 泣いているのだから悲しかったってことだろうか?そう思うと今の今まで全然悲しくなかったのに、レゲンダ
は何故か悲しいように思われ涙が湧いてきた。
 だがその涙は流れ落ちることもなく、目じりに留まってそれ以上に水位が上がることもなかった。

 そうしてるうちに、平原吹く乾いた風がレゲンダの涙を拭き取っていった。


 ポカン。


 そんなマヌケな音が頭の中ですると、心のどこから湧き出した悲しみのあぶくは弾けたみたいで消えうせた。
 そして空虚な胸に疑問だけが残る。そんな呆けたようなレゲンダの様子をククーシュカはじっと見ていた。
 表情に乏しいククーシュカは何を考えているか解り難いが、付き合いの長いレゲンダには判る。
 好奇心を含んだ疑問の表情。それから俄かに滑稽味が湧いてきたのか、ほんの微かに目じりを綻ばせ彼女なり
の微笑をつくる。
 多くの人はそれに気付かないが、レゲンダにはそれが判る。するとレゲンダも自然と楽しくなってころころと笑いだした。

 そんな日々が五年と一ヶ月。1855日、閏年をいれてプラス一日。

 レゲンダは幸福だった。


*

最終更新:2009年12月29日 11:22
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