(投稿者:ニーベル)
昔、男ありけり。
女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓、胡を負ひて戸口に居り。
はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。
やうやう夜も明けゆくに、見ればゐて来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
――伊勢物語より。
随分と長く蒸し暑い、それにじめじめとしている夜の中、私は相変わらず目の前の原稿用紙と向き合っていた。
もうどれほどの原稿用紙を、数多の塵芥にしてきただろうか。隣にあるゴミ箱は既に許容量を超えてしまい、碗に溜まりきった水がちょっとした衝撃で溢れたように、原型を留めず、何が書いてあったのかすら明瞭としない紙切れが溢れ出していた。
溜息を一つ。こめかみに手を当てて、軽く押してみる。気がつけば日はとうに暮れている。書いていたのは、妻が出掛けていることに気付いて、間抜けにも
一人で遅い昼食を終えた後であったはずだ。
妻は、今頃友人達と愉しんで食事を取っているのだろうか。そう思うと、少しばかり外出するのを許した自分の広い心を狭めたくなる。もっとも、こんな言葉を妻の前でいえば、元々狭い心なのに、それよりも狭めたら心が潰れてしまいますよと、からからとあの愛嬌のある声で笑われるに違いなかった。
身体を伸ばしてみると、心地よい感覚が身体を包んでいく。ずっと猫が身体を丸めるような姿勢で書いていたのだ。腰にも悪いだろう。骨がこりこり鳴りながら、微かな痛みを私に訴えてくる。じわりと、滲み出てくるような痛みだ。
たまらず、布団へと逃げ込み、身体を横に投げ出す。我ながら呆れ果てるぐらいのだらしなさである。調子が悪いといつも布団の中に籠ってしまう。私という存在は、蓑虫のようなものだ。集団の中に、親類の中に、家族の中に、内の中へと隠れることで己を保っていると言っても過言ではない。
「弱い男だからなぁ」
口から抜け出た言葉は、驚くほど間抜けな響きを持っていた。
布団の中から考えていると、昔の事ばかりが思い出されてくる。心地よくもあり、忌々しい過去が。
私は弱かった。とにかく私は弱かった。それに臆病も足しておこう。幼い頃の私は、喧嘩も口も弱く、いつもいつも兄に庇ってもらっていた。ようするに、兄無しでは生きてはいけぬ男であった。
それでも、人は、いずれは成長して別れなければならない。兄が軍に入ると聞いた時、私は頭の中が真っ白になり、泣き叫びながら反対した。
父母は御国の為精一杯働きなさいと兄を応援していたが、私は反対の立場を決して崩さなかった。軍人になるという事は死と隣り合わせである。兄がいなくなると考えただけで、私の視界は黒く塗り潰されていくような気がしたものだ。
その思いも虚しく、兄は結局軍人への道を歩んでいった。必死に一人で反対してた私は、心から何か抉られたような感情に駆られて、部屋に籠り筆を手に取り始めた。
兄を失ったという想いを他のことで埋めようとしたのかは分からぬ。気がつけば、私は筆に自身の感情を託して、溢れるがままに筆を滑らせていた。
そうして小説を書いていくことで数年、時が過ぎていった。私は家族から相変わらず疎まれていたが、糊口をしのぐことは出来るように成長した。
小説を、出版社の知り合いとのコネで自身の作品を投稿することが可能になったからである。無論、私のような者が書いた小説を載せるような所だから、有名な雑誌を出版している所ではない。
所謂カストリ雑誌――極めて低俗な話題を、さらに卑しく解釈し出版する三流雑誌――であった。
私は低俗な雑誌を投稿する作家。兄は、私のような陰鬱な男とは違い祖国への忠誠を全身で顕していた軍人。父や母も、病気がちで大人しい私よりも兄のことを誇らしげに語っていた。
それ故に、常々兄よりも下に私は見られていたが、兄を恨む気持ちは一切無かった。元より兄とは素質が違っていたのだ。私のような出来損ないにすら――元々兄は誰かに笑顔を見せることはほとんどなかったが――優しくしてくれていた。そんな自分が兄を恨むのは身勝手極まる上に愚かな行為であるとしか思えない。兄は、誰よりも私にとっての誇りでもあったのだ。優れた士官でもあり、若手の中でも有望と謳われていた兄。
軍内でも頭角を現してきて、優れていた兄だから、あの名家――分家ではあったが、倉羽家の娘の指導に付いたと聞いても、何らおかしいことではないと思った。
名誉であると言って良いし、兄も遠く離れた地からこちらに戻って来ると言うこともあり、私は浮かれていた。
兄が帰ってくる当日、珍しく私も家族と共に兄を出迎えた。
列車から大量に人が降りてくる中、兄の姿を、私は一目で捉えた。身長は他の人々と比べても一際大きく、その上、若いというのに生まれつき髪の毛が白かったから、黒い波の中に一つだけぽつりと白い雪が落ちてきたように、その姿は目立っていた。自分の足が、勝手に動いていた。口から、言葉が飛び出る。
「兄上」
「久しぶりだな、慶吾」
兄が、僅かに頬を緩めるのが分かった。極めて表情に乏しいので、他人から見れば冷笑しているようにしか見えないだろうが、家族からしてみれば十分な変化である。
兄の笑顔を久々に見られただけで、私の心は踊っていた。久々の再会である。話したいことは積もりに積もっていた。
しかし、そうは言っても兄を独占できるはずもない。末の弟やら妹も、久々の長兄との再会に喜んで我先にと兄の身体にくっつきに突っ込んでくる。母や父も兄に「お疲れ様」と声を掛ければ、兄も「父上や母上もお元気そうで」と頭を下げる。
結局、私は兄を家族に独占されたまま満足に話しかけることも出来ずに、家への道を寂しく歩いていった。兄と話す機会はこれから幾らでもあるのだから、焦ることもあるまい。そうやって自分に言い聞かせた。
どれほど、歩いただろうか。家が見えてきた頃には、既に薄暗く、道もハッキリとしないほどになっていた。皆はしゃぎ疲れて、歩く速度は遅くなっていたが兄だけは平然と歩いていく。
久々に見た兄の後ろ姿は、夜でも大きく、屈強な肉体が浮かび上がってきていた。自分はこの背中になろうとし、諦めた。ふっとそんな思いが胸に訪れてきたが、押さえつける。
当たり前ではないか。兄のような人間に自分がなれるわけがないのだ。勝手に唇がぎこちなく上へと向く。自嘲した。何を思い上がった考えを抱いているのかと。
私を、男として見るものは少なかった。肌は白かったし、華奢な外見に童顔と人目で男と分かる者などはいなかった。母親など「女に生まれてくれば良かったのに」と私の目の前で言うほどだった。
なるほど、確かにそうだと思う。私もどうせなら、はっきりと女に生まれたかった。我が家を訪ねてくる男のいくらかは、私を見ていた。
いやらしい薄汚い好色めいた視線で。
性の捌け口だと言わんばかりの視線で。
お前みたいな男女は身体で稼ぐしか出来ないという視線で。
誰も、私を男として見てなどいなかった。
「どうした、慶吾?」
「いえ、なんでもありません」
兄は何か察したのか、後ろへと振り向く。慌てて唇を閉じ、手を振って私は誤魔化した。
兄が、優しく私に微笑みかけてくれる。それだけで、私は先程までの厭な思いを捨て、満ち足りた思いに浸ることが出来た。兄という存在自体が、私の救いになっていた。
強く、気高く、優しい兄。私にとっての理想であり、誇れる兄である。女とも無縁であり、ひたすらに武術を磨いていくだろう兄。
顔が赤くなるのを感じる。兄が振り返り、困ったような表情をし、頭に手を伸ばす。その手は硬く、柔らかさとは程遠いものだったが、何よりも優しさが込められていて、気持ちがよかった。
兄が笑いかける。再び、私は顔を赤くした。
家に着くなり、鬱々しいぐらいに騒ぎ始めた家族を尻目に、私は兄の傍にいた。
兄の傍が、私には一番落ち着いた空間であることには変わりなかった。小さい頃からのお気に入りの場所である。皆が宴会で盛り上がってる時でも、私はどこかへといこうともせずに、兄の傍を離れなかった。
「慶吾」
「はい」
「少しは、他の者とも話したらどうだ。せっかくの宴会だと言うのに」
「私は、兄上の傍が良いのです」
成長する度に、男らしいとはいえず、むしろ女のようだと言われている私が側を離れずにいると、傍から見れば兄と妹に見えるのだろうか。それとも夫婦だろうか。
それはそれで、悪くないかもしれない。兄を独占出来るとなれば、私にとっては至福の時である。それ以上の幸せは望みようもなかった。望みたくもない。
いつまで経っても私から離れられないと、後々困るぞと兄が本気で困った顔で喋るが、構わない。兄とはしばらく離れていたのだから、この時間ぐらいは独占してたって悪くないだろう。
ふと、視線を移すと玄関の方が騒がしくなってきていた。
それも、微かな驚きと感嘆の声が混ざり合った複雑なざわめきが、宴会の場に広がっていく。
何事だろうか。そう思ったのかどうかは知らないが、兄は玄関の方へと歩いていこうと立ち上がる。私も、一緒に立ち上がろうとした時だった。
「夜分遅くに申し訳ありません」
凜とした声が、部屋に響き渡った。強い意志を感じさせ、それを包むような上品さを併せ持った声。
気がつけば、目の前に女性が立っていた。周りの者は自然と道を譲っていく。生まれついての、貴族というような雰囲気である。それも、中途半端な成り上がりの貴族特有の卑しさなどとは無縁のものである。
視線は、その姿を捕らえて、兄と彼女以外の存在を無くした。完全に見惚れていた。私以外と――兄を除く人々は固まっていた。
「倉羽。倉羽桐葉と申します。多忙の所、申し訳ありませんが、どうしても私を指導してくれる御方を拝見したく、この遅くに参りました」
相も変わらず、彼女の声は透き通っていて、醜さや卑しさなどという言葉が出ようものかというほどの美しさを秘めていた。
このような女性もいるものか。らしくない発想が頭を埋め尽くしていた。
「貴方がそうなのですか、桐葉殿。私が今回、貴方の指導役に就いた新堂安胤です。以後お見知りおきを」
兄が、丁寧に頭を下げ跪く。桐葉が笑顔を見せた。また脳を直接揺さぶられる感覚が襲った。
「そのような事、なさらないでください。私は貴方に教えを請う立場です」
「存じております。ですから、今はです。武術の指導では優しくはしません」
今度は兄が笑った。それも、いつもの微妙な変化ではなく、はっきりと笑っていた。
それと合わせるように、視線の先の風景に、人々が戻ってきた。同時に、微かだが胸に痛みが走る。
桐葉の顔を、もう一度まじまじと眺めてた。美しく、それでいて中性的で凜としている表情。どこか気が強そうだが、それがまた男をそそるのだろうか。皆の目は彼女に集中していた。
――兄上もだろうか。
ちらりと横を見る。立ち上がった兄の表情は、変わらなかった。相変わらず優しい笑みを抱いているが、それ以外の感情は特に見えない。
ならば、良いのだ。兄上が特に特殊な感情を抱いていなければそれで良い。私には十分である。
「私の弟の慶吾です。身体は弱いですが、学の方はなかなかですよ。ほら、慶吾」
挨拶を促されたので、軽く会釈する。目を真っ直ぐに合わせられずに若干逸らしたが、気付かれてはいないようだった。
桐葉が、上品な声で笑い声を上げる。私は恥ずかしくなって俯いた。兄も、そんな私を見て笑い声を上げる。
兄が気持ちよく笑っているのを目で捕らえた人々は驚いていた。
家族の前でこそ笑いはするも――それも微妙な笑みだったが――ここまではっきりと笑うのを見たのは久々なものだ。
もしかしたら、一回も見たことも無い人々だっているだろう。
不安な気持ちが、また胸を埋めてくる。兄上に限っては、それはないと何度も言い聞かせた。桐葉の顔を、今度は視線を逸らさずに眺めた。
「よろしくお願いしますね。慶吾殿」
「こちらこそ、お願いします桐葉殿」
兄が満足そうに、私の頭を撫でた。温かさに眼を細める。
桐葉が羨ましそうに、こちらを見ていたが、その視線は無視した。兄上は、私だけの兄上なのだから良いだろうと。
桐葉も良い人物には見えるが、本当にそうかは、まだ分からないのだ。ただ、見てる限りでは好きになれそうな人物ではあった。
「それでは、私は帰ります。本日は顔を見せに参っただけですので」
「貴方一人、でしょうか」
ええ、と桐葉が頷いた。兄が傍に行く。
「それは、良くない。送っていきます。最近は何かと物騒ですし――帰りの道に鬼が出る。そんな下らない噂も立つぐらいですからね」
やけに饒舌な兄を見て、舌打ちしたくなる気分になった。兄が元々こういう男であるとは知っているし、帰り道の護衛を客人のためにしてやっていたのも常の事だ。
それでも、桐葉を見ていると特別にしてやろうとしているとしか思えない。
そういう差別を最も嫌っているし、誰であろうとしっかりやっている兄である。そんな筈はないと思うが、どこか汚れた心が自分の中に沈んでいく。
――ならば。
「私も、私もついていきます」
兄が、驚いたような目で私を見る。他の者も同様の視線だった。
「慶吾も、来るのか」
「はい」
迷っているのが、はっきりと分かるような表情を兄は浮かべていた。
私の突然の我儘にだろうか。それとも桐葉と二人きりになるのを邪魔されたからであろうか。後者はないだろうと考えるが、疑ってしまいたくなる。
私の方は、無論迷うことはなかった。兄と離れたくなどない。
「慶吾。それはな」
「良いではありませんか」
声の方を見る。桐葉だった。
「男の方二人に送られるならば、私も安心ですし、慶吾殿から、話もお伺いしたいのです」
「やった」
声が出てしまった。兄が額を抑えるが、この勝負は私の勝ちだった。
そう易々と二人きりで行かせてたまるものか。子供のような発想だが、私には大事な事だ。
※以下ネタバレ
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最終更新:2010年01月26日 22:42