(投稿者:エルス)
1941年12月11日
死ねと、今日は34回言われました。
何故わたしが死ななければならないのか、理由が分かりません。
だから、死なないことにしました。
M・Hamilton
白くてふわふわとしたものが、ゆらゆらと落ちているのを見つめていると、ああ、ここは良いと思えます。
何故ならわたしを罵るものがいないからです。雑音と変わりない罵詈雑言を聞き続けると、発狂してしまいそうになります。
喉を掻き毟り、動脈を掻き切ってやろうか。舌を噛んで、痙攣してやろうか。親指を目に突き刺して、失明してやろうかと、色々と、考えました。
しかし、それは自分を傷つける行為に他ならないのです。
なんで、あの父を殺すという行為を思いつかないのだろうかと、わたしは毎回不思議に思うのですが、根本としてわたしは他人とは違う、らしいので、なんとなく納得してしまう。
ああ、わたしは優しいのかと。
兎に角、ここは寒い、足の感覚も、手の感覚も、薄れてきているし、何より、震えが止まらない。
しかし、これはこれで好いのかもしれないと思っています。潔白なあれに包まれて凍死するのは、わたしの考えでは充分に美しいことだから。
それで、良いのかもしれません。
と、視界が暗くなりました。誰かが、わたしの前に立って外灯光を遮っているので、わたしは迷惑だと表情に出したのですが、顔を上げると何故か笑顔に変わっています。
これは何故だろう、ほんとに、不思議なことなのですが、しかし、わたしのことでもあって、それでも分からないのです。
そこに居たのは、女の子でした。わたしを何時も構ってくれる、優しく、暖かく、抱きしめれば心の満たされる、綺麗な、女の子でした。
「ね、帰ろ?」
「ああ、そうだね」
女の子の名前をフランチェスカと言って、わたしと同じ高等学校に通う生徒です。わたしは彼女をフランと呼んでいます。
彼女はわたしの手を取ると毛糸のマフラーを掛けてくれて、優しく抱きしめてくれました。
ああ、暖かい。わたしは彼女の母性に甘えっぱなしのような気がしましたが、わたしはそれでしか生きれらないと思っていますので、彼女の家に泊めさせてもらうと、
せめてものお礼として何かさせてほしいと言うと、彼女は抱いてほしいと言うのです。
金も何も無いわたしですから、彼女の望むことを、言われたことをするまでです。
抱き締めあって、キスをすると、胸が高鳴りはじめて、わたしは少しうろたえるのですが、フランはそんなわたしを押し倒して、ふふふ、と可愛く笑うのです。
ああ、ほんとうに可愛く、わたしを思ってくれる彼女に、わたしは泣きそうになりますが、彼女はその度に頭を優しく撫でてくれます。
ああ、そのときの幸福感といったら、天国のようで、なのに、していることは動物なのでした。
わたしという人間は、そういった道化に近い存在で、サーカスの綱渡りで、何時もあの高いところにある綱の上で踊っているのです。
ふらふらゆらゆら、ああ危ない、といった具合に。
翌朝、目が覚め、フランが横に眠っていると、わたしはほっとします。
そのまま自宅に帰りもせずに学校へ行き、わたしは学ぶのですが、何故か数学などがさっぱり出来ません。
ああ、これはおかしいなと思うのですが、これも、普通ではないからなのだと、納得してしまいます。
自宅に帰れば、父は書斎で酒浸り、母は寝室のほうで喘いでいます。わたしはさっさと自室に入り込み、すぐに出かけます。
とりあえず、父の傍にいると碌なことにならないからです。
しかし、わたしの行くところなどありません。ただ歩いて歩いて、何をするでもなく、歩き続けるだけです。
足の感覚などすぐに無くなり、また寒さに震えるのです。馬鹿な行為だと思ってはいますが、止まるわけにもいかず、どこまでも歩いて、ふと足を止め、来た道を戻るのです。
何をしているのか、何をしたいのか、わたしにもわかりませんが、これでいいのだろうと、何故かわたしは安心しているのです。
ああ、わたしは狂っているのかと、たまに思うのですが、その通りなのだろうと、何時も思うしかありません。だって、そうなのだから、仕方ありません。
家に帰ると、父が母に欲をぶつけているところでした。無視して、自室に入ります。
それでもわたしは耳を塞がなくては眠れないという不自由に、ああなんと不幸なのだろうと思いつつ、その耳にクシャクシャにした新聞紙を詰めます。
これで、一応は眠れるのですから、新聞紙に感謝しましょう。
寝ていた筈なのに、起きると腹が痛く、また、わたしが父に蹴られ続けているのだと知りました、
なぜ父がわたしを蹴っているのか分かりませんが、この男は母を乱暴に貪り、それが終わり何分かするとこうしてわたしを蹴るか、殴るのでした。
初めはイタイイタイと叫んでいたわたしですが、慣れというのは恐ろしく、歯を食い縛り、耐えることでその苦痛を受け入れました。
目も閉じています、なぜなら床にぐったりと横たわっている母の醜態を見たくないからです。
あのブロンドの髪も、ピンク色の唇も、白い乳房も、見たくないのです。
乱暴は何分続いたでしょうか、蹴られ殴られているうちに、わたしのなかから時間というものが逃げていったのでしょう、
何十分も経ったのでしょうか、それとも、何時間でしょうか。
ともかく、父は書斎に行き、また酒浸りに戻るのでした。わたしは、襤褸のような体に鞭を打ち、目も虚ろになった母に服を着させ、学校で盗んだ金や物をそっと渡すのです。
そしてわたしはまた出かけます。今度は行くところなど決まっていますから、早く歩こうとするのですが、
そうする度に意識が飛びそうになるほどの激痛がわたしのからだを貫きます。
ああ、なんて痛いんだろうと、涙ながらに思います。
襤褸のようなわたしでも、フランは変わらず抱きしめてくれます。
彼女の両親は既に居らず、
一人で暮らしていましたので、その夜は互いに貪るように抱き合い、求めあい、愛し合いました。互いに持つ傷を舐め合っているだけなのだと、
わたしとフランは知っていますが、それでもこの行為を止めることはしませんでした。
互いに存在を認め合い、愛し合い、傷を舐め合うように貪り、夜が明け、獣のような本能を後悔しても、そうしていなければわたしたちはそこに在りはしないのです。
幾ら痛くても、恥ずかしくても、幸福でも、一人でいるならそれは存在しているのかも怪しい。
だからわたしとフランは、二人で身体を重ね、互いに存在を確かめて、快楽に溺れていくのです。
「ハミットは可愛いね」
「そうかな」
フランはわたしのことをハミットと言います。ハミルトンを略したのでしょう、わたしはその愛称が気に入ってましたし、学校でもそう呼ばれる事の方が多かったのです。
わたしはよく、女のような顔をしていると言われます。
髪も切らずに伸ばしていますし、どこか抜けていてほわっとしているから、女性たちは母性を擽られるのだそうで、わたしはそうなのかと少し笑って不思議に思ったものです。
「ねえ、ハミット」
「ん」
「やっぱり可愛いわ、あなた」
「そうかなあ、フランがそう言うならそうなのかもねえ」
「ふふ、そういうところが可愛い」
わたしはわたしが可愛いとは思いません。
ですから、フランがこう言ってくれるのがあまり好きではないのですが、しかし、どんな言葉でも彼女の口から発せられるのならば、それはわたしにとって心地良い響きの賛美歌になるのです。
ああ、わたしはフランが可愛いと思っているのに。
そんな毎日が延々と続いて行きました。毎日毎日、母は知らない男を家に連れ込み、見るに絶えない姿を晒し、わたしと父を養うために金を貰っています。
父は書斎で酒に溺れ、薬にも手を出し始めました。
もともと低俗な雑誌に掲載されている小説を書いていたのに、父はその仕事も放棄し、人間であることも放棄していました。
母と父が交わっているのは、正に獣のようであり、この世の最下層でありました。地獄であります。
最下層の、コキュートスであります。寒さに震え、死ぬことも生きることも出来ずに、延々と苦しむ二人から、腐敗臭がしてきました。わたしは、限界でした。
フランと幾ら体を重ね、貪り合い、求め合っても、それでもわたしの心は抉られ、穴だらけで、治りようがありません。
だから、わたしはまず、薬屋を渡り歩いて多量の睡眠薬を手にしました。
お金は盗んだ財布の中にあったものですが、わたしに罪の意識はありません。
罪を感じるとしたら、わたしが生まれてきた時点でわたしは罪を負っているのだと思います、何故ならわたしは人に褒められるようなことなど一度たりとも出来ませんでしたし、フランと共に心中するこの先短い時間に置いてもすることは出来ないでしょう。
わたしが彼女と身体を重ね、ぼつりと死のうというと、フランはわたしの上で首を縦に振りました。
彼女もまた、この世に何か価値があるのか分からなかったのでしょう、
わたしたち二人はただ結びついたのではなく、運命というものによって引き付けられたのかもしれません。
互いに睡眠薬を酒で飲み、せめて最後はと唇を押し付け合い、交じ合うことなく、抱き締め合いました。
彷彿とした意識の中で、ただフランの温もりがこの手の中に在るということだけがわたしの希望であって、かけがえのないものなのです。
だから、フランが泣いているのに気づいた私は、酷く動揺しました。
「フラン?」
呼び掛けましたが、返事はありません。わたしは何度もフランを呼んだ気もしますが、時とは残酷で待ってはくれないものです。
そこでわたしの意識が飛びました。
白くやわらかな、暖かいものがわたしを包み込んでゆくのです。
ああ、これが死というものならばわたしは甘んじてこれを受け入れましょうと、幸福感に浸りながら、ゆっくりと眠るのです。
あとは、目が覚めぬことを祈るだけでした。
神とは字や虚像、もしくは想像や文献上だけの存在なのでしょうか、わたしは死ぬ事を神に願いましたが、
そんなものは在る筈がなかったのでしょう、ぼんやりとしたまま目が覚めました。
視力は遥かに落ちたようで、白い天井がまるで天国のように光のある場所のように思え、わたしは死んだのだと感涙しましたが、そこはただの病室でした。
隣を見てもそこには誰も居ません。わたしは彼女を失いました。
わたしを支え、わたしの抱き締め、わたしの拠り所であったフランは無事死んだのです。
しかし、わたしは死ぬことすら出来ずにただのうのうと生きています。
何故でしょうか、わたしが死ねば人間関係の緩衝による面倒が幾つも消える筈だと言うのに、神は何故私を死なせてくれなかったのでしょうか。
ああ、神とは無能なのだと思わざるおえません。
あの太陽光を集めたような金髪も、すらりと伸びた砂糖のように白い四肢も、甘い愛をそこに集めたような桃色の唇も、
いえ、フランの、彼女の身体をわたしは失い、酷い喪失感が身体を乗っ取りました。
何も出来ず、何もすることも無く、何をする気力もなく、わたしは流されるまま流されるのです。
風船のようだと思いますが、ならば木の枝に当たって破裂したほうがわたしにとって幸せです。鳥がくれば突付いてくれるかもしれません。
気づけば、わたしはまたあの豚箱のような家庭に戻っておりました。
可笑しなものです、わたしは虹を掴もうと彼女と共に手を伸ばした筈が、何時の間にか彼女だけが虹を掴んで空へ消えていってしまったのです。
そしてわたしが何度虹が現れるのを望もうと、永遠とそこで待とうと、その虹は現れるのですが、この手では掴めないのです。
さわそうとすれば消え、掴んだと思えばすり抜け、わたしだけあの汚らわしい地面へと落ちていくのです。
何度手を伸ばし、叫んだことでしょうか、フランという華はわたしに必要なものなのです、それが、何故わたしを見捨てていってしまったのでしょうか。
わたしは、必要とされていなかったのでしょうか、それならばフランと過ごしたあの時間は、年月は、どんな意味を持っていたのでしょうか。
わたしがわたしであるために彼女を求め、彼女も彼女であるためにわたしを求め、それなのに、彼女は何故、いったのでしょうか。
限界は越えておりました。わたしはわたしでなくなる前にすべき事など簡単なものです。
父と呼んでいた男を殺します、それで母は幸せになるのです、あんな醜態を晒さなくても、獣のような行為をすることも、腐敗臭を漂わせることも、もうないのですから。
母はわたしを産み、育ててくれたのですから、幸せを手にする権利はわたし以上にあるのです。ああ、わたしは優しいのだと、そう思いました。
わたしは何時もそうしてきたように、出かけます。ああ、今では世界が真っ白で、美しく見えます。
視力が遥かに落ちようと、わたしはただこの道を歩いてゆくだけです、邪魔するものは誰もいません。
歩き続ければきっと彼女が迎えに来てくれるのかもしれないと、おきもしない妄想をしてしまうほど、わたしは哀れになったようです。
疲れ果てたわたしは眠ることにしましたが、いったい、彼女は何時になったら来るのでしょうか、
もう夜です、外灯光が人通りの少ない通りを照らし、わたしはその下で神々しくも思える光を見つめていました。
ゆらゆらと落ちてきた白いものも、わたしには美しく、素晴らしいものに感じます。ああ、まるで天国のような場所です。わたしはここで眠ることにしました。
横たわると冷たい雪が心地良く、燦々と降る粉雪が、暖かくわたしを包み込んでゆきます。
ああ、瞼も身体も、鉛のように重く、酷く眠いのです。暖かいというのに、わたしは震えていました、
胸が満ち足りているというのに、わたしは微かに胸が痛みました。何故なのか、そんな馬鹿らしいことなど考えもせず、わたしはゆっくりと眠ることにします。
ここにはわたしを罵る人も、殴る人も、蹴る人も、わたしと関わろうとする人が居ません。静かなのです、何も聞こえず、見えるのは美しいこの雪だけ、
ああ、なんて白いのだろうかと、わたしは降ってくる雪に手を伸ばしました。
そして、掴んだのです。暖かく、わたしを包んでくれる潔白が、わたしの手に在ると分かった時、そのとき感じたこの喜びは、感じる他に知る術は無いでしょう。
わたしの心を、フラン以外の人間が、理解できる術などないのですから。
1942年2月13日、郊外に凍死体在り、要請により軍に引き渡す。
遺体の身元は夫ジル・ハミルトン、妻エヴァ・ハミルトンの息子ミシェル・ハミルトン。
当日ミシェルはジル殺害容疑にて捜索中であった。
エヴァは自室にて自殺。後、ジル殺害の犯人として発表。
ミシェルについては軍にて解剖、実験の後に廃棄。
廃棄方法不明。
関連項目
最終更新:2010年03月08日 01:12