(投稿者:エルス)
彼は歓声が好きだった。最終回、九回のグラウンド。あの熱狂した観客が発する声と熱、そして思いが感じられるマウンドが好きだった。
スポーツをただの運動として感じている者達にはその盛り上がった箇所がどんなに神聖な場所であるか、それすらも分からないという事に、
彼はその者達に対して笑って見せるのだ。
『こんなにも楽しく、感動できる。この気持ちを運動とだけで言いきるのは止めてくれ』
彼は誰に対しても親切で、優しく、差別を嫌っていた。どんな打者でも平等に全力を出し合い、負ければ敵に親指を突き立てて笑って見せる。
決して恵まれた体では無いにしても、その腕から放たれる白球は百五十キロを超え、キャッチャーミットまで勢いを失わない。
その矢のようなストレートと、バッターの手に喰らい付くように鋭く曲がるカットボールと高速シュートが彼の持ち球だ。
踏み出した右足を九十度近くまで曲げ、ピッチャープレートを左足が蹴る。腰が回転し、鞭のように腕がしなり、真上から振り下ろされる。
指に付いていたロジンの白粉が漂い、瞬間、歓声がやや小さくなり、主審が右腕を上げる。ストライク、バッターアウト。
歓声と共に彼が吠え、両手を天に突き上げ、ゲームセットが言い渡される。その瞬間を観客は待ち望み、そして何度も見てきた。
白をベースとし、黒い縦縞のユニフォーム。黒い帽子に刺繍された白のC。背負う番号は二十七。赤いグローブを手にベンチからマウンドまで
全力疾走し、グラウンドに入る時には帽子を取って一礼をする。
唾も吐かず、罵声も吐かず。例えエラーが起きたとしてもそのピッチングで全てを無しにしてナインと笑い合う。
彼は誰からも好かれ、称賛され、目標とされた。
何時も濡れているような質と癖のついた髪に子供は憧れ、そうだった者は彼と同じように耳を隠す程度に髪を伸ばした。
黒を好む彼の服装を真似し、黒尽くめの青年が増えていた。
投手を志す少年も増え、ベースボールというスポーツに火が付き、打撃王モーテンセンとともにC.F.バファローズの人気者として、彼は奮闘した。
豪快なパワースイングから放たれる鋭い打球は観客席やバックスクリーンに突き刺さり、ホームベースを踏むまで観客は立ち上がり、祝福する。
精錬されたフォームから放たれる白い軌跡を引くノビのあるストレートを投げ込み、ここぞという時に踏ん張り、観客達とともに吠える。
野手と投手と言うポジションの違いもなく、二人は親しく、そして互いを認め合っていた。
だからと言う訳ではない。彼が肩を痛めて、メジャーリーグという夢の舞台から自ら降りて行った時、チームは涙で彼を見送った。
彼とて諦めた訳ではない。リハビリを重ね、再びマウンドに上がったが、以前のような球は投げられなかった。
『彼ほど野球が好きな人はいないよ』
モーテンセンは笑わず、真剣な顔をして言った事がある。事実、彼の熱心さはチームの誰もが驚愕するほどだった。
一日二十四時間、その殆どを野球に費やし、残りの僅かな時間も十分な睡眠に使う。妻もなく、女付き合いも無い生活だ。
人生を野球に捧げた彼は引退会見で涙を見せず、ただ気難しそうな顔をしていた。先に失礼を詫び、彼は好きに喋る事にした。
『僕は、野球が好きだ。しかし、もう、僕が納得できる野球は出来そうにない。僕は野球だけに生きてきたような人だ。だからとは言わない。
先が見えてないんだ。この先、どうしようかと悩んでいる。今まで後悔しないようにしてきたけれど、でも、やっぱり、後悔はするものだ。
……今、この右肩は、あの美しい軌跡を描くことは出来ない。でもね、憎くはない。むしろ称賛しようと思う。
僕は僕の右肩を、とても大切にしてきた。同時に、かなり無理をさせてきた。僕はこの右肩が好きだ。野球と同じように、好きなんだ。
……意味が分からなくなってしまったな。うん、最後としよう。僕はチームのみんなを愛している。ありがとう、バファローズ。
ありがとう、ベースボール。そして、今まで僕に歓声をくれたみんな、ありがとう。もう、僕は……投げられません』
彼はピッチングの際、ポーカーフェイスだが、この時は人目をはばからずに泣いた。新聞記者も、つられて泣き始めた。
会見が終わり、彼が建物から出ると多くのファンが紙吹雪で彼の引退を悲しみ、泣き叫んでいた。
車に乗り込んでもそれは終わる事無く、雪のように降り続けた。季節は野球日和の夏であるというのに、止む事はなかった。
数週間後、彼は自宅に書置きを残し、行方不明になった。旅に出ると、その書置きには書いてあったらしい。警察は彼を探したが、辺境で目撃証言が
何度も上がると、それも止めた。彼は旅に出て、それきり、どこにも戻らなかった。
白をベースとし、黒い縦縞のユニフォーム。黒い帽子に刺繍された白のC。背負う番号は二十七。赤いグローブを手にした彼は、まだ戻ってこない。
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最終更新:2010年04月27日 00:27