言えない一言

(投稿者:エルス)



戦争が彼女の不幸を見せたのではなく、彼女が戦争を見せたのだ。
Robert Addy


戦場カメラマンの仕事は戦場を歩き、戦場の悲惨さを大衆に知らせる為の写真を撮る事にある。
それが自らの命を呈したものでも、その価値は新聞に載る普通記事の写真と変わりない。
それでも戦場の悲惨さを知らせようとする戦場カメラマンは、独立した会社を設立することにした。
セントグラールのホーク街にあるレンガ造りの三階建て住居を買い取り、営業していた。
創設者は四名で、そのうち三人が男性だったが、実質的なリーダーはたった一人の女性である。
ミス・リリーと呼ばれる彼女は黙っていれば淑女だったが、根が頑固で融通の利かない堅物だった。
ただ、その丁寧な言葉遣いと温和な性格から彼女に好感を持つ者も多く、体を売る事も無く資金を得られたのは彼女の手腕によるものだ。

そんなごたごたの上で成り立っている会社の、書類上では社長となっているロバートがウィスキー入りの紅茶を啜りながら新聞紙を眺め、ちらと愛用のライカを持つミス・リリーを見る。
新聞紙にはデカデカとクロッセル連合王国のメード部隊『レッドコート』の前線での活躍が載せられ、その下で血涙を流している兵士のことなどこれっぽっちも書いていない。
あるとすれば、小さな表にされた今月と先月の戦傷者数の比較くらいだろう。

「ミス・リリー。今度はどこへ写真を撮りに行くのだったかな?」

その表の数字を指でつつきながら、ロバートはミス・リリーに訊ねてみた。もしや激戦区のグレートウォールではあるまいな、と不安が背中を駆け上がり、逆にそれが良かったのか背筋がピンと伸びた。
紫色の目を二三度またたかせ、ミス・リリーは前髪を撫でた。忘れていることを思い出そうとするときの癖だと、ロバートは落胆を表情に出さぬよう努力する。

「詳細は忘れてしまいましたけど、確かグレートウォール―――」
「激戦区じゃないか!!」
「……安心してください。前線からは離れた安全地帯ですよ」

突然の大声にも驚かずにミス・リリーは答えた。こういう所が多くの男性を引きつけるのだとロバートは思ったが、自分もその内の一人だという事に気づきもしない。

「しかしだな、僕としては君の安全がそれこそ完全でないと困る。死んでしまったら、そこで終わりになってしまうからね」
「だから安心してくださいと言ったんですよ。ふふ、ロバートは心配性なんですから」
「心配性なものか。誰だって顔見知りが死ぬのは見たくないんだ。特に、僕らは戦場カメラマン。日常でそれが起こるのだけは、嫌だ」

段々と熱くなっていくロバートの口調に何かを感じたのか、ミス・リリーは柔らかく微笑んだ。
名前の通り、白い百合のような微笑みが咲くと、窓から射し込む太陽の光が一段と明るくなったのではないかと感じる。

「ねえ、ロバート」
「なんだい?」
「エントリヒの詩と本を書いて、私達と同じジャーナリストだった人の最期の言葉。なんだか分かる?」
「さあね。僕は歴史が嫌いなんだ。血なまぐさくて料理が食べたくなくなる」
「ふふ、ロバートらしいですね。正解は『書くんだ、紙、鉛筆……。僕は、死ぬ……』ですよ」
「ジャーナリストの鏡だ、と言いたいんだろう?分かってる、分かってるさ。僕はね、ミス・リリー。君と僕だけになってしまったこの会社で、君すら居なくなるのが嫌なんだよ」

開業したのはたった七年前だというのに、創設者の四人はもう半分に数を減らしていた。二人ともレベルテ王国の内戦を撮る為に出国して、荷物になって帰国した。
確かにあの時は人間が相手だったから銃弾も飛んできて危険だったかもしれないが、敵がGになった今でもそれは変わらない筈だと、ロバートは歯ぎしりしたい想いを無音で噛みつぶす。

「……まったく、まだまだ子供なんですから。ロバートは」
「な、な―――」
「貧相な胸ですけど、泣き出しそうな子供を抱き締めるには丁度良いでしょう」

抱き締められたことによる恥ずかしさよりも、音も立てずに忍び寄ってきたミス・リリーの隠密性に驚きながら、ロバートは花の香りが鼻腔をくすぐるのを感じた。
ラベンダーの香りだろうか。息をする度に脳が落ち着きを取り戻していくような不思議な感覚を味わいながら、そういえば抱き締められているのだと思いだす。
咄嗟につき飛ばしてしまおうかと考えたが、ミス・リリーにそんな乱暴な真似をすることは出来ず、結局ミス・リリーが解放してくれるまで、ロバートは抱き締められっぱなしだった。

「えっと、だな。ルミス生まれの哲学者がいただろ、そいつがこう言ったんだ『生きるとは呼吸する事ではない。行動することだ』とね」
「それじゃ、もう私を止めませんね?」
「負けたよ、ミス・リリー。『真の知恵とは自分の無知を知る事である』とは、上手く言ったものだ」
「それと『人々が自分に調和してくれるように望むのは非常に愚かだ』とか」
「ふむ、そうだな。僕よりもミス・リリーは聡明だ」

それほど高くも無い椅子の背もたれに寄りかかったロバートはふうと息を吐いた。そして窓の外を見ながら、最近過労気味かもしれない、その所為で心配性になっているのかも、と考える。
事務所内部に目を戻せば、ライカを鞄にしまい込むミス・リリーが居た。ロバートは、もう行ってしまうのかと、寂しい思いをする
ミス・リリーが立ちあがり、その足で事務所の出口まで歩いていくまでそれほど時間はかからない。ドアノブを回して半分開いたドアから半身で、ミス・リリーは

「それじゃあ、行ってきます。留守番宜しくお願いしますね」

そう言ってドアを閉めた。ロバートはぼんやりとその様子を見ていたのだが、そういえば行ってらっしゃいと言い忘れたと後に思った。



それきりミス・リリーは帰らなかった。ロバートの会社には新入社員七名が入り、計八人になった。
ロバートはおかえりなさいと言える日は何時来るのだろうかと思い、今日の新聞を眺め、ミス・リリーによく似たメードが新聞の小さい記事になっているのを読むと、新聞をゴミ箱に投げ捨てた。
おかえりなさいと、何時言えるのだろうかと、ロバートは呟いた。



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最終更新:2010年05月20日 01:28
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