Atlach=Nacha

(投稿者:Cet)



糸を張れ
しかるのちに世界を統べよ













 青年が椅子から腰を上げた。
「どこへいく」
「ちょっと遠くへ」
 飄々と答え、青年は男に背を向ける。
 歩いていく途中、少しだけ振り返って、不敵な笑みを浮かべた。
 男はその後ろ姿をぼんやりと眺めている。

 青年は腐っていた。
 精神がどこまでも腐っていた。
 腐臭を押さえつけることができない。
「ちくしょう」
 それはかまくびをもたげ、顕現を果たす。
 歩く青年の頬から青い涙が流れるが、誰も気付かない。








「またか! またなのか!」
 グレートウォール戦線後方の作戦支部では怒号が飛び交っていた。
 その実戦レベルの指揮官は、通信室で自ら指揮を取っていた。
 机がところぜましに並べられ、そしてその上には通信機が並べられている。
 部屋の三方にある扉からは、情報をもたらす為の連絡員がひっきりなしに押し寄せていた。
 しかし、一人の人間が同時にどれほどの情報を処理できるかということは、推して知るべき事柄である。
「該当戦区においての損耗はなおも拡大中です……増援を!」
「増援を送ったところでどうなるというのだ!」
 一般的に、Gが出現したという程度のことで作戦司令部がここまでの大わらわになることはほとんどない。
 世暦1948年の九月のことであった。








 グレートウォール戦線における空戦メードのほとんどは、尾根に陣取ったそいつから距離を取り、様子を伺っていた。
 違う、本当のところは誰もが逃走への欲求を感じていた、しかし実行できずにいたのだ。潰走が始まっていてもおかしくはないはずなのに、それが起こらないのは一重にモラルが徹底してある証拠である。
 そこにいたのは蜘蛛だった。
 巨大な蜘蛛である。
 とてつもなく巨大な蜘蛛である。
 その蜘蛛は、山の尾根に鎮座して(尾根のスケールが不鮮明になっている)、尖兵であるところのアシダカを身に纏い、あるいは次々と体内から送り出し、接近するメードに対しては、膨大な量の酸性の物体を浴びせかけることで対抗していた。
 一時的に自らの担当している戦区を放棄してまで増援として駆け付けたメードらまでもが蜘蛛を囲んでいたが、包囲は充分ではないどころかすぐにでも突破されてしまいそうなほど、頼りなくすらある。
「……」
 その包囲陣の中に、一人の黒い服を着込んだ空戦メードが飛んでいた。
 その隣には、副官であるらしい小柄なメードが付き添っている。
「状況終了、本来の任務へと戻ります」
 その言葉に、副官のメードはこくりと頷いた。
「了解、副官以下に伝達します、おい、元の作戦への移行準備を整えろ」
 小柄なメードが、即座に命令の伝達に移る。
 すると、彼女の傍らに浮かんでいた通信メードが困惑の表情を浮かべた。
「で、でも」
「でも、もへちまもあるか、お前の眼は節穴か、とっとと見ろ」
 困惑の表情はそのままに、そのメードは巨大な蜘蛛の方へと視線を向ける。
 のそのそと、尾根に陣取っていた巨大な蜘蛛が頭を向けていた方向を百八十度変え、そしてその方向へと移動を始めていた。
 それに合わせるように、随伴していたアシダカの群れもまた、戦区からの撤退を始める。
「作戦目標は達成されたんだ」
「へ? あ、ホントだ……」
 それを確認した通信メードは、そそくさと情報の伝達へと移った。
 さらにそれを確認した副官は、だからといって感情の変化を見せないままに、先程命令を出したきり喋ろうとしない黒服のメードへと視線を向け、口を開く。
「あいつは一体なんなのでしょう、隊長」
「分かりません」
 黒い服のメードは静かに答える。
「分かりたくもない」
 ぼそり、とそう付け加えた。
 小柄なメードは、その独白に一切反応しない。








 結局、その巨大なアシダカタイプの蜘蛛は、グレートウォール戦線を三十キロメートルほど浸食し、破壊活動を数十分弱行った後で反転、姿を消した。
 即座に空戦メードがその後を追ったが、まるで霧のように消えてしまったのである。この表現はほとんど比喩とは言えないかもしれない。追跡した空戦メードの発言である。
 この日の進行阻止作戦に充てられたメードの数はおよそ二百、戦車五十、航空機五十、高射砲五十であった。損耗は五%である。この日以来、この蜘蛛のコードネームは鳥喰い蜘蛛とされる。また、一部では神話由来のあだ名が付けられた。








 青年が立っていた。
 ここはグレートウォール戦線の東側三十キロメートル、人類がつい数時間前まで希望的観測に基づいて占拠していた地域であり、Gの攻勢が小さく成り始めた時期を突いて得られたそこは、いわば警備の穴であった。幕営らしきものが複数、ほとんどが設営しかけの状態で放置されていた。もちろん、大多数は破壊されている。
 青年は自らの手を見ている。
 それを忙しなく動かす。
 すると、青年の目の前に、ぼうっとした影が浮かんだ。
 巨大な影だった。
 しかし、それはしばらく後に、完全に消え失せた。
 青年は一つ溜息を吐く。
「まったく、久し振りだ」
 そう呟いた。


最終更新:2011年05月06日 20:20
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