私が兵営の建ち並ぶエリアを歩いていると、正面から歩いてくる
トリアに会った。
トリアの表情は憔悴の極みにあった。できる限りそのことを表面に出さまいという努力は感じられたが、それでもその取り繕われた無表情はこの場においてはむしろ疲労と憔悴そのものでしかなかった。
目が合うなり、まるで幽霊に出会ったかというほどに彼女は驚嘆した。
「
シーアさんっ!」
そしてこちらへと駆け寄ってくる、外聞などあったものではない。
彼女の体重が私を揺らした。
腕が強く身体に巻き付いている。
「ただいま、トリア」
「シーアさん……シーアさんっ」
「泣いているのか、トリア、君は随分弱くなった」
「私はっ、もともと弱かったんですっ」
すっかり煤けてしまったオリーブドラフの、肩口を中心に湿り気が広がっていく。
「前に言ったろう、トリア、全てはメタファーだ。あらゆるものを通して、自らを導く空を見なくてはいけない」
私はトリアの肩越しに、通り過ぎる人波を見ている。
トリアは泣いていた。声も出ないほどに泣いていた。
彼女は子供なのだ。
私は壊れているから子供でも大人でもないが、彼女は子供だった。
何といっても、彼女は六歳にすらなっていないのだ。
私の目は網の目のような世界を見ていた。関係性が関係性に結び付いて意味を生んでいる。世界は言ってしまえば蜘蛛の巣のようなものだった。空間から分割された人間が歩いている。誰もが度々こちらを一瞥する。
トリアはまだ泣き止まない。
往来の真中に突っ立っている。次の戦闘の招集があったからこそ私は移動していたのだが、こうあってはそうするのもままならない。往来の中を
シュワルベ女史がこちらに歩いてくるのが見えた。彼女はぺこりと会釈をして私に擦れ違おうとする。私は軽く手を動かして答える。というか、そうすることしかできない。
彼女は擦れ違って行った。
「トリア、シュワルベ君に見られたぞ、先輩として恥ずかしいじゃないか、きっと、彼女は多分次の招集に向かったんだろう。長引く戦闘とは難儀なものだ、さあ、君もそろそろ行かなくちゃならないんじゃないか」
「……ぃやです」
彼女はぐずるばかりだった。私は彼女に気取られない程度に軽く肩をすくめてみせる。彼女がこんなに弱い性質だとは思わなかった。これじゃあまるで普通の人間よりも脆弱じゃないか。
どこかでサイレンが鳴っている。それでも人の歩みは変わらない。速くもならないし、遅くもならない。そしてどこかから地響きが伝わってくる。戦闘が始まってから二十日ほどが経っていた。昨日から大規模攻勢が続いているが、はっきり言って状況が芳しいとは思えなかった。たくさんの人間とメードが死に、完全な形の遺体が回収されることも稀だったがそれでも火葬は連日のように続いていた。
今日も、そして今も、空を見上げれば、棚引く黒煙の一端を目にすることができた。まるでそれはほどけたリボンのように寄る辺なく空を漂っていた。
そんな風景を見ているうちに、私の中に一つのアイディアが浮かんできた。
何故そのようなアイディアが浮かんだものか、分からない。しかし結局私はそれを口に出して言った。
「トリア、青年に会わなかったか?」
トリアはそこでようやく、私の肩を占領することをやめた。
我々は比較的近距離からではあるものの、視線を正面から通わせる。
「なんでですか」
鼻水と涙でまみれている。
私は自分のオリーブドラフの袖口を手で引きちぎった。
「いや、何となくそんな気がした」
「会ってません……」
そうか、と私は答えながら、彼女の顔を綺麗にしてやった。その上で、彼女の澄んだとび色の瞳を見つめる。嘘をついている訳ではないようだ。
「ん、まあこんなものかな……じゃあトリア、私も招集を受けているんだ。そろそろ編成に加わらなければならない。私はそもそも小隊長を任じられているんだよ」
「すみません、お引き留めして……何とか頑張れそうです」
トリアは俯きがちに言った。
「油断をしてはならない、休んでもならない、難儀だな」
「本当に」
そこでようやく彼女は笑みを見せた。
無垢な笑みだった。
私も微笑み返す。
「じゃあな、トリア、また会おう」
「はい、また」
そして、私達は擦れ違った。
そのまま歩いていく。遅くもなく早くもない人波の一部となって歩いた。
たくさんの人間が行き交っていたが、不思議なことに疲労を顔に浮かべている者は少ないようだった。
その光景はほとんど変化しないまま、私の現実に付随するように続いている。
私はその付随する現実を眺めながら歩いていく。
それから、暫く歩いた後で私は立ち止まった。
トリアの去っていった方角を振り返って、もう見えなくなった後ろ姿を眺めた。
たくさんの人間が行き交っている。その中には、往来の中で立ち止まる私に向かって、怪訝そうな視線を向ける者もいる。しかしほとんど変化というものを伴わないまま、人波は限りなく続いているように見えた。私は立ち止まって、その人波を暫くじっと眺めていた。喧騒は鳴り止むことを知らなかった。
歪んでいた。
どうしようもなく何かが歪んでいた。何が歪んでいるかまでは分からない、しかし間違い無く何かが書き変わり、恣意的に歪められていた。そんなきな臭さがどうしようもなく鼻についた。
ふざけるな、と私は一つ呟いて、集合地点へと足を急がせた。