(投稿者:Cet)
少女は夕陽を受けて微笑んでいた。
少女と
トリアは、夕焼けの橋の、一方の終端の近くに佇んでいた。
二人は、お互いの表情を見遣りながら、現実との距離を推し量ろうとしているようだった。
そしてトリアの表情は、懸念が破れ、何かを考えることができないようだった。それに対して、少女は笑みを浮かべている。
ポーズとしての笑みだ。
「どうする? なんだか、興がそがれちゃったみたいだけど」
少女は言う。否定的な色は、抑制されているものの明白であった。
トリアはそれに何かを答えることができないでいた。夕焼けの橋の上で、夕日を背負って、それでいて二人は佇んでいた。
沈黙を振り切るように、少女が俯く。
「ごめん、今日のところはもう」
トリアが微かな悲壮を表情に浮かべる。でもやはり何も言いだせない。
「はい」
「また、今度」
少女は、橋を渡っていく。
トリアはそこにとどまっていて、動き出すことができないでいた。
そして少女は、トリアから背を向けて離れていった。橋の傾斜が再び動き出して、二人の間はどんどんと開いていく。やがて、お互いの姿を見れないくらいに二人の距離は開いていった。その頃になって少女が走り出した。
奥歯を強く噛み締めて、その目は何かを探していた。
走っていく。その足先は自宅へと向いている。
夕焼けの道を、少女は走っていた。この時刻において、下校路は彼女以外に児童の姿はなかった。彼女は走っていた。息が切れる。
足元がおぼつかなくなって、走るのをやめた。そのまま惰性で数歩を進むと、もう走れなくなったのか膝に手をついて前かがみになった。
呼吸の間隔はひどく短い。少女は何か声にならない声を上げる。呻き声のように、その声は響いた。
何かを喋ろうとするのだが、それは声にならなかった。
切迫した呼吸だけが夕焼けの時間を満たしている。そして、少女は顔を上げた。何かを決意しているような顔だった。しかし一瞬でその表情は崩れてしまう。どこか、頼りなさげな表情へと一転してしまう。もとより少女にどうしようもないことなのだ。自分の記憶のありかについて考えることは、そもそも少女の能力の範疇を越え出ていた。
口元だけが、声なくして動いた。それは問いだった。一体どうして、という疑問が口を突いた。
結局、少女はそこで数分か、それ以上の時間を立ちつくしていた。
どこに進めばいいのか分からなくなっていた。
それでも動き出す。少女は一歩を踏み出して、時間の流れに忠実になろうとしていた。ただ、その目には不信があった。現実に対する不信だった。
一体どうして、という問いに対して、回答者は一人もいない。少女自身がその問いに答えることもできたが、しかし有力な回答が彼女にできるはずもなかった。分かり切ったことだった。
少女は歩いていた。
夕焼けの道を歩いて、自宅の前まで来ていた。
少女はそこで立ち止まっている。
自分の家の戸をくぐることができないでいる。少女の目には、不信と、それ以上の不安が浮かんでいた。世界との接点が急激に揺らいでいた。
導き出された暗唱によって、これまでに彼女と繋がっていたあらゆるものが彼女に対して疎遠なものに変貌していた。
彼女は、結局玄関をくぐった。
まだ、夕日はその片端を世界に残している。
ただいま、という響きすら、反響の中で疎遠さを増していくよう。
おかえり、という響きは、彼女の中に冷たい反応を残した。本当に帰ってきてよかったのだろうか? 彼女の中に、一つの問いを発させた。勿論、有力な回答などなかったけれど、少女はその問いに対して否定的な面持ちで眺めていた。
少女はまず廊下につっ立っていて、歩き出した。リビングへと向かった。
玄関から連なる廊下をくぐって、そしてリビングに辿り着く。キッチンの方から水音が聞こえる。鼻歌も。勿論その響きは疎遠だった。
しかし、どこか少しだけ、少女は懐かしさにも似た感覚を覚える。
ほんの少しだけであった。
少女はリビングのソファに腰掛ける。ほとんど腰が抜けたかのような気の抜け方だ。彼女は宙を見つめる。彼女の中で意識が反省を繰り返している。それは、どこへもいけない反復の連鎖だった。ただ、それをやめることができないだけだ。
少女は暫く反省を繰り返していた。過去をただし、その上で自分の接点をいずれでもいいから見出そうとするその行いは、虚しかった。
少女の表情が歪んだ。ほとんど泣きそうなくらいに目元をしかめた。それでも彼女は、それ以上の感情表現を行わなかった。彼女は彼女自身の反省、省察に対して忠実にあっていたのだ。自分の理性が決着を付けるだろう、というひとまずの目途があったのだ。
勿論、それは現状維持を唱える一つの機能的なものに過ぎなかった。考えていれば、考える以上のことをしなくて済むということに過ぎなかった。少女は再び泣きそうな表情になる。しかしその時にはっと、母がリビングへと足を向ける気配を敏感に察して、彼女は自分の頬を撫でた。
母がリビングに姿を現した。濡れた手をエプロンで拭きながら、微笑んでいた。
キッチンとリビングの境目に彼女は立って、遅かったね、と言った。
「うん」
何でもないことのように少女は言う。だめだ、と思う。誤魔化しきれないのだ。
ただの沈黙が、夕日に照らされて少しだけ色合いを変えた。母は表情を変えないまま立っていた。
「何かあったの?」
そして問いがあった。
だから少女は少しだけ、かなわないな、と思いながら、自分の返答を、出るに任せた。
「うん」
娘の肯定に母は少し視線を下げて、ほんの少しの間にその相槌を様々な角度から考察した。
それから視線を上げる。
「何が?」
少女は答えなかった。中立的な表情をして、相手の促しを待っていた。
母は微笑んだ。しかし、それすら、微かな疎遠さを少女に感じさせた。少女は、少しだけ悲しそうな表情をした。隠せなかったし、隠す必要も、それほどないのだ。母の嘆息。少しだけ親密な雰囲気の嘆息だ。母がようやく、リビングに完全に足を踏み入れる。フローリングの軋む音がして、母は少女の隣にまでやってくると、ゆっくりとソファに腰かけた。
「質問があるなら、答えるよ」
微笑みを携えながら言う。
少女の曖昧な表情は揺るがなかった。もう先程の微かな悲しみの色は、彼女の表情を去っていた。
少女は無言だった。一分程が経って、母は娘の肩を抱いた。
何よりも、それは回答だった。解答では無いにしても少女の心は震えた。固くなりかけていた心の表層と深層の境目が、少しだけぬくもりを取り戻して、静かに脈打った。
少女は目を閉じて、少しだけ母親に体重を任せた。
母は、娘の髪を優しく撫でた。微かに暖色を帯びた清潔な綿のシャツはすこしだけ温かい。でも、その親密さも、波を立てて引いていく。少女は目を開ける。現実との距離の縮まりを感じている。それでも、普段の現実には及ぶべくもないのだ。
「ねえ」と少女は言う。「なに?」と母は答える。
「私ってどこから来たの」と少女は言う。母は悲しそうな顔をした。思わず娘の肩を強く抱こうとしようとして、それを努力の末に思いとどまった。
どういうこと? と母は言うにとどめた。
「私って、ひょっとしてどこか遠くから来たのかもしれない」という言葉に母は思わず肩を抱き寄せていた。少女は驚いた。シャツの肌触りの、暖かさと清潔さに。「そんなことないよ」と母は目を閉じて言った。
勿論、娘が母の目を見遣っていたからだ。彼女の瞼の下では、目まぐるしく悲しみが行き交っていた。
「ずっとここにいたんだよ」
そう言った。
娘は頷く。
二人は暫くそのままでいて、母が不意に、でもゆっくりと立ち上がった。
「カレーだよ」少女は母を見つめている。
そして、母はキッチンへと一旦は姿を消す。
少女はぼんやりとした視線をキッチンへと送っていたが、やがて窓の方へと向きを変えた。
夜がざわめいているようだった。
彼女は続けてポケットの携帯を意識する。それは、夕暮れ以降まだ一度も震えていない。少女は一つ溜息を吐いた。でも、彼女の指は携帯電話のすべすべとした表面に微かに触れているだけだった。
◇
翌日、少女は静かに朝食を取った。父はいつもの通りだった、多弁でも無いが無口でもない父の声が朝食の場に散見された。そして母の声はいつも美しく響いていた。少女はあまり表情を見せなかったが、しかしそれでも、現実に対するアプローチをやめたわけではなく、彼女は彼女なりの努力を続けていたのだ。そして母はその娘の努力を、静かに見守っていた。
少女がいってきます、と言う。父が同じタイミングで玄関を出る、車庫に向かう途中で、父は行ってらっしゃい、という。少女は頷く。
その後ろ姿を見て、父はぽりぽりと短く刈られた頭を掻いた。
少女は歩いていた。昨日のような、躍動というものはそこにない。しかしそれでも、歩いていた。それだけは確かだった。
そして橋の手前の十字路にトリアが立っていた。少女は面喰って立ち竦んだが、すぐに歩き出して「おはよう」と言った。少女はおはようございますと返す。そして並んで歩き出した。
昨日のことは大丈夫です。とトリアは先に言った。少女の胸に現実が近接する。そしてトリアは少女を後ろから抱きすくめた。「な、なに」と慌てて少女が返すと、少女は別に、と笑った。現実が再び親密さを増そうとしていた。
二人は橋の上を歩いていく。二人はお互いに一つのことを考えていた。勿論、それは少女の姿をした幽霊のことだ。
そしてそれはただの幽霊ではないかもしれない。
「あれから何か分かりましたか」
そうやって話は切り出された。
「母親がちょっと変な様子だった」
「えーと」
「私はどこから来たんだろう、って言ったら抱きしめられた」
「どういうことでしょうね」
「さあ」
小気味良いやりとりは颯爽と終わりを告げた。そして二人は再び無言になり、歩いていく。
少女が不意に頭を上げて、隣のトリアを見遣った。
「ひょっとしたら、私、あの家の子じゃないのかもしれないね」
「な、何でそう思うんですか」
だって、と言いかけて少女は口をつぐんだ。だっても何も、明白に近い事実であるように思えたからだ。知らない記憶と、幽霊。ただあの家の娘として生まれただけでは勝ち得ない筈の運命。
むしろこの世界の住人ですら無いのではないか、と考えることの方が自然とすら思えるのだ。
「トリア」
「はい」
呼びかけたまま、会話に展開は無かった。
トリアは黙って寄り添っているだけだ。
ゆっくりとした歩調が続いていた。
◇
いつもの十字路まで来ると、放課後の約束をした上で二人は別れた。少女は自分の学校への道のりを行く。橋のふもとの十字路を左に折れて、二、三分歩けばすぐに学校へと着くのだ。
何かが変わろうとしているのだ。それは少女にも分かっていた。でも、何がどう変わるのか、そもそもそれが分からなかった。さらに言うならば、少女には自分自身が何者であるかということすらも分からないのだ。親に聞けるような状態でもないし、どうすればいいのか少女には皆目見当が付かなかった。
「おはよう」
そんな状態の背中に友人が声を掛けた。
黒い髪を後ろでくくった少女。黒いセーターに、暗色のワンピースという服装だった。
「おはよう」、と少女が返すと、友人の表情は曇った。少女はその反応を見て、何を言っていいのか分からなくなる。
「あのね、
シーアちゃん」
「うん」
「何か悩んでる?」
「いいや」
「嘘」
「嘘だけど」
母親にもばれるわけだった。
ポーカーフェイスを気取っているわけではないが、表情がそうめまぐるしく変わる性質ではないのは確かの筈だ。
「ねえ、聞いていい?」
少女は、友人に尋ねる。友人は声に出さず仕草で促した。
「何で分かるの?」
「何でって、分かるに決まってるよ。
だって、すごい困ってそうな顔してるから」
知らず少女の眉が寄った。
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、大丈夫」
「そう、よかった」
友人が笑うのを見て、少女も笑う。
共に校門をくぐった。
それから授業を経ると、少女は教室を出て行くことにする。その中で、教室の中から心配そうな視線が飛んでくるのは少女にもよく分かった。そちらの方を向いてじゃあね、と言って、笑顔の応酬をした後で十字路へと向かった。
十字路へと向かう途中には特に何かを考えることはない。考えても、結局のところ無駄だからだ。今自分が何かを考えたところで、何かが変わるというわけでもない。だから、少女は朝の悩ましい表情などすでに去った後のように歩いた。
少女が十字路に着いたとき、トリアは既にそこで待っていた。
「お待たせ」
「待ってませんよ」
そう言ってトリアは微笑む。彼女の笑みはどこかしら雰囲気を穏やかにした。
「さて、これからどうしますか?」
トリアの問いに対して、少女の返答には迷いが無かった。
「貴方の学園に行ってみましょう……でも、今から行って大丈夫かしら?」
その問いにトリアは首を振る。
「大丈夫です、保証します」
「じゃあ」
二人はそして同じ道を歩き始める。
◇
学園に辿り着くまでには十分と少しほどの時間があれば足りた。そして少女はその建造物を見上げた。白い壁、並ぶ窓、特に目立つようなもののない普通の学校だ。
少女はトリアと共に、正面の玄関から校舎の中に入った。静かだった。ふと耳を澄ませても、微かな喧騒がよぎるだけで、少なくとも校舎の中に人の気配は感じることができなかった。
二人は廊下を歩く。トリアが向かう場所は多分、例の第三教棟の四階とやらだろう。
「部活とかは?」
その中で少女は不意に聞いた。
「はい?」
「ひどく静かだけど」
「さあ……そういえば、そうですね」
二人は歩いている。
遠くから、微かな喧騒が聞こえていた。子供がはしゃいでいるような、まるでそれは――。
「なんだろう、なんだか懐かしい感じ」
「そうですね、私も、そう思います」
トリアも同意して、頷く。歩く。トリアが廊下の左手の階段を上っていく。少女もそれに続く。既に夕焼けに差し掛かっていて、踊り場は窓から差し込んだ夕日によって微かな赤を帯びていた。比重の感じられそうな、踊り場の空間をすっとすり抜ける。
何かをすり抜ける。何かがそこにはある。
少女は踊り場を抜けて、階段を上る。同じく階段を上るトリアは何も気にしていないようであった。
「なにかがおかしい気がする」
「そうですか?」
何気ない答えだった。
「ちょっとだけ空気が重い」
「確かに、気楽だとは言えないですね」
そう言ってトリアは微笑んだ。
少女は釈然としないような表情で歩く。
階段を上って、三階にまで着いた。
トリアはそのまま四階を目指さず、廊下へと足を向ける。
「ここから、渡り廊下を使って第三教棟にいきます。それから四階に行きましょう」
「ええ」
少女は頷いた。
二人は廊下を歩いていく。
今のところ、何もおかしなところは無かった。渡り廊下を歩く際に、少女は窓から自分が入ってきた校門の方を見遣ったが、人の姿は無い。静かな放課後だった。ただ時折、どこかから楽しげな笑い声が聞こえてくる以外には、何も無かった。
渡り廊下を通り過ぎると、眼前の階段の前でトリアは立ち止まった。当然少女も立ち止まって、その表情を仰ぐ。少しだけ緊張しているようだ。唇を結んで、目を見張っている。
「いきましょう」
トリアの声に、少女は頷いた。
階段を上る。比重のある夕日が、踊り場を同じように埋めている。彼女はその赤い空間を通り過ぎる。何もおかしなところは無かった。ただただ、すこし空気が重いだけだった。静寂がそうさせるのかもしれないというだけだ。
静寂の中で、踊り場で折り返して、四階への階段を上る。
足音が響く。少しだけリズムのずれた、二組の足音が階段を踏みしめて、そして四階へと辿り着いた。
階段から左を見遣ると、そこは行き止まりで、右手の方向に廊下が続いていた。
トリアが右手の方を眺めている。夕焼けが廊下のせまい空間を満たしていた。歪んでなどいない。光は平等に視界を満たしていた。
トリアが歩く、少女のことを気にしている様子は無かった。ただ自分の記憶に引きずられるように――もう一人の少女を探していた。
少女はその後ろ姿を眺めている。何故か足が動こうとしなかった。
ふと、少女はトリアの左側に目を遣った。扉だ。
何度も目にしてきた引き戸ではなくて、両開きの鉄の扉だった。
◇
「やっぱり、誰もいませんね」
赤い光を目に映しながら、表情らしい表情もなくトリアは呟く。
「戻りましょうか」
微笑みを顔に浮かべて、振り向いた。
誰もいない。
きょとんとした表情で、シーアさん、と呼びかけた。
どこか緊張した様子で、彼女は一歩を踏み出した。
がちゃん、と扉を閉めると、部屋の中は真っ暗だった。
少女は歩いていく。後ろを振り返る気は起こらなかった。広い部屋だった。窓が開いているのか、どこかから風が吹いた。少女は歩いていく。足の裏に土を踏み締める感覚があった。
少女は歩いた。風の音に混じって、何かがかさかさと揺れていた。多分、草か何かのゆれる音だった。
それから彼女は上を仰いだ。
何も見えなかった。暗かった。それでいて彼女は歩いていく。土の感覚、そして地面には傾斜が掛かっていて、僅かに上り坂になっていた。彼女は歩いた。
数歩も歩かない内に、微かな灯りを正面に覗うことができた。そこには切り株が一つあった。一人の少女がいた。地面に腕を突いて、項垂れていた。
その少女に向かって、歩いていく。
地面を踏み締める音が、かさ、かさ、と響いたけれど、項垂れた少女がこちらに気付くような様子はなかった。微かな光のもとに進み出る。そこは森の中にある一つの広場だった。そして、その少女の眼前に立って、ようやく、彼女は顔を上げた。
ぼんやりとした様子で、焦点の合わない瞳で、少女はこちらを見ていた。
青い瞳。
赤と白の軍服。肩には勲章と思しきエンブレムがあった。
でもそれは、間違えようもなく、少女自身だった。
最終更新:2011年06月26日 11:53