ゆうやけ

(投稿者:Cet)



「これからどうする」
 少女への問いかけに、少女は「そうね」と思惟するような仕草をみせた。
「ひとまず、今日はここにいましょう。
 辺りが暗い中で動き回るのも仕方ないし、それに出口がどこなのかも分からないもの」
 彼女はそう言うと私の方を見て微笑む。それから彼女は洗い終わったフライパンを棚の中に片付け、ミルクが入ったピッチャーを冷蔵庫へと運ぶ。私はその間彼女を見ていた。
 この小屋には独立した寝室があった。先程調べた時に見つけたものだ。白いシーツ、ちゃんと洗濯された数々の寝具がそこにはあった。お誂え向けなのだ。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
「うん」
 私の提案に、少女は頷く。そして我々は同じタイミングで寝室へと向かった。私から寝室に入り、それに少女が続いた。寝室にはベッドが二つ並んであった。私は手前のベッドに、奥のベッドに背を向ける形で腰かける。少女は暫く寝室を眺めた後で、奥のベッドへと向かった。ワンピースの上に羽織っていた桃色のカーディガンをするりと脱いだ。
 私はひとまず上着を取り、靴下を脱いだ。それらをベッドにそれぞれ隣接するサイドボックスの上に置いた。それから私は何をするでもなく、私は少女に対して背を向けて、ぼうっと座り込んでいた。すぐに寝付くのは何かと不自然なことに思われたのだ。
「ねえ」
 そうこうしていると、少女の方から声が掛かった。
 私は上半身を捻って彼女の方を見る。
「なにかな」
「貴方の過ごしていた世界について教えて」
 薄いブルーのワンピースから、白い肩を覗かせて少女は言った。
 私は考える、的確な言葉遣いを尽くしたところで、自分の抱えているリアリティが彼女に伝わるかということに関して、一通りの考察を重ねた。しかし結果としてやはり伝わらないであろうことを私は予感する。それでも、誠実さというものが私の中に無いではなかった。
「私はね、見ての通りに戦争をしていた」
 言いながらに、私はサイドボックスの上に載せてある白と赤を基調にしたユニフォームを指差した。
「そして私は一種の超人なんだ」
「超人?」
「そう、まず私は空を飛べる」
「見たい」
「今は駄目だ、それに、もし飛んだとしても多分風情がない」
「風情って」
 少女は笑った。声に出して笑ったのだ。私は少女の笑い声に好感を覚える。少なくとも、その声は決して耳障りなものではなかった。
「私が飛ぶと、あらゆるものを燃やしてしまうんだ」
「へえ」
 少女が相槌を打つのに合わせて、彼女の瞳を見つめる。その瞳はどこか、物語を聞いている時のような様子だった。つまり、やはりリアリティは伝わっていないのだろう。しかし少女は自分なりにそこにリアリティを見出す努力をしているようでもあった。
「自分の中の現実性がどんどん離れて行きはしないか?」
「いいえ」
 私の問いに、少女は目を閉じる。
「むしろ、何となく納得してるの」
「納得? つまり、どんな風に」
「つまり」
 少女は顎に手を当てて、思考を整理整頓していく。
「今まで、当たり前すぎる生活を送っていたから、むしろ、こんなことがあるって考えた方が普通というか、バランスが取れてるんじゃないかって」
「なるほど」
 私は頷く。
「でも、ある意味ではこの出会いを事実として考えない方がいいかもしれない。
 一種の啓示として……メタファーとして見るくらいが丁度いいのかもしれない」
「啓示? メタファー?」
「そう」
 私は頷く。
「事実は事実、というようにそのまま物事を受け入れるのではなく、そこに自分なりの解釈を加えるということ……あるいはそれが解釈であるということを前提に思考することかな」
 私は一人で納得するように喋った。
 それで、少女に肩越しの視線を送ると、少女は顎に手をやって考えているようであった。どうやら顎に手をやるのが考える時の少女の癖らしい。
「たとえば?」
 少女の問いは多くの省略によってシェイプアップされている。
「たとえば……君について考える時、私は私の中に欠けている何かを見出している。君は、どうやら何らかの不自由と呼べる環境から無縁に育ったような印象を私に与える。もちろん、だからといって君が不自由を感じていないとは言わないけれど、ある意味では君は自由に見える。
 そこが私の抱えている欠落を、あるいは欠落したそのものを表現しているんじゃないかと、私は思っている」
 私はそう言った。その後で、私は再び少女に視線を送った。
 少女は、考えるでもなく、頷くでもなく私のことを見ていた。ひょっとしたら私をメタファーとして捉える努力をしているのかもしれない。
「なるほどね」
 と少女は言った。
「しっくりくる」
「それは良かった……では、そろそろ寝ようか」
「うん」
 少女は頷いた。
 私は、寝室の扉の傍にあるスイッチを押す為に立ちあがり、そしてスイッチへと手を伸ばした。それに触れながらに、少女を見た。少女はこちらを見ている。
「なに?」
「名残惜しい」
 私は正直に言った。
「また明日」
 少女は言う。
「……またあした」
 私は鸚鵡返しに言って、電気を消した。
 眠るには、それほどの時間は掛からなかった。少女が布団の中でもぞもぞしている気配があったが、それを長く意識することはできなかった。



 空は晴れていた。森のお陰で、稜線などを目にすることはできなかったけれど。私は小屋の外に立っていた。そして、夜明けが現れるのを見ていた。夜明けだ。
 少女が遅れて、小屋の外に出てくる。それで、彼女は大きく深呼吸した。
「わるくない」
「うん」
 私は頷く。
「そして変わり映えのしない朝食を食べる」
「悪くない」
 少女が言って、我々は少しだけ笑う。

 しかし、変わり映えのしない、というのは正確ではなかった。
 少女が食卓に並べたのは、白い皿の上のサラダと、丸パン、それからミルクだ。私たちはそろって無言で、それらのものを眺めていた。
「へんなところ」
 少女は呟いたが、特に問題なくパンを口に運んでいた。
「何も問題はない」
「不気味なくらいに」
 少女が言葉を継ぐ。
 私は牛乳を飲む。冷たくておいしかった。



 勿論私は分かっていた。ここにずっといるわけにもいかないのだ。
 我々は朝食の後、しばらく食卓に座ったままぼうっと過ごして、それから話し合いの機会を持った。勿論、これからどうするかについての話し合いだ。
「ずっとここにいるわけにはいかない」
 私は言う。
「不自然だから?」
 私は少女の問いに対して暫く考える。
「というか、この世界はあまりにも完結し過ぎている。
 何と言うか、我々にとってこの世界は不相応であるように思える」
「異議なし」
 少女は言う。にこやかに。
「でも、私はここから離れたくない。切実に離れたくない。私はここにいたい」
 私は言った。
 昨日からずっと考えてきたことだった。できるならば、記憶が意味を失くしてしまうくらいずっと長い間この場所にいることが望ましかった。私はこの場所で死にたいとすら切実に考えていたのだ。それはこの世界の一部になるということだった。そして何不自由なく、全てを受け入れて過ごしていくということは素晴らしいことのように思えた。
「きみと」
 最後にそう付け加えた。
 少女は私の言葉を、最初にはきょとんとした顔で聞いて、その後で微笑みながら聞いていた。視線を少しだけ伏せていた。
「難しいと思う、私は、そのことがあまり正しいことのように思えない」
 少女は言った。ゆるやかな拒絶の表現だと思った。
 勿論受け入れられる提案だとは思っていなかったが、それでもそれなりにショックだった。繰り返すが私にとってその願いはどこまでも切実だったのだ。私は、少女から決して離れたくないとすら思っていた。切実に。もしそれが叶わないのなら、身を切られてしまうのと同じほどに。
「どうしてだろう」
「一つだけ言っておくと」
 少女は一度言葉を切った。それから目を閉じて、言葉を一通りまとめているようだった。
「私も、貴方と出会えてよかったと思っているし、できれば貴方とは別れたくない、でも、別れなくちゃいけないんだと思う。だって、私たちは幾ら姿が似ていようが、声が似ていようが……結局は別の人間なんだから」
「だからといって」
「そう、だからといって一緒にいてはいけないということはないよ。
 でも」
 少女は困難の中にあるようだった。苦しそうだった。
 勿論、私も同じ表情をしているのだ。
「でも、たとえば。
 たとえば私にはママがいる。ママから離れたくはないし、離れるべきでもない」
「私には、母がいないんだ」
 私は静かに言った。
 少女は私を見ていた。
「そういうことだったのね」
 少女は言う。
 私は頷く。
 私は――目を瞑る。正直に言って、私にはもう目を開けておく余裕がなかったのだ。ふとすれば涙がこぼれそうだった。
 だから私は暫く目を閉じていた。
 そして時間が流れていた。
「どうして離れなくてはならないんだろう」
 私は言った。目を閉じていても、少女がそこにいる気配は伝わっていた。
 少女が椅子を引いて立ち上がるのが分かった。



 少女は私の肩にそっと両手をおいて、それから、首筋に頬を当てた。
 たぶん、貴方は誰かを愛せなくなってしまう。
 少女はそう言った。それが別れだった。








 そして私は再びユニフォームを着ていた。少女は小屋の前に立っていて、私はそこから離れて行くところだった。
 少女は遅れてここから去るとのことだった。心配はない、とそう言っていた。私は彼女を止めなかった。もちろん彼女も私を止めなかった。
 ここを去れば、多分二人が会うことは二度とないのだろうと思われた。
 もちろん、少女も同じことを思っているはずだった。でも別れるのだ。
「じゃあ」と私が言う。「じゃあね」と少女が言った。少しだけ手を上げてそれに応えると、私は歩き出した。
 少女が私の背を見ているのが分かった。小屋の前にずっと立っているのが分かった。私は傾斜を下っていく。そして道は左右に入り組んでいた。やがて私は少女の視界から消えて、そして少女はあの小屋の中に戻っていくだろう。それで、彼女はあの広い食卓の椅子に一人で腰かけて、しばらく目を瞑って、そこに朝食があったということを感じているだろう。私にはそう思われた。それはとても現実感のある想像だった。まるで目の前でそれが展開されているような。
 私は立ち止まった。一度振り返ろうと思った。いや違う。最後に振り返ろうと思ったのだ。
 私は振り返った。
 夕焼けだった。
 そこはもう教室だった。教室の窓からは西日が差しこんでいて、それは私の瞳を穿った。毀ちた。
 私の中の何かが音を立てて渇いていく。燃え尽きて行く。夕焼けが私の中の何かを奪い去っていくのが分かった。気が付けば涙が滂沱のように流れていた。呻き声が細く喉から漏れて、止めることはできなかった。
 それでも、最後まで私が燃え尽きることはなかった。燃えて、乾いて、塵になって、最後になって一つの欠片のようなものが残った。否、残ってしまった。
 私は涙を拭った。夕日に背を向けて、両開きの扉のノブを握った。


最終更新:2011年07月01日 07:23
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