時には母のない子のように

(投稿者:Cet)



 私はその学校らしき建物の玄関前で佇んでいた。そこでそうしていれば、物語は前へと進行するということが私には分かっていたのだ。時刻は夕暮れであり、建造物によって影になったそこを除いては、世界は赤色に染まっていた。
 私は空を見上げていた。
 ぱたぱたという慌ただしい足音が聞こえてきた。私はそちらの方へと顔を向ける、トリアだった。私と目が合うなり、緊張を多少緩ませて、その中に安堵の表情を浮かべるのが私には手に取るように分かった。
 しかし、次の瞬間、彼女の表情にまたひと固まりの強張りが浮かんできた。なんだろう。
 少女は歩調を落として、私に歩み寄るようにして歩いてきた。
「トリア」
「はい」
 トリアは生真面目そうな返事をして(というか事実彼女は生真面目なのだが)、私の顔を見ていた。
「ちょっと別の用事ができてしまったので、今日はこの辺りで帰るよ」
「あ、はい」
 少女は頷くと、暫くの間何かを考えている様子であった。私はその仕草をずっと眺めている。やがて、少女が微かに伏せていた視線を上げた。私の顔を見つめる。
シーアさん」
「なにかな」
 私は微笑んだ。少なくとも、微笑んだつもりだった。
 少女は何かを言おうとして、一回は喉に言葉がひっかかり、それで戸惑っていた。多分、自分の発そうとしている言葉の手触りに違和感があるのだろう。
「今まで何をしていたんですか?」しかし実際に発された問いは非常にシンプルな外観をしていた。
 私は考える。今まで自分において何が起こっていたのかについて。しかしそれは分からない。森の中、夜、少女、朝、夕焼け、それだけだ。よく分からなかった。
「それが私にもよく分からないんだ」と私が正直に言うと、トリアは少しだけ首を傾げた。
「とっても疲れて――」
 少女は言い淀む。
「……そう、疲れているように見えますけど、大丈夫なんですか?」
「一応ね」
 私は微笑む、少なくとも、そのつもりで言う。
「じゃあトリア、また今度」
 私がそうやって別れを口にすると、少女はどこか口惜しそうな……言うべきことを言ってないのだが、しかしその言うべきことが何かは分からないといった表情を浮かべた。
 私は静かに息を吐く。湿り気を帯びた息が、少しずつ身体の中から流れ出ていく。
「トリア」
「あ、はい」
 少女は軽く身構える。
「私にはもう、何が大切で、何がそうでないのかよく分からないんだ」
 私はそう言った。
 トリアの困惑が私にはよく分かった。でも仕方ない。言わせてくれ。
「いつか、それが分かればいいとは思う……きっとそれは私の中にある何かで……でも、それが分かっても分からなくても、同じなんだろうね。だから、私たちはどこにもいけない」
「シーアさん……?」
「済まない、ちょっと湿っぽい話になってしまった」
 私は微笑む。
「どこに行けばいいのか分からなくなってしまった」
「……」
 少女は困ったような顔をしている。私にはそれが嬉しかった、少女のかわいらしい顔を見ることが、彼女が私の為に困惑してくれているというその事実が……。
 私はもう一度息を吐く、しめっぽいのはこれくらいにしておきたい。
「じゃあトリア、また今度」
「また、今度」
 少女は呟くようにして言う。ほとんど、それはただの反復だった。私は思う、少女は迷っている。恐らくは私以上に迷っている。そして今ここを離れてはいけないのではないか、と思う。少女をこんなところに置き去りにするのはとても非情な行為なのではないか、と。
 しかし私はここを去らざるを得ないのだ。そして、少女はここに留まらなければいけないのだ。
「また今度」
 私は繰り返すように言った。少女はこくりと頷いて、私は少女に背を向けて歩き出した。








 私は学園を出て川べりの道を歩いた。やがて橋が見えてくる。橋が架かっているのだ。私はその橋を渡ろうと思う。夕暮れだった。そろそろ日が暮れてしまうのを実感しながら、私は十字路を左に曲がって、橋への傾斜を歩き始めた。傾斜は当然のことに少しずつ緩やかになっていく。私は歩く。
 夕陽を背負う形となって、私は歩いた。橋の上を歩いていた。走り出す必要があるだろうか、と思う、でもその必要はないだろう。彼女は家で待っているはずだった。私は、水色のワンピースの裾をはためかせて、そして桃色のカーディガンの裾を揺らせながら、橋を渡った。微かに風が吹いていた。
 そして橋を渡り切ると、私は残り少ない帰路を進む。住宅街に入って、空き地の前を通り過ぎる。児童公園を目の端に見ながら、暫く歩いていると、私は帰ってきた。
 帰ってきたのだ。他でもない自分の家を目の前にして、私は思った。
 私は暫くその前に立って、二階建のその家を眺めていた。それからドアを開ける。ただいま、という。
 声は返ってこなかった。しかし、私には彼女がそこにいるという確信があった。私は、彼女に会って話をしたかった。彼女が誰なのかも知らなかったけれど、私には彼女に会って話をする必要があるように思えた。
 私はリビングまでの道を辿る、そこに彼女はいた。リビングのソファに腰かけていて、私の姿を認めると、すぐに立ちあがった。そして、ゆっくりとした足取りで、リビングと玄関との境目に立つ私の方へと歩み寄る。そっと抱きしめられて、私はそっと体重を預けた。お母さん、と私は言う。声に出さずに、口だけを動かした。
「ごめんね」と母は言った。
「シーアはここの子供じゃない。昔――」
 知っていた。知っていたのだ。親権が移ったというだけの話なのだ。私は彼女の背に手を回して抱きしめる。彼女は少しだけ泣く。だけど、もう何の心配もないのだ。
 暫くの間二人はお互いの身体を抱きしめていて、私は抱擁を解いた。
 彼女も同じようにして、私と向き合う。
「私には、行かなくちゃならないところがある。だから、暫くの間だけ、家を空けるよ」
 私はそう言った。
「ちゃんと帰ってくるんでしょうね?」
「ちょっとした家出みたいなものだから、大丈夫」
 私は微笑む。
 私は微笑む。
「だったら、行ってらっしゃい」
 母も微笑む、少しだけ目の端に涙を浮かべて。
「行ってきます」
 私は、通学バッグの類をそこに置いて、そして家を出た。


 私は駅へと向かう。


最終更新:2011年07月02日 14:10
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