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(投稿者:Cet)



 母のない子に 本がある

 本のない子に 海がある

 海のない子に 旅がある

 旅のない子に 恋がある

 恋のない子に 何がある?

 ひまわり咲いた
 日が暮れた

 恋のない子に 何がある?


 - 『ある日』 寺山修司








 そこは雑踏の海の中、夏の日差しの中にある木陰だった。夏の盛りに人々はその木陰を目指して、冷たいコーヒーを飲みに来るのだ。テナントの入った一等地のビルの一階にある喫茶店はいわゆるオープンカフェになっていて、駅からほど近い分かりやすい場所にあったので、山の斜面に合わせて建てられた足腰にキツいそこでも、たくさんの若者が街路樹のある往来を闊歩していた。
 そして、一人の少女がそのオープンテラスに座ってアイスコーヒーを飲んでいた。少女は薄いブルーのワンピースに桃色のカーディガンを引っ掛けている。それでいて、ちょっと大きめのサイズのサングラスを掛けていた。誰かを待っている、といった様子でサイズの合わない椅子に腰かけている少女は、それでもどこかしら雰囲気のようなものを漂わせていたので、彼女を心配して声を掛けるような人間は今のところ現れていなかった。
 しかし、二人掛けのその丸いテーブルに、一人の青年がやってきて、当然のように腰かけた。すみません、と青年は手を上げてウェイトレスを捕まえ、注文を述べる。アイスティーを注文した青年は、ダークブルーにブルーと白の模様が入ったボタンシャツに、白っぽいのチノパンを履いて、それぞれの裾を短く折っていた。それからサンダルを履いていた。そして、やはりサングラスを掛けている。少女と青年はどこかしらペア・ルックを意識したかのような様子であった。
「夏っていうのは季節で、移ろうもので、それを崇めるからには僕は歩き続けなければならない。歩き続ける為には、拠り所を捨てなければならない。拠って立つということは、歩くことを辞めるということに他ならないんだから」
 青年が突如として語り出した言葉に、少女はコーヒーを飲んでいた。ストローに口を点けて、少しだけ唇を突きだしている。少女はコーヒーを飲むのを一旦やめる。
「悪いけど何を言ってるのか分からないな」
 少女はアイスコーヒーの氷をかき混ぜながらそう答えた。青年はそれに対して、テーブルの上に載せた手を組んで、何の反応も示さずに聞いていた。
「君の周囲からとてつもない歪みが生じていたんだ。私は結構歪みというものには敏感でね、後を辿ってみれば、ちゃんとここまで辿り着くことだってできた」
 少女はそう言って、再びコーヒーを口に含んだ。氷がからんと音を立てる。
「君は死んでいるんだね?」
 少女は、最後までコーヒーを飲み切った後に問いを投げかけた。青年はこくりと頷いた。
 二人の会話は雑踏の海に沈んでいる、だから、彼らの沈黙はほとんど無いものにひとしかった。誰も彼らを積極的に把握しようとしないし、もちろん消極的な意味においても、彼らが把握されることはなかった。彼らの沈黙は海底のはまぐりの呼吸に近い存在感しか持っていなかった。
「矛盾は訂正されてしまうよ、君がやること為すことはすべて、無かったことになる」
「知っているけど、でも仕方ないんです、他にどうしようもないんです」
 そこで、ウェイトレスがアイスティーをプレートに載せてやって来る。ごゆっくりどうぞ、ある種の営業的な親しさを残してウェイトレスは去って行った。
「もう一度だけ言いたいんですけれど、本当の意味で歩き出すには、僕達は拠り所を失わなければならないんです」
「我々は遠くを見過ぎたんだ」
「そうかもしれません、でも、僕には他に何を思い出すこともできないんです」
 少女は瞳を閉じた。でももう彼女もまた何も思い出すことができなかった。
 全ては暗闇を抜けて、元あるべき場所に帰っていくしかないのだ。少女は瞳を閉じる、青年はやりきれない表情で、指をぱちんと鳴らした。全てが暗闇を通してあるべき場所に還っていく。



 少女はソファの上で目覚めた。夕暮れだった。時間の流れが断絶していたのが、今になってようやく動き出したかのような感覚があった。彼女は大きく伸びをして、そしてキッチンから伝わってくる料理の気配を聞いた。母親が伏目がちにキッチンからリビングにやって来て、少女の姿を認めると自然な笑顔で「おかえり」と言った。ただいま、と少女は答える。少女は赤の白いチェックのボタンシャツとジーンズ生地のスカートを履いていた。この国には少しそぐわない、外国の、しかもカントリー風のファッションだった。
「その服どこで買ってきたの?」
「さあ、覚えてない……ママ、今日カレー?」
「うん、ところで久しぶりにママって聞いた気がする」
 少女はその問いに虚を突かれたようにする。でもそれは一瞬だけだ。
「そうかな、気の所為でしょ」
 ごまかし半分に少女は言った。
 少女はもう一度伸びをする。喉渇いた、と言うと、はいはい、と母親は答えた。少女はその後ろ姿を見送ると、目を閉じて脱力した様子でソファに深く背を任せる。








 戦闘は終わっていた。少女は戦区で気絶していて、チューリップによって再び救助されたとのことだった。起きた時にはチューリップがそこにいた。
「戦闘は?」
 スツールの上で微笑むチューリップに向けて、彼女はそう問うた。
「……終わりました、わたしたちはもうずっと後ろの方にいらりぇて、一応こんな風に休むことができていま……す」
 少女はそう言うと、少し眠ることを告げて、それからトリアがよく泣いていたということを続けて言った。
「では、お休みなさい」
 シーアはその言葉に手を上げて答えた。チューリップは部屋を出て最後に扉を閉める前に振り返ると、ぺこりと一礼をして、個別病室の扉を閉じた。
 少女は一つ息を吐く、生きていた、そして妙な夢も見た。
 蠅が死んで、自分が生き残った。そのことを今更ながら深く回想することができた。
 速いということが生きることなのだ、と蠅は戦いながら語っているようでもあった。夢の中であった青年は、歩くことが生きることなのだ、と語ってもいた。くすり、と少女は笑う。何を言うか、と思う。恋がなくて何の人生だと。
 そして目を閉じる。もうそこには影しかなかった。でも、それでいいのだと彼女は思う。彼女は壊れていた、でもそれでいいのだと彼女は思う。恋ができるならばそれで。

 少女は今日も戦場を生き延びた。


最終更新:2011年07月03日 00:39
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