何度数えてもぜろになる詩

(投稿者:Cet)



「すみません」
 青年の声にその少女は振り向いた、茶色のシックなガウンのコートを着た少女だった。少女は全体的な幼さを洗練さで調和させていた。
 空港のロビーには人が行き交っていた、そして金髪碧眼の男は、困った顔をしていた。
「なんでしょうか」
 少女は何気なく答える。








「すみません」
 青年の声にその少女は振り向いた、夏の木陰から顔を上げると、青年が少女の左前に立っていた。その金髪碧眼の青年はチェックのシャツにジーンズを履いていた。
「なんでしょうか」
 少女が何気なく答えると、青年は軽く破顔する。
「市庁舎はこの前の通りを東の方にずっと歩いて行ったのでよかったですかね?」
 青年は公園の出口へと指をやりながら言った。少女は座っていたベンチに本を置いて、立ちあがった。
「そうですよ、途中で標識もありますからきっと分かると思います」
 少女はそう答えて、愛想よく笑った。
「そうですか、ありがとう」
 青年は軽く手を上げて言った。中肉中背の、整った顔立ちの青年だった。少女はぼんやりと青年の顔を見つめていたが、しかし不意に笑みを見せると、再びベンチに座って文庫本を手に取った。青年の立ち去っていく足音が聞えた。風がそよいで、微かに木陰が形を変えた。少女は前髪を何気なく指で梳いた。








「すみません」
 川辺の土手の上に立っていた少女は振り向いた。青年が立っていた、無地のシャツを着ていた。同じ集落に住む青年だった。少女も村の少女がよく着る類の木綿の服を着ていた。
 少女は微笑む。
「なに?」
「何をしてるの?」
 青年の問いに、少女は軽く髪をかきあげた。風が吹いて彼女の横髪を軽く揺らした。少しだけ少女の耳が見えた。
「夕焼けを見ていた、とか言ったら駄目かな」
「駄目とは言わないけど」
 青年は少女の横に並んだ。
 土手は川から一メートルくらいの高さにあった。川と言うよりそこは用水路であった。事実、その川の水は農業用に広く利用されていたし、利用されている範囲はこの集落の一部の農家に留まっていたので、やはり用水路と呼ぶべきだった。
「綺麗だ」
「ほんとうに」
 青年と少女は笑った。太陽が川面に映っていた。
 青年が少女の肩を抱くと、少女は青年の肩にそっと頭を預けた。風が吹いていた。少女の長くはない茶の髪は青年の胸元の辺りに靡いた。
 じきに夜になる。








 屋敷の中は真っ暗だった。少女はベッドの中に座りこんでいた。風が吹いて、格子窓に嵌められたガラスをカタカタと揺らした。どこにも行けないことが分かっている少女はベッドの上で膝を抱えて座っていた。少女はシルクの白い寝巻に身を包んでいた。少女の手が震えている。遠くから屋敷の中を走り回る足音が聞こえている、叫び声が聞こえる。走り回る音に、時折ドアが空気を巻き込む重苦しい音が混じった。
 少女は震えていた。微かに俯いて、下唇を噛んでいた。目はどこも見ていなかった。少女は震えていたのだ。
 シーツの上をあてどもなく手が探った、何にも辿り着かなかった。少女は弾かれるようにベッドから立ちあがり、格子窓の方へと走った、カーテンを引きちぎるように開けた。麦の畝が風に揺れていた。どこまでもどこまでも緑の海が広がっている。彼女はほとんど泣きそうな顔をして、曇り空の下で強い風に揺れる麦の波を眺めていた。足音が聞こえる、名前を呼ぶ声が聞こえる。それが誰なのかは分からなかった。少女が窓枠に掛けた白い指は更に白くなった。足音と叫び声はすぐそこまでやってきていた。少女は









「すみません」
 その声に少女は微笑んだ。少女は街並みの中に立っていた。少女は、いわばパトロールの最中であり、しばしば声を掛けられる立場にあった。
「なんでしょうか」
 少女は自然な笑みを浮かべて答えた。鮮やかな石畳の上に佇む青年は、端正な顔のパーツを一つ一つ丁寧に歪めて微笑んだ。
「空が見える?」
 青年の問いに、少女は一瞬虚を突かれたような顔をした。しかしすぐに笑みを取り戻す。
「ええ、今日はとても晴れていますね」
「君は、空戦メードだったね、どこかで、多分ルフトヴァッフェの公式演習かなんかで――見たことがあるよ」
「そうですか、わざわざ見に来て下さったなんて、ありがとうございます」
 少女は軽く目を伏せるような、ささやかな会釈をした。そして、少しばかりそのまま視線を伏せる形でいた後に、青年の方を見ようとした。でも青年はいなかった。すっかりいなかった。少女は傍目に分かるくらいひどくうろたえて、何度も辺りを見回した。でも青年は決して見つからなかった。少女は自らの口元に手を当てて、その上で何度も首を左右にやった。でも、やはり青年の姿が見つかることはなかった。少女はそのことを、パトロールが終わった後に自分の隊の同僚に話すこととなった。
「それは……冗談、じゃないっすよね?」
「もちろんそうです! とても怖くて……他に言いようがないです」
「ひょっとしたらそれはメードかもしれんね、おかみに報告した方がいいかもしれんよ」
「そうですか……」
 几帳面な少女は後になってその話を直接の上司に伝えた。
 上司は真摯に少女の話を聞き、一応書類を作成した上で議題の一つとして体裁を整えたが、その件に関しての回答は結果として末永く保留されることとなった。








「すみません」
 少女は振り向かなかった。少女は青い麦畑の間の小径を歩いていた。
 空には白く分厚い雲が立ち込めていて、ほど近くに大きな屋敷がそびえていた。
 青年は小さくなっていく背中をじっと眺めていた。


最終更新:2011年07月08日 19:55
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