(投稿者:Cet)
少女は何も感じていないかのような横顔を俺に翳していた。
それはただの横顔で、俺が仮にその横顔を詠もうとしても抒情詩にはなるまい、というようなそんな雰囲気があった。
俺はその横顔を見つめながら、小さな高台になっているところの草原を踏み締めて彼女の方へと歩いていく。やがて、その距離が縮まって、高台が姿を変えていく。
頂点の近くにまで達すると、そこからは想像も付かないような景色が広がっていた。頂点から見下ろせるのは、海であった。広葉樹の森は真ん中でざっくりと割れて、そこからは海へと続く細くて長い道が生まれていた。その向こうには、混じりけのないマリンブルーが広がっている。
彼女はこちらへと横目で見遣った。そして、身体の向きを変えて、俺の瞳を見つめた。
「ここは」
俺は言う。少女は俺の瞳を見つめている。
そして、少しばかり首を傾げて笑った。俺はどことなく虚を突かれたような気分になる。
「ここは」
少女はまるで鸚鵡返しをするように言う。
「エテルネのノイル」
少女は微かな笑みを携えたまま、ぽつりぽつりと語った。
ノイルという地名については特に知るところではなかった。恐らくは掛け値なしの田舎町なのだろう。しかし、具体的な地名が出てくることに関しては予想の外であった。
「ここは、実在する街なのか」
俺が独り言をいうかのような体で呟くと、少女は表情を変えることもなくそのまま俺の方を見つめていた。
暫くそのまま時間が過ぎる。やがて俺は彼女の方から視線を外して、海の方を見遣る。微かな海の匂いがここまで届く。風が吹く度に、広葉樹の森がざわざわと音を立て、足元の草は揺れた。
「じゃあ、君も実在する誰かなのか?」
「同じよ」
少女は短く答えた。
「皆、同じ」
そして、スカートをはためかせるようにして足先を海へと向け、歩き出す。
俺は、ほんの少しの間だけ立ち止まっていたけれど、そのまま彼女の後に続いた。風の運ぶ海の香りが少しずつ強くなっていく、風に揺れる葉の音が少しずつ大きくなっていく。俺は歩いていく。
少女のあとに続く、少女の足取りは割としっかりしていて、当然ついていけることにはついていけるのだが、些か足場の悪い広葉樹の間の道を抜ける時には、少しばかり手間取らないでもなかった。
そして俺たちは、地面に少しずつ白い砂が混じり始めるのを目にする。どんどんと波の音が強くなっていく。何かを洗い流そうとするかのように、ざあ、と大きな唸りが耳朶を揺らす。俺はどこに行こうとしているのだろうか。洗い流される砂浜が少しずつ視界に入ってくる。
そして、波が足元までやってくるところの距離になって、ようやく少女は足を停めた。そして振り返ってこちらを見た。
俺も彼女を見つめる、少女は、海風によって靡く髪を少しだけ抑えた。シックな色をした長いスカートが揺れていた。
海はどこまでも続いて、そして水平線で入道雲と交わっている。その入道雲を背景にして、少女は耳のあたりを手で押さえて、そして風に揺られるままに立っている。少女が、口元に笑みを浮かべた。でも、何も喋ろうとしなかった。
「きっと、忘れてしまうよ」
気がつけば俺はそう喋っていた。どうしようもなく悲しかった。涙が出そうになった。少女は笑みを口元に浮かべたまま、ずっと同じように髪が風に揺れるのを抑えていた。
そして少女は瞳を閉じた。きっと、波の音をもっと身近に感じたくなったのだろう。
俺も目を閉じる。
波の音だけが聞こえる。光のちょっとした加減で、僅かに赤みを帯びた暗闇が揺れ、そして、その音に合わせて、暗闇もまた揺れているように思われた。
砂の音が聞こえた。砂を踏みしめる音だ。
それでも、俺は目を開けないで立っていた。やがて、ぶら下げるがままにしている俺の手に、何かが触れた。
それは少女の身体であることには間違いなかったが、少女の部分のどこなのかは、うまく判断することができなかった。しかし、何にせよ俺が少女に触れていることは確かだった。それは、ひどく自然な連結だった。断続ではなく、確かに一つに続いていて、同じ風景の一つになっているかのような、そういう気安さのようなものがあった。
風の音が聞こえている。
少女は何も言わない、ただ、波の音と、風の音が聞こえている。海の匂いがする。その存在が俺の中で次第に大きくなっていく。
そして、その海の気配が俺の中で極大化した時に、俺は目を開けた。そこにはもう少女はいなかった。そこにあるのはただの風景で、それ以上のものではなかった。風の感じと、海の匂いだけが変わっていなかった。不思議と、寂しさの類は感じられない。
ただ、少女と俺が二人で並んで立っていた瞬間を覚えていようと決める。それだけは、多分忘れないのではないかと思われたのだ。
大きな悲鳴が、身体の内側から上がっているように思えた。何かが死のうとしていた。そして、その死は恐らく俺に対して良い意味で作用するであろうという予感があった。俺は再び目を閉じる。
最終更新:2011年08月29日 18:50