彼女は白いもやの中を歩いていた。
その足取りは恐る恐るといった感じだ。そもそも自分が何故こんなところを歩いているのか
ということさえ、彼女には解っていなかった。
とにかく、この一本の道を歩いていけばどこかには辿りつくのではないか、という希薄な希望だけを頼りに歩みを続けていた。
そんな時だ。ふっと視界が晴れ渡り、彼女の目に飛び込んできたのは西日であった。辺り一面が夕焼けの光で
真っ赤な色調を帯びている。彼女はそれを見て溜息をつくばかりだ。
農村であろうか、土をただならしただけの歩道が土手の上に横たわっており、見渡す限り農家の所有する小屋やら
広大な農場が広がる。そんな所に彼女は立っていた。
そしてその道に立つ、一人の青年の姿が見えた。
青年は空を見上げている。空に何かいるのだろうか、星か、飛行機か。青年はどこか惚けたかのような
表情を浮かべており、どちらかというと精彩を欠いたそれは無表情に近かった。
彼女もまた空を見上げると、そこにはメードの姿が伺えた。夕焼けの空を背景に、三人のメードが
ふらりふらりと飛んでいるのだ。
あれは誰だろう、見たことがある気がする。
そしてその中の一人、格式張った給仕服に身を包んだ一人が、こちらを振り向こうとした。
彼女がそう考えた次の瞬間、戦闘機の爆音が思考を遮る。メードと共同しての作戦だったのだろうか。
そんな風に思考を飛ばしていると、青年がどこかへと走り出す。
どこに行くのだろうか。彼女はそれを追いかけようとして、やめた。
「やめちゃうんですか?」
それを誰かが咎めた。
「ねぇ、そこの貴女、私を踏んでくれませんか?」
突然何を言うのか、彼女が驚いて振り向くとそこには一輪のスミレの花が植わっていた。
場所は再び変わっており、今度は道など無くなっていた。
ただひたすらの荒野、しかし驚きつつも周囲を見渡すと、そこから一キロもしない所に城壁が覗えた。
都市に程近い郊外、といったところだろうか。
しかしそれにしても一体このスミレはなんなのだろうか。それに先ほどの声の主はどこにいったのか。
混乱する中で、再び世界の色が移り変わる。ここはどこだろう、その認識は困難を極めていく。時間と、場所とが交じり合い
彼女は自分がどこにいるのかすら把握しかねる程だった。
--いや、と彼女は思いなおす。そもそもどこに居るか解らないのだったから。暫く、この混沌に身を任せよう。
そうしている内に、彼女はいつの間にか窓のある部屋にいた。しかし窓があるとはいえ、光源と呼べるものは他になく
薄暗い部屋だった。木張りの床は湿っぽい雰囲気を醸していた。
家具の類は少なく、どれも木製のものだ。衣裳棚、化粧台、机。
窓から外を眺める女性がいた。
「こんにちは」
その女性はこちらを見て言った。
「貴女も見ます?」
外を見るか、という問いだろうか。その問いに頷いて、女性の方へと歩いていき、その横から窓の外を覗き込む。するとそこからは少し
時間が停まったような、けれどどこか格調のある城塞都市の町並みが広がっているのが見える。
「良い景色でしょう、でも毎日のように見ていると、正直少し飽きてしまいます」
分からないでもなく、彼女は女性に対し、頷き返す。
「私は貴女が羨ましい」
女性は唐突に言った。もはや窓の外など見ておらず、彼女の足元ばかりに視線を遣っている。俯きがちのその表情は
部屋の印象と同じくして暗い。
「ねぇ、翼を広げて飛ぶ町の景色は綺麗なのですか?」
彼女は頷き返す。
「そう」
女性はそう応えたきり、黙ってしまう。
彼女はこういう時、どうしたらいいのか分からなくなる。いつだって、そうだった。
「貴女はどこまでも高く舞い上がって、それはそれは楽しかったのでしょう」
彼女は首を振る。楽しいことばかりではなかったからだ。
辛く悲しい別れもあった、当然その逆も。だからその問いには肯定の意思を持って明言することができなかった。
「貴女はもうここから飛び立って」
そして女性はそう言った。
「どこまでもどこまでも遠く、一輪のスミレなんていいじゃないですか。
貴女の翼は、未来を目指す為にあるんですよ」
そう言って女性は笑う。
重力を振り切った笑みに、彼女は大きく頷いた。
風景が移り変わる、その薄暗い窓の部屋には女性の笑み一つが残った。
どこかで見たことのある女性は、最後に笑っていた。
そして呼び声がする、自分の名を誰かが呼んでいる。
トリアさん、トリアさん、と。繰り返し呼ぶのは誰か青年の声だろうか。
応えなきゃ、笑顔ではい、と一言。
彼女の意識は浮上する。