エレオノール、明日を創る

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mangaroyale

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エレオノール、明日を創る ◆d4asqdtPw2



(今は、逃げなくては……)
暗闇の中を走る。
今自分がどこにいるのか、どこに向かって走っているのかも分からない。
ただ、自分を中心として球形に広がる漆黒からは、絶え間なく恐怖が供給されていた。

ケンシロウという男がいるのだ。
エレオノールを追ってきているだろう男だ。
彼は、エレオノールに対する強い怒りを胸に、暗闇を走っていることだろう。
もし、あの男に捕まったら、勝ち目はない。
抵抗する機会も与えられぬまま、あの男に嬲り殺されるだけ。
そうなれば、今までの苦労が、何十年にも渡る苦労の日々が無駄になってしまう。
人間になるために今まで苦しんできた事が、全て……。
だから……今は逃げなくては。
逃げて、また再び戦わなくては。
この世界を血で染め上げるために。
カトウナルミを笑わせるために。
また、戦わなくては……。
だから、逃げなくては……。

しかし、いつまで逃げればいいのだろうか。
スタミナも走る速度も、ケンシロウはエレオノールを遥かに凌駕している。
いつまで走れば逃げ切れるのか。
もう撒いたのだろうか。
もしかしたら、この暗闇のすぐ向こうまで迫ってきているのではないだろうか。
いつまで走ればいいのか分からない。
どちらへ向かえばいいのか、分からない。
ゴールが見えない恐怖は、まるでエレオノールの歴史を反映しているようだ。

どれだけ頑張れば人間になれるのか。
どう頑張れば人間になれるのか。
全く分からないまま、ずっと『人間』を求め続けた。
『才賀勝を守れ』という言葉にすがり付いて、今までの長い時間を過ごしてきた。
いつまで守れば、どうやって守ればいいのか分からない。
それ以前に、いつ『才賀勝』が私の前に現れるのかも分からない。
怖かった。
不確かな言葉にしか、すがりつけない事が怖かった。
それでもその言葉に操られるまま、生きなくてはならなかった。
私は、人形なのだから。

だから、この殺し合いの褒美を知ったときは、『それしかない』とさえ思った。
褒美が明らかにされたタイミングの不自然さや、今までの主催者の理不尽さも考えずに。
簡単にその言葉にすがりついた。
その言葉に操られるがままに動かされた。
仕方ない。
私は人形なのだから。
拠り所を探し、操り糸に縛られていないと動けない、哀れな人形なのだから。

そして、今私はフランシーヌとして、殺戮を行っている。
『殺戮』という演目で、カトウナルミを笑わせようとしている。
ギィ先生が教えてくださった。
そうすれば人間になれる、と。
もう私にはそれしかないのだ……。
才賀勝も断ち切った。
優勝の褒美も嘘だと分かった。
私にはこの方法しか残されてはいない。
この方法にすがりつくしかない……。
だから、カトウナルミが本当に死んでしまったとしたら、私は、私は……。

「……クソッ!」
加藤鳴海のことに思考が及ぶと、途端に足が重くなった。
両の足が、走りたくないと、もう止まっていたいと叫びだすのだ。
駄目だ。今は逃げないといけない。
……加藤鳴海のことは一旦忘れよう。
どれだけ悩んだって、彼の生死は、放送があるまで分からないのだ。
それまでは必死に生きなければ。
彼が生きている限り、人間になる可能性が残されている限り、まだ死ぬわけにはいかないのだから。
それまでは、それまでは……。

加藤鳴海を脳の最奥地へと閉じ込めると、相変わらず走る気のない両足を奮い立たせて闇夜を進みだした。
しかし、依然として闇は彼女を包み込み、ネチネチと恐怖を与え続ける。
五感を研ぎ澄ませば、雨で湿ったアスファルトの臭いがする。月夜に淡く照らされた町並みが見える。
それらさえも、暗闇と協力して彼女に恐怖を与え続けた。
いつまで走っても同じアスファルトの大地。
明かりのない町並みは、どれも同じものに見える。
今、自分はどこにいるのだろう。
この地図のどこにいるのだろうか。
それすらも分からなくなっていた。

だから、地図に示された建物を見つけたときは安心した。
ここには一度、来たことがある。
マップ中央にそびえ立つ消防署。
彼女はここで夢を見た。
ギィが自分に道を示してくれた夢を。
その夢の中で、ギィは『自分の命をかける舞台』を探せと言った。
その言葉の導くままに、彼女は殺戮という演目を演じてきた。
今、彼女は再びここに降り立つ。
彼女の舞台の始まりの地へ、舞い戻ってきた。

そう、ここは『始まり』の場所。

そして……『終わり』の場所。

彼女が消防署の前に立つと、ガラスの扉が静かにスライドした。
ウィン、と電子音。
扉が開ききる前に、消防署内部へと足と踏み入れた。
それは『終わり』の始まり。
彼女の舞台の最終章が開始した合図。

カーテンコールは、もうしばらくお待ちを。
今はただ、彼女の無様なダンスをご堪能ください。

カーテンコールは、もうしばらく……。


◆     ◆     ◆


……空気が流れる。
殺意に満ちたこの空間にも、平和な大地と同じような空気が流れる。
規律を守って、ゆっくりと空間を漂う。
そこに異物が走り抜ければ、空気の流れは容易にかき乱される。
それは一瞬であるが、真っ黒なコーヒーに純白のミルクを垂らしたかのように、はっきりと感じ取れる。
エレオノールは、東に向かった。
視力を失ったことが、ケンシロウにとって大きなアドバンテージとして働いた。
失った視覚を補うために、他の感覚が本来以上に研ぎ澄まされていたのだ。
それでなくとも、荒廃した世界で戦い続けた肉体の感覚は、常人のソレを遥かに凌駕する。
皮膚感覚や聴力を初めとした彼の感覚は、もはやレーダーと呼べる次元まで高まっていた。

そしてこの暗闇。
逃げるエレオノールは、この漆黒を克服するのに悪戦苦闘していることだろう。
自分は全く支障はない。理由は言わずもがな。
既に目を駆使することを捨てた事が、この暗闇を見方につけた。
エレオノールとの距離は徐々に縮まってきている。
このまま行けば、放送前には確実に彼女に追いつける。
追いついて……。

追いついて、殺害できる。

「……ふぅ」
雨に濡れたアスファルトを踏みつけると、キュゥ、と心地よい音がした。
それに呼応するかの如く、ケンシロウの呼吸器官も溜め息を奏でる。
見事な不協和音だ。

……そうだ、あの女は殺さなくては駄目だ。
救いようがない外道なのだ。
あの女はしてはならないことをした。
キュルケは優しく、気高い女性であった。
ナギは幼いながらも、最後までエレオノールを救うために戦った。
あの女は彼女たちを切り裂いた。
それは決して許されない。
あの女は自分のいた世界の無法者どもと同じだ。
だから、奴等と同じように、殺さなくては……。
もう、キュルケやナギのような犠牲者は出すわけにはいかない。

「……止まったか」
前方を逃げていたエレオノールが、その動きを止めたのを確かに感じた。
あれは、消防署だったか……。
他の建造物よりも数段大きめに造られた建物があるのが分かる。
定かではないが、前に見た地図の記憶と照らし合わせると、あれは消防署らしい。
あの女はここに入った。
なぜここを選んだ?
恐らく、あの女はここに来たことがあるからだ。
建物内で戦う上で、その建物の内部構造を知っているか否か、は大きい。
奇襲や退路の確保などには特に大きな影響を及ぼす。
そして、あの女はそのどちらかを選択するつもりだろう。
もともと、自分と正面から戦うなどとは考えてはいないはず。
キュルケを騙まし討ちして、逃走したことが裏付けている。
あの女は……殺しを楽しんでいる。
自分の安全は確保しつつ、弱いものを殺す快楽殺人者だ。
それならば……。

「エレオノール! 聞こえるな?!」
消防署内部に響き渡るように大声で呼びかけた。
ありったけの殺気を撒き散らして。
「今から貴様を見つけて殺す! 逃がしはしない!」
ここがあの女の領域ならば……。
それならば、巣穴から引きずり出す。
ここまで追いつかれたのだ。
今更ここから逃げることなど出来ないのは分かっているはず。
この殺気で焦って飛び出してくる可能性は大きい。
そこで命乞いをするか、戦うか……。
どちらにしても、許すつもりなどない!

それからどのくらい沈黙の時間が流れただろうか。
集中しているケンシロウにとってはかなりの時間が流れたように思えたかもしれない。
だが、正確には3分も経過してはいない。
エレオノールの決断は早かった。
元より部屋の隅でガタガタ震えて、命乞いをするつもりなど毛頭無い。
もう逃げ切れないと分かった以上……。

彼女の決断は、戦闘だった。

ケンシロウの遥か頭上で窓ガラスが砕け散った。


ガシャンと心地よい破壊音。
それと共に無数のガラス片がケンシロウ目がけて落ちていく。
その中に人影が感じ取れる。
間違いなくエレオノール。
こちらに向かって落下してくるつもりか。
ならば迎撃するのみ!
空中で身動きが取れないエレオノールを迎撃するなど容易い事。
このガラス片で怯むとでも思ったのだろうか。
甘い。
命を賭けた戦いにおいて、ガラス片など雨粒のようなもの。
皮膚が切れたとて、負傷のうちには入らない。
意に介さずにエレオノールに狙いを定める。
拳を握り締め。腕を振りかぶる。
大きく息を吐き出すと、自分の肺が萎んでいくのが分かった。
エレオノールに顔を向けることなく狙いを定める。
視力を失ったことで、対象を目で確認するという作業を省略できた。
上腕に、肩に力を込め、さらに足で大地を蹴る準備。

エレオノールは、重力に従って下方向に等加速。
それ以外の移動は不可能。
ケンシロウへと吸いこまれるように落ちるだけ。

外さない。
外すわけが無い!

「ほぁたぁ!」
咆哮と共に大地を蹴る。
舗装されたアスファルトにヒビが入った。
メロンの皮のような亀裂がアスファルトを舞い踊る。
反作用によりケンシロウにも上空の方向に力がかかる。
その力を腰、肩、腕と無駄のないように伝え、拳に乗せて天に放った。
高く振り上げた拳が空を裂き、その衝撃波が降り注ぐガラス片をさらに細かく砕いていく。
全力の一撃、当たればそれで勝負は決する。
この勝負、一瞬でケリがつきそうだ、とケンシロウは思っていた。

エレオノールが重力に逆らって、その自然落下を止めるまでは。

「なに?」
ケンシロウの必殺の拳は空を切り、細かく砕かれたガラス片が衝撃波に煽られて雪のように舞い上がった。
エレオノールが落下を止めて、空中に静止した。
まるで、糸に吊るされたあやつり人形のように。
いや、それは比喩なんかではなく、確かに繰り人形だった。
窓を破壊して飛び出してきたのはエレオノールではなく、彼女の操るあるるかん。
あるるかんは繰り糸にぶら下がることで重力を克服していた。
それを確認するまでにケンシロウが要した時間は約0.5秒。
すぐに本体の居場所を探す。
空気の流れを見て気配を探る。
どこかに……どこかに必ず。

「上か!」
あるるかんが破った窓よりやや高い位置にもう1つの気配。
上空からの奇襲をフェイクに使い、さらに上からの奇襲というわけか。
あるるかんを確認してから1秒程しか経っていない。
常人ならば反応できないだろうが……。
この男は常人ではない。
ケンシロウである。
1秒は彼にとって長すぎた。
迎撃準備を整える。約0.5秒経過。迎撃準備完了。
あとは落下を待つのみ……。

「……! またか!」
上空から落ちてくるソレはエレオノールではなかった。
再びのフェイク。
それは先ほどの繰り人形とは違い、人間とは似ても似つかないモノだ。
おそらく一瞬だけ注意を逸らせればそれで良かったのだろう。
全てはケンシロウの注意を上空に縛り付けるため。

相手の狙いに気付いて、急いで意識を地上へ戻す。
だが、既に背後から鎖鎌の刃が迫ってきていた。
「……っく」
身を翻して刃を避けようとするが、一瞬遅い。
迫り来る刃を避けきれない。
仕方なく、両腕を体の前でクロスする。
ザクリという音が聞こえた。
鮮血が噴出す。
腕を深く切りつけられてしまった。
その数秒後に、空から自転車が落ちてきた。


「……クソ! 浅いか!」
ジャラジャラと鎖を手繰り寄せながら、エレオノールが吐き捨てた。

数分前のこと、エレオノールが消防署内に身を潜めていると、突如ケンシロウの声が響き渡った。
この暗闇の中、ここまでエレオノールを見失うことなく追ってきた、というわけか。
だとしたら、もうここから逃げることは不可能。
戦うしかない。
ケンシロウと、戦うしかない。
しかし、あのケンシロウ相手では勝機は薄い。
あるとすれば、確実に初撃を決めるしかない。
できれば一撃で殺す。
無理でも傷は負わせる。
相手がこちらの出方を伺って、受身になっている今なら。
今なら奇襲で一撃与えることも不可能ではない。

そのために必要なのは、相手の注意を逸らすこと。
相手の意識の外から攻撃すること。
まずはあるるかんをフェイクとして使うことにした。
最も使い慣れている『懸糸傀儡』を捨て駒にするのは不安だったが、どうせあるるかんは奇襲には使えない。
大きすぎるため、接近している間に悟られてしまう。
だが裏を返せば、その人間に近い身なりは、『悟らせる』にはこの上ない道具である。
この緊迫した状況で、空から人間のようなものが迫ってくれば、対処せざるを得まい。
と言うか、対処しなかったらあるるかんに切りつけられて終わりである。
ケンシロウなら絶対に気付く。
それが人間でないと気付くか否かは別にして、『人間のような何か』が迫っている事には気付く。
それで十分。
後は、あるるかんを拳が届かないだろう高さで停止させ、後ろから鎖鎌で切りつける。
保険として、消防署内で手に入れた自転車も空に放り投げておく。
流石に人間だと誤認させるのは厳しいが、一瞬だけ意識を空に留めておくくらいの効果はあるはず……。

ここまで周到な用意をしておいた上での一撃。

外さない。
外すわけがない。

鎌を振るうその瞬間も、そう信じて疑わなかった。
刃が放たれたその瞬間も、ケンシロウの意識は上空。
鎖鎌の軌道は……。
完璧だ。寸分の狂いもない。
ケンシロウへと吸い込まれるように、一直線。
まるで千の夜を越えて再開した恋人達のように、惹かれ合い、引かれ合う。
このまま行けば当たることは間違いない。

私の勝ちだ。
これでまた、この大地を紅く染め上げることができた。
それも、極上の血だ。
これでまた、人間に一歩近づいた……。
これで、鳴海が笑ってくれるんだ。
こんなに嬉しいことはない。
だが……まだ油断は禁物だ。
当たるその瞬間まで気配を殺せ、殺意を気取られるな。
まだだ……まだ笑うな……。

ケンシロウが罠に気付いたのは、刃がすぐそこまで迫ってからの事だった。
あまりにも遅い。
いや、当たる前に気付いただけでも上出来か。
気付かないまま死んでいた方が、幸せだっただろうに。
「さようなら、ケンシロウ」
これで、人間にまた一歩……。

理由? そんなもの決まっている。
奴が、ケンシロウが私の予想を遥かに凌駕していたからだ。
私は、ケンシロウという男を侮っていたのだろう。
ケンシロウの何を侮っていたのか?
奴の状況判断能力、身体能力、防御力……。
それはもう、数え切れないほど。
だが、仕方がない。
あの状況で、死なない事ができる人間なんて見た事がない。
まさか、一瞬のうちに反転して、更に防御姿勢まで取る事ができる人間がいるなんて……。
誰も思わない。

奴を殺す最大のチャンスが……。
生き残る最大のチャンスが……。
失敗に終わった。
そして、目の前にいるのは私の予想を遥かに超えた化物。
そう、化物だ。

「どうした? それで終わりか?」
化物が歩いてくる。
両腕から濁った紅を垂れ流してはいるが、戦闘に支障はないようだ。
勝てない。
絶対に勝てない。

「……クソ……」
逃げるしかないか?
では、逃げ切れるのか?
無理に決まっているだろう。
「…………」
では、諦めるしかないな。
道は閉ざされた。
目の前の扉は、何があっても開かない。
諦めるよりほかない。

(諦める……?)

命を、未来を、人間を。

諦める……。

「終わりだ、貴様は毛も一本も……」
確かにこの扉は開かない。
鍵など無いし、開く機能すら備わっていないかもしれない。
それでも……。
「死ぬ……わけには……」
それでも私は……。

「……どうした? まだ……」
「ここで死ぬわけにはいかんのだ!!!」
それでも私は、この生き方しか知らないのだ。
人間になるために進むしかないのだ。
扉が開かないなら破壊する!
それも駄目なら……よじ登る!

「ナルミが死ぬ、その時まで!」
指にはまっている2本の繰り糸を引く。
あるるかんは、自らがぶら下がっていた木の枝を破壊し、エレオノールの元まで戻ってきた。
残りの繰り糸を指にはめると、人形はまるで生命が宿ったように踊りだした。

運命の放送まで、もう間もなく。
閉ざされた扉に、歪みが生じた、気がした。


(……おかしい……)
ケンシロウが感じた違和感は小さなものだった。
エレオノールが立ち向かってくるとは思わなかった。
命乞いをするか、抵抗せずに殺されるかだと思っていた。
しかもこれは、ヤケになっているわけではない。
最後まで、戦い抜くつもりだ。
ケンシロウが見てきた悪党どもとは何かが違う。
快楽殺人者とは何か違う。

「武装錬金」
エレオノールの掛け声と共に、エンゼル御前が展開される。
矢を放ちながらのバックステップでケンシロウから距離を取った。
「……もうやめようぜ?」
「そうはいかんのだ。あなたは黙って私に使われていろ」
逃げるでもなく一定の距離を取って矢を放ち続ける。
ケンシロウが距離を詰めれば、後退する。
それでも接近すれば人形で切りつける。
その戦闘スタイルは逃げ腰に見えるが、その目の闘志は燃え尽きる事は無い。
彼女は、倒すために戦っている。

エレオノールのその姿に、『義星』のレイが重なった。
ラオウに挑んだ、レイの姿が。
なぜ、あの気高き男とこの外道が重なるのか。
小さな、小さな違和感だった。
それが少しずつだが、確実に膨らんでいく。
違和感はケンシロウの行動を1テンポづつ遅らせる。

「……!」
思考の隙を突いた矢の大群がケンシロウに襲い掛かる。
たまらず横に跳び、地面を転がって矢をかわした。
しかしそれは絶対の隙を作ることとなってしまう。
「貰った!」
激しい回転と共に、あるるかんがケンシロウを捉えた。
虎乱と呼ばれる突進技。あるるかんの全身を凶器と変え、迎撃しようのない一撃を食らわせる。

(まだ……遅い!)
ケンシロウがヒュウ、息を吐き出し、その身を這い蹲らせた。
獲物に飛び掛る虎のような姿勢で、身を低く屈めながらの突進。
人間が動けるはずのない姿勢だが、そのスピードは人間の全力疾走以上。
あるるかんの脇を潜り抜け、エレオノールに迫る。

「死ぬのは、貴様だ」
背中に力を込め、上体を起こす。
突進はやめない。絶対の一撃をかわされて呆気に取られるエレオノールに肉薄する。
拳を振りかぶる。これで終わりだ。
これで、この外道を殺し、少女達の無念を晴らす。
弾丸のようなスピードで、ブルドーザーのような巨体が迫る。
「まだだ!」
それでも……エレオノールは諦めない。

(こいつは……違うのか?)
ケンシロウのいたのは、核戦争で荒れた世界。
その世界の小悪党たちは皆同じような思考回路だ。
戦い方や、殺し方の嗜好の違いはあるが、蓋を開けてみれば同じような者たちだ。
弱きものを嬲り殺し、強きものに媚びへつらう。
この女もそうだと思っていた。
だが、こいつは違う。
冷酷だが、無慈悲だが……苦しんでいる。
生きる事に苦しんでいる。
それでも生に執着している。
(駄目だ、考えるな)
油の切れた機械のように、動きが鈍くなった。
だが、思考をやめるなとケンシロウの脳が訴える。
彼女の戦う理由すら知らぬまま、彼女を殺すなと訴える。

「私は……人間になるんだッ!」
今から人形を手元へ呼び寄せることは無理と判断し、エレオノールは防御行動を開始する。
腕を勢いよく右下へ振り払い、指から伸びる糸をカーテンのようにケンシロウと自分の間に張り巡らせた。
揺れる糸を足で踏みつけると、繰り糸は盾となり、ケンシロウの拳を受け止める。
糸はギチギチと目一杯に伸びきり、エレオノールが踏みつけているのとは逆の端、つまり人形をケンシロウの方まで引っ張る力を生み出した。
(俺の力を利用して、人形を……)
エレオノールの手元まで舞い戻った人形を確認して、ケンシロウが追撃を諦めて後ろへと下がる。
「今だ! 撃て!」
「ゴメンよ……」
エレオノールの叫びとともに、申し訳なさそうにションボリする人形から無数の矢が放たれる。
まだ地面へと着地していないケンシロウに矢が流星群のように襲い掛かる。
「やったか?!」

「お前は……」
だが、そこにいたのは、矢を全て叩き落したケンシロウだった。
「お前は、なぜ人を殺す?」
ついに、疑問を口にした。
答えが出ないまま、エレオノールを殺すのは無理だ。
自分は殺すために戦っているのではないから。
それでは、あの悪党どもと何も変わらない。
苦しむ人間がいたら、救ってやらねばなるまい。
たとえそれが、少女達を殺した張本人でさえも。
キュルケだってそう望んでいるはずだ。
ナギはそのために命を賭したのだ。
彼女達の思いは出来る限り繋いでいく。
そのために、この拳がある。
そのために、この拳は万物を砕くのだ。

消防署前で始まったはずの戦闘だが、2人は既にその右斜め上のエリアにある、池の公園まで来ていた。

「まさか無傷とはな」
エレオノールはデイパックからタオルを取り出し、汗を拭う。
消防車の中から拝借したものだ。
デイパックの中に戻すのも面倒なので、首にかけておいた。

「答えてもらおうか。『人間になる』とはどういことだ?」
「そのままの意味だ」
戦いを中断しているものの、2人の間には張り詰めた空気が流れている。
特にエレオノールは、会話をしている間にケンシロウに隙が生まれないかを探っているようだ。

「そのままの意味だと? ……貴様は人間ではないのか?」
「私が人間? 本当にそう思うか?」
エレオノールが口にしたその質問は、なんとも馬鹿馬鹿しい質問であるように聞こえるが、その口調は決して相手を馬鹿にしたようなものではなかった。
この容姿が人間のそれであることはエレオノール自身も分かっている。
周りの人間が自分を人間として見ている事も分かっている。
しかしエレオノールは人間ではないのだ。
ケンシロウなら、外見ではなくその真実を見通す事が出来ると思っていた。

「私は人形。哀れな人形だ」
だが、そのケンシロウでさえも彼女の真実を見通す事などできなかった。
この苦しみを誰も理解してはくれない。
結局のところ、彼女は一人でもがく以外に道などはなかったのだ。

「それで、人を殺せば人間になれるとでも?」
それは、ケンシロウの世界が核戦争になる前の事だ。
意思を持った人形が動き出すという怪談を聞いた事がある。
人から人へ伝えられるたびに尾鰭がついたその話は、地方によって詳細が大きく異なる。
ケンシロウが聞いた話では、その人形たちは人間に憧れるあまり、人間になろうとするらしい。
そして、人間を殺し、その皮を剥いで、肉をそぎ落として、我が物とするとか。
しかし、それではキュルケの死体を放置した事が不可解だ。
それに、目の前の女の体は紛れも無く人間のもの。
彼女の説明は、いまいち要領を得ない。

「人形が人間になるためには、誰かを笑わせないといけないらしい。
 だから私は決めた、カトウナルミという男を笑わせてやろうと」
「人を殺せばその男が笑うのか? カトウという男にそう命令されたのか?」
一番自然な答えは、彼女がカトウナルミに洗脳されているという事だ。
カトウが彼女を人形だと教え、人間になりたければ人を殺せと命令する。
結果、自分は何もしなくてもエレオノールが敵を減らす。
そう考えると彼女の行動や、不可解な言動、全てに説明がつくが……。

「ナルミンはそんな事しねぇー!」
エレオノールの周りを飛び回っていたエンゼル御前が反論した。
こなたと一緒に行動していたエンゼル御前は、加藤鳴海の行動を粗方把握していたし、彼の人間性もよく知っている。
「あぁ、命令されたわけではない。私が彼を選んだ。
 そして人を笑わせるための最適の演目は、虐殺だ」
言い終ると、再び構えを取る。
冷たい殺気がケンシロウに向かう。

「そんな事をしてまで人間になりたいのか?」
対するケンシロウは未だ迎撃をする素振りを見せない。
仁王立ちで、ただただ疑問を投げつけるだけ。

「お前に……お前に何が分かる!!」
叫びながら、セント・ジョージの剣を振り落とした。
怒りに任せた一撃。
そんなものがケンシロウに当たるはずも無く、ケンシロウが右に跳んだだけで刃は地面へと突き刺さる。

「生まれながらにして、人形の体を与えられ!」
鎖鎌で横薙ぎ。
だが、届かない。
ケンシロウは一歩も動くことは無かった。
ジャラリと伸びきった鎖が、死んだ蛇のように地面に落ちていった。

「『才賀勝を守れば人間になれる』と言われて育てられた!」
手を振りかざすと、エンゼル御前から矢が放たれる。
エンゼル御前も、何も言わずにエレオノールを眺めていた。
矢を放つ事に文句の1つも言わなかった。
放たれた矢がケンシロウに当たらないことを知っているからだろう。
事実、走るケンシロウを矢が捉える事はただの一度もなかった。

「そしてこの殺し合いで、主催者に願いが叶うと騙された……」
攻撃手段を失って、その場に項垂れる。
この戦いが始まって初めて、完全に無防備な状態を晒す事となった。
だが、ケンシロウは動かない。
離れた場所で、項垂れる彼女をただ見つめていた。

「もう才賀勝は死んだ。主催者も信用できない。
 私に残されてるのはカトウナルミだけなんだ!」
「でも……ナルミンは死んだんだよぉ。DIOってやつを倒してさ」

「…………そんなことは分かっているさ……」
搾り出すような声だった。
掠れた声で、カトウナルミの死を肯定した。

「ナギと言う少女は、嘘をついている気配は無かった」
「なら、なんでまだ戦うんだよー!」
本当は、ナギに告げられた時から、鳴海は死んだと分かっていた。
自分はもうと人間になれないと、分かっていた。
分かっていたけど、信じたくなかった。

「それでも、私はそのためにずっと……。
 そのために90年も生きてきたんだ!」
つぅ……と流れた水は頬を伝って、雨に濡れた大地をもう一度、少しだけ湿らせた。
涙を流して、震える姿は、ただの少女のようにしか見えなかった。

「放送までは、放送でナルミの名が告げられるその時までは!
 私は止まるわけにはいかないんだ!」
なぜ、雨が止んでしまったのだろうか。
雨が降っていたなら、この涙を誤魔化すことができたのに。


「お前……」
エンゼル御前の正式な持ち主は、早坂桜花という人物だった。
エンゼル御前の精神は、彼女を元にして創られていた。
だから分かる。
エレオノールは桜花に似ている。
早坂桜花も、自分の生命を否定されていた。
実の親に否定された。
それでも生きてこられたのは弟がいたからだ。
だけど、エレオノールには何もない。
彼女はたった1人で否定される日々と戦ってきたのだ。
たった、1人で……。


「ケンシロウ」
それでも、顔を上げなければなるまい。
前を見据えなければなるまい。
「私はこの生き方しか知らないんだ。放送までは、あなたを殺す事を諦めない!」
目線の先にいる男、ケンシロウ。
エレオノールに立ちはだかった鋼鉄の扉。

破壊できるだろうか。

無理だろうな。

それでも、壊さなければ。

たとえ扉の向こうに、道が無くても。

私はその生き方しか知らないのだから。


「……分かった」
戦う理由を訊けてよかった。
やはり、目の前の少女は苦しんでいた。
自分の生命を否定され続けてきた。
自己の証明の為に走り続けてきた。

ただ、それだけのために。

だが、自分は彼女を殺さなくてはならない。

そうすることでしか、彼女は救えないから、

「貴様は……お前は、俺が殺してやる」
だからケンシロウは初めて、泣き叫ぶ少女をこの手で殺す。

それは正しい事なのだろうか。
この拳はそのためにあるのだろうか。
答えは、見つからなかった。



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