ESPRADE (えすぷれいど)
風が吹かない。
息ができない。
ただの黒い空気であるはずの暗闇に恐怖を覚えたのはいつからだったろう。馬鹿でかい闇に、俺は今にもつぶされそうだった。
これは所詮夢だ。そうわかっていても、痛みや嫌な感覚だけははっきりと記憶に残る。俺はそれから必死で逃げようとした。しかし、手で空中を掻き、足で沼のような地面を蹴っても逃げ切れるわけがなかった。
巨大な黒い球はゆっくりと俺の左肩を飲み込み始めた。肩先にずきりと鋭い痛みが走る。俺はそれから逃れようとしてもがいた。
夢なら早く覚めてくれ。夢なら覚めろ。激痛の中何度も何度もその言葉を叫んだ。残った右腕で自分の目をかきむしりこじ開けようとした。血に濡れた右手が、目の前を一生懸命往復している。意識が飛びそうなほど痛いのに、何だか笑ってしまった。たった今目を開けているのに、更にこじ開けると云うことは一体どう云うことかな。
笑い声が小さく響いたが、ほんの少しの間だった。暗闇が俺の頭を削り始めたからだ。つんざくような自分の悲鳴が辺りに反響する。俺はがくがくと痙攣した。身体が爆発しそうなほど痛い。思考が途切れそうになって頭の中が白黒と点滅する。
酸っぱいものが喉から込み上げてきた。びくんと腹が収縮する。その反動で上半身がふわりと浮かぶ感じがした。その身体が着地した途端、更に腹が収縮してボールが跳ねるように身体がバウンドした。空から落ちる感覚に酔いながら、今度は地に落ちる前に嘔吐感が襲い、身体が「く」の字に曲がって吹っ飛んだ。吹き飛ぶスピードで顔がびりびりと引きつる。気持ち悪い、と思った。胃の中が掻きまわされている感じがする。呻き声と一緒にやってきた4度目の嘔吐感で、反動をつけて弾けるように飛び起きた。俺は夢から覚めた。
真っ暗の部屋の中、目を開けて自分に掛かっている毛布を見た瞬間、頭にずきりと激痛が走った。本能的に頭に手をやる。こめかみがじんわり湿っている。半そでのシャツが重く背中に張り付いている。俺は汗だくだった。部屋の中はサウナのように蒸し暑い。おぼろげな記憶と視界の中から、ここは一体どこなのかを必死に思い出そうとした。部屋の四方に置かれている真っ黒いステレオスピーカー。買ったばかりで鈍い光を放っているエレキギター。小さい丸テーブルの上に置かれているステンレス製の灰皿。
「ここは……そうだ。そういえば俺平尾の家に泊まってるんだったな」
何で泊まっているんだっけ。と思い、考えを進めようとした途端、頭痛が俺の顔面を蹴飛ばした。声が漏れそうになるほど酷い痛みだった。俺は考えるのを止め、身体を硬直させ、痛みが引くのをひたすら待った。
ふと、唇からあごにかけて何かの液体が伝った。最初、俺はよだれを垂らしながら寝てたのかなと思った。だらしない。ガキじゃあるまいし。
手でそれを拭おうとしたとき、つんと酸っぱい匂いが鼻をついた。それと同時に、舌に乗っかっている柔らかい固形物を感じた。その固形物が嘔吐物だということを思い出して気分が悪くなる前に、俺は素早くそれを飲み込んだ。舌の奥からのどへ、のどから管を介して胃へ、そのゼリー状の固形物が伝うのがわかる。俺はできるだけそれを無視しようとした。俺は今にも吐きそうだったからだ。
壁を這うようにふらつく身体を立ち上がらせて周りを見た。暗い中で転がっているビンを数本見つけ、俺はつい先ほどまで酒を飲んでいたことを思い出した。その他には俺の布団がただひとつ敷かれているだけだ。この狭いワンルームの部屋に平尾の姿は無かった。トイレに誰かいる気配は無いし、俺が酒を飲んでいたときまであったシガレットケースが、今テーブルの上に無い。
外に行っているのだろう。酒臭い部屋、または泥酔している俺に嫌気がさしたのかもしれない。俺も今涼みに行きたい気分だ。髪の生え際から顎先まで幾筋もの汗が伝い、灰色の絨毯の上にぽたりと落ちる。
酒のビンを蹴飛ばしながら俺は玄関へと向かった。暗闇の中目を凝らし平尾の靴が無いのを確認してから、俺はドアごと倒れるように外に出た。
息ができない。
ただの黒い空気であるはずの暗闇に恐怖を覚えたのはいつからだったろう。馬鹿でかい闇に、俺は今にもつぶされそうだった。
これは所詮夢だ。そうわかっていても、痛みや嫌な感覚だけははっきりと記憶に残る。俺はそれから必死で逃げようとした。しかし、手で空中を掻き、足で沼のような地面を蹴っても逃げ切れるわけがなかった。
巨大な黒い球はゆっくりと俺の左肩を飲み込み始めた。肩先にずきりと鋭い痛みが走る。俺はそれから逃れようとしてもがいた。
夢なら早く覚めてくれ。夢なら覚めろ。激痛の中何度も何度もその言葉を叫んだ。残った右腕で自分の目をかきむしりこじ開けようとした。血に濡れた右手が、目の前を一生懸命往復している。意識が飛びそうなほど痛いのに、何だか笑ってしまった。たった今目を開けているのに、更にこじ開けると云うことは一体どう云うことかな。
笑い声が小さく響いたが、ほんの少しの間だった。暗闇が俺の頭を削り始めたからだ。つんざくような自分の悲鳴が辺りに反響する。俺はがくがくと痙攣した。身体が爆発しそうなほど痛い。思考が途切れそうになって頭の中が白黒と点滅する。
酸っぱいものが喉から込み上げてきた。びくんと腹が収縮する。その反動で上半身がふわりと浮かぶ感じがした。その身体が着地した途端、更に腹が収縮してボールが跳ねるように身体がバウンドした。空から落ちる感覚に酔いながら、今度は地に落ちる前に嘔吐感が襲い、身体が「く」の字に曲がって吹っ飛んだ。吹き飛ぶスピードで顔がびりびりと引きつる。気持ち悪い、と思った。胃の中が掻きまわされている感じがする。呻き声と一緒にやってきた4度目の嘔吐感で、反動をつけて弾けるように飛び起きた。俺は夢から覚めた。
真っ暗の部屋の中、目を開けて自分に掛かっている毛布を見た瞬間、頭にずきりと激痛が走った。本能的に頭に手をやる。こめかみがじんわり湿っている。半そでのシャツが重く背中に張り付いている。俺は汗だくだった。部屋の中はサウナのように蒸し暑い。おぼろげな記憶と視界の中から、ここは一体どこなのかを必死に思い出そうとした。部屋の四方に置かれている真っ黒いステレオスピーカー。買ったばかりで鈍い光を放っているエレキギター。小さい丸テーブルの上に置かれているステンレス製の灰皿。
「ここは……そうだ。そういえば俺平尾の家に泊まってるんだったな」
何で泊まっているんだっけ。と思い、考えを進めようとした途端、頭痛が俺の顔面を蹴飛ばした。声が漏れそうになるほど酷い痛みだった。俺は考えるのを止め、身体を硬直させ、痛みが引くのをひたすら待った。
ふと、唇からあごにかけて何かの液体が伝った。最初、俺はよだれを垂らしながら寝てたのかなと思った。だらしない。ガキじゃあるまいし。
手でそれを拭おうとしたとき、つんと酸っぱい匂いが鼻をついた。それと同時に、舌に乗っかっている柔らかい固形物を感じた。その固形物が嘔吐物だということを思い出して気分が悪くなる前に、俺は素早くそれを飲み込んだ。舌の奥からのどへ、のどから管を介して胃へ、そのゼリー状の固形物が伝うのがわかる。俺はできるだけそれを無視しようとした。俺は今にも吐きそうだったからだ。
壁を這うようにふらつく身体を立ち上がらせて周りを見た。暗い中で転がっているビンを数本見つけ、俺はつい先ほどまで酒を飲んでいたことを思い出した。その他には俺の布団がただひとつ敷かれているだけだ。この狭いワンルームの部屋に平尾の姿は無かった。トイレに誰かいる気配は無いし、俺が酒を飲んでいたときまであったシガレットケースが、今テーブルの上に無い。
外に行っているのだろう。酒臭い部屋、または泥酔している俺に嫌気がさしたのかもしれない。俺も今涼みに行きたい気分だ。髪の生え際から顎先まで幾筋もの汗が伝い、灰色の絨毯の上にぽたりと落ちる。
酒のビンを蹴飛ばしながら俺は玄関へと向かった。暗闇の中目を凝らし平尾の靴が無いのを確認してから、俺はドアごと倒れるように外に出た。
外の空気を吸った途端、吐き気が消えた。生き返ったような気がした。あの家の中の空気がどんなに悪いものか容易に想像がついた。アルコールと、煙草の煙と、小便の匂いが混ざっている部屋。はは、と嘲る様に笑った。まるで掃き溜めじゃないか。そのまま玄関のドアを開けておくことにした。少し不安感があったが、こうでもしなきゃ誰もここに寝ようとは思わないだろう。
俺は人がやっと一人通れるくらいの狭い廊下をさっさと歩き、外へ続く階段――三段しかない――を踏まずに跳ぶようにアスファルトの上に降りた。
外には霧がかかっている。小雨が降っているような、濃くて深い霧だ。それは埃が混じっていてスモッグのように黄色い。昼に見た住宅街の影も形も無く、向かいの家のタイルが剥げてぼさぼさになっている壁と、一定間隔で並んでいる白い電灯の灯りが見えるだけだ。
辺りを見回したが、平尾の姿は無かった。
また公園か、と思った。あそこの何が面白いのかわからない。その公園は小学校の校庭くらいの広さで、滑り台やシーソーなどの遊戯道具が5、6個法則性無くばらばらに置かれている。家から特別近いわけでもなく、平尾はわざわざそこへ行って何するわけでもない、煙草をふかしながらふらふら歩いているだけだ。以前、公園に行く理由を尋ねてみたことがあった。
「あの公園の真ン中に立ってるとちょっとした征服感が味わえてさ。電灯が全部俺にだけ向いてて、『俺はここに居る』って感じになるんだよ。あそこさ、周りに建物何も無いだろ。車も通らないし、人も通らない。何も無いから、静かだし、一人で考えるにはすげえ都合いい。だからさ、俺が家にいないときは公園に来るなよ。時々プライベートの時間が欲しいとか思うだろ?……もちろん高梨のことが邪魔ってわけじゃないよ。そんな顔するなって」
俺は平尾のうちに泊めさせてもらっている。家出して、住むあてが無くてどうしようか悩んでいた俺を、平尾が拾ってくれた。
「その代わり家事洗濯その他全部してもらう。高梨がバイトとかしてたら俺も家事やるけど、俺が家賃払ってるんだからさ。ここは公平にってことで」
変わってる奴だ、と思った。俺が住まわせてもらっているのに、『公平』といった言葉を使うのが可笑しかった。それに平尾は『いい加減学校行くか、就職するか決めろよ』とか、『なんで住むあてないのに家出なんかしたんだ?』とかそういうことは言わなかった。人のことを気遣ってくれているのだろうか。それとも、人の事情など気にしない性格なんだろうか。俺としてはそのことは非常に有り難いと思っていた。でも反対に、そのことを聞かれた場合俺は言い返すことが出来なかったろう。『高梨、お前出てけよ』そういわれたら素直に出て行くしかない。だから俺は平尾の言動に敏感だった。そう言われるのを酷く恐れていた。
「何かしなければ」
いつもそう思っているが、結局何もしない。何が最良の選択なのか、俺は何をすべきかわからなかったからだ。それを理由にして、何もできないまま、平尾の家に住んで一週間が経つ。
俺は人がやっと一人通れるくらいの狭い廊下をさっさと歩き、外へ続く階段――三段しかない――を踏まずに跳ぶようにアスファルトの上に降りた。
外には霧がかかっている。小雨が降っているような、濃くて深い霧だ。それは埃が混じっていてスモッグのように黄色い。昼に見た住宅街の影も形も無く、向かいの家のタイルが剥げてぼさぼさになっている壁と、一定間隔で並んでいる白い電灯の灯りが見えるだけだ。
辺りを見回したが、平尾の姿は無かった。
また公園か、と思った。あそこの何が面白いのかわからない。その公園は小学校の校庭くらいの広さで、滑り台やシーソーなどの遊戯道具が5、6個法則性無くばらばらに置かれている。家から特別近いわけでもなく、平尾はわざわざそこへ行って何するわけでもない、煙草をふかしながらふらふら歩いているだけだ。以前、公園に行く理由を尋ねてみたことがあった。
「あの公園の真ン中に立ってるとちょっとした征服感が味わえてさ。電灯が全部俺にだけ向いてて、『俺はここに居る』って感じになるんだよ。あそこさ、周りに建物何も無いだろ。車も通らないし、人も通らない。何も無いから、静かだし、一人で考えるにはすげえ都合いい。だからさ、俺が家にいないときは公園に来るなよ。時々プライベートの時間が欲しいとか思うだろ?……もちろん高梨のことが邪魔ってわけじゃないよ。そんな顔するなって」
俺は平尾のうちに泊めさせてもらっている。家出して、住むあてが無くてどうしようか悩んでいた俺を、平尾が拾ってくれた。
「その代わり家事洗濯その他全部してもらう。高梨がバイトとかしてたら俺も家事やるけど、俺が家賃払ってるんだからさ。ここは公平にってことで」
変わってる奴だ、と思った。俺が住まわせてもらっているのに、『公平』といった言葉を使うのが可笑しかった。それに平尾は『いい加減学校行くか、就職するか決めろよ』とか、『なんで住むあてないのに家出なんかしたんだ?』とかそういうことは言わなかった。人のことを気遣ってくれているのだろうか。それとも、人の事情など気にしない性格なんだろうか。俺としてはそのことは非常に有り難いと思っていた。でも反対に、そのことを聞かれた場合俺は言い返すことが出来なかったろう。『高梨、お前出てけよ』そういわれたら素直に出て行くしかない。だから俺は平尾の言動に敏感だった。そう言われるのを酷く恐れていた。
「何かしなければ」
いつもそう思っているが、結局何もしない。何が最良の選択なのか、俺は何をすべきかわからなかったからだ。それを理由にして、何もできないまま、平尾の家に住んで一週間が経つ。
俺はその辺を散歩することにした。吐き気はないものの、首筋を圧迫するようなだるさは残っていた。外の空気を吸っていればじきに治るだろう。
俺はあの公園へと向かっていた。平尾の姿を確認するだけだ。平尾の邪魔する気は微塵も無かった。気づかれないように帰れるだろうか。もし気づかれたらどうしよう。平尾のことが心配だったと言おうか。
「ねえ」
突然、後ろから声がして俺は飛びのいた。身体を硬直させて、身構える。どくん、どくん、と自分の心臓が高鳴っているのが聞こえた。
「あ、大丈夫、大丈夫。あたし何もしないから。ほら、何も持ってない」
声をかけてきたのは女だった。彼女は歩道の縁石にしゃがんで、俺を見上げて両手をひらひらさせている。何も持ってない、と彼女は言ったが、左手には煙草が挟められていた。考え事をしていたせいか、彼女の存在に全く気づかなかった。彼女の服装が真っ黒だからかもしれない。彼女の髪は腰まで届きそうなほど長く、黒いタンクトップから覗く肩は折れそうなほど華奢だ。彼女は言葉を続ける。
「ねえ、間違ってたらごめんなさい」
何だ?
「あなたもしかして高梨君?」
また心臓が跳ねた。どうしてわかったんだ?もしかして警察か?両親のことを思い出した。警察に連絡して俺のことを探すように言ったのかもしれない。俺は半歩後ろに下がった。嫌だ、と思った。もうあそこに帰りたくない。あそこに戻されるくらいなら舌を噛み切ってやる。
走って逃げようとした。腰を沈めて、アスファルトを力いっぱい蹴ろうとした。しかしその瞬間、
「やっぱり高梨君?わあ、ひさしぶりだねー」
彼女はにっこり笑いながら、親しそうに話しかけてきた。ひさしぶり?警察じゃないのか?俺の知り合いか?頭が混乱して、知り合いの名前を思い出そうとしても何も浮かんでこない。度々頭を横切るのは平尾、という活字と、奴の顔だけ。長時間の緊張で、足ががくがくと震えてきた。
「高梨君、あたしのこと覚えてないの?」
彼女の目が少しだけ曇った。少女のように目を伏せて俯く。長い頭髪が揺れる。俺は昔、その仕草をどこかで見たような気がした。
「覚えているよ」そう言おうとした。嘘じゃない。でも、それは確かじゃない。ただ彼女の少女時代が記憶の中にいる気がするだけ。シルエットも、音すらもない虚像が映っているだけ。
「ごめんなさい。人…違い……だったかな……」
彼女の声が消え入りそうになる。俺は何も言えない。頭の中は激しく撹拌されたようにぐるぐると回っている。彼女と向き合っているたった数分がとてつもなく長い時間に思えた。
彼女は煙草を地面に押し付けた。話が、終わる。俺はまだ何も言っていないのに。早く思い出せ。なのに俺は赤い煙草の先が、ぱらぱらと分解して弱々しく消えていくのを見ることしかできなかった。
そこで初めて気づいた。彼女が靴を履いていないことに。彼女は裸足だった。足の爪には何も塗られていない。でも、綺麗だった。黒く湿っているアスファルトに、彼女の腕と足が白くぼんやりと浮かんでいるのを見て、俺は羨望感すら覚えた。
羨望感。突如かちりとスイッチが入った音が聞こえた。閃きのように、記憶が再生される。古過ぎて色の無い記憶が。
俺はあの公園へと向かっていた。平尾の姿を確認するだけだ。平尾の邪魔する気は微塵も無かった。気づかれないように帰れるだろうか。もし気づかれたらどうしよう。平尾のことが心配だったと言おうか。
「ねえ」
突然、後ろから声がして俺は飛びのいた。身体を硬直させて、身構える。どくん、どくん、と自分の心臓が高鳴っているのが聞こえた。
「あ、大丈夫、大丈夫。あたし何もしないから。ほら、何も持ってない」
声をかけてきたのは女だった。彼女は歩道の縁石にしゃがんで、俺を見上げて両手をひらひらさせている。何も持ってない、と彼女は言ったが、左手には煙草が挟められていた。考え事をしていたせいか、彼女の存在に全く気づかなかった。彼女の服装が真っ黒だからかもしれない。彼女の髪は腰まで届きそうなほど長く、黒いタンクトップから覗く肩は折れそうなほど華奢だ。彼女は言葉を続ける。
「ねえ、間違ってたらごめんなさい」
何だ?
「あなたもしかして高梨君?」
また心臓が跳ねた。どうしてわかったんだ?もしかして警察か?両親のことを思い出した。警察に連絡して俺のことを探すように言ったのかもしれない。俺は半歩後ろに下がった。嫌だ、と思った。もうあそこに帰りたくない。あそこに戻されるくらいなら舌を噛み切ってやる。
走って逃げようとした。腰を沈めて、アスファルトを力いっぱい蹴ろうとした。しかしその瞬間、
「やっぱり高梨君?わあ、ひさしぶりだねー」
彼女はにっこり笑いながら、親しそうに話しかけてきた。ひさしぶり?警察じゃないのか?俺の知り合いか?頭が混乱して、知り合いの名前を思い出そうとしても何も浮かんでこない。度々頭を横切るのは平尾、という活字と、奴の顔だけ。長時間の緊張で、足ががくがくと震えてきた。
「高梨君、あたしのこと覚えてないの?」
彼女の目が少しだけ曇った。少女のように目を伏せて俯く。長い頭髪が揺れる。俺は昔、その仕草をどこかで見たような気がした。
「覚えているよ」そう言おうとした。嘘じゃない。でも、それは確かじゃない。ただ彼女の少女時代が記憶の中にいる気がするだけ。シルエットも、音すらもない虚像が映っているだけ。
「ごめんなさい。人…違い……だったかな……」
彼女の声が消え入りそうになる。俺は何も言えない。頭の中は激しく撹拌されたようにぐるぐると回っている。彼女と向き合っているたった数分がとてつもなく長い時間に思えた。
彼女は煙草を地面に押し付けた。話が、終わる。俺はまだ何も言っていないのに。早く思い出せ。なのに俺は赤い煙草の先が、ぱらぱらと分解して弱々しく消えていくのを見ることしかできなかった。
そこで初めて気づいた。彼女が靴を履いていないことに。彼女は裸足だった。足の爪には何も塗られていない。でも、綺麗だった。黒く湿っているアスファルトに、彼女の腕と足が白くぼんやりと浮かんでいるのを見て、俺は羨望感すら覚えた。
羨望感。突如かちりとスイッチが入った音が聞こえた。閃きのように、記憶が再生される。古過ぎて色の無い記憶が。
「ほら、まだ走れるよ」 「はだしじゃあぶないって…」 「じめんは草ばかりだからだいじょうぶだよ」 「だめだよ。うちにかえってくつかえてからにしようよ」 「やだ」 「………」 「かえってからじゃ日がくれちゃう」 「………」 「おばけやしきまで、もうすこしだから」 「でも」 「もしかして高梨くん、おばけこわいの?」 「ち、ちがうよ」 「あはは。じゃあ、きょうそうだよ。どっちがはやくつけるか」
突然彼女は立ち上がる。俺ははっとして現実に戻る。彼女は俺と目を合わさずに背を向け、走り始めた。アスファルトを蹴り上げる柔らかい音の間隔が、徐々に短くなっていく。行かせるな。彼女を呼び止めろ。振り向きざまに見た彼女の目が濡れていた。
彼女の黒い足の裏が、もう点に見える。幼い俺は、必死で彼女を追いかけた。胸が破裂しそうになるまで走った。しかしそれでも彼女には追いつけない。追いつけないばかりか、どんどん離されていく。まって、まって、と言葉で言おうとしたが、口からは荒い息が漏れるだけだった。
突然、がくんと体が傾いた。何かにつまづいたのだ。息が絶え絶えだった俺はそれに対抗する力も無く、顔から前のめりに転がった。
転んでから数秒動けなかった。金属の味がじわりと口内に広がる。唇が切れてるようだ。砂にまみれて目が開かない。
はやく追いかけなきゃ。
起き上がろうとして力を入れた瞬間、左肩がずきりと痛んだ。悲鳴を上げそうになるほどの強い痛みだった。骨が折れているのかもしれない。顔を草にこすりつけて砂を落とし、首だけを上げて前を見た。
一面、赤かった。空が燃えるように赤かった。しかし、夕焼けと草原だけしかみえなかった。彼女はどこにもいなかった。
俺は泣きそうになった。彼女は、いつも先に行ってしまう。一度たりとも俺が彼女に勝ったことは無かった。どんなに俺が先回りしても、彼女はすぐに追い越してしまう。そんな彼女を妬んだこともあったが、俺は彼女に憧れていた。俺は彼女が好きだった。
ふと一陣の強い風が吹いた。この風が吹くときはいつも土砂降りの雨が降った。これも八谷に教えてもらったことだ。だが、しばらく経っても彼女は帰ってこない。雫がひとつ俺の顔に落 ち、水滴が土を湿らせ、雷音が辺りを轟かせても。俺は彼女の名前を叫ぶ。
突然、がくんと体が傾いた。何かにつまづいたのだ。息が絶え絶えだった俺はそれに対抗する力も無く、顔から前のめりに転がった。
転んでから数秒動けなかった。金属の味がじわりと口内に広がる。唇が切れてるようだ。砂にまみれて目が開かない。
はやく追いかけなきゃ。
起き上がろうとして力を入れた瞬間、左肩がずきりと痛んだ。悲鳴を上げそうになるほどの強い痛みだった。骨が折れているのかもしれない。顔を草にこすりつけて砂を落とし、首だけを上げて前を見た。
一面、赤かった。空が燃えるように赤かった。しかし、夕焼けと草原だけしかみえなかった。彼女はどこにもいなかった。
俺は泣きそうになった。彼女は、いつも先に行ってしまう。一度たりとも俺が彼女に勝ったことは無かった。どんなに俺が先回りしても、彼女はすぐに追い越してしまう。そんな彼女を妬んだこともあったが、俺は彼女に憧れていた。俺は彼女が好きだった。
ふと一陣の強い風が吹いた。この風が吹くときはいつも土砂降りの雨が降った。これも八谷に教えてもらったことだ。だが、しばらく経っても彼女は帰ってこない。雫がひとつ俺の顔に落 ち、水滴が土を湿らせ、雷音が辺りを轟かせても。俺は彼女の名前を叫ぶ。
「八谷!!行くな!!」
声が割れて、まるで泣いているような声になった。彼女はもう顔がわからないくらい遠くにいる。しかし、彼女は振り向いた。にっこりと笑って手を振り、
「また逢えるよね!」
そう言い残して、また駆け出した。俺は、八谷が闇に紛れて見えなくなるまで見送った。霧はいつのまにか晴れていた。
声が割れて、まるで泣いているような声になった。彼女はもう顔がわからないくらい遠くにいる。しかし、彼女は振り向いた。にっこりと笑って手を振り、
「また逢えるよね!」
そう言い残して、また駆け出した。俺は、八谷が闇に紛れて見えなくなるまで見送った。霧はいつのまにか晴れていた。
その後、俺は八谷に出会うことはなかった。沸きあがってくる恐怖を押さえ、お化け屋敷と呼んでいた空家を探した。いつも待ち合わせていた公園で昼から夕方まで待った。それでも彼女の姿はどこにも見えなかった。俺は自分の親に彼女のことを問い掛けた。
「あのこはね、お父さんの仕事の事情で、どこか遠くに行ってしまったのよ」
嘘だと思った。俺は、彼女が孤児であることを知っていたからだ。彼女は、いつものろまな俺に愛想が尽きて、遊ぶ相手を変えてしまったのかと思った。俺を嫌いになってしまったのかと思った。
「あのこはね、お父さんの仕事の事情で、どこか遠くに行ってしまったのよ」
嘘だと思った。俺は、彼女が孤児であることを知っていたからだ。彼女は、いつものろまな俺に愛想が尽きて、遊ぶ相手を変えてしまったのかと思った。俺を嫌いになってしまったのかと思った。
でも、違った。成長した彼女の、あの嬉しそうな目。
彼女は俺を嫌いになったんじゃなかった。だったら、なぜあの日彼女は居なくなったのだろう。それは彼女の意思でなかったことは容易に予想がつく。それに俺の親は、そのことについて嘘をついた。俺に聞かせられない話だったのだろうか。
彼女は誘拐されていたのだろうか?
それはないだろうと思った。あの草原で、俺達以外の人を見たことは一度もなかったからだ。万が一、誘拐されていたとしても、犯人の要求がなんであれ、彼女が数日後に帰ってくるか、殺されて永久に戻ってこないことしかないはずだ。八谷が居なくなってから十年近く経っていた。彼女が本当に誘拐されていたとしても、その十年の間音沙汰無しだったというのはおかしいし、その十年後彼女に出会ったというのもおかしい。
孤児院の意思でどこかへ移ったのだろうか?
それもないだろう。彼女は明るく、聡明だった。それもあって、養女にしたいという子供のいない夫婦が沢山居た。そのなかの企業を持つほどの大富豪だった老夫婦が、彼女を引き取る予定になっていた。彼女も老夫婦と居るとすごく楽しいと喜んでいた。
「あそこの家、コジインよりもこのこうえんにちかいでしょ?そうなったらまいにちでもあそべるね」
彼女は何故、消えたのだ。あの日以降、あの街で変わったのは俺だけのような感じがした。老夫婦もまるで彼女のことを知らないような口ぶりだった。彼女はもともと居なかったんじゃないか、と、自分の記憶を疑うほど人は彼女のことを覚えていなかった。だが違った。今ならわかる。彼らは彼女の話をすることを避けていたんだ。もしかしたらそのことを恐れていたのかもしれない。
どうしてなのだろう。考えを巡らせながら俺は、過去何度も八谷と待ち合わせたことのある公園に辿り着いた。
十数個のスポットライトの光が集中している公園の真ん中を見た。公園にある遊戯道具ひとつひとつに目を凝らした。公園をぐるりと囲む芝垣を掻き分けて探した。
平尾は、どこにも居なかった。駆け抜けてゆく八谷の汚れた足の裏が脳裏に焼き出される。
またか?また俺を置いていくのか?急に背筋がぞっとした。
彼女は俺を嫌いになったんじゃなかった。だったら、なぜあの日彼女は居なくなったのだろう。それは彼女の意思でなかったことは容易に予想がつく。それに俺の親は、そのことについて嘘をついた。俺に聞かせられない話だったのだろうか。
彼女は誘拐されていたのだろうか?
それはないだろうと思った。あの草原で、俺達以外の人を見たことは一度もなかったからだ。万が一、誘拐されていたとしても、犯人の要求がなんであれ、彼女が数日後に帰ってくるか、殺されて永久に戻ってこないことしかないはずだ。八谷が居なくなってから十年近く経っていた。彼女が本当に誘拐されていたとしても、その十年の間音沙汰無しだったというのはおかしいし、その十年後彼女に出会ったというのもおかしい。
孤児院の意思でどこかへ移ったのだろうか?
それもないだろう。彼女は明るく、聡明だった。それもあって、養女にしたいという子供のいない夫婦が沢山居た。そのなかの企業を持つほどの大富豪だった老夫婦が、彼女を引き取る予定になっていた。彼女も老夫婦と居るとすごく楽しいと喜んでいた。
「あそこの家、コジインよりもこのこうえんにちかいでしょ?そうなったらまいにちでもあそべるね」
彼女は何故、消えたのだ。あの日以降、あの街で変わったのは俺だけのような感じがした。老夫婦もまるで彼女のことを知らないような口ぶりだった。彼女はもともと居なかったんじゃないか、と、自分の記憶を疑うほど人は彼女のことを覚えていなかった。だが違った。今ならわかる。彼らは彼女の話をすることを避けていたんだ。もしかしたらそのことを恐れていたのかもしれない。
どうしてなのだろう。考えを巡らせながら俺は、過去何度も八谷と待ち合わせたことのある公園に辿り着いた。
十数個のスポットライトの光が集中している公園の真ん中を見た。公園にある遊戯道具ひとつひとつに目を凝らした。公園をぐるりと囲む芝垣を掻き分けて探した。
平尾は、どこにも居なかった。駆け抜けてゆく八谷の汚れた足の裏が脳裏に焼き出される。
またか?また俺を置いていくのか?急に背筋がぞっとした。
公園を出た後、平尾の居そうなところ全てを廻った。しかし、平尾の姿どころか、人影ひとつ見当たらなかった。ただでさえ外灯が少ない街なのに、そんな人通りのない真っ暗な道を探したって見つかるわけがない。何時に寝たのか正確にわからないが、空が明るくなり始めていたからたぶん五、六時くらいだろう。俺は四時間以上も平尾を探し回っていた。久しぶりに長距離を歩いたせいで俺はひどく疲れていた。昨日敷いたままだった布団に倒れこみ、突っ伏したまま寝た。
次の日、俺が起きたのは午後の五時過ぎだった。不快な目覚めだった。シャツが身体に張り付き、瞼は重く、睡魔がまた深い眠りへと誘う。寝ている場合じゃない。目をこじ開け俺は部屋の中を見まわしたが、平尾は居なかった。
喉が猛烈に乾いていた。立ち上がり、そばにあった台所の蛇口をひねった。勢い良く噴出してくる冷水に直接口をつけ、飢えている獣のようにがぶがぶと水を飲んだ。渇きが治まらない。水を飲んでいる間、平尾の嘲笑している顔が頭に浮かんだ。これからお前はどうするんだ?平尾がそう問いかけているような気がした。俺はいらついた。じりじりとくすぶる炎をかき消すように、俺は背中から水を浴びた。
喉が猛烈に乾いていた。立ち上がり、そばにあった台所の蛇口をひねった。勢い良く噴出してくる冷水に直接口をつけ、飢えている獣のようにがぶがぶと水を飲んだ。渇きが治まらない。水を飲んでいる間、平尾の嘲笑している顔が頭に浮かんだ。これからお前はどうするんだ?平尾がそう問いかけているような気がした。俺はいらついた。じりじりとくすぶる炎をかき消すように、俺は背中から水を浴びた。
「お前は、平尾が居ないと生きていけないのか?」自分で問い掛ける。
そんなことはない。家事はほとんど俺がやっている。
「収入の事を言っているんだ」
これから働けばいいことだろう。
「アルバイトじゃ駄目だぜ。平尾はもう帰ってこないかもしれないからな」
俺一人なら何とかなる。
「どうせ力仕事だろう?お前は体が強い方ではない。体を悪くしてそのままダウンだ」
……。
「はやく帰ったほうがいいんじゃないのか?自分のうちへ」
それは絶対に嫌だ。
「つまらない意地張ってないで、さっさと学校行けよ。そのほうが楽だって」
嫌だ。
「お前は家に帰るより死んだほうがいいって言っていたよな」
……。
「じゃあ、今、死ねよ」
……。
「それとも、あの言葉は嘘なのか?」
……平尾に迷惑がかかる。
「死んだ後なら、そう考えることもないよ」
今はまだ死ねない。
「お前、適当に生きる理由考えてないか?」
お前こそなんだよ。家に帰るっていう選択肢しかないってわけじゃないだろう?
「それしかないから言っているんだ」
俺が働く前から言うのか?
「働くわけがない。今までの自分を振り返ってみろ。どうせお前は働かなくても何とかなると思っているんだろう?」
別にいいじゃないか。金稼げなくて餓死するのも俺の勝手じゃないか。
「いや、お前は家に帰るね。餓死する前に」
絶対に帰らない。
「帰るね」
帰らない。
「帰る」
そんなことはない。家事はほとんど俺がやっている。
「収入の事を言っているんだ」
これから働けばいいことだろう。
「アルバイトじゃ駄目だぜ。平尾はもう帰ってこないかもしれないからな」
俺一人なら何とかなる。
「どうせ力仕事だろう?お前は体が強い方ではない。体を悪くしてそのままダウンだ」
……。
「はやく帰ったほうがいいんじゃないのか?自分のうちへ」
それは絶対に嫌だ。
「つまらない意地張ってないで、さっさと学校行けよ。そのほうが楽だって」
嫌だ。
「お前は家に帰るより死んだほうがいいって言っていたよな」
……。
「じゃあ、今、死ねよ」
……。
「それとも、あの言葉は嘘なのか?」
……平尾に迷惑がかかる。
「死んだ後なら、そう考えることもないよ」
今はまだ死ねない。
「お前、適当に生きる理由考えてないか?」
お前こそなんだよ。家に帰るっていう選択肢しかないってわけじゃないだろう?
「それしかないから言っているんだ」
俺が働く前から言うのか?
「働くわけがない。今までの自分を振り返ってみろ。どうせお前は働かなくても何とかなると思っているんだろう?」
別にいいじゃないか。金稼げなくて餓死するのも俺の勝手じゃないか。
「いや、お前は家に帰るね。餓死する前に」
絶対に帰らない。
「帰るね」
帰らない。
「帰る」
俺は水を止め、頭の水を切らずにそのまま食器棚のほうに歩いた。
俺はそのまま食器棚の一番下の取っ手に手をかける。通帳が入っている引出しだ。平尾の居ないままで、あと何日暮らせるだろうか。平尾のものだが、罪悪感すら覚えなかった。
苛ついていたせいか、力みすぎて引出しがすっぽ抜けた。俺は抜けてしまった引出しを抱えたまま尻餅をつく。木製の引出しの中で、ごろり、と何かが転がる音がした。中身が散乱するかと思いひやりとしたが、周りには、はんこ、通帳、その他の貴重品は飛び散っていなかった。やれやれと思い、胸の上に乗っかっている引出しの中を覗く。通帳などはそのなかに綺麗に収まっていた。しかし俺はそれらよりも、その上にどっかりと鎮座している白いものに目がいった。
なんだろう、と思った。それは今まで見たことがないものだった。金属でできているようで、見るだけでもずっしりと重厚感がある。一見それは刃のないドリルのようにも見えた。俺はそれに手を伸ばす。突然、それはぎらりと輝く。ぬめるような鈍い輝きだ。手垢で汚れた取っ手。それを見て、つう、と背筋に冷たいものが走るのを感じた。耳をつんざく轟音が聞こえた。赤い血飛沫が目の前を覆った。俺は弾かれたように飛び起きる。
これは、銃だ。
汚いものを振り払うように、それを床に投げ飛ばした。思わず目を閉じる。心臓が高鳴る。荒い息が聞こえる。俺は、大丈夫だ。引き金には触れていない。だから銃口からは何も出ていないし、俺の身体はなんともない。落ち着け。落ち着くんだ。息を整えるため、何度も何度も深呼吸をした。
ゆっくりと目を開けた。床に落ちているだろうそれを見ないように、周りに目を向けた。どこも壊れていない。穴もあいていないし、焦げ臭くもない。壁の色は前と変わらない、煙草の煙で黄色み掛かった白い色だ。赤い飛沫はどこにも見えなかった。
こめかみに手を当てながら頭を振る。さっき聞いた轟音と、それと同時に見えた血飛沫は何だったのだろう。それは耳を破りそうなほど大きい音だったし、血が俺の顔に、べとりとかかった感覚は今も残っている。何度も顔の周りをこすってみたが、手に赤い色はつかなかった。
疲れているのかな、と思った。銃を見たせいで知らぬ間に連想してしまったのかもしれない。
もう一度、銃を見る為に視線を変えた。それはまだ投げ飛ばしたはずの引き出しの中に収まっていた。相変わらず冷たい光を放ち続けている。それを見て俺は悪魔を連想した。
震える手で銃を手に取ってみた。鉄の塊を持っているように重い。銃本体の重量だけではなく、以前これを持ったことのある人間とその相手の……なんというか、身体の一部が銃全体にのしかかってくるような気がする。
うっかり人差し指を引き金に触れさせないように、俺は銃身をそのまま持ち、銃をよく見てみることにした。もしかしたら只のモデルガンかもしれない。「俺の新しい趣味なのさ。驚いたか?」おどけている平尾の表情が容易に想像できた。しかし、もしそうであったなら、銃を何故貴重品と一緒に入れるかわからなかった。嫌な想像を断ち切り、俺は銃の後方、いわゆるグリップのほうを見てみる。
安全装置は……掛かっている。撃鉄はない。カートリッジ式の銃らしい。思わず安堵の息をついた。これでもしどこかに引っ掛けてトリガーや撃鉄を引いたとしても、この銃から火が噴き出すことはない。……そうだ。銃口だ。銃口がもし塞がっていたら、この銃は只のイミテーションということになる。はやる気持ちを押さえ、相変わらずグリップのほうは持たずに、銃口の延長線上に自分の身体を置かないように、恐る恐る小さな穴を覗いた。
塞がっていない。
胃が持ちあがるような感じがした。犯罪がばれた時のような、苦い自責の念が生まれる。何故それが生まれたのかよくわからなかった。これを持ちこんだのは少なくとも俺ではないから、俺のせいになることは無いのだ。もしくは、平尾が過去、これで何をしたのか想像して、知らぬ間に彼を弁護していたのかもしれない。平尾がそんな事する筈が無いと。
中を見てみよう。そうすれば、全てがわかることだ。銃のデザインが本物であろうと、銃身がいくら重かろうと銃弾がBB弾であれば何も恐れることは無い。この銃はカートリッジ式だから、銃床から弾倉が取り出せる筈だ。そこで俺は初めてグリップを握った。右手で銃を支え、銃床に左手を添える。かちりと軽快な音がして、抵抗も無く弾倉が滑り、絨毯にバウンドする。弾倉の中身が床に散らばった。
胃の底が火であぶられている。感情が極限にまで達し、頭が白くなる。何故だか、笑いが込み上げてくる。ははは、と笑う自分の声が、他人の声に聞こえた。
プラスチックの弾じゃない。本物だ。多分。
甲高い自分の声を聞いて俺は、この出来事は心の奥底で望んでいたことなのかもしれない、と思った。俺はこの世界が嫌いだった。平凡で、怠惰な生活に嫌気が差していた。そんな生活を誰かがぶち壊して欲しいと思っていた。しかし、今はそれを待つことも無い。今、この手に握られている凶器で、今すぐにでも壊すことが出来るのだ。
身体が高揚するのを感じた。撃ちたい。撃って、その威力の凄まじさをこの目で見たい。この銃がこの世界を壊せるかどうかを確かめたい。
あの公園へ行こう。あそこなら誰が来ることも無い。公園の周りは林になっているから、音も聞こえることも無いだろう。
今は……時刻にして6時12分。まだ早過ぎる。日付が変わったら、公園に行こう。慌てたら駄目だ。ゆっくりと、慎重に。
それまでなにをしようか。部屋を見渡す。特別興味を引くものは無かったが、とりあえずテレビのリモコンに手をかけた。パチ、と音がして、ぼんやりと画面が光を帯びてくる。ニュースのアナウンサーの無表情な顔で何かを読み上げている。はじめはそれを聞き流していたが、
俺はそのまま食器棚の一番下の取っ手に手をかける。通帳が入っている引出しだ。平尾の居ないままで、あと何日暮らせるだろうか。平尾のものだが、罪悪感すら覚えなかった。
苛ついていたせいか、力みすぎて引出しがすっぽ抜けた。俺は抜けてしまった引出しを抱えたまま尻餅をつく。木製の引出しの中で、ごろり、と何かが転がる音がした。中身が散乱するかと思いひやりとしたが、周りには、はんこ、通帳、その他の貴重品は飛び散っていなかった。やれやれと思い、胸の上に乗っかっている引出しの中を覗く。通帳などはそのなかに綺麗に収まっていた。しかし俺はそれらよりも、その上にどっかりと鎮座している白いものに目がいった。
なんだろう、と思った。それは今まで見たことがないものだった。金属でできているようで、見るだけでもずっしりと重厚感がある。一見それは刃のないドリルのようにも見えた。俺はそれに手を伸ばす。突然、それはぎらりと輝く。ぬめるような鈍い輝きだ。手垢で汚れた取っ手。それを見て、つう、と背筋に冷たいものが走るのを感じた。耳をつんざく轟音が聞こえた。赤い血飛沫が目の前を覆った。俺は弾かれたように飛び起きる。
これは、銃だ。
汚いものを振り払うように、それを床に投げ飛ばした。思わず目を閉じる。心臓が高鳴る。荒い息が聞こえる。俺は、大丈夫だ。引き金には触れていない。だから銃口からは何も出ていないし、俺の身体はなんともない。落ち着け。落ち着くんだ。息を整えるため、何度も何度も深呼吸をした。
ゆっくりと目を開けた。床に落ちているだろうそれを見ないように、周りに目を向けた。どこも壊れていない。穴もあいていないし、焦げ臭くもない。壁の色は前と変わらない、煙草の煙で黄色み掛かった白い色だ。赤い飛沫はどこにも見えなかった。
こめかみに手を当てながら頭を振る。さっき聞いた轟音と、それと同時に見えた血飛沫は何だったのだろう。それは耳を破りそうなほど大きい音だったし、血が俺の顔に、べとりとかかった感覚は今も残っている。何度も顔の周りをこすってみたが、手に赤い色はつかなかった。
疲れているのかな、と思った。銃を見たせいで知らぬ間に連想してしまったのかもしれない。
もう一度、銃を見る為に視線を変えた。それはまだ投げ飛ばしたはずの引き出しの中に収まっていた。相変わらず冷たい光を放ち続けている。それを見て俺は悪魔を連想した。
震える手で銃を手に取ってみた。鉄の塊を持っているように重い。銃本体の重量だけではなく、以前これを持ったことのある人間とその相手の……なんというか、身体の一部が銃全体にのしかかってくるような気がする。
うっかり人差し指を引き金に触れさせないように、俺は銃身をそのまま持ち、銃をよく見てみることにした。もしかしたら只のモデルガンかもしれない。「俺の新しい趣味なのさ。驚いたか?」おどけている平尾の表情が容易に想像できた。しかし、もしそうであったなら、銃を何故貴重品と一緒に入れるかわからなかった。嫌な想像を断ち切り、俺は銃の後方、いわゆるグリップのほうを見てみる。
安全装置は……掛かっている。撃鉄はない。カートリッジ式の銃らしい。思わず安堵の息をついた。これでもしどこかに引っ掛けてトリガーや撃鉄を引いたとしても、この銃から火が噴き出すことはない。……そうだ。銃口だ。銃口がもし塞がっていたら、この銃は只のイミテーションということになる。はやる気持ちを押さえ、相変わらずグリップのほうは持たずに、銃口の延長線上に自分の身体を置かないように、恐る恐る小さな穴を覗いた。
塞がっていない。
胃が持ちあがるような感じがした。犯罪がばれた時のような、苦い自責の念が生まれる。何故それが生まれたのかよくわからなかった。これを持ちこんだのは少なくとも俺ではないから、俺のせいになることは無いのだ。もしくは、平尾が過去、これで何をしたのか想像して、知らぬ間に彼を弁護していたのかもしれない。平尾がそんな事する筈が無いと。
中を見てみよう。そうすれば、全てがわかることだ。銃のデザインが本物であろうと、銃身がいくら重かろうと銃弾がBB弾であれば何も恐れることは無い。この銃はカートリッジ式だから、銃床から弾倉が取り出せる筈だ。そこで俺は初めてグリップを握った。右手で銃を支え、銃床に左手を添える。かちりと軽快な音がして、抵抗も無く弾倉が滑り、絨毯にバウンドする。弾倉の中身が床に散らばった。
胃の底が火であぶられている。感情が極限にまで達し、頭が白くなる。何故だか、笑いが込み上げてくる。ははは、と笑う自分の声が、他人の声に聞こえた。
プラスチックの弾じゃない。本物だ。多分。
甲高い自分の声を聞いて俺は、この出来事は心の奥底で望んでいたことなのかもしれない、と思った。俺はこの世界が嫌いだった。平凡で、怠惰な生活に嫌気が差していた。そんな生活を誰かがぶち壊して欲しいと思っていた。しかし、今はそれを待つことも無い。今、この手に握られている凶器で、今すぐにでも壊すことが出来るのだ。
身体が高揚するのを感じた。撃ちたい。撃って、その威力の凄まじさをこの目で見たい。この銃がこの世界を壊せるかどうかを確かめたい。
あの公園へ行こう。あそこなら誰が来ることも無い。公園の周りは林になっているから、音も聞こえることも無いだろう。
今は……時刻にして6時12分。まだ早過ぎる。日付が変わったら、公園に行こう。慌てたら駄目だ。ゆっくりと、慎重に。
それまでなにをしようか。部屋を見渡す。特別興味を引くものは無かったが、とりあえずテレビのリモコンに手をかけた。パチ、と音がして、ぼんやりと画面が光を帯びてくる。ニュースのアナウンサーの無表情な顔で何かを読み上げている。はじめはそれを聞き流していたが、