Last update 2008年03月16日
水面下 著者:時雨
宇宙をのぞんだ人間はみんな、はじめはウソつきだったんだ、とか。先程から馬鹿らしく屁理屈でしかない事を延々と語ってみたりしているわけです私は。
目の前で黙々と本に没頭するこの人は、私の知る限りでは、常人には理解出来ない程の思考回路の持ち主であらせられる筈でございます。そんなお人が、馬鹿馬鹿しい私の即興論に何の反応も示されないのは、ただ単純に抱え込んだ本にのめり込んでいるからでして。
先程から私は無駄な努力を持ってして、どうにか気を引いてみようと試みているわけではありますが、どうにもいけません。
ここは小さな古本屋でありますから、店主として本好きであることは寧ろ良いことなのです。ですがこうも没頭されては、少ない時間を削ってまで足繁く通いつめる私が不憫です。
……そろそろこちらを向いて頂けないものでしょうか。
目の前で黙々と本に没頭するこの人は、私の知る限りでは、常人には理解出来ない程の思考回路の持ち主であらせられる筈でございます。そんなお人が、馬鹿馬鹿しい私の即興論に何の反応も示されないのは、ただ単純に抱え込んだ本にのめり込んでいるからでして。
先程から私は無駄な努力を持ってして、どうにか気を引いてみようと試みているわけではありますが、どうにもいけません。
ここは小さな古本屋でありますから、店主として本好きであることは寧ろ良いことなのです。ですがこうも没頭されては、少ない時間を削ってまで足繁く通いつめる私が不憫です。
……そろそろこちらを向いて頂けないものでしょうか。
「……あーもう!千早!!」
「はい。」
「さっきから私は壁に向かっている心持です。いい加減とめて下さい。」
「……何をだね?」
「私の下らない話をです!」
私の大声に、阿蘭陀でいうところのコンマ1秒を切るだろう迅速さで返事を返した千早は、ゆっくりと本から顔を上げました。親の敵と言わんばかりの私の目線を認めますと、その神の御業に他ならない端整なかんばせを少し歪めて曖昧に微笑んでみせます。
ああ、この顔に私は弱いのです。千早も分かってやってるに違いないのです。もとより怒っているわけではないのですが、それを思うとふつふつと滾るものがございました。
「聞いていませんでしたね?」
「…………ええと」
千早はこれ以上無いくらい緩慢な動作で、読みかけの本をうつ伏せます。時間稼ぎである事は目に見えております。
よしそれでは待ってやろうと、私も半ば呆れてその本の背表紙を眺めはじめました。本の背には外国語でASTRONOMYと箔が押してあります。綺麗ではありますが、私には酷く難解な本のように思えました。
「はい。」
「さっきから私は壁に向かっている心持です。いい加減とめて下さい。」
「……何をだね?」
「私の下らない話をです!」
私の大声に、阿蘭陀でいうところのコンマ1秒を切るだろう迅速さで返事を返した千早は、ゆっくりと本から顔を上げました。親の敵と言わんばかりの私の目線を認めますと、その神の御業に他ならない端整なかんばせを少し歪めて曖昧に微笑んでみせます。
ああ、この顔に私は弱いのです。千早も分かってやってるに違いないのです。もとより怒っているわけではないのですが、それを思うとふつふつと滾るものがございました。
「聞いていませんでしたね?」
「…………ええと」
千早はこれ以上無いくらい緩慢な動作で、読みかけの本をうつ伏せます。時間稼ぎである事は目に見えております。
よしそれでは待ってやろうと、私も半ば呆れてその本の背表紙を眺めはじめました。本の背には外国語でASTRONOMYと箔が押してあります。綺麗ではありますが、私には酷く難解な本のように思えました。
壁掛け時計がちっちっちと言った後、「……午後の配達の話だったか。」と千早が言います。それは1時間前に終わった話なのです。「じゃあ明日の競りの計画立て?」それも50分前に終わりました。あまりに頓狂な答えに、私は少し笑ってしまったのでしょう。千早は逆に怒ることに決めたようです。
「大体からして何だって言うんだ。人が読書しているときにのべつまくなしに話しかけるものではないよ。仕事の話はもうすんだろう。君は僕の取引相手に相違ないのだから、わざわざ毎日こうして無駄話をしに来る事はないのだよ。君が僕のご機嫌を伺いに来ても、君の持ってくる仕事を請けるかどうかには影響しないよ。」
なんて言い草かと思いつつ、別段私は怒っているわけではないので怒鳴り返すわけにもいきません。私は埃っぽい店内の空気が目に沁みたふりをして、そっと指で眉間の皺を伸ばしました。
「そうですね。私が好きで話しているだけですから。」
最大限の努力によって作った極上の笑顔でそう言ってやると、千早は思いがけなく深い溜息を吐きます。怒っているわけではないので、頭の奥で鳴ったカチンという音はきっと気のせいでしょう。
「大体からして何だって言うんだ。人が読書しているときにのべつまくなしに話しかけるものではないよ。仕事の話はもうすんだろう。君は僕の取引相手に相違ないのだから、わざわざ毎日こうして無駄話をしに来る事はないのだよ。君が僕のご機嫌を伺いに来ても、君の持ってくる仕事を請けるかどうかには影響しないよ。」
なんて言い草かと思いつつ、別段私は怒っているわけではないので怒鳴り返すわけにもいきません。私は埃っぽい店内の空気が目に沁みたふりをして、そっと指で眉間の皺を伸ばしました。
「そうですね。私が好きで話しているだけですから。」
最大限の努力によって作った極上の笑顔でそう言ってやると、千早は思いがけなく深い溜息を吐きます。怒っているわけではないので、頭の奥で鳴ったカチンという音はきっと気のせいでしょう。
千早はうつ伏せていた本をぱたんと閉じて、机の端に追いやると、やっと真面目な顔をしてこちらを見ました。
「良いだろう。君にちゃんと反応を返さない僕が悪かった。珈琲でいいね。淹れてくるからそこで待っていなさい。」
「読み終わっていないのではないのですか?」
「栞なんて挟まなくとも読んでいたところくらい覚えているさ。」
すたすたと店の奥に…今居るここも奥の座敷ではあるのですが…入っていって、何やら盛大な音を立てて食器を引っ張り出している千早を横目に時計を見ますと、後10分で正午になることが分かりました。午後には鳩山さんの家まで注文の本を届けなくてはいけません。とても珈琲などを飲んでいる場合ではないのです。
「良いだろう。君にちゃんと反応を返さない僕が悪かった。珈琲でいいね。淹れてくるからそこで待っていなさい。」
「読み終わっていないのではないのですか?」
「栞なんて挟まなくとも読んでいたところくらい覚えているさ。」
すたすたと店の奥に…今居るここも奥の座敷ではあるのですが…入っていって、何やら盛大な音を立てて食器を引っ張り出している千早を横目に時計を見ますと、後10分で正午になることが分かりました。午後には鳩山さんの家まで注文の本を届けなくてはいけません。とても珈琲などを飲んでいる場合ではないのです。
私がこうして少ない時間を削ってまで足繁く通いつめるのには、千早と同業の相方、つまりパートナーとして私生活におきましても多少の信頼関係を築きたいからに他なりません。無駄話の一言で片付けられてしまった下らない話にしても、会話になりさえすれば無駄ではないのです。
そういう訳ですから、珈琲などを飲んでいる場合ではないのですが、千早ときちんと会話が出来るとなればこれ以上の機会はない筈であります。多少の遅刻は厭わない事を苦渋の思いで決断致しますと、漂い始めた香ばしい香りに浮き立つような気持ちでございました。
そういう訳ですから、珈琲などを飲んでいる場合ではないのですが、千早ときちんと会話が出来るとなればこれ以上の機会はない筈であります。多少の遅刻は厭わない事を苦渋の思いで決断致しますと、漂い始めた香ばしい香りに浮き立つような気持ちでございました。
「で、何の話だったんだい。」
「……宇宙をのぞんだ人間はみんな、はじめはウソつきだったというような話です。」
「それは興味深いね。」
「その興味深い話を貴方は延々無視し続けたのですよ。まぁそう言っても私が言っていましたのは詭弁に過ぎません。仕事のお話をしていたのですが唐突にそういう話に切り替えていつ気付くかなと思っていましたら、何とまぁ呆れた事に貴方は1時間も」
最後は息が続かなくなってしまいましたので、仕方なしに口を噤みました。
千早はそ知らぬ顔で優雅に珈琲を飲んでいます。
これ以上言っても仕方ないと判断した私は、先程の決断を覆して、この珈琲を飲んだら鳩山さんの家に行かなくてはと心に決め珈琲に口をつけました。濃く淹れられたそれは驚く程に美味しいものでしたので、私はひとり感慨に耽りながらひとくちふたくちと味わっ……
「で、それはどうしてかな。」
「……詭弁に過ぎませんと申し上げましたが。といいますかそれはどうでもいいのです。貴方が聞いてるかどうかを」
「どうしてかな。」
千早は煙草に火を点けながら繰り返します。ただでさえ埃っぽい室内で、珈琲の濃い香りと立ち上る湯気と煙草の紫煙がぐるぐると回って、私は呼吸困難に陥るかと思われました。
「ひとは自分の知らないもの、見えない世界、もしくはあっては都合が悪いものを認めたがらないものです。」
「宇宙はそれだったと。」
「しかしごくたまに、見知らぬものに自由や開かれた世界を望む人がいます。あるいは禁忌とされたものに魅力を感じ、背徳に悦楽を得る人もいます。それらは何故かという話を。」
「何故?」
淡々と私の話だけを引き出そうとする千早に、私は今度こそ微かな苛立ちを認めました。表情も変えず煙草をふかしているものですから、とん、と幅の狭い机の下で触れたものが千早の足であることに私は暫く気付きませんでした。
「……何故?」
「……さぁ、私には理解出来ません。禁忌は禁忌です。侵して良い領域ではありません。」
「ふうん。じゃあ君は禁忌を一切侵さずに生きているわけだ。」
壁掛け時計がちっちっちと単調に時を刻んでいます。私の心音がそれよりもずっと速いような気がするのは、苛立ちの所為ではないだろうことは分かりました。
千早が唐突に甘ったるい笑みを浮かべました。
「……宇宙をのぞんだ人間はみんな、はじめはウソつきだったというような話です。」
「それは興味深いね。」
「その興味深い話を貴方は延々無視し続けたのですよ。まぁそう言っても私が言っていましたのは詭弁に過ぎません。仕事のお話をしていたのですが唐突にそういう話に切り替えていつ気付くかなと思っていましたら、何とまぁ呆れた事に貴方は1時間も」
最後は息が続かなくなってしまいましたので、仕方なしに口を噤みました。
千早はそ知らぬ顔で優雅に珈琲を飲んでいます。
これ以上言っても仕方ないと判断した私は、先程の決断を覆して、この珈琲を飲んだら鳩山さんの家に行かなくてはと心に決め珈琲に口をつけました。濃く淹れられたそれは驚く程に美味しいものでしたので、私はひとり感慨に耽りながらひとくちふたくちと味わっ……
「で、それはどうしてかな。」
「……詭弁に過ぎませんと申し上げましたが。といいますかそれはどうでもいいのです。貴方が聞いてるかどうかを」
「どうしてかな。」
千早は煙草に火を点けながら繰り返します。ただでさえ埃っぽい室内で、珈琲の濃い香りと立ち上る湯気と煙草の紫煙がぐるぐると回って、私は呼吸困難に陥るかと思われました。
「ひとは自分の知らないもの、見えない世界、もしくはあっては都合が悪いものを認めたがらないものです。」
「宇宙はそれだったと。」
「しかしごくたまに、見知らぬものに自由や開かれた世界を望む人がいます。あるいは禁忌とされたものに魅力を感じ、背徳に悦楽を得る人もいます。それらは何故かという話を。」
「何故?」
淡々と私の話だけを引き出そうとする千早に、私は今度こそ微かな苛立ちを認めました。表情も変えず煙草をふかしているものですから、とん、と幅の狭い机の下で触れたものが千早の足であることに私は暫く気付きませんでした。
「……何故?」
「……さぁ、私には理解出来ません。禁忌は禁忌です。侵して良い領域ではありません。」
「ふうん。じゃあ君は禁忌を一切侵さずに生きているわけだ。」
壁掛け時計がちっちっちと単調に時を刻んでいます。私の心音がそれよりもずっと速いような気がするのは、苛立ちの所為ではないだろうことは分かりました。
千早が唐突に甘ったるい笑みを浮かべました。
「楽しいの?それ。」
「……楽しいか楽しくないかの問題ですか?」
「さあ……でも昔から背徳の方が楽しいと相場が決まっている。」
常人には理解出来ない程の思考回路の持ち主であるはずの千早が、説明をする前に当たり前だと物事を決め付けてしまうような、まるで馬鹿のような喋り方をしているのは、千早が机の下で別の事を言っているからです。煙草を持っていない方の手が、ゆっくりと、
「浮気とか、不倫だとかね。」
「……そろそろ配達の時間です。」
「変態的な性交だとか」
「千早、もう行かないと」
「公私混合とかさ」
「遅れてしまうと怒られます」
「思ってもいなかった相手と、とか。」
「さあ……でも昔から背徳の方が楽しいと相場が決まっている。」
常人には理解出来ない程の思考回路の持ち主であるはずの千早が、説明をする前に当たり前だと物事を決め付けてしまうような、まるで馬鹿のような喋り方をしているのは、千早が机の下で別の事を言っているからです。煙草を持っていない方の手が、ゆっくりと、
「浮気とか、不倫だとかね。」
「……そろそろ配達の時間です。」
「変態的な性交だとか」
「千早、もう行かないと」
「公私混合とかさ」
「遅れてしまうと怒られます」
「思ってもいなかった相手と、とか。」
私はやっとの思いで再度決断を覆して、遅刻する事を再確認致しました。千早は変わらず笑っています。視線を逸らしてしまったら共犯になってしまう気がして、私はその綺麗な顔を見続けているのです。
どうにかして話を逸らそうと、固まってしまった喉はまるで場違いな事を言い出します。
「……宇宙船員が、上も下も無い宇宙空間で一番知りたいのは方角なんだそうです。」
「そう。」
どうにかして話を逸らそうと、固まってしまった喉はまるで場違いな事を言い出します。
「……宇宙船員が、上も下も無い宇宙空間で一番知りたいのは方角なんだそうです。」
「そう。」
「勝手が分からないからね。宇宙人に案内してもらえば間違いはないんじゃない?」
目の前の宇宙人はどうしてこんなにも人を惑わすのが上手なのでしょうか。会話など望むべきではなかったと思っても後の祭りでございます。
私は少し躊躇いながらも視線を千早から逸らしました。
私は少し躊躇いながらも視線を千早から逸らしました。
「そうかも知れませんね。」
握り返してみれば、そこから伝わるのは快感に違いはないように思われたのです。