紅葉(くれは)
能「紅葉狩」に登場する
鬼女。
平維茂(これしげ)が、信州戸隠山に鹿狩りに行くと、上臈たちが紅葉狩の宴をはっている。彼女らの誘いのまま、維茂は酒宴の中に入っていく。
杯を重ねていくうちに眠りについた維茂は、夢中で八幡神から彼女らが魔性の者であることを告げられ、神剣を授与される。
目を覚ますと上臈は
鬼女に変じ、襲い掛かってくる。維茂はそれを神剣により見事に討ち取るのであった。
前半は優美可憐、後半は勇壮活発な構成となっており、静動が大変印象的な能である。
室町後期、観世小次郎信光の作とされ、現在でも人気があり、度々上演されている。
また義太夫節、歌舞伎、江戸里神楽などにも翻案され取り入れられており、その人気の高さが伺える。
能以外でも、伝説としても各地に伝えられている。
その種本は明治19年に刊行された「北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝」であるという。
伴善男の末である夫婦が、子のない悲しみから
第六天の魔王?に祈願し、女子を授かる。
夫婦はその子を呉葉と名づけ、会津の地で大切に育てた。15,6歳になったとき、村の有力者との結婚するが、呪術で作った分身を嫁がせ、自身は逃げてしまう。
支度金をせしめた呉葉は京の都に上り、紅葉と名を変える。都では源経基(つねもと)の家に出入りするようになり、その寵愛を受けるようになった。
しかし御台所を呪殺しようとしていたことが露見し、戸隠山に追放されてしまう。
戸隠山では、身篭っていた経基の子を経若丸として育てながら、村人の病気を治すために呪力を使うなどしていた。
が、そのうち静かな生活に耐えられなくなった紅葉は地元の盗賊団を支配下におき、七〇人力の怪女おまんや鬼武、熊武、鷲王、伊賀瀬の
四天王を従えつつ、暴虐の限りを尽くす。
人を殺してはその生血をすするといわれるまでになった紅葉を朝廷も捨ててはおけず、平維茂を鬼女退治に派遣した。
二度の攻め方では、いずれも維茂は敗退する。
そこで惟茂は北向観音に戦勝を祈願し17日の参篭をすると、夢中に白髪の老人が現れ降魔の剣を授かる。
その宝剣を奉持し攻め込むと、紅葉の呪術は失われ、維茂は宝剣を矢の根とした白羽の矢で紅葉を射る。
傷ついた紅葉は、空中に飛び上がり口から火炎を吐きながら維茂を睨み付ける。
そのとき、天空から1条の雷が落ち、地上に落ちた紅葉は武将に切りつけられ、維茂に首を切られた。
このように一般的には鬼女として解釈される紅葉だが、伝説の本家、長野県戸隠村や鬼無里村では様相が違ってくる。
紅葉は、宮中でお上の寵愛を一身に受ける女房であったとされる。
しかし平家の讒言により宮中より追放され、戸隠の地に流されてしまうことになる。
彼女に同情した村人は彼女のために館を建ててやり、それを内裏屋敷と呼ぶようになった。
紅葉は京の都を懐かしみ、鬼無里の地名に都にまつわるものをつけるようになった。
内裏屋敷の西の地を西京と呼び、他にも一条・四条・五条との地名や賀茂神社を建立したという。これらは現在でも残っている。
そして、紅葉は呪術や、医術で病魔を払い、娘たちには裁縫や手芸を教え、子供たちには文字を教えたという。
平氏打倒を訴え、地元の豪族の力を借りた紅葉は平氏の軍勢を打ち負かすが、ついには敗北したといわれる。
戸隠村には紅葉の隠れ住んだという「鬼の岩屋」、鬼無里村には紅葉の部下とも言われる「おまんの墓」、紅葉が護持したという地蔵尊を伝える松巌寺には「紅葉の墓」、維茂が戦勝祈願したという社などが各地に伝えられている。
民俗学者・宮田登は紅葉の物語に零落した巫女として
山姥を重ね合わせ、男性宗教である仏教の伸張と古代からの女性祭司の抵抗を読み取っている。
小松和彦は、享保9年『信府統記』の平維茂の鬼人退治の話や『戸隠山絵巻』に登場する「九しやう大王」、『諸寺略記』の「九頭一尾の鬼」などをあげ、紅葉の物語が作られる前提となった材料が存在していたことを指摘している。
そして外部の権力に支配される不満を紅葉に重ね合わせることで、紅葉伝説が地元の人間に語り継げられていただろうとする。
また鬼無里の地は深山といえども、畿内との交通はわりと良かったようである。
天智天皇の時代には三野王を新都建設のための調査に派遣したといわれている。内裏屋敷はその時、内裏の建設予定地だったという伝説もある。
戦前までは麻の栽培が大きな産業となっており、地元には当時の繁栄を思わせる京の技術を駆使した山車も伝わっている。
畿内への憧れと反発、土着の伝説、信仰が渾然となって生み出されたのが、戸隠・鬼無里の紅葉伝説と言えるかもしれない。
参考文献 小松和彦『日本妖怪異聞録』 小松和彦・宮田登・鎌田東二・南伸坊『日本異界絵巻』 ふるさと草子刊行会『谷の京物語 伝説の鬼無里』 『松巌寺縁起』
最終更新:2005年07月20日 07:16