鬼(おに)

 古くは『出雲国風土記』大原郡阿用郷の条に、昔目一つの鬼が出て農民の息子を喰らった。両親は竹原の中に隠れていたが、喰われる我が子の声が「動々(あよあよ)」と言っていたので、これが地名となったとある。
 また、『日本書紀』斉明紀には、天皇の葬列を朝倉山の頂から大笠を被った鬼が見ていたとあるが、中臣本の頭注や『愚管抄』は、これを豊浦大臣こと蘇我蝦夷の霊であったとしている。
 『日本書紀』神代紀には、スサノオノミコトが追放されて以来、蓑笠を身につけたまま屋内に入るのを忌む様になったとあるが、おそらく朝倉山の鬼の話もこうした俗信と関連したものであろう。
 なお、平安時代になると鬼は隠れ蓑・隠れ笠を持っているという話が喧伝され、『枕草子』・『狭衣物語』・『宝物集』巻一などで話題にされている他、散逸物語『隠れ蓑』を題材にしたらしい絵巻(『目無経』*1)も現存する。
 平安時代初期に成立した説話集『日本霊異記』には、寺の悪しき奴の霊が変じた「霊鬼」や、箱入り娘を首と指一本を残して喰らった鬼が登場しており、グミの木や獣骨を婚資に見せかけるなど、巧妙化している。
 体の一部を残すなどして、あっという間に人を喰らう鬼の姿は、『伊勢物語』や『日本三代実録』巻四十などにも共通するもので、人々の鬼への恐怖を窺わせるが、『今昔物語集?』には、や動く死体なら怖くは無いが、鬼が相手なら命に関るという意識が見られる。

 しかし、辞書『倭名類聚抄』が、鬼の語源を「隠(オン)」とする説を紹介している事からも察せられる通り、姿は判然としないものであった。
 平安時代中期までは、天狗も鬼も、「鬼けだもの」の住まう山という異界から時折出て来るものの、具体的な形状を伴っていない。
 宮中にも出るとされた鬼の話は、『枕草子』や『大鏡』などにあるが、こちらもその姿は不明のままであり、仏教の立場から執筆された『法華験記』に、金椀(かなまり)の様な目をしていたなどと記されているのも、仏教の鬼神のイメージが強いのではなかろうか。
 『今昔物語集』では、板・赤い単衣・油壺の姿をしたものが鬼と呼ばれているが、これらは天狗や雑多な「変化のもの」、動物や器物の霊とは区別されており、人に危害を加える霊的存在の総称が「鬼」であったらしい。
 鎌倉時代にも赤ら顔で半裸の疫鬼や地獄の鬼が描かれているが、頭部に角を生やした姿が定着するのは、室町時代になってからであった。
 なお虎の褌を身に着けているとされる事は、虎の毛皮が異界のイメージを持っていた事に由来するらしく、安易に「丑寅」説をとる訳にはいかない。

 「鬼けだもの」が山に住むという概念の出典は、『宇津保物語』(10世紀前半)。『堤中納言物語』所収「虫愛づる姫君」(平安時代後期)には、「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言い回しがあるが、鬼の姿が具体的に考えられていたのか否か、定かではない。
 『源氏物語』に鬼の絵の話が出て来るものの、漢籍の言い回しの引用である。
 ただ、もののけ(生霊・死霊)を描いた絵が平安時代中期に存在していた事が、『紫式部集』から知られる他、既出の『目無経』には、ザンバラ髪で角を生やしていないが、三本指の疫鬼が描かれており、少なくとも12世紀の末には、この世ならぬものの視覚化が行われていたと見える。地獄絵も平安時代中期にはあった。
 12世紀半ばに成立した『今昔物語集?』には、目一つや一本足の鬼たちが参加する「百鬼夜行?」が描写されており、13世紀初期の『宇治拾遺物語』には、馬の顔をした鬼が出て来たとあるから、もう少し遡るかもしれない。
 菅原孝標女作とされる『夜の寝覚』に、目一つをバケモノの特徴とした台詞が出て来るのも、異形=鬼としていた事によるのであろう(但し奇形児説は根拠薄弱)。
 なお、有名な大徳寺真珠庵本 『百鬼夜行絵巻』は、古い器物の霊の行進を描いたものであり、平安時代の異形の移動とは別物である。

http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/min/1106843774/16-20より
作:山野野衾 ◆a/lHDs2vKAさん

最終更新:2005年07月30日 18:22

*1 『目無経』とは、散逸物語『隠れ蓑』の絵巻が後白河院のサロンで製作されようとしていた所、後白河院が崩御されたので、急遽白描画の上に経を書き、供養にあてたもの。鬼は三本指であるが、この特徴は近世まで受け継がれる。ザンバラ髪で髷を結わず、烏帽子もつけていないのは、人外を象徴したもの。髪型は秩序を表しており、髪を結わない○○坊主、爺、婆、小僧、女といった妖怪が多いのは、おそらく秩序外の存在である事を暗に示したものであろう。