撫川城


城主

藤井久任

別名

高下ノ城・芝揚城・泥城・小倉城・撫川陣屋

遺構

曲輪・水堀・石垣・櫓台

歴史

「備中府誌」によると、寛治年間(11世紀末)に藤井久任が築城したと言われている。
さらに源平合戦の頃に、平家の武将妹尾兼康の一族が居館を築いていたとされる。
 撫川城の説明板には本格的な築城は、松山城の三村氏によるとかかれており、毛利氏と組んだ三村氏が備前の宇喜多氏に対して出城を築づいたものと思われる。毛利氏に離反した三村氏が備中兵乱で滅亡されると城は毛利氏のものとなり、そのころ庭瀬城のあたりまでに拡張されたとされる。
 高松城の水攻めの際には、井上有景が守るがこの城は、落城してしまうが、堀を巡らせたこの城を落とすのに寄せては多数の死傷者を出したと言われている。その後撫川城は宇喜多氏の属城となり、戸川氏にあづけられる。

 慶長四年に宇喜多氏の家中騒動で徳川家にあづけられた、戸川氏は関ヶ原で東軍に与し、その戦功で備中の都宇(つう)、賀陽両郡のうち2万9千石を与えられ、庭瀬に近代的城をつくり城下町を整備した。
 しかし、4代目の安風には後継者が居なく改易となり、庭瀬城は2つに分けられ、新城とされる庭瀬城に、天和3年に下総から久世重之が入るも3年後に移封され、元禄6年に松平信通が2万石で入封。しかし同10年に松平氏が出羽に移封した後、板倉重高が同じ2万石で入封し、明治維新を迎えている。
 また、改易後の戸川氏は、安風の弟道富が名跡を継いで、五千石を領し、その子孫が、『古城』と呼ばれた撫川城に陣屋を築いた。

概要

境目七城(宮地山城冠山城高松城鴨庄城日幡城撫川城松島城)の1つ。

現在も周囲を水堀で囲まれた本丸が残り、本丸の側面は野面積みの高い石垣が残っており東北・北西側には櫓台が残っている。また陣屋時代の礎石が城内には点々と残っている。さらに城跡のすぐ東には、後に戸川氏により(当城も取り込まれる形で)新造された庭瀬城が存在する。後に庭瀬城と撫川城は別の藩主が住むようになり、撫川には戸川氏・庭瀬には板倉氏になったため、一つの城を分ける形になり古城であった撫川城が独立し撫川陣屋となった。

縄張り図


所在地

岡山市北区撫川 

交通

自家用車

撫川城内に停められないこともない。

公共交通機関

山陽本線『庭瀬駅』下車 徒歩 分

登城口



注意



写真

遠景写真・碑

本丸西から(濠と石垣)

城内写真

本丸 土塁
東北櫓台 北西櫓台


登城記録・感想等

ぴっちゃん 05/5/4(晴)

昔本を読んで一度行ってみたいなぁと思っていたお城です。意外に近い場所にあったのですがなかなかいけませんでした。
(庭瀬城とも楠の大木が生えているのでそれを目印に行きましょう。)民家の間すり抜けていくと、急に堀と石垣が出てきます、そして雰囲気は、城そのものあまり広くはないし、そんなに石垣も高くないですが。苔むした野面積みの石垣などをみると、古城の感じがまざまざと見せつけられます。撫川城は、堀・石垣・櫓台などよく残っています。

こた 09/7/4 (晴)



居館候補地

500メートル東には撫川城内を2つに分けた片方の庭瀬城が存在する。

近くの観光名所

犬養木堂記念館

参考文献

「日本城郭大系 13」「岡山市史」

更新日

2010年03月03日

最終更新:2010年03月03日 00:19
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