日幡城


城主

日幡六郎兵衛

別名

日畑城・大日畑城

遺構

曲輪・堀

所在地

倉敷市日幡 

歴史

日幡城の築城時期はあきらかではないが、おそらく戦国期以降に築城し、城主として日幡氏が代々居城していたものと思われる。
この城が歴史に登場するのは、永禄7年の龍ノ口の合戦として備中の侍大将に日幡六郎兵衛が活躍している。天正十年四月十一日、羽柴秀吉が備中攻めのために、石井山に陣替えし、軍勢は辰田村に陣を築いた。そのとき日幡城には日幡六郎兵衛が在城し、安芸から加勢にきた上原元祐も同城の尾根続きの楯築山(現楯築遺跡)に陣を張り、互いに守城につとめたが、秀吉が花房助兵衛・戸川平右衛門に送りの品を届けさせたので元祐は逆心を起こした。城主六郎兵衛にも誘いがあったが断り、六郎兵衛は元祐を諫めたが承知せず、元祐を討ち取らなければと覚悟して、本丸に帰るも弟八郎左衛門・家臣大森茂八も以前から元祐に通じ、元祐の家来数十人が待ちかまえていた。六郎兵衛は二人を切り伏せ三人に手負い与えるも、元祐の槍に突き刺されてしまった。

概要

境目七城(宮地山城冠山城高松城鴨庄城日幡城撫川城松島城)の1つ。で、毛利氏本陣に最も近い位置に位置する。
日幡城は足守川の中流域の右岸標高40mの低い独立丘陵の一角にある丘城。西は丘陵によって視界は遮られるが、他は備中平野を見ることができる。北方1キロには旧山陽道を望み、北二キロには鴨城、約4キロには高松城、南には松島城がある。
遺構は、現在民家となっている(石材店)の裏から曲輪が存在する。中央部に主郭を置き西と東に曲輪を配置する形式と思われるが、曲輪内が荒れ地となっているため主郭まで行くことができない。(H21年 主郭西の小曲輪を確認)
また用水路となってる部分も堀と言われるが、用水路の建設により堀の大部分が破壊されている。さらにその東側にも曲輪が存在するが、開発により遺構の状態は判然としない。(H21年 西側の曲輪は民家により完全に破壊されている。)

縄張り図


交通

自家用車

付近に駐車スペースなし

公共交通機関

JR吉備線吉備津駅から徒歩 分

登城口

無し

注意

私有地である。


写真

遠景写真

北から 南から

城内写真

石碑 西の丸
本丸の切岸 本丸の西側の曲輪


登城記録・感想等

ぴっちゃん(05/08/10)

サイクリングがてら行ってみました。足守側西側にある石材店の裏にある小さな小山が城跡です。
石材店には石碑が2つ存在し、ここが城跡だということを教えてくれます。城跡の方なのですが、石材店の真裏になるので今回は登るのを辞め、北側から全景を取ることにしました。北側に行き城跡を眺めるとちょうど用水路が本丸(東の丸)と出丸(西の丸)の間を流れています。この用水路は元々昔の堀跡に作ったそうです。出丸は竹藪になっていて鬱そうとしていました。

ぴっちゃん(09/08/30)

再びやってきました。石材店には昔より立派な石碑になっていてその側には小さな祠が作られていました。
用水路から見ると西の丸には住宅地により昔とずいぶん雰囲気が変わりました。東の丸の方はと言いますと、一弾高くなった小さな藪になっている小曲輪が存在しその奥に存在する非常に急で高い切岸に囲まれた東の丸が見えます。が・・私有地でありそうですし、登る気が全くなくなったので結局今回も怖じ気づいて(?)登ることは辞めました。

居館推定地

北に向屋敷という地名あり

近くの観光名所



参考文献

「日本城郭大系 13」 「倉敷市史」

2010年04月24日

最終更新:2010年04月24日 00:10
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