真っ白なキャンバスを純粋無垢な少年少女と捉え、そこに色んな色を足していきます。
赤や青、緑に黄色。様々な色は少年少女に色んな世界や景色を見せ、彼らに知識を与えます。
各々が混ざり合わないように、綺麗に足された知識は共存できる色をのみが混ざり合い、新たな色へと変化します。
ですがそこに悪、つまり黒色が足されると、足された色はすべて黒に染まります。
第三者、白色の手を借り、乾いたのちであればまた何事も無かったかの様に白色のキャンパスができあがりますが、そのキャンパスの白は「見せかけの白」
どれだけ白く見えてもそれは表面上のみの話であり、1度足された色、受け入れてしまった黒は消えることはありません。
水滴という名の誘惑に負けると白のメッキは剥がれ、また醜く染まった黒色が現れ同じ過ちを繰り返します。2度と純粋な白に戻ることはないのです。
各々が混ざり合わないように、綺麗に足された知識は共存できる色をのみが混ざり合い、新たな色へと変化します。
ですがそこに悪、つまり黒色が足されると、足された色はすべて黒に染まります。
第三者、白色の手を借り、乾いたのちであればまた何事も無かったかの様に白色のキャンパスができあがりますが、そのキャンパスの白は「見せかけの白」
どれだけ白く見えてもそれは表面上のみの話であり、1度足された色、受け入れてしまった黒は消えることはありません。
水滴という名の誘惑に負けると白のメッキは剥がれ、また醜く染まった黒色が現れ同じ過ちを繰り返します。2度と純粋な白に戻ることはないのです。
そしてそれをわかっていながらも反省し、乾ききった混色を誰かが白で塗りつぶし、水滴によってまた濁った色が表現される。
これっていわゆる"共依存"だと思うんですよね、白色役の人間はキャンバス役の人間を「私がいないとこの人はダメになる」という認識で捉えますし、
キャンバス役の人間は「白色がいないと私はダメなんだ」という認識で捉えられます。
そういう見方をしてみるとただ白いだけの真っ白なキャンバスを好みの色で染め上げていくのってものすごく興奮しませんか?
僕はそう思います。
キャンバス役の人間は「白色がいないと私はダメなんだ」という認識で捉えられます。
そういう見方をしてみるとただ白いだけの真っ白なキャンバスを好みの色で染め上げていくのってものすごく興奮しませんか?
僕はそう思います。
49:19頃より
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