『推敲中』
とある場所に一人の男が囚われていた。
僅かばかりの灯りに照らされた男の身体はやせ細った老人のようであり、その手足は鎖によって石の壁に拘束されている。
息はまだ辛うじてあるようだ。
だがその命脈は既に尽きかけており、身体からは死の匂いが漂い始めていた。
男はもはや自身の名前すら思い出せない。
深い霧に沈みゆく頭の中、自分がなぜこんな目にあっているのかを思い出す。
思案そのものを邪魔するかのような何かの妨害を感じつつ、男は靄の中の記憶を探り当てるかのようにゆっくりと…。
そして僅かな記憶の切れ端を掴み取り、それを手繰り寄せ始めた。
「シャアッ!」
一閃、恐怖に固まった商人の首が飛ぶ。
刀を振るった男は血を噴き上げながら倒れる骸を乗り越えて部屋を漁り、やがて小さな小箱を見つけると。
「これだな…?よしてめぇら!後は好きにしな!」
手下どもが歓声を上げ、主を失った屋敷中に散らばっていく。
後は目につく金目の物を奪いつくし、痕跡を残さない為に火を放つだけだ。
楽で簡単な仕事。
今回の仕事は付き合いのある闇商人からの依頼だが、正直言って普段やっている事と大差はない。
男はとある賊の頭領であった。
多くの手下達を率いて各地を荒らし、男の率いる賊の名はこの国において『悪逆十指』に数えられる程度には恐れられている。
しかし男はそれを不満に感じていた。
自分はそんな程度で終わる男ではない…と。
いずれは自分の名を広い世界に轟かせてやるとすら考えているのだ。
壮大な夢である。
だが今は目の前の仕事であり、奪った小箱を依頼人に届けなければならない。
適当に手にした箱を弄りながら、男は今後の事を考えた。
此度の依頼人である闇商人は強奪した品を買い取ってくれる上客である。
だがここは適当な言い訳を述べて報酬上乗せを要求するぐらいは構わないだろう。
後は戦利品共々を売りさばいた金で悠々自適に過ごすのも悪くはない。
最近は少々派手にやり過ぎたという自覚もあるのだ。
流石に帝国もこれ以上は黙っていない筈である…。
男が手下達に暫くの休業を宣言したのは、予想以上の報酬を受け取ってすぐ後の事であった。
国の中央たる帝都の一角に、高い壁に囲まれたもう一つの街が存在している。
この街の名は『
春龍城』と言い、この広大な
大慶帝国に数多ある花街の一つ。
そしてそれらの中でも最も豪奢で、大多数の民にとって最も縁が遠い場所として名を馳せていた。
理由は至極簡単。
『民が一生を費やし稼いだ金も、ここでは茶の一杯でその全てを持っていかれる』
このように謳われる程の娼館街であったのだ。
結果、春龍城を利用出来るのは一部の限られた者のみとなる。
王侯貴族と呼ばれる存在や、それに近しい権力者。
知恵と商才、そして己の度胸のみで世界を相手取る大商人や大悪人。
持てる力と技、それ以上の幸運によって誰にも無しえぬ勝利を手にした冒険者。
このような者達のみが、大陸中の欲望を煮詰めたようなこの場所で一夜を過ごす事が許されるのだ。
そんな魔境の如くな街の通りを、男は一人で歩いていた。
男がここに居る理由は、闇商人から頼まれた小さな荷物の配達である。
正直断る事も出来たのだが、手間賃として提示された金額が予想外に大きかった為に引き受けたのだ。
それに、向かう先が帝国一と謳われる娼館街と言う好奇心も後押ししてくれた。
荷物の届ける先はこの街の外れにある宿との事。
遊ぶのは配達を終えた後からでいいだろう。何せ夜はまだこれからなのだから。
男は普段の習慣なのか、往来の真ん中を威圧するかのように練り歩く。
それは自分が大勢の手下を束ねる賊の頭であり、『悪逆十指』という"誇り"を持っていたからだ。
途中で目についた店を舐めまわすように眺め、時にはすれ違う者に暴言を吐きながら。
周りの連中など恐れるに足りない。どいつもこいつも自分より軟弱だと思いながら。
男は通りの中央からやや左を歩く…。
心の底から言い知れぬ不安が鎌首をもたげ始めている事に気が付かないふりをしつつ。
だが、往来の半分程を進んだ所で男の足は止まる事となる。
ここに居るどいつもこいつもが、自分の事を全く恐れていないのだと認めるしか無かったのだ。
他の街ではこのような事は無かった。
男が歩けば周囲の者は波が引くように道を開け、男の視界から逃れるように目を逸らして隠れ出す。
しかし、この
春龍城ではまるで自分の方が…。
"春龍城を利用出来るのは一部の限られた者のみ"
男は自分が大悪党という誇りを持っていた。
しかしここで享楽に耽る連中は、自身と比べる事すらおこがましいぐらいに"格"そのものが違うのだ。
巨竜は自身の足元で騒ぐ小鬼の存在など気づかない。
自身が未だ無事であるのは、単に彼等の目端にすら入っていなかっただけである。
そして
春龍城の通りの果てに辿り着いた頃。
男の"誇り"とやらは完全に崩れ去り、その歩みは物陰に隠れて進む
鼠の如くになっていた。
男の目の前に建つ小さな楼門。
そこに据え付けられた看板には擦れた文字で"春龍飯店"と書かれている。
闇商人から教えられた、宿と言う体の妓楼の名で間違いない。
だが、その館を前にした男の顔に浮かんだのはあからさまなまでの怪訝な表情。
この建物を一言で表すなら『失敗した場末の娼館』である。
楼門の先にある小さな庭は手入れがされている様子もなく、その奥に建つ本館には灯りの一つすら確認できない。
歓楽の夜城に紛れ込んだ異物と思える程の雰囲気に、男はひたすらに戸惑ったのだ。
(本当に、ここでいいんだよな?)
思わず不安になった男は懐から預かり物の荷物を取り出し、それを見つめる。
それは小さな箱だった。
木で出来ているように見えるがその手触りは木ではなく、魔法的な何かによって厳重な封がなされている。
中に何が入っているのかは分からないが、こんな場所で受け渡しされるようなモノだ。碌なモノじゃないのは確かだろう。
(そういえば)
この箱を誰に渡すのか、何故かそこの記憶が曖昧になっている。
闇商人からこの妓楼に荷物を届けてくれと頼まれた記憶はあるが、不思議とそれ以外の事柄を思い出せない。
配達を引き受けたのは闇商人への義理だった筈?
その程度の話なのに、絶対にその依頼を完遂しなければならないという使命感がふつふつと湧き上がってくる。
男は己の状況に僅かに戸惑いつつ。
やがて意を決したのか春龍飯店の楼門をくぐり、庭の先に建つ本館の扉に手をかけた。
「邪魔するぞ!」
なけなしとなった虚勢を張りつつ建物内に入る。
普通の娼館ならすぐさま出迎えの禿や妓女が現れ、すぐさま奥の間に通してくれるだろう。
だが男の目の前に広がるのは灯り一つない、淀んだ暗闇に沈む玄関広間。
勿論ではあるが、誰かが出て来るような様子も無い。
「…」
なのに暗闇の中から見えない何者かに見られているような気配。
これは『仕事中』にも幾度か感じた危険な兆候だ。
男は冷や汗を滲ませ、いつも腰に差している剣の柄を握り締めようと手を伸ばした。
だがそこにある筈の剣は無く、この街では武器の所持が禁じられていた事を思い出す。
つまり丸腰状態。
考えるよりも先に身体が逃げの姿勢に入る。
しかし男の行動を察したのか、暗闇の中の気配達も"獲物"を逃すまいと…。
「ようこそお越し下さいました」
透き通るような声が聞こえたと同時、広間の吹き抜け上階部分に小さな灯りが現われた。
その瞬間、男に殺到しようとしていた気配達は霧散するかのように消え去り、淀んでいた空気が丸ごと入れ替わったかのごとく清浄なものとなる。
とりあえず、その声と灯りのおかげで男は危険な状況を脱した事を実感できた。
肺腑から安堵の溜息が絞り出され、早鐘のように跳ね続ける心臓をなんとか落ち着かせる。
それでも余裕が生まれるまで深呼吸数回分の刻を要したが、一先ず礼だけは述べようと声を発した灯りの主の方へと視線を向けて息を呑む…。
仙女の如くに美しい女がそこに立っていた。
手に持つ魔石行燈の朧げな灯りに照らされた女は微笑むと、階段を降りて男が佇む広間へと。
そして見惚れて固まる男の前で優雅に一礼し。
年の頃は二十代後半だろうか?
長く艶やかな黒髪、切れ長の眼の下縁は赤い化粧で彩られ、小さな唇にも同じ色の紅が差されている。
長身で全体的にほっそりとしつつ、だが出るべき所は出ているその身体を包むのは、赤い芙蓉の花の刺繍が入れられた清楚と煽情が入り混じる白地の旗袍。
百人がこの女を目にすればその百人が心を奪われてもおかしくはない蠱惑的な美女。
現に男の眼差しは見惚れるを通り越し、その肢体を嘗め回すかの如くな視線に変わっていた。
(このような女を一晩抱けたならどれ程の…)
「…どうかなさいましたか?○○様」
女は粘体の如くな男の視線を咎めもせず。だがその一言で男を現に引き戻す。
「…なぜ俺の名を?」
男はそうつぶやいた後、自身が非常に間抜けな返答をした事に気がついた。
自分は仕事としてここに来たのだ。依頼主の闇商人から前もっての連絡が届いていてもおかしくはないだろう。
一瞬の"ばつの悪さ"に圧し潰されそうになりつつ、だがなるべくそれを表情に出さないよう努めて男は言葉を続けた。
「つまりあんたが荷物の受取人…で、いいのか?」
「ええ、そうですわ」
レイシーと名乗った女主人は微笑みのまま頷く。
見透かされているが、それでも敢えて流されたという気恥ずかしさが男を襲う。
そして同時にこれ以上もう何も言える雰囲気ではなくなってしまった感。
「さ、約束の荷物を」
レイシーに促され、男は懐の小箱を彼女に手渡す。
その際、僅かに触れた彼女の手の美しさと柔らかさはそれだけで値千金。
思わずその手を握ってやろうかと思える程だった。
「念の為に中身を検めますが…。宜しいですわね?」
「お、おう…。俺も中身は知らないが、それでもいいのなら検めてくれ」
男の返答にレイシーは桌子(テーブル)の上に箱を置き、何やら唱えながら揃えた人差し指と中指をその表面に滑らせた。
すると走らせた指先を追うように箱の表面が淡く輝き出す。
(魔法…!?いや、仙術か…?)
知識だけはあるものの、男はそれらの行為を目にした事は無いと言っていい。
仙人と呼ばれる者達は仙域と呼ばれる場所に引き籠っているし、その弟子である道士と呼ばれる者であっても基本的に市井と関わる事などあまり無いからだ。
まして自分達のような悪党との関りと言えば、どこぞで冒険者の真似事をした道士が山賊や魔物を討伐したとかその程度の話である。
(だが、これは…)
彼女の指先が流れるような仕草で箱の表面をなぞり、その後を燐光が追従して消えていく。
積み上げられた積み木の山を一つ一つ取り外していくような、それでいてどこか官能的な仕草。
箱の内側から鍵を開けたかのような小さな音が響いた。
それが男の意識を現実に引き戻し、直後に起こった出来事が男の意識を再び非現実へと。
(!?)
男の目の前で、箱が薄い布で作られた髪結帯(リボン)の如く解けていったのだ。
そして箱は解けた先から光の粒となった後、一粒一粒が桌子上の一点に寄り集まりだす。
目の前の光景が魔法や仙術の類である事は明らかだ。
頭の中ではそれが"そう"である事は分かってはいる。
だが実際に目にすると完全に理外の出来事であり、男はただひたすら呆けたような顔でそれを眺める事しか出来なかった。
その光景は一瞬だったのか、もしくは数刻なのか…。
曖昧な感覚の中、目の前にある桌子上に現れたのは飾り気のない翡翠色をした水鉢だった。
しかしこのようにして現れた物が"まともな品"である筈がない。
この水鉢から漂うのはひたすらに冥く、少しでも目を背けた途端に背後から襲い来るような邪気である。
「こ…」
「これは『■■■■』に◆◆◆を与える為の宝貝ですわ」
男の口から自然と出そうになった呟きに先んじてレイシーが答えた。
節々に男の思考と理解が追い付かない言葉も混じっていたようだが、宝貝と呼ばれる仙人の道具の話は聞いた事がある。
それはこの大慶帝国に存在する超常の力を持った者達が作り上げた道具であり、噂では世の理すら操り支配するともいう秘宝だ。
だが強大な力を持つが故、仙人に弟子入りした道士と呼ばれる者達であっても扱いきれないと聞く。
つまりレイシーと名乗る目の前の女の正体は…。
「それ以上の考えは無用に願いますわ、〇〇様」
手にした扇を広げて紅の差された口元を隠し…。
そしてほんの一瞬だけ、冷たい視線が男に向けられたのだ。
たったそれだけ。
だがそれだけで、男が目の前の女に抱いていた獣欲や何もかもが一気に霧散した。
同時に、まるで底なしの泥に嵌まり込んだとしか言いようのない感情が男の胸中を圧し潰す。
下衆な欲望だけでこの場に留まっていた自身の浅はかさがひたすら憎い。
「…ところで私(わたくし)、適度に腕が立つ殿方を探しているのです」
唐突に…。
まるで独白な如くの言葉がレイシーの口から発せられた。
「…え?」
一瞬、反応に遅れる。
それは自分に向けて発せられた言葉なのだろうか?と。
まるで言葉を向けた相手との途中に自分と言う"物"が置かれていたかのような感覚。
しかし、少なくとも男はこれ以上関わり合いになるのは嫌だった。
答えに詰まった男は思わず後ずさろうとしたが、何故か足が石になったかの如く動かない。
レイシーはゆっくりと、桌子を挟んだ向かいの男の方へと歩み出す。
彼女が歩を進める度に揺れる簪の飾り金具の音が破滅の音のように響き、そして。
「私は、貴方がいいのですよ」
男の胸元にしなだれかかりながら、
………
……
気が付くと朝になっていた。
(なんだこれは?)
男は困惑する。
何故かここまでの記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。
男は裸で豪華な作りの部屋にある寝台の上に腰かけており、
(お、落ち着け、よく思いだせ…)
「おはようございます、〇〇様」
寝台のシーツの中、そこに一糸纏わぬ姿の
レイシー・リュウンが横たわっている理由すらも記憶から抜け落ちていた。
記憶が飛ぶ。
「私、貴方様の事がとても気に入りましたわ」
そんな声に気が付くと、目の前のテーブル上に飲茶一式が置かれていた。
顔を上げ、テーブルの向かい側に視線を向けるとそこには席に座っているレイシーの姿。
「?????」
先程まで朝だった筈である。
だが今は天頂の太陽が少しだけ傾いた昼下がりだ。
先程の声は正面に座るレイシーから発せられたのだろうか?男はマヌケな顔をして「え…?」と、聞き返す。
「ふふ…、いけずな事をおっしゃらないで下さいまし」
彼女は困惑する男の手を取るとお互いの掌を合わせ、指を絡め、そして微笑み。
「私、貴方様の奥底に眠る素質を感じましたの」
唐突に、そのような言葉を男に囁いた。
「そ、素質…?」
「ええ、私の願いを成就に導く事が出来るような素質ですわ」
彼女の金色の瞳に男の姿が映る。
「この
春龍城に群がる、どのような者すらも持ち合わせていない…。貴方様だけが持つ素質」
蠱惑するかの美しい声。
レイシーは握った男の手を自身の頬に当て、誘うような眼で男を見つめる。
「ね…願い…とは…?」
男の質問にレイシーは微笑んだまま何も答えなかった。
男はそれに対し何の疑問も抱かない。それが当たり前であるかのように。
「貴方様は私の願いを叶える為、この
春龍城で好きな事を好きなだけ」
「………」
「何をしても全てが許されますわ…。今この時から…。この
春龍城の全てが貴方様の為にあるのですから」
レイシーの美しい顔が男の顔に重なり、その魂を蕩けさせる様な接吻が行われ。
そして男の意識と記憶は再び途絶える事となったのである。
男は自分よりも強い奴が嫌いであった。
男は自分よりも金を持っている奴が嫌いであった。
男は自分よりも権力を持っている奴が嫌いであった。
男は自分よりも弱い奴が嫌いであった。
男は自分よりも…。
男は自分よりも…。
開いた花は結実する。
男はここで全てを手にした。
男はここで好き放題に過ごす事を許された。
結実したソレは際限なく肥大していく。
好きなように飯を喰らう。
好きなように酒を喰らう。
好きなように女という女を抱く。
好きなように気に入らない奴を殴り飛ばす。
ソレは苗床の全てを吸いつくしていく。
ここでは男は王であった。
この城の主から王である事を望まれていた。
そしてソレはここに熟した。
薄暗い地下室。
ついに靄の中の何かを探り当てた。
男の意識が僅かにだが覚醒する。
(ここは…?)
自分が自分では無かったような感覚だけを覚えていた。
(…夢?)
そう、これは夢だ。
それもとびっきりの悪夢である。そうでなけれなならない。
身体を動かそうとする。
だが視線以外をまともに動かす事が出来なかった。手足に力が入らない。
ぼんやりと霞んだ視線の先、そこにあるのは鎖で拘束されている枯れ枝のように痩せ細った自分の手足だ。
(なんだこれは…?)
訳が分からない。
だがたとえそれを知ったとしても、男には既にそれに抗う力も気力も一切残されていなかった。
(…?)
男の耳に、灯の届かない暗闇の先から重い扉の開くような音が届いた。
それと同時にこちらにやって来る何者かの足音が聞こえる。
(…誰だ?)
その足音は徐々に近づき、やがて男の正面で止まると。
「ふふ…、まだ意識があるようですわ」
聞き覚えのある蠱惑的な声。
男はゆっくりとその顔を上げると見知った顔がそこにあった
レイシー・リュウン。
彼女が微笑を崩さずに男を見下ろしていた。
そこで靄に覆われていた男の意識がはっきりと覚醒する。
「…あ…、あ…」
男の喉からは声は出ない。
しかし魂の底から徐々に湧き上がってくる感情があった。怒りだ。
鮮明に記憶が蘇る。
この
春龍城で自分が今まで何をしてきたかを。
それは彼女が自分にそうする事を望んだからだ。
彼女が望んだからこそ自分は王のように振る舞った。
しかしそこに自分の意思は殆ど無く、言われるがまま、流されるがまま。
心の底では確かにそう言う望みはあった。だがそうなる事は望んではいなかった。
そこでふと、記憶が飛んだ時の出来事を思い出す。
この
春龍城にやって来た最初の日の出来事だ。その際には必ずこの女が自分の側にいて。
一度目の時も、二度目の時も、その後もずっと。
つまりそれらは…。
(何をした…!この俺に…!お前は一体…!この…!)
男の魂の底からの怒りの叫び。そしてそんな感情や思考は彼女には筒抜けであった。
「心外ですわ、私は貴方様の夢のお手伝いをさせていただいただけですのに」
男の感情を読み取ったレイシーはそう言うと悲しむように目を伏せ、広げた扇子でその顔を隠す。
だがそんな彼女から漂う気配は悲しみなどでは無く嘲笑である。その態度が男の怒りを更に引き上げた。
(畜生!俺を解放しろ!鎖を解け!今すぐお前を殺してやる!)
動く事のない身体を無理やりに動かし、枯れ枝のような手足が軋みを上げる。
手足を拘束している鎖は外す必要がなかった。
次の瞬間、まるで燃え尽きた炭のように男の手足は崩れ去り、その身体は冷たい石畳の上に無様に転がる。
「ふふ…、お怪我はありませんか?貴方様」
四肢を失い、うつ伏せ状態で這いつくばった男にレイシーが寄り添う。
彼女はそっと男の背中に手を添えた。優しく、愛おしく。
「貴方様のそのお身体は私にとってとても大切な物なのですからお気をつけてくださいませ」
そう言うと背に添えられた彼女の手が何の抵抗も無く、男の身体の内に沈み込み始める。
「!!!!!!!!!!?」
人知を超えた出来事に男は悲鳴にならない悲鳴を上げた。
不思議な事に一切の痛みはない。沈み込んだレイシーのその手は男の背中の皮や肉、骨を通り抜け、その内にある臓腑を直接撫でまわす。
「!!!!?!?!?!!!?」
痛みは無いのに臓腑を触られると言う感覚だけがあった。
もはやもうどうなっているのかすら男には分からない。怒りも恐怖も振り切った。発狂できるのなら発狂したいと願う。
「貴方様の内で育ったものはとてもとても大切なものなのです。そして貴方様はこの百年で」
臓腑で蠢くレイシーの手が何かを探し当てる。
その瞬間、レイシーは恍惚の表情を見せた。
「最高の苗床でしたわ」
レイシーは男の臓腑から探り当てた"それ"を掴み、ゆっくりとその手を引き抜き始め…。
男の意識は今度こそ完全な闇に落ちていった。
「ふふ…、なんて美しい…」
春龍城の最奥にある"春龍飯店"の一室。
怪しげな魔法の灯りと不思議な香の煙が充満する部屋の寝台の上でこの宿、もとい、春龍城そのものを取り仕切る邪仙"
レイシー・リュウン"は一糸まとわぬ姿で手にした珠を愛おし気に撫でる。
この珠の名は"欲燐魂晶"と言い、彼女が編み出したとある邪法によって極大まで膨らんだ人の欲望と精気を結晶化させたものであった。
遥かな昔から、人々はその欲を際限なく燃え上がらせる事によって様々な事象を数多く引き起こして来た。
たった一人の欲が時代に大きな変革をもたらす事もあれば、時にはたった一人の欲によって多くの国々が滅ぶ。
欲望とは人の持つ夢や希望よりも古く、最も深い根源からの力である。
そしてこの欲燐魂晶とはそのような人の持つ欲望の結末を、乗り越えるべき全ての過程や試練を飛ばしてその場に顕現させる事の出来る触媒であるのだ。
「本当に、今回の苗床は素晴らしかったですわ」
レイシーは手にした珠を見つめ、それが放つ光に酔いしれる。
通常の欲燐魂晶ならば小指の爪の先程の、くすんだ色をした欠片になるのが精々であった。
だが今、レイシーの持つそれは握りこぶし程の大きさをした完全な球体であり、しかも内から七色の光を放っている。
もはや神の宝珠とも言っても遜色無いぐらいだ。
ふと『一体どれ程の欲望を内に抱えればこれ程のものになれるのか』と、レイシーは思った。
「また、あのような逸材が欲しい所ですわね…」
もしくはあの苗床をもう少し生かしておけば、それとも作り直して再び苗床に…。
一瞬だけそのような考えが浮かんだ。
だが塵となって崩れ去った男を再生させるにはどれ程の労力が必要になるのだろうか?
「はぁ…、新しい素材を探した方がまだ楽ですわ」
直ぐに結論は出た。そして手にした宝珠を自らの胸元に押し当てる。
宝珠はゆっくりとレイシーの胸の谷間からその内に沈んでいき、やがて完全に身体の内に収まった。
「さて、次は一体どのような素晴らしい方が私の旅路の為の糧になってくれるのかしら…」
彼女は部屋の灯りを消す。
そして世界の理の外への旅路を夢見る事を願い、乙女のような表情で眠りに就いたのであった。
レイシー・リュウン。
彼女の目指す旅路の彼方。
それはこの世界の誰も知りうる事の出来ない場所である。
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最終更新:2022年07月12日 08:43