パキン…ッ
作業中に小さな音が響き、手には微妙な違和感。
儂はすぐさま作業の手を止め、手にしていた道具に目を凝らす。
その道具とは、1本の小さな研磨用ヤスリである。
宝石
彫金師として生計を立る儂にとって、命の次に大事な道具だ。
しかもこれはただのヤスリではない。
過去、幸運にも必要な素材の入手に成功し、そして名のある工匠に頼み込んで作ってもらった世界でただ一つのモノ。
ジュエルシェルの口吻内にある歯舌を加工した特注品なのである。
宝石を食い荒らし、己の殻の材料とするジュエルシェル。
どのような美しい宝石であっても奴らにとってはただの餌であり、そして宝石を取り扱う者達にとっての大敵。
だがその一方、どんなに硬い宝石や金属であっても削る事が出来るその歯舌は我々彫金師にとってまさに宝。
これで作られた研磨道具は
剣士にとっての伝説の剣、
魔法使いにとっての魔導の真髄が記された書と並ぶ究極の武器なのだ。
しかし道具とは常に消耗していくものである。
コレを手に入れて数十年。日々の手入れを欠かした事は無かったが、そろそろガタが来てもおかしくはない年月が経っていた。
逆に言えば今までよく保っていた方である。もし僅かな違和感に気付かず作業を進めていれば、手掛けていた宝飾品が駄目になっていた事だろう。
儂は手にしたそのヤスリを入念に調べ…。
そして複目の一部が破断している状況を目の当たりにしたのであった。
「やっちまったな…」
疲れた目を押さえて放心する。
愛用の道具を失った事で感じる虚無感は想像していたよりも深刻だ。
それでも作業台の脇に置いていた黒板を手に取り、手掛けていた依頼品の納期を確認する。
「…ふむ」
要所は既に仕上げているので、納期の方は何とか大丈夫だろう。
効率は落ちるものの、残った工程は予備の道具類で問題無い筈だ。
問題はこれからの事。
愛用品であったヤスリを直すには勿論、ジュエルシェルの歯舌が必要である。
破損している箇所的に、小さな個体一匹分もあれば十分だろう。
しかし…。
宝石の貝殻を持つジュエルシェルの発見例は極めて稀だ。
それに価値があるのは宝石で出来た貝殻のみであり、中身の方は一切の価値を持たない。
たとえ冒険者が運よくこれを見つけて捕獲したとしても、帰りの荷物を少しでも軽くする為に肉の方はその場で捨てられるだけなのである。
更にではあるがここ数年、この地域というか国周辺でジュエルシェルを見つけた、もしくは捕獲したという話を聞いた事すら無い。
つまり現状、待っていても入手なんてほぼ絶望。
最後の手段を除いては…。
今でこそ儂は彫金師として生計を立てている。
だが若かりし頃は家を飛び出し、宝石や金属の鉱脈を探す山師の真似をしていた事があるのだ。
気の合う仲間と共に山野を巡り、時には冒険者のように魔物と対峙し、幾つかの鉱脈を探し当てた。
そんな中で偶然にも大きなジュエルシェルを見つける幸運に恵まれ、仲間の伝手で彼の師であった工匠を紹介してもらってヤスリを作り、それを手に家業を継いで彫金師となったのである。
「過去の栄光よ、再び…じゃな」
これからの準備や冒険を考え、年甲斐も無くワクワクしてきた。
ドワーフの魂ここに健在。儂の心はあの頃から曇る事無く、未だ宝石の輝きを秘めていたのだ。
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最終更新:2025年10月03日 22:40