「明け方のひとコマ」
129 :明け方のひとコマ:2012/07/05(木) 22:56:47
うれしいレスばかり、ありがとうございます。
調子に乗ってまた投下します。
130 :明け方のひとコマ:2012/07/05(木) 22:57:40
闇が和らいでゆく。
深い藍が少しずつ白を混ぜ、ゆっくりと水色へと変わってゆく。
幾度となく、いろんな場所で見てきた風景だ。朝が来て、今日が始まる。
一日の中で、一番、凛と澄んだ時間だろう。
客なんて居ないコンビニのレジカウンターから、何となく外を眺める。
繁華街から少しはずれた通りは、歩く人も少なくて、まだ深い夜の底にあるようだ。
入口脇にさっき並べた、スポーツ紙の一面は芸能人同士の結婚か。
店内BGMは、誰に向けた訳じゃない調子の良い応援歌で、少しだけやかましい。
レジの横で温まり続ける揚げ物の油臭さに辟易しつつも、ぼんやりと一人、朝を待つ。
そういえば、小学生の頃は薄暗いうちから、父の道場で稽古に汗を流していたっけ。
実家は地方都市の片隅で、小さな剣道道場を営んでいた。
父親は先代からの看板を守る形で、師範として、生徒達に剣の道を教えていた。
当たり前のように、自分もその生徒の一人であり、いずれは父と同じ道を歩むと思い込んでいた。
真面目で規律正しく、公明正大、少し時代遅れな父は、ずっと俺の憧れだった。
何十、何百回と竹刀を素振りして、ヘトヘトになっただけ父親が褒めてくれるのをバカみたいに喜んだ。
擦り傷、痣なんかは勲章であり、泣くのは男の恥だと、厳しく教え込まれた。
父のランニングに連れ立って、朝靄の中、先を行く父を必死で追いかけた。
鼓動がどれだけうるさくても聞こえないふりで、父の背中だけを一点に見つめて、走り続けた日々。
なんで、思い出したりしたんだろう。今更思い出したって、辛くなるだけの過去だ。
……ぎり、と奥歯を食いしばる。
その先にあっただろう未来を、父の願いを、愚かしくも自分は粉々に砕き、踏みにじったんだ。
16歳の夏、破裂しそうな心臓をかばいながらローカル線に揺られた日から、あての無い日々が始まった。
「何もかも、悪いのは自分です。すみませんでした」
そうやって何千、何万回、自分の軽率な行動を謝り倒したって、もうなにも戻ってくる事はない。
何故、死ねなかった?
父親から浴びせられた視線で、馬鹿はやっと理解した。俺は、死ぬしかなかったんだ、と。
無礼にも別れの挨拶ひとつなく、田舎町で忌み嫌われた死に損ないは、せめて姿をくらます事にした。
転がる石には苔むさず。それでは目立ちすぎるから、と『野島恭一』という嘘を塗りたくった。
そこからは、恥の上塗りばかり。誰彼構わず肌を重ねては、悪銭を貰って生をぬすむ。
ふらふらと、生きたいのか、逝きたいのか。それすら、わからないまま漂っていた。
少し前まで、生ぬるい体温を夜と引きずったまま、誰かと迎える朝が、それでも嫌で堪らなかった。
逃げ回る事から始まった旅路。今日こそ、へまを打って野垂れ死にか。それとも過去に捕まるか。
いっそ、楽しい夜のうちに俺の息の根を止めてくれ。と、何度その晩の相手に頼んでみただろう。
…誰も本気になどしてくれなかったけど、ね。
本心は夜に置いてきて、昼間はずっと嘘をつく。そういう後ろめたい人間には、朝という時間は眩しすぎる。
澄み切った空気が、汚れた肌に、傷に、消毒液みたいにしみていく。
その程度の痛みなのに、毎日鼻の奥がツンときていた。
こんな大人を、子供の頃の俺が見たら「情けない」と笑うだろう。
ふと思い出したことを忘れるために、一回だけ、大きく息を吐いた。
「……馬鹿らしい」
忌ま忌ましく吐き捨て、眉間をぐっと押さえる。まだ少しだけ、朝は苦手だ。
俺の気持ちを察する様に、ドアチャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ」
マニュアルに倣って、笑顔を作り顔をあげると、見知った人物が立っていた。
「よう」
「…修さん」
名前を呼ばれた大柄な髭の男、田所修は、照れ臭そうにずんぐりとした上体を丸める。
「どうしたんですか?」
「あぁ、アキから聞いてな、ここでバイトしてるって。近くに来たから、その…迷惑だったか?」
俺の方から明かしていない働き先に、急に訪ねてきた事を、彼は恐縮しているようだった。
「全然。暇だったから、嬉しいです」
「そうか。よかった」
俺の返答を聞いて安心したのか、ふうっと一息ついて優しい笑顔を俺に向ける。
これだけの事なのに、ドクンと心臓が脈打ってしまう。
「近くに、って。こんな時間までお仕事ですか?」
「あぁ……。まあ、そんな所だ」
歯切れの悪い返答に、俄かに心がざわついた。
近辺で夜間工事はしていない。飲み屋も無い様な静かな街。少し先にあるホテル街。
嫌な妄想が頭をよぎる。
「…お疲れ様です」
「なぁに、頑丈なだけが取り柄だ。そんな顔すんなって」
こっちの苦い顔を、修さんは心配していると思ったんだろう。笑いかけながら俺の頭をポンポンと叩く。
「?…なあ、少しやつれたか?」
修さんは太い指を少し下に滑らせ、俺の頬を撫でる。
「ちゃんと飯食ってるか?お前はちょっと目を離すと…」
ザラザラと荒れた親指の感触と、袖口から、彼らしくない甘ったるくて華やかな濃い香り。
感情がないまぜになって、胸がつまる。
「やだな。俺なんかより自分の心配をしてくださいよ」
温かい手の甲に、俺の指を重ねた。名残惜しいけど、修さんの右手をやんわりと戻す。
「修さんが、一人で頑張っている理由は、ちゃんと理解してるつもりです。だけどっ…」
語気が荒くなったことに気が付いて、少しトーンを落とす。
「こうやって昼も夜もなく働いて、もし修さんに何かあったら、俺は……嫌です」
「……悪ぃな。恭一」
こっちが勝手な感情を押し付けてしまったせいで、修さんはばつが悪そうに頬をかく。
「でも、俺にはまだまだ余力があるからな。…もう少し、俺の好きな様にやらせてくれ」
俺を不安にさせまいとする修さんの笑顔に、それ以上踏み込めなくなる。
触れさせない領域を抱えているのは、お互い様だ。己の決意を相手にしては、誰も一緒には闘えない。
手も足も出せないなら、せめて笑顔で応援しよう。なんて事が出来るほど、俺は器用ですらないんだ。
「すみません、無理言って」
「ま、そんな顔すんなって。……それより、本当に飯食ってんのか?」
修さんからの質問に、少し呆れる。…まだ俺なんかの事を心配しているのか。
「大丈夫ですよ。最近は、ちゃんと食べるようにしています」
「そうか?楽だからって、コンビニ弁当みたいのばっかじゃあいかんぞ。ちゃんとバランス良く…」
「それ、ここで言いますか?」
指摘されてやっと、修さんは軽い失言に気付いたようだ。
「あっ……すまん。いや、俺としても、お前になんかあったら困るから…な」
何だそれ。ごまかそうとして、どんどん深みに嵌まっていってるじゃないか。天然だなぁ。
あたふたと少し照れたような言い草に、こっちまで気恥ずかしくも、嬉しくなってしまう。
「じゃあ、一緒ですね」
ついつい口元が緩む。今泣いたカラスが…というけれど、やっぱりこの人には、敵わない。
「さてと、コンビニにまで来といて、手ぶらで帰るのも悪いし…。たまには贅沢するかな?」
修さんは上着のポケットに手を突っ込み、小銭を確認する。
「あ、ここのエクレア、リニューアルでちょっとは美味しくなったんです」
「エクレア、か」
「嫌い、でしたか?」
「いやぁ…甘いモンは好きだが…。何つーか、似合わねえなぁ、と」
確かに、可愛らしくエクレアを頬張る修さんは、想像するだけで微笑ましい。
「そんなこと、無いですよ」
「顔に出てるぞ」
「ごめんなさい」
「まったく……しょうがねぇなぁ」
そう言いながら、修さんは楽しそうに笑う。
その優しい横顔に、俺は心臓の音をさとられないように笑顔を返した。
「ありがとうございました」
マニュアルに倣った言葉と、ドアチャイムの音に振り向きもせず、修さんは手を振った。
白む景色に、コンビニ袋をぶら下げた丸い背中が融け込んでゆく。
願わくは、あの缶コーヒーと栗どら焼きが、俺の代わりに愛する人を癒してくれますように。
空は、少し前まで夜だったことをすっかり忘れて、新しい今日を始める。
俺もぐぅっと背筋を伸ばして、今日を生きることにした。
【了】
最終更新:2012年09月04日 15:57