他人の体から見ても、世界は同じに見えるんだろうか。
ぼうっとした頭で、そんな事を考える。
おそらくは、違う。
クオリアだとか、そんな哲学的な事はよく分からないけれど、少なくとも、視力が全く同じという事は有り得ない。
身長も、眼の位置も違う。
それだけじゃない。
唾の味とか、歯の裏の舌触りとか。
普段意識しないような事だって、他人の体のそれは僕とは違う筈なのだ。
歩幅が全然違うんだから、歩くことだってままならない。
呼吸だって、いつも通りには出来ない。
身体のつくりからして違う相手だったら尚更だ。
詳しくは知らないが、男性ホルモンと女性ホルモンの量が異なれば、性格に影響を与える事もあるだろう。
なのに、体が入れ替わっても、僕は変わらず、僕として生きている。
きっと――考えるべきではないのだ、そんな事は。
そう、考えずとも良い事はある。
――それは。
それは、とても気持ちが悪い。
気持ち悪いのに、気持ち良い。
あの時の事は、二度と忘れないと思う。
僕にとって初めての性行為は、僕に犯される事だった。
その行為そのものは――かなりの困惑はあれども――ある程度は、僕自身も一応は納得して行われた事ではある。
でも。
あの――混ざり合う感覚が。
そもそも性交というものは、自慰と比べればプロセスは格段に複雑なのである。
まず、全身の皮膚と皮膚が触れ合う。
勿論視覚的な刺激もある。加えて聴覚も働く。
嗅覚も、味覚もそうである。
感触、音、味、匂い、目、耳、舌、鼻、皮膚。
五感の全てが使われる。
のみならず相手の反応を考えて動かなければならない。
受けた刺激に対する反応も、適宜しなければいけない。
頭も動くし、気持ちも動く。
劣情と興奮と罪悪感と自己嫌悪感と、色々な感情が綯い交ぜになる。
相手の事を考える。相手を受け入れる。
相手そのものになる。
そうして、舌を絡ませ、局部を観察し、体液を交換して――。
肉体と精神の両方を動員した結果、絶頂感が齎される。
それ自体は、良い事でも悪い事でもない。
性交が快楽を伴うのは、生殖行為が生物にとって必要不可欠な行為だからである。それ以上のものには成り得ない。
だけれど――それは、僕には当て嵌まらないのだ。
他人の体を奪い取れば、僕という存在はずっと生き続ける事ができる。
遺伝子も子孫も必要無い。
そんなもの、人間としての生き方じゃない。それ以前に、生き物として間違っている。
怖い。
だから、普段はそんな事は頭に浮かべないようにしている。
ただ、あの事を思い出す度に思うのだ。
僕にとっては、性交というものは、子孫を残す為の活動でも、情愛の結果行われる行為でもない。
相手と混ざり合うものだとしか捉えられないのではないか。
自分と相手の区別がなくなって、僕という存在は何処かに行ってしまうのではないか――と。
いや。
もしかしたら、もう僕は、とっくの昔に僕でなくなっているんじゃないだろうか。
そうでなくったって、こう何度も入れ替わっては、もう元の体には戻れないんじゃないか。
――違う。
違う違う。
思考が飛躍している。
今はそんな事を考えたって仕方がない。
僕は僕だ。
でも、僕の体は、今こうしている間だって、僕とどんどん離れている。
いや、僕の体は僕だから僕なのだ。
けど、今の僕の体だって、僕だから。
僕は、僕は僕は。
僕は――誰だ。
「大丈夫だ、ユージーちゃん、君は僕が――」
見知らぬ人は譫言を呟いている。
でもさ。
でも、そうじゃない。そうじゃなくって。
違うよ。全然違うよ。
全然違うよ。全く関係ないよ。
僕はそんな名前じゃない。
僕には違う名前があって。
けれど。
それも、本当は僕じゃないのかもしれない。
僕はずっと、僕じゃない誰かを僕だと思い込んでいたのかもしれない。
ああ厭だ。
だから僕は元に戻らなければいけないのに、僕が遠ざかっていく。
早くしなきゃ、僕の体は死んでしまうかもしれない。
噫。
死んだらどうなるのだろう、僕は。
死んでからも、頭をぶつければ体は入れ替わるのだろうか。
また入れ替わってしまったという事は、この現象は僕の身体ではなく、僕の人格が原因なのだから、有り得ない話ではない。
そんなのは厭だ。
入れ替わりたくなんてない。
普通に生きていたい。
そもそも、僕は生きていると言えるのだろうか。
人格と言っても、結局それは脳から発生しているものだ。
僕を知らない他人の脳で、僕という人格を、記憶を、再現する事なんて不可能な筈なのに。
駄目だ駄目だ、そんな事はどうでもいい。
だから僕は元に戻らなければいけないのに、僕が遠ざかって――。
やめてくれ。
何度もそう言っているのに、見知らぬ人は無視をする。
聞こえていないのかもしれない。
或いは、僕の方が言葉を発しているつもりになっているだけで、何も言えていないのかもしれない。
どっちが本当なのか、分かりゃしない。
現実と夢が混ざり合っている。
ここでは僕は何も出来ない。
ただしがみついて、体を揺らしているだけの存在なのだ。
この――背中。
背中。
背中の上には首があって、その上には
あたまが。
厭だ。
●
背に伸し掛かる重さが消えた事に違和感を覚えた
鵜院千斗は、直ぐ様状況を確認しようと後ろを振り向いた。
先程まで自分が背負っていた少女が、仰向けに倒れている姿が目に入る。
――しまった。
焦っていた。
止むを得ない状況だったとはいえ、三人もの人間を見捨てるような形での逃走。
親しい人間の死。自分の無力さへの怒り。そして純粋な恐怖による混乱は、少女への配慮を忘れさせていた。
加えて、ユージーは先程意識を取り戻したばかりなのである。
何かの拍子に背中から手を離してしまっても怪訝しくはない。
――畜生。
矢張り、自分は無力だ。
少女一人連れて逃げるだけの事すら満足にこなせない。
後悔とも諦観とも知れない、遣り切れない気持ちがある。
歯が鳴っている。全身が震えているのだ。
もう、どうなってもいいのではないかという、投げ遣りな気分さえ覚える。
千斗は犯罪者だ。しかも、三下だ。
幾ら無理矢理に働かされていたとしても、抜け出す機会が一度も無いという事は無かった筈だ。
十分に屑である。
人生の敗残者だと自覚している。
それでも。
この殺し合いは許せないと思った。
思ったところで如何する事も出来ない。
組織での立場と同じである。
知恵もない。度胸もない。腕っ節も弱ければ押しも弱い。
だから何度となく死線を潜った今となっても、下っ端達のまとめ役程度の事しか任せられない。
その程度の人間だと周囲からは認識されているし、事実そうなのだろうと千斗は思う。
千斗に出来る事は逃げる事と隠れる事しかない。
そして。
今は、それすらも上手くいかなくなったのだ。
現実から目を背けるように、千斗は倒れたままの少女へ向けていた視線を外した。
整備された道。その片隅に、何かがあった。
――あれは。
千斗の視線が、その一点に吸い寄せられる。
それは――。
茜ヶ久保一の死体だった。
血塗れの、醜悪な面の、虚ろな眼。
それが、悲しそうに、恨めしそうに、千斗を責め立てていた。
勿論それは幻である。
確認するまでもない、当たり前の事である。
幻覚の茜ヶ久保は一瞬で消え去った。しかし。
千斗の眼にはその光景が焼き付いていた。
――何もしないのか。
そこまでお前は堕ちているのか。そうなら屑の中の屑だ。
仮令出来ないことだって、しなければならぬ事はあるだろう。
それでもお前は人間か。
そろりそろりと、千斗は顔を上げた。
身体の震えは止まっていない。
それでもゆっくりと、ユージーに向けて歩を進めた。
足取りは重い。
情けない。
でも仕方がない。出来る限りやるだけである。
自分が駄目でも。
この少女だけは生きていて欲しい。
少女のすぐ側まで近づき、膝をつく。
「すまない、ユージーちゃん――」
すまないすまないと繰り返しながら、千斗は少女の名を呼んだ。
ユージーは眼を瞑っている。
反応は無い。
一時安定しかけていた千斗の内部で矢庭に不安感が増大した。
また気を失ってしまったのかも知れぬ。
動揺を抑えながら、ゆっくりと、刺激しないように、後頭部を持ち上げる。
そうすれば、ユージーの顔が間近に近づき、否応なしにその幼気な造形をじっくりと認識させられる。
しかし、その目は固く閉じられ、唇から言葉が紡がれる事もない。
動きというものがない。
それが意味するものは。
――息を、していない?
そう、千斗が思い浮かべた瞬間。
ぬるりと。
厭な感触があった。
片方の掌を見る。
赤く、生暖かい。
それは。
――う。
「うあ、ああ、ああああああああ」
ユージーの頭が滑り落ちて、地面に当たった。
厭な音がした。
「ああああ、あああああああ――」
尻餅をついた千斗はただ、赤ん坊のように唸り続けた。
制御不能の混沌とした感情の嵐の只中で、涙が溢れた。
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ。
こんな――。
こんな事で。
こんな簡単に、人が死ぬものか。
こんなのは嘘だ。
こんな展開は起こってはならない。
周りにあの女のような危険人物がいるでもない、自分とユージーしかいない状況で、死んでしまう訳がない。
本当なら、今頃は何処か落ち着いた場所で、ユージーと会話でもしていた筈だ。
あの、場違いな程に明るい声を聞いていた筈だ。
――違う。
これはただの逃避だ。
自分にとって都合の良い展開を妄想しているだけだ。
人は誰でも、簡単に、あっけなく、死ぬ。
子供でも知っている事を、千斗は考えないようにしていたのだ。
それは千斗が死に対して無知である訳ではなく、その逆で、近くで見すぎていた為である。
戦場で千斗が出来る事など何もなかった。
引っ切り無しに起こる閃光と爆発と共に、火の粉と血飛沫が飛んでいく風景の中、何人もの同輩が死んだ。
新入りに対する千斗の教えなど、実戦では何の役にも立たないものだった。
それでも。
千斗は生き残った。
それだけならば――ただ運が良かっただけだと思う事も出来た。
だが。
千斗の近くには、矢張り何度も死ぬような目に逢って、それでも生きてきたもう一人の男――茜ヶ久保一がいたのである。
茜ヶ久保は、千斗と比べれば遥かに強靭な肉体の持ち主である。
それでも、死なない訳ではない。不死身の人間など、この世にはいない。
寧ろ、自身の能力に任せて、無茶な戦法を取り、無謀に敵に挑んでいく茜ヶ久保は、千斗よりも死の可能性が高いポジションにある。
事実として、茜ヶ久保は幾度も重傷を負っている。
その度に前線に出られるまでに回復する事が出来たのは本人の精神力の賜物ではあるのだろうが、死んでいない方が奇妙な程である。
五体満足でいられた事すら奇跡的だと言っても良い。
そんな茜ヶ久保と共に過ごす内に――千斗は、思ってしまったのだ。
悪の組織。ヒーロー。超能力者。
そんな馬鹿馬鹿しいフレーズが、現実のものになっている。
まるで、非現実の、物語の中にでも入り込んでしまったようである。
ならば。
本当に、死なないのではないか。
自分の周りで死んでいった連中は殆ど自分と関わりのない人間だった。
それは、名も無き背景と同じようなものではないのか。
無論――そんな馬鹿げた思い付きを本気で信じ込んでいた訳ではない。
ただ、頭の片隅には、何時でもその思い付きが存在していた。
そんな妄想を浮かべていなければ、死と隣り合わせの現実には耐えられなかった。
それを、いつの間にか現実と混同していた。
全ての結果はテレビの中の特撮番組の如く、予測可能な、予定調和な物だった。
ヒーローには負ける。酷い目にも逢う。それでも自分と、その周囲の者は死にはしない。
その筈だった。
そして――。
茜ヶ久保は、千斗の目の前で死んだ。
現在になって、その幻想は完全に打ち砕かれたのだ。
――畜生。
「畜生オッ」
意味のない叫びを上げる。
これは紛れも無い現実である。それは理解出来ている。
理解っているからこそ何も出来ない。より一層腹立たしい。
おう、と虚空に向かって吠えた後、コンクリートの地面へと思い切り拳を叩き付ける。
ただ痛みを感じるだけである。
遣り場のない感情を外部に向けて発散する行為は、更に感情を増幅させるだけに終わる。
結果、行為はエスカレートしていく。
拳に代わり、頭部が地面に当たる。
痛みが増した他は、何が変わる訳でもない。
それは無意識に行われる、千斗にとっての一種の自己防衛法であった。
先を予測する事が出来ない局面に立たされてしまえば、行動を起こす前に逡巡せざるを得ない。
しかし、それでより良い判断が下せるとは限らない。
迷いの末に導き出された行動の結果として事態が悪い方向に推移していけば、後に残るのは余分な後悔のみである。
そこで、思考自体を停止する。
同じ行為が繰り返される限り、それは単なる予定調和に過ぎない。
予測不能の現実よりも余程安心できる。
自虐的な意味すら持たず、ただ行為だけを繰り返す。
肉体的苦痛にはいずれ慣れる。
慣れてしまえば、現実感は急速に失われていく。
混濁する意識の中で――千斗は、過去という名の夢に浸っていた。
●
その日、千斗は組織の一員である
水芭ユキと共に喫茶店で食事を摂っていた。
未だ未成年の少女のユキから食事の誘いを受けた時には驚いたが、事情を聞けばどうという事はない。
以前にユキが行った単独行動を目撃した千斗に対する、いわば口止め料のようなものだという事だった。
それならば、千斗も最初から報告する気は無かった。
ユキの行動に感ずる所があった訳ではなく、単に、自分の監督不行届を咎められる事が嫌だったからである。
本当にユキの事を思うのならば――こんな組織など、一刻も早く辞めさせるべきなのだ。
そんな事は実行に移せないし、口にも出せないのだが。
「私の――」
ぼそりと、ユキが呟くように言った。
「私の両親は、ブレイカーズに――」
「ああ――いいよいいよ、そういうのは」
その手の話は苦手だ。
第一、ユキの両親の話は本人から何度も聞かされている。
それだけ尾を引いているという事なのだろうし、心情は理解できなくもないが、千斗としては下手な事を言う訳にもいかず、黙って頷く事しかできない。
気が重くなる。
どうせ組織から抜け出せないのならば、気楽にやっていきたいと思っていたのである。
「――そうですね。近くから見守ってくれてるって、そんな風に思うだけで、いいのかもしれません」
口調に反して、ユキの表情は硬い。
本心から出た言葉ではないのは明白である。
それが分かっていても千斗が言える事など何もないから、黙したまま下を向き、コップに注がれた氷水を一口だけ飲んだ。
舌が痺れるような冷たさだけを感じた。
――氷。
異なる液体同士が一度混ざってしまえば、元の状態に戻す事は不可能であるという。
ユキの能力ならば、どうなのだろうか。
温度の差などを感知して、特定のものだけを凍結させるような事は可能なのだろうか。
そんな、今の状況と全く関係のない、どうでも良い事をぼんやりと考えていた。
「あ――」
緊張したようなユキの声が聞こえ、慌てて千斗は顔を上げた。
「あ、ああ――済まない、ユキちゃん。少し疲れててね――」
「そりゃ大変だなァ鵜院。こんな奴と付き合ってねえでさっさと帰って寝るといいぜ」
唐突に、聞き覚えのある声が聞こえた。
千斗が恐る恐る顔を向けた先にいた人物の顔は、予測通りのものだった。
「あ、茜ヶ久保さん――」
オウ、と横柄に応えた茜ヶ久保一は、そうする事が当たり前のように千斗の隣に腰を下ろした。
「――貴方がどうしてここに?」
白地に警戒した態度を取りながら、ユキが問うた。
「喉乾いたからサ店でジュース飲む事にして、偶々お前ら見つけたんだよ。それとも何か? 俺はこんな場所に来ちゃダメとか抜かす気か?
つうかさ、お前が俺のやる事に口出しする権利があると思ってンの? 俺は幹部、お前はヒラだろうがよ」
物凄く凶暴な面相で茜ヶ久保が反応した。
茜ヶ久保の言う事が本当かどうかはさて置き、警戒心を浮かべられるのも無理はない。
「ま――まあまあまあまあ、二人共落ち着いて。あ、どうも――ああいや、注文は後でいいですから」
困惑していた店員からコップとおしぼりを受け取りながら、何とか場を落ち着けようとする。
組織内でも問題児として有名な茜ヶ久保と言えども、流石に白昼堂々、人目に付く場所で暴れ出すような事はない――と、思いたい。
「俺は落ち着いてるっつうの。先に喧嘩売ってきたのはユキの方だぜ――」
文句を言いながら茜ヶ久保は氷水を一息に飲み干し、更に、千斗のコップにも口を付けた。
喉が乾いていたと言うのは事実だったようである。
「で、疲れてるんじゃねえのか鵜院。何ならタクシー代くらいは出すぜ」
「い、いや、そこまでして貰わなくとも」
「ふん――まあいいけどな。ああ、何黙ってんだよユキ。オハナシ続けりゃいいじゃねえかよ。
見守ってくれてるゥ、とか、面白そうな事言ってたろ」
挑発するように茜ヶ久保がユキに向けて言う。
「――ええ、言いましたが。何か気に障りました?」
ユキも茜ヶ久保をキッと睨む。
この二人、齢は近いが非常に相性が悪い。
茜ヶ久保の所業とユキの性格を考えれば当然とも言えるのだが、それにしても積極的に争う姿勢を示すのは如何なものかと思う。
千斗と違って――。
茜ヶ久保もユキも、悪党商会という組織に対して特別な思い入れを持っているという事は共通しているのだから。
茜ヶ久保は顎を引く。
「別にィ――ただ、お前の両親は不幸だろうなって、そう思っただけだよ」
「どういう――ことです」
「どうもこうもねえよ。自分の娘が悪事に手染めてて、それを見てる事しかできねえんだから不幸だろうよ。
ああ――お前の両親も悪人だったとしたら喜ぶかもしれねえな。訂正するわ、悪りぃな」
「――」
一瞬、場の空気が凍った。
文字通りの意味で――で、ある。
「オイオイオイ、何湿気た面してんだよユキ。お前が言ってたのはそういう事じゃねえかよ。
まさか悪党商会がどんな組織か知らねえとは言わねえよなあ?」
「それは――」
反論できない――のだろう。
確かに、ユキが一般人に対して手を出す事は――少なくとも千斗の知る限りでは――無い。
しかし、自ら望んで犯罪結社に身を置いている事は如何ともし難い事実である。
更に言うなら、茜ヶ久保のような人間とは反目してはいるが、組織の方針自体に意見をする事は無い。
公私混同をしていないと言えば聞こえはいいが、結局のところ、消極的であれ、殺人行為そのものは受け入れてしまっているのである。
面白くねえと茜ヶ久保は毒づいた。
「け――この程度で黙るなよ。あのな、徹頭徹尾終始一貫した行動を取れる奴なんていねえだろうよ。どんな奴にも矛盾はあるぜ。
俺だって人間嫌いだが、悪党商会の人間だけは別だとかも思ってる訳だからな。問題は」
手前がそこんとこを分かってるかどうかだと茜ヶ久保は言った。
「ええと――それはどんな意味なんです? 茜ヶ久保さん」
黙っているユキに代わって千斗が質問した。
本当に気になる事があった訳ではなく、単に間を持たせようとしての行動である。
「あ? 大した意味なんてねえよ。ただ、コイツが死んだ人間にも出来る事があるような事言ってたからな。
ロクに考えもせず適当な事抜かしてるんじゃねえかって腹立っただけだ」
「はあ」
死後の世界や霊魂などの存在を信じていない――という事だろうか。それにしては黒魔術なるものにも興味を持っているようだが。
――まあ。
黒魔術と一言に言っても、様々な種類がある事程度は千斗にも分かる。
茜ヶ久保が行う黒魔術が特定の宗教に則ったものならば、その宗教の教義も信じているという事もあるだろう。
キリスト教にしろ仏教にしろ、現世を彷徨う所謂幽霊の存在そのものを否定する教えも多いと聞く。
死後の世界観など、それこそ宗教によって異なるものである。天国も地獄もない宗教もある。
ならば、黒魔術を信じて霊魂を否定するという事も有り得ない話ではないのだろうと、千斗は一人納得した。
「――霊能力者の存在は貴方もご存知でしょう。それは」
どうなんですかとユキが尋ねた。
話題がズレている。
本人もそれは承知で、多少なりとも反論めいたものをしたかったのだろうと千斗は察した。
「インチキに決まってんだろうが。いや、超自然的な力があるってのは本当なんだろうがな、そんなもん俺もお前も持ってるだろ。呼び方変えてるだけだよ。
霊感持ってる奴にしか霊は見えないとか抜かす奴は、それの証明も絶対にできねえって事を分かってて言ってる訳だからな」
「何故――断言できるんです」
「あのな。本当に幽霊がいるとしたって、何も出来ねえだろ。生きてる俺達だって好き勝手出来る訳じゃねえんだぞ。
取り憑かれただの声を聞いただのは、確実に、全部、そう思い込んでるだけだ。ただの幻覚。
自分が殺した人間に追い掛け回されたり、逆に人格乗っ取られたりとかあるだろ。ありゃ要するに、罪悪感のせいだろうな。
んな事出来るなら生きてる内にやれるだろ。死んだ方が強くなれるならみんな死んでるよ。直接やらなくても祟りで人を殺せるなら、喜んで死んでやるよ」
吐き捨てるように茜ヶ久保は言った。
本当に自殺しかねないのが茜ヶ久保の恐ろしい所である。
「つうかよ、幽霊いるんなら殺人事件の被害者でも何でも呼び出せば大抵は事件解決できるだろ。俺らのやるような工作も無効化されるだろ。
何でやらねえんだ? んな事も思いつかないような馬鹿なのか? それとも死人なんてどうでもいいと思ってんのか? だったら霊能力者名乗んなよ」
「ここで言ったって仕方ないですよ」
千斗が宥めた。
あまりヒートアップされると後が怖い。
「お前に言ってんじゃねえんだよ鵜院。なあおい、ユキ。そんなに言うなら今ここで死ね。
そんで幽霊になって俺の前に出てこいよ。お前の死を通じて人間的に成長してやるからよ」
まるで子供である。
――本当に。
その精神は、子供のままなのかもしれないが。
茜ヶ久保が続けた。
「幽霊なんてのは嘘ッ八だよ。そうでないなら」
どうして俺が殺した連中は出てこないんだよ。
「どいつもこいつもそりゃあ酷え面だったよ。超恨んでますって感じだったよ。化けて出たっておかしくねえよ。
でも出ねえ。出てきたら出てきたで、もう一回ぶっ殺してやるけどな。
まあ俺の所に直接出なくてもよ、ヒーローの連中にチクるなりなんなりすりゃいいだろ。それもねえ。
お前だって実際見た事はねえんだろ」
「それは――そう、ですが――」
ユキが言葉に詰まった。
それこそ単なる方便で、ユキ自身も霊の存在など信じていなかったのかもしれないが――話題が混線した今はもう関係なくなっている。
「俺らの仲間だって――そうだろ。ヒーローに殺られて怪人に殺られて訳の判らねえ連中に殺られて、それでも一人も出てこねえよ。
特別な存在の悪党商会だってそうなんだよ。死んじまったらどうにもならねえんだよ」
それは道理だ。
確かに――死後も尚強い想いを抱いていた恋人からのメッセージを受け取っただとか、そう言った美談はある。
しかしそれは逆説的に、それが無かった者は強い想いを抱いていなかったという事にもなってしまう。
意識して行っているものではないにしろ、死者と自身を特別視しているだけの差別的な行い――というのは極論かもしれないが。
ユキの言うように、近しい者が見守ってくれていると思うだけで救われる人間も存在はする筈だ。
だが、ユキの場合は――死者に顔向けできないような犯罪行為もしているのだ。
辛いだろうと思う。
「だから――何なんです」
ユキが弱々しく言った。
どうもこの娘は普段気丈に振舞っている分、一旦崩れてしまうと脆い部分がある。
「大した意味なんてねえっつったろうが。あのなユキ、俺は何もお前を虐めようとか思ってんじゃねえんだよ」
茜ヶ久保はそう言った。
「お前がどう思ってんのかは知らねえけどな、俺は悪党商会のメンバー全員を特別だと思ってるよ。お前だって例外じゃねえ。
だからお前がいい子ちゃんぶってる事に腹立ててんだ。お前だって」
殺人者だからな。
「ブレイカーズの怪人殺してるだろお前。知ってるよ。別に止めねえぜ。
だがな、それを良い事だとか勘違いしてんじゃねえぞ。殺される側としては、殺す側の事情なんて一切知ったこっちゃねえだろ。例外なく悪なんだよ」
ユキは――。
何かに気付いたような、それでいてそれを無視するかのような、形容しがたい表情になった。
――本当なのだろうか。
茜ヶ久保のハッタリか、勘違いという可能性もある。
あくまでも退治をしているだけだ――とユキ本人は言っていた。
しかし、ユキが原因で死んだ者がいないとも限らない。
――いや。
何にせよ、自分には関係のない事である。
「だからよ――」
言いながら、茜ヶ久保が千斗の肩に腕を回した。
「お前も鵜院の奴を見習えってこった。こいつは弱ェしクズだけどな、自分のやれる事は弁えてるからな。なあ?」
「は――はあ」
げらげらと茜ヶ久保が笑う。
肯定も否定も出来ず、何も解らないまま、千斗も曖昧に笑った。
千斗は――何も解っていなかった。
●
本当に――本当に、自分は何も解ってはいなかった。
今だって解らない。
何が正しいのか、何をすれば良かったのか、何をすれば――。
茜ヶ久保を、ユージーを、救えたのか。
少しも考えていない。
ただ懸命にやればいずれは何とかなると、そう思っていただけだ。
――例外なく悪なんだよ。
混然とした状況に流されたと言っても、流されるままでいる事を選択したのは千斗本人なのだ。
見て見ぬ振りを続けて、自分はただ流されているだけだと誤魔化して、見逃す事で殺人を幇助していた屑なのだ。
矢張り、何も――変わっていない。
――だったら。
変わらねばならないのだ。
「畜生――」
一言だけ呟いた後、千斗は立ち上がった。
何をするかは分からずとも、まずそうしなければ始まらないと思った。
少女は、倒れたままだった。
――当たり前だ。
そうは思っても、嫌な気分になる。
第一、本当に千斗に出来る事など何もないのだ。
例えば――奇跡的に、ここにいる人間全員が傷一つ負う事もなく、死者も出ないまま脱出できたとしても――。
絶対に、元の生活には戻れない。
悪党商会が全力を挙げたとしても、これだけの事件を完全に隠匿する事は不可能であろう。
そうなれば、ユージーのような一般人はどうなるか。
結局――死ぬしかないのだ。
――自己満足だ。
良心でも義憤でも同情でもない。何もかも、狭量な小物の自己満足なのだろう。
何が起きたかよりも、起きた事で自分がどんな気持ちになるかの方が重要なのだ。
それでも。
これ以上は、絶対に死なせたくない。
その為の手段も――思い浮かばないのだが。
ふと、目が眩んだ。
太陽が登っている事に、今更気が付いた。
その瞬間――。
倒れたままの少女が、びくんと震えた――気がした。
ば――。
馬鹿じゃないのか。
お前は何を考えている。死んだ人間に出来る事など何もない。況や、蘇る筈がない。
――ありゃ要するに、罪悪感のせいだろうな。
そうだろう。
しゃがんで少女の顔を見る。目を瞑ったまま、何も変わっていない。
ああ、でも。
本当に。
本当に、死んでしまったのだ。
「ごめんよ」
千斗は、少女に謝った。
謝らねばならなかった。
その途端。
少女は、目を見開いた。
完全に硬直した千斗の、その首に向けて、少女の腕が伸ばされた。
同時に、恐怖と狂気に満たされた表情がすぐ近くまで迫った。
何だ。
死んだはずの少女が、自分に襲い掛かって来る。
こんな事があるものか。
こんな事は、絶対に――。
違う違う違う。思考停止は逃げだ。だが。
――殺される側としては、殺す側の事情なんて一切知ったこっちゃねえだろ。
ああそうだ。ユージーには恨まれても仕方のないような事をした。
でも、そうじゃない。そうじゃなくって。
息が出来ない。
やめてくれ。
何度もそう言っているのに。
死にたくない死にたくない。
――出てきたら出てきたで、もう一回。
厭だ。
●
馬鹿だ。
やる気になったと思ったら、すぐにこうなるのだ。
全く学習していない。嫌になる。
すぐ近くに転がっているのは少女の亡骸である。
確実に死んでいる。
首が折られているのだから当然である。
それ以前から死んでいたのだけど。
――そうだろうか。
まだ疑問はある。それでも――ここで逡巡しているようでは、一生先には進めないだろう。
――どこに進むと言うのだろうか。
――大体。
あのまま首を絞められたとして、死ぬ訳がないのだ。
幻覚なのだから。
その感触はどうしようもなくリアルなものだったが、区別が付かぬからこそ幻覚なのである。
実際に――自分は茜ヶ久保の死体という幻覚も、また見ていた。
あれは確実に幻覚だと断言できる。しかし、見た瞬間は本物だった。
所詮は個人的な認識に過ぎぬ訳だから、それが客観的な事実かどうかなぞ、体験者本人には判断出来ないのだ。
だから――。
――待て。
待て、待て。
そうだ。ならば。
ユージーの死、それそのものが自分の勘違いだったという事は――あるのではないか。
血が付いていたのは自分の掌だ。
そこに付着していたのは茜ヶ久保の血――だったのでは、ないのか。
息をしていなかった事も――きちんと確認をした訳ではない。
心臓の鼓動も確認していない。そもそも、蘇生処置も行っていない。
あの状況の自分がまともに判断を下す事が出来たのかという疑問はあれども――。
それは言い訳だ。しかし。
本当に死んでいたという可能性も、勿論存在している。
今行っている思考は、ただ自分を追い詰めるだけ追い詰めて、それで罪悪感を薄めようという卑怯な行為なのかもしれない。
自分は――。
何を殺した。
何をしている。
何をしてしまった。
何も解らない。
何も――。
延々と続く自己否定と自己嫌悪の中で只管に混乱した鵜院千斗が自身によって殺害された人物の名を聞いたのは、それから数分後の、午前六時のことである。
【天高星 死亡】
【I-8 街中/早朝】
【鵜院千斗】
[状態]:疲労(大)、精神的疲労(大)、混乱
[装備]:なし
[道具]:基本支給品一式、ランダムアイテム0~2
[思考・行動]
基本方針:不明
最終更新:2015年07月12日 02:47