彼女(ダリア)が母になっていると知ったのは、この刑務作業が始まる2月ほど前の事だった。

獄中で漏れ聞こえたその情報は、あまりに現実味がなかった。
けれど、確かにその噂は俺の耳に聞いた。

生まれたのは1年以上前。
俺が獄中に押し込まれて10ヶ月程たった後の話らしい。

時期から考えて、それが俺の子だという確証はなかった。
あの夜、彼女を弄んだマフィアどもの子かもしれない。
あるいは、娼婦として取らされた客の子かもしれない。

だが、そんなことはどうでもよかった。

血の繋がりなど、取るに足らない。
俺にとって大切だったのは、ダリアと彼女が繋いだ命があるという事。
あの子は、ダリアの子だ。それだけで十分だった。

その子を愛する。
ダリアと、その子を、どこまでも守り抜く。
奪うために握ってきたこの拳で、今度こそ守るために戦うと。

だが現実は、地の底だ。
空も、明日も、自由もない。
鉄と監視に囲まれたこのアビスで、俺はただ腐っている。

生きているだけで何の意味もない場所で、
俺は彼女にも、その子にも、何ひとつしてやれない。
彼女に触れることも、子を抱くこともできない。
それがどうしようもなく歯がゆかった。

悔しさと焦りが、日ごとに胸を焼いていった。
何度、この拳で看守どもを殴り殺して、ここから飛び出してやろうと思った事か。

だが――そんなある日の事だった。

『恩赦』という名の希望が、蜘蛛の糸のように垂れ下がってきたのは。

ダリアと、あの子に会えるかもしれない。
それだけで、すべてを賭ける理由になった。

でもな。わかってる。
このアビスで偶然の情報なんてありはしない。
ここは風が噂を運ぶような場所じゃない。

間違いなく、仕組まれた罠だ。
あの看守長が俺を刑務作業で都合よく動かすために、わざと垂らした餌。
俺の感情を知り尽くしたうえで、選び抜かれた毒針付きの希望。
毒だと分かっていながら自分の意思で喜んで皿を舐めさせられる、奴の仕掛けるのはそういう罠だ

――それでもいい。

たとえ罠でも、嘘でも、都合よく作られた作戦でも構いはしない。
たとえそれが毒で塗れた蜘蛛の糸だったとしても、俺はその糸を掴む。
血が出ようが、皮が剥がれようが、登りきる。

この拳で、地獄の底からでも這い上がる。

ダリアと、その子を、愛すると決めた。
どこまでも守ると決めた。

そう考えるだけで拳に不思議な力が宿る。
トレーニングから遠ざかり衰えた体の切れ、獄中で訛り切った試合勘。
だが、それでも。今の俺は、全盛期を超える全盛期だ。

だから、待っててくれ。

もうすぐだ。

――絶対に、必ず帰る。


「……その女は、お前の恋人(アモール)か?」

雑多な物置の中で、少年と少女が挑むような視線を向け、静かに王者と対峙していた。
その静寂を破ったのは、拳闘士の声だった。
戦いの雄叫びでも、挑発でもない。
それは、エルビス・エルブランデスが初めて発した、意味を持つ問いだった。

「何を……?」

突然の質問の意図が分からず困惑するエンダ。
その隣に立つ只野仁成は一切動じることなく答える。

「違う。この場で出会った協力者だ」

語調に揺らぎはなく、感情も排されている。ただの事実の報告に過ぎない。
その返答に対し、エルビスはかすかに息を漏らす。「……そうか」と。
それは落胆か、あるいは安堵か。どちらとも取れる曖昧な声色だった。

「ならば――――遠慮はいらないな」

情を捨て、情けを捨て、目的のために一片の遊びもなく、チャンプが動いた。
その歩法(ステップ)は最短にして最速。
無駄を削ぎ落とした、殺意のみを宿す拳闘の軌跡。

「させないよ――――!」

くすりと笑いながら、エンダが応じるように黒い靄を唸らせる。
彼女の異能『呪厄制御』。
靄は瞬く間に凝縮し、千の羽虫の群れ、呪詛の黒蠅へと姿を変える。
それは空間を埋め尽くし、物理にも精神にも、そして超力にも干渉する、触れれば穢れる『呪い』の軍勢。

これは熱線や爆風のような大規模攻撃でなければ突破できない異能障壁。
ましてや、素手での突破など常識ではありえない。

――――だが、そのような常識は、この男には通用しない。

まるで光が弾けたような残像。
瞬きの合間に繰り出された、超速のマシンガンジャブ。
怒涛の連撃が、異様な精度と圧倒的な速度で羽虫たちを一体残らず叩き落としていく。

触らば穢れる呪いの塊。だがその理屈を上回る速度で、拳が先に舞う。
祟りを恐れず、恐怖も痛みも否定するかのように、彼は拳を引いて、また放つ。
そこに迷いも躊躇も一切ない。

「……なっ。どうなってるだ、こいつは……!?」
「この男相手に、その程度で驚いてたらキリがないぞ!」

動揺するエンダの前に、入れ替わるように仁成が一歩出る。
蠅の群を突破した王者を迎え撃つのは人類の極限、只野仁成。

炸裂する拳。
空気が裂ける音。
交差する拳と拳。

拳を極めし王と、技を極めし人が再び激突する。
刹那ごとの判断、打撃の設計、呼吸の制御、心拍の最適化。
1秒の中に、数百の情報が詰め込まれ、数千の技術が交錯する。

「くっ……!」

仁成の左腕がエルビスのジャブを掠め取るように受け流す。
ジャブとも言えど、エルビスの拳は下手なボクサーのストレートにも匹敵する破壊力を帯びている。
まともに受ければ骨が砕ける。ならば受けずに逸らすしかない。
同時に腰を沈め、仁成は踏み込みを想定した体勢へと移行した。

仁成は理解していた。真正面の打撃戦では勝てるはずがない。
近接格闘において、優劣の格付けは既に完了している。

前戦で身をもって体感した通り、エルビスの格闘力は人類の極限をも凌駕していた。
この拳闘王は、人類という生物の定義を力でねじ伏せてくる。

だが、今回は前回の戦いとは条件は違う。

戦場となるのはかつての階段ロビーのような死地とは違う。
エルビスの紫花が完全に敷き詰められていた、あの腐敗の庭園ではない。

ここは倉庫――紫骸の侵食はまだ浅く、地面にはわずかに空白が残る。
すなわち、仁成にとっては足場が存在していた。

人類が到達可能な全技術を極める超力『人類の到達点(ヒトナル)』。

もしも拳が支配する世界ならば、王者には敵わない。
だが、転がせば世界が変わる。
立ち技の王が覇を唱えるのなら、寝技の極地を見せてやる。

仁成の眼差しが、鋭く光った。
頭部を庇うように両手を盾にしつつ接近。
そのまま足元へ滑り込むような低姿勢へ移行する。
目指すは打撃ではなく、組み付き。

拳で制せぬなら、崩して倒す。
崩せぬなら、転がして絡む。
それが、人類の武術が長年かけて積み上げてきた技の哲学。

「…………」

その動きを視界にとらえたエルビスは無言のままわずかに後ろ足へ重心をずらす。
カウンターを狙う構え。いや、既に迎え撃つ型が完成している。
呼吸の乱れすら狙う戦王の構えは、肉体そのものが戦術書だ。

「くぅ……!」

エルビスの迎撃。
ガード越しに受けた仁成の肘が軋む。
一発一発が鈍器めいて重い。

されど、仁成は止まらない。
そのまま左足を内側から巻き込み、後ろ足へと体重を預ける。

体幹を揺るがす、重心破壊の術――タックル。
一歩でも軌道がズレれば成立しないが、今は最短距離での突入。
密着と同時に、肘・膝・肩を同時に押し当てて、エルビスの体を浮かせにかかる。

「……ッ!」

エルビスが喉を鳴らす。
即座に姿勢を戻し、腹部にカウンターを叩き込まんと拳を振るう。
その瞬間。仁成は自ら崩れ落ちるように倒れこんた。

「――――!」

その動きに引っ張られ、意表を突かれたエルビスの体が一瞬浮く。
バランスを取ろうと、咄嗟に踏み出した片足を、仁成の足払いが刈る。

転倒。

王者の体が大きく傾ぐ。
仁成の腕がその背を制しながら巻き込んで寝技圏内への誘導が成立する。
だが――。

「――――!」

倒れ込む仁成の視界の端に紫の波紋が広がった。
倒れ込もうとした先に咲いていたのは、腐敗の花。
その動きを読んでいたように、空間を侵食する紫骸が寝技を拒絶するかのように咲いていた。

このまま倒れ込めば、肌が、呼吸器が花に触れ。腐敗に蝕まれる。
密着する者同士、毒の浸食は即座に回る。
まさに、致命の罠。

だが、前回の戦いとの違いがフィールド以外にもう一つある。
それは一人ではないという事。

「――――エンダッ!!」

その名を叫んだ。
その声に応えるように、背後から黒い靄が奔った。

ざあっ、と音が聞こえた気がした。
風でもなく、水でもない、呪いの羽音。
祟りの声。悪意を塗り固めたような意思。
集中した黒い靄が紫の毒花へと襲いかかる。

紫骸と黒靄。
互いに汚染を本質とする超力が、真正面から激突する。

視覚ではとらえられぬ何かが軋み、
精神の芯が締め上げられるような不快感が戦場を覆う。

そして、腐敗毒が、黒靄に食われた。
腐敗を放つ紫の花弁が黒く染まり、しおれていく。

これが、エンダ・Y・カクレヤマの真価。
毒を打ち消すのではなく、毒で毒を制す。
彼女の異能は、対呪いにおいてこそ真に輝く。

「――今だ、仁成!」

エンダの叫びに、仁成が即座に応じる。
完全な無力化とまではいかずとも、十分に無害化された花畑に、男たちの体が転がった。
地面に落ちた仁成は瞬時に半身をひねり、エルビスの腕を巻き取るように制圧。

「もらったぞ、チャンピオン――――!」

腕を絡め、肩を潰し、首へと圧をかける。
立ち技の王者を地を這う格闘の領域へ引きずり込む。
密着から一気に――グラウンド・コンバットへ遷移する。

密着した瞬間、戦場の支配権が塗り替えられる。
主導権は、仁成の手中へと移った。

寝技。それは立技と異なり、一手ごとに全身を運用する総合技術。
投げ、崩し、絞め、極め、返し。
その一手一手が技であり、術であり、生死を分かつ理である。
その理を知る者と知らぬものの間には絶対的な超えられない壁が存在し、そして仁成はその全てを理解してた。

人間に可能なすべての技術を、正確無比に再現できる男。
この領域で、もはやボクサーに勝機はない。

仁成の腕がうねる。
肩甲骨を起点に、肘を抱え込むように巻き付ける。
肩を潰し、腕を斜めにひねり、背骨と胸郭の歪みを強制的に引き出す。

変形腕絡み(キムラロック)。
人体の自然可動域を逸脱させる破壊技術。
関節は決して力比べではない。テコと位置こそが支配の鍵。
それが、武術という名の科学だ。

「ッ……!」

歯を食いしばり堪えるエルビスの身体がわずかに浮く。
それほどまでに、仁成の極めは完璧だった。
完全に極まったサブミッションに逃れる術はない。

しかし――花が咲いた。

エルビスの肩から、腕から、手首から。
滲み出すように紫の花が咲きこぼれる。

エルビスは何でもあり(バーリトゥード)の『ネオシアン・ボクス』を勝ち抜いてきた王者だ。
寝技の精度は高くなくとも、寝技の対応は心得ている。

毒を纏う花弁が、密着した仁成の右腕を覆うように這う。
エンダもそれを無力化しようと黒靄を遣わせるが、密着状態では効果が薄い。
特に相手の手首を掴んでいる右手は避けようがない。

腐敗と蠱惑を纏った死の花。
その花粉が仁成の右腕を這い、侵蝕していく。

「構うかよ――――」

だが、仁成は手を離すことなどしなかった。
腐敗が走ろうとも、腕の力を緩めることはない。

――――折る。

腐敗は無視できぬ痛みとなる。
だが、その代償にチャンピオンの腕一本が取れるのな安い取引である。

腐敗が進行する。
熱い。痛い。痺れる。
皮膚が焼け、肉が軋み、骨が悲鳴を上げる。

それでも仁成は、全身の体重を関節にかけ、腕をひねり折りにかかる。
これは好機だ。
エルビスの寝技対策は徹底している。
逆に言えば、それだけ寝技を嫌っているという事。
この無敵の王者の弱点は間違いなくこれだ。

最後の一刺し。
相手の抵抗を切るように、全身の力を籠め体を仰け反らせる。

「――ッッ!!」

だが、生身である以上、物理的な限界は存在する。
仰け反った拍子に、相手の手首をつかむ右掌の皮膚が腐敗の進行によりズルりと滑った。

その瞬間、僅かに拘束が緩んだ。
その一瞬を、見逃す相手ではない。

「ぉおおッ!!」

咆哮のような呼気。
体幹をひねり、肩を抜き、反転するエルビス。
裏返しの体勢から、そのまま反転する勢いを乗せたフックを振り抜いた。

「……ッぐ!」

それは地面を殴りつけるかのような鉄槌だった。
ほんの一瞬でも反応が遅れていれば、仁成の顔面はトマトのように潰れていただろう。

だが仁成は、咄嗟に身を離し、横転して直撃を回避。
拳が床を砕き、コンクリートが爆ぜる。

「……っ!」

一発、二発、三発。
地を転がる仁成を、鉄の連撃が追う。
体勢を整えることより、攻撃を優先する暴風の連打。

振り下ろされる拳の重さは、攻撃というよりも刑罰だった。
鉄槌。処刑。拳の王が下す絶対の裁き。
その一撃一撃が、骨を、意志を、命を砕くに足る威力。

だが、それでも仁成は回る。
体を絞り、呼吸を整え、打撃の軌道を見切って最短距離で抜けていく。
理性と本能の間で、常に生存を最適化し続ける――それが、只野仁成。

だが、それを追う拳は、なおも速い。
追撃の鉄槌が今まさに仁成へ追いつこうとした、その瞬間――

「――行かせないよ」

黒い靄が、横合いから奔った。
まるで悪霊のごとく、戦場を這う。

それは精神を蝕み、超力を侵食する祟りそのもの。
腐敗毒すら侵す、呪いの侵攻。
侵すための超力。

「ッ……!」

それを視認した瞬間、エルビスの拳が止まる。
バッと上体を反らし、スウェーのような動きで身をかわすと跳ねるようにして立ち上がった。

その隙に、仁成は距離をとった。
荒い呼吸を整え、再び戦場に立つ。

「――助かった」

荒い息の合間に、仁成はそれだけを呟いた。
地を転がって間一髪で間合いを逃れた彼は、立ち上がったままエンダへ視線を向けず声をかける。
その目は戦場の中心にいる王者、エルビス・エルブランデスだけを見据えていた。

エンダは短く頷いた。
言葉は要らない。今は戦いの只中。
その了解が伝わっただけで、十分だった。

仁成は膝を曲げ、重心を落とし、深く呼吸を整える。
同時に、エルビスもまた、自身の肉体を確認していた。

関節技を受けた肘に、鈍い痛みが残る。
関節がきしみ、筋が引き延ばされている感覚。
だが、骨も腱も断裂には至っていない。
拳を握ればわずかに疼くが――戦闘に支障はない。

拳闘士は拳を再び固め、構えを取る。
しかし、その型は明らかに先程までとは違っていた。

前傾姿勢のクラウチング・スタイルを捨て、上体を起こしたアップライト・スタイル。
両腕は低く下げられ、腰の位置からスナップを効かせるような独特の構えへと切り替わる。

ヒットマン・スタイル。
迎撃に特化したその構えは、文字通り狙撃手の構え。
待ち構え、測り、正確に打ち抜く――アウトボクシングの典型的な流儀だ。

(……アウトボクシング?)

仁成は一瞬、疑問を抱いた。
この戦法は、通常リーチに優れる体格の選手が距離を支配するためのもの。
だが、エルビスと自分の体格差は大きくない。リーチを活かすには不向きだ。

ならば、この構えの狙いは攻めではない。防御と迎撃、特に組み付き対策。
グラウンドでの攻防を忌避し、あえて重心を後方に保ち、威力を抑えてでも距離を詰めさせない意図がある。

そう狙いを読み取った仁成が動く。
地を蹴り、距離を詰め、鋭く後ろ回し蹴りを放つ――顔面への一撃。
だが、エルビスは無駄のないバックステップでそれを躱す。

だが、それは布石に過ぎない。
蹴りの反動を利用して反転し、低い姿勢からバックステップを追うように踏み込む。
ステップの着地タイミングを狙っての胴タックル。
一切の無駄がない、完璧な踏み込み。避ける隙間は、ない――そのはずだった。

だが、次の瞬間、パンッと、鋭く弾かれる音が空気を裂く。
エルビスの腕が、スナップと共に放たれたのだ。

フリッカージャブ。
後方に引きながら、前へ伸ばした仁成の右手を正確に叩き落とす。
近づかせないという明確な制動の意志が宿った一撃。

「くっ…………!」

掌を打たれた衝撃が激しく響く。
引きながらの打撃であるため打撃の威力はやや落ちている。
それでもまとも喰らえば一撃で機能不全にするには十分な威力だ。

だが、その威力にも怯まず、仁成は止まることなく再び組み付きに向かう。
弾かれた逆の手を掴みかかるように伸ばし、細かな足さばきで軌道を変え突っ込む。

だが、再びパチンと言う音。

今度は左手を打たれた。
まるで、突き出した手が狙撃されたかのような正確さで弾かれる。

(……違う。これは)

ただの場当たり的な迎撃じゃない。
鋭い手の痛みを感じながら、仁成の頭を冷たい理解が貫いた。

――――指だ。

エルビスの狙いは、仁成の指を破壊することである。
極め技、関節技、絞め技。あらゆる寝技という技術体系の根幹は掴みにある。

掴めなければ、極められない。
掴めなければ、寝技そのものが成立しない。
だからこそ、その根本を破壊すべく、仁成の指を潰しにきている。

踏み込まず、距離を保ち、安全に、正確に指を叩き落とす。
ヒットマン・スタイルはそのための選択肢。
ダメージではなく、機能破壊を目的とする、冷徹なスタイル。

敵の狙いは読めた。
ならばこちらは、意地でも組み付く。
仁成はさらに深く踏み込んだ。

足運びにズレを混ぜ、視線を惑わせ、肩の角度と上体の捻りでタックルと見せかけ打撃を放つ。
踏み込みも直線的ではなく、蛇のようにうねり、狐のように欺き、虎のように牙を剥く。

だが打撃など通用しないとばかりに状態の動きだけで避けられ撃ち出されるジャブ。
しかし、それは仁成がフェイントで引き出させたジャブだ。
呼んでいたようにそれを腕で受け流すと、次の瞬間には前蹴りを放ち、打撃戦に持ち込む。
もちろんそれは本命ではない。

本命はここ――――足取りだ。
蹴りを戻す動きに合わせ、仁成の重心がさらに沈み、地を這うような姿勢に移行。
あらゆる動作の軌道と余韻に自然な不自然さを散りばめながら、エルビスの視界の外縁から滑り込む。
地に掌を滑らせ、足首を掴みに行こうとした所で。

瞬間、空気が爆ぜるような音が響いた。

正面の構えから打てるはずのない角度。
常識では考えられないタイミングと姿勢から、拳が迫る。
エルビスのアッパーが、ほとんど地面スレスレの角度から振り上げられる。
拳が仁成の右手を、的確に撃ち抜いた。

「ッ――!!」

指が跳ねる。
神経が、掌の中心で火花のように炸裂した。
筋が震え、骨が痺れる。

恐るべき精度だ。
ただでさえ人類の極地ともいえる高速戦闘の渦中。
その中で、正確に指先を狙って拳を打ち込むなど人間技じゃない。

人知を超えた拳の怪物。
それが、エルビス・エルブランデス。

最強のボクサーと、至上の人間。
技術と技術、速度と速度、読みと読みがぶつかり合う。
目まぐるしく戦況が変化し、息をつく暇さえ与えられない。
今この瞬間、この倉庫に存在しているのは、人類史上でも極めて稀な格闘知の極地だった。

――エンダは、戦場の中心でぶつかり合う二人を見つめていた。

もちろんただ観戦している訳ではない。
援護の隙を探し、全神経を集中させている――にもかかわらず、割り込む余地が一切見つからなかった。

視認も、聴覚も通じない。
予兆、気配、空気の揺れ、そして本能。
すべてを総動員して、ようやく戦況の輪郭だけが掴める。

(……これでは、手出しできないな)

戦いの次元が高すぎる。
エルビス・エルブランデスと只野仁成。
この二人の戦いは、もはや通常の支援が通用する次元ではなかった。

彼らの攻防は鋭すぎて、下手に割って入ればかえって足を引っ張ることになるだろう。
できることと言えば、せいぜい周囲に咲き始めた腐敗の花を出来うる限り無力化し、仁成の動けるフィールドを広げることくらいだ。

ドンとの戦いは、エンダという大切な人を殺されたという恨みによって強化された超力で押し切ることができた。
だが、それが通用したのは、ドンが体と剛の怪物だったからだ。
そして何より足止め役と超力ハックという明確な役割分担があったというのが大きい。
スタンドプレーによってうまれるチームプレイ。これこそが彼らには合っていた。

一人の相手を高速戦闘の中で相手取るのは高度な連携能力が必要だ。
だが、はっきり言ってエンダは共闘の経験が少ない。
土地神として祀られて生きてきたのだ、誰かと共に戦うなど皆無だったと言ってもいい。

黒靄は強力な力だ。
だが、強すぎるが故に攻性で放った場合、加減が効かない。
密着戦闘の最中に放てば、敵味方を区別なく呪いごと飲み込むだろう。
仁成のような肉体であっても、至近距離で浴びれば確実に侵蝕される。

エルビスはドンの様な体と剛ではなく、技と柔の怪物。
その動きは、たとえ土地神であっても、ただの少女をベースとするエンダの感覚では捉えきれない。
この戦況下で、エンダの力は使いどころを誤れば、むしろ危険な援護になりかねない。

ならば、間接的にいくしかない。
ふわりと、エンダの手が上がる。
黒靄がうねり、倉庫の天井近く、備品棚の高所へと伸びる。

次の瞬間。
棚の上にあった工具、金属片、フレーム、部品などが、不自然な軌道で一斉に宙を舞う。
呪いに導かれた物質の飛礫が、エルビスの背後へと襲いかかった。

ほんの一瞬。
王者の意識が、わずかに後方へと割かれる。

その刹那。
仁成が動いた。

脚が音もなく床を滑る。
心拍を抑え、気配を殺す。
鍛え抜かれた身体を完全に沈め――密着を狙う。

だが、それでも通らない。

エルビスは即座に膝を落とし、ウィービングで飛来物をかわす。
風を読んだかのような柔らかい動きで、すべての飛礫を避けきった。
そして、同時に繰り出されたフリッカーショットが、向かい来る仁成の右手を正確に捉えた。

「ッ……!」

ついに指先に直撃し、薬指が砕けた。
関節が逆方向に折れ曲がり、骨が軋む。
皮膚の内側で、鈍い断裂音が響く。

だが、

「指一本で――止まるかよ!!」

それでも仁成は、止まらなかった。

砕けた指をそのままに、構わず突っ込み、肩から巻き込むように距離を詰める。
右手を捨て駒にし、身体をねじ込むことでエルビスの肘関節に取りついた。

指を捨て、肘を取る。
肘を外から掴み、内側へとひねり込む。
全身の体重を関節の一点へ集中させ、死角から力を流し込む。

それは、人類が何世代にもわたって積み上げてきた、関節技の粋。
そして、それを実行するのは人類の到達点たる只野仁成。

痛み? 恐怖? 損傷?
そのどれもが、極めるという意志の前では何の意味も持たない。
今の彼は、己の命さえ極めの代価にできる精神領域にいる。

「――っ!」

仁成の腕が深く絡まり、肘を完全に制する。
背を逸らし、全体重を一気にかけて引き裂く。

ゴキン。

肉と骨が引き離される、濁った破砕音。
エルビス・エルブランデスの右肘関節が、ついに破壊された。

(ッ!? 違う……これは――!?)

だが。すぐさま仁成が違和感に気づく。
手応えが、あまりにも軽い。

極められるその寸前。
エルビスは抵抗を捨て、自らの意思で肘関節を脱臼させたのだ。
通常なら激痛に悲鳴を上げ、即座に行動不能となるはずの荒技。

だが、エルビスは顔ひとつ歪めなかった。
それさえ堪えられるならば、決定的な破壊を避けられ、即座に反転することが可能になる。

「あ――」

仁成の反応が一拍遅れる。
プランと右腕を放り出しながら、エルビスの体が独楽のように反転した。
放たれる悪魔の左フック。

「させない!」

咄嗟に、エンダの右手が振り上げられ、黒き靄が暴風のように渦巻いた。
多少危険でもここで割り込まなければ仁成が死ぬ。
だが、その光景を見たエルビスの目が、明確に反応を示す。

振り抜かれるはずだった左フックが、僅かに軌道を変えた。
その腕で、仁成の体を引っかけるように絡めとる。

それは拳ではなく、投げ技への移行だった。
そのまま首を刈りながら腰をひねり、首投げの要領で仁成を黒靄の渦巻く方向へと投げ飛ばす。

「――ッ!」

黒靄は誰彼構わず呪う、対象を選ばない力だ。
それが敵であろうと、味方であろうと。

このままでは、仁成の肉体すら蝕んでしまうだろう。
咄嗟にエンダは、黒靄を霧散させた。

「っ……!」

黒靄の消去はギリギリで間に合った。
だが、受け止める黒靄がなければ、投げ飛ばされた仁成の体が向かう先はただひとつ。

「――っ!」

鈍く重い衝突音。
剛速球のように放り投げられた仁成の身体が、全体重を乗せてエンダに直撃した。

2人の身体がもつれ合って転がる。
荷台をなぎ倒し、壁に激突し、鉄製の棚が崩れ落ちる。

「う、く……」

エンダが呻き、ようやく上体を起こす。
そして顔を上げたところで――

「え――――?」

死が目前にあった。

エルビスは、既に距離を詰めてそこにいた。
一切の迷いもなく、拳が振りかぶられている。

死を目前にして全てがスローモーションのように見えた。

岩石すら容易く砕く鉄拳。
神が宿っていようとも少女の頭など、一撃で吹き飛ぶだろう。

この拳が直撃すれば間違いなく死ぬ。
エンダにとっての二度目の死。
奇跡はもうない。

鉄拳が、エンダに迫る。
逃げる時間はない。
靄を展開する暇もない。
叫ぶことすら、もう間に合わない。

確実に、死ぬ。

だが、横合いから飛び出してきた何かに、向かい来る死が遮られた。

「――仁成!!」

エンダを庇うように身を乗り出しのは仁成だった。

交通事故のような衝突音。
その顔面に拳王の鉄拳が直撃する。

勢いよく弾かれた体が、錐もみ回転しながら壁際まで吹き飛ばされる。
乾いた音と、壁材の破砕音。
打ち付けられた仁成が、破砕物の中に沈み、力なく崩れ落ちて動かなくなった。

血が流れている。
左頬が裂け、眉骨が陥没し、口の端からは欠けた歯と血が混じったものが滴っていた。

エンダの呼吸が止まる。
一瞬、死んでいるのだと思った。
いや、今この瞬間も、本当に生きているのかどうか、確証はない。

だが、エルビスは動いた。
エンダのすぐ目の前にいながら、彼の視線は仁成に注がれている。
彼の中で脅威としての優先度は、いまだ仁成の方が上なのだ。

無防備なエンダを素通りし、エルビスは倒れた仁成の方へと歩いていく。
歩きながら脱臼した右腕を遠心力で勢いよく回し、無理やり関節をはめ込む音が響く。
一瞬、僅かに顔を歪めるがそれだけ。
彼の足音は重く、確実に仁成へと迫っていた。

エンダの背筋に、鋭い戦慄が走る。
この歩みを止めなければ、仁成は殺される。
そして、その直後に、自分も殺されるだろう。

この男に躊躇はない。
獲物を見逃すことなど、在り得ない。
慈悲もなく、己が目的を達するだろう。

ならば。
選ばねばならない。
この殺意の歩みを止めるための唯一の手段を。

武力では勝てない。
エルビスに対して戦うという選択肢は成立しない。
ならば、生き残る方法はただ一つ。

「――待ちなさい!」

エンダが声を上げる。
だが、エルビスは止まらない。
そのまま、意識を失った仁成の傍まで歩み寄る。

「わたしたちは、この刑務作業からの脱獄を目指している……!」

必死に叫ぶ。
自らの目的を明かし、交渉の糸口を掴もうとする。
だが、エルビスの拳は無言で振り上げられた。

――止まらない。
この程度の情報では、この男は止まらない。

エンダは奥歯を強く噛み、逡巡する。
彼を制止するには、もっと具体的で、強い言葉が必要だ。
そのためには、エンダの持つ最大の切り札を切るしかない。

だが、それを口にするのは酷く躊躇われた。
思考すら読み取る看守長ヴァイスマンの超力。
この超力に対してエンダは唯一無二のアドバンテージを持っていた。

『支配願望(グローセ・ヘルシャー)』によるタグ付け。
それはこの体、エンダになされたものである。
ならば、彼女に憑依した土地神であるカクレヤマの思考は読めないのではないか?

もちろん、そうであると言う確証はない。
だが、無敵のヴァイスマンの超力を出し抜く唯一無二と言っていい可能性だ。
口にしてしまえばそのアドバンテージをみすみす捨てることとなる。

迷いの暇はない。
拳が振り下ろされようとする――その刹那

「わたしには――脱獄のための具体的な手段がある…………!」

振りかけられた拳が、空中で止まる。
ようやく、エルビスの意識がわずかにこちらへと向いた。

エンダは胸の奥で、ようやく一度、息を吐く。
背に腹は代えられない。
エンダのために涙を流してくれた優しい人。
エンダが夢見たささやかな少女の夢を叶えてくれるかもしれない人。
ここで彼の命とエンダの夢が失われるくらいなら口にすべきだ。

「どうせキミも恩赦が欲しいんだろう?」

そして冷静を装い、あえて余裕を見せるように言葉を紡ぐ。
その言葉にわずかにエルビスの眉が動いたように見えた。
どうやら図星のようである。
ならば、そこを突く。

「けれど、考えてもみたまえ。アビスが恩赦なんてものを与えると本気で信じているのかい?」

恩赦を稼いだ犯罪者たちを解き放つなどと言う無法をアビスが許すか?
刑務作業における恩赦に信憑性はあるのか?
彼の戦う理由の根本を突いた。

「わたしならばより確実な脱獄方法を提示できる」
「――御託はいい。話せ」

刃のように鋭い声だった。
エルビスは不要な踏み込みを許さない。

拳は止まっている。
だが、いつ動き出してもおかしくない。
まるで時限爆弾のような空気が、空間を支配していた。

その声音は、ギリギリの興味を保っている状態。
つまり、この交渉から少しでも興味を失った瞬間、この拳闘士の腕は振り下ろされる。
その一撃が落ちれば、仁成は確実に死ぬ。

エンダは、そんな中でも表面上の平静を保っていた。
その瞳は黒靄のように冷ややかだが、喉の奥では緊張が焼けつくように渦巻いていた。
エンダは降参するように探りを止めて、決意を固めて口を開く。

「この孤島が、どこにあるのか知っているのかい?」
「知らないな」

興味すらないのか、感情の欠片もない簡素な返答。
だが問いへの反応はある。
まだ話を聞く意思が残っているようだ。
そう判断したエンダは続けた。

「この孤島はね、超力によって作られた世界なんだよ」

答えを告げる。
この事実にさすがに驚いたのか。
ほんの一瞬、エルビスの瞳がわずかに細まった。

『異世界構築機構(システムB)』
それがこの刑務作業の舞台である孤島の正体。
システムAの開発に携わる秘匿受刑者として、エンダはその事実を知っていた。

「……それで?」

返ってきたのは、やはり冷ややかな一言。
彼が求めているのは驚きではない。
必要なのは、その情報が何を意味するのかである。

「そちらの仇花を枯らした、わたしの超力……あれがどういうものか、理解はできているのかな?」

だが、直球の答えを求めるエルビスに対して、エンダはさらに問いを重ねる。
これは必要な問いであるかと言うように。
エルビスは少しだけ視線を動かす。

「腐敗か呪いか……俺の超力に干渉したってとこだろうな」

さすがは百戦錬磨の王者。
数多の超力者と戦ってきた男は、既にエンダの能力の輪郭を把握していた。
エンダは、静かに頷きそれを肯定する。

「そう。わたしの超力は、超力に干渉することができる。その意味が、わかるかい?」

そして突きつける、論理の核心。

超力によって作られた世界。
そして超力干渉できる超力。
ここから導き出されることは一つ。

「わたしは―――――この世界に干渉できる」

それこそが、エンダの持つ最後にして最大の切り札。
この牢獄を打破する、唯一の鍵。
全てを解決する脱出計画。

沈黙の中で、エルビスが静かに問う。

「個人の力が、世界をどうこうできるとは思えないな」

それは、まっとうな疑念だった。
力の世界に生きる男だからこそ、その点はシビアだ。
だが、エンダは、すかさず言葉を重ねた。

「わたしの超力は、恨みに比例して強化される」

一語ごとに、感情がにじむ。
唇がわずかに歪む。
喉の奥から、熱のこもった声が漏れる。

「この世界への恨み。
 私(エンダ)を閉じ込め、神を祭り上げ、管理し、奪っていった全てへの怒り。
 その怨嗟が、どれほどの強さか……試してみる?」

その瞬間、空間が微かに震えた。
エンダの背にまとわりつく黒靄が、怒りに呼応してざらりと蠢く。
この世界への怒りを受け、黒き瘴気が、微かに震えた。

対象は世界。
彼女の中では世界そのものが、最初から敵として定義されている。
そして、それに干渉する力が、今まさに膨れ始めていた。

世界そのものを相手にしようというエンダの語る遠大な脱獄計画。
だが、エルビスは失望した様に肩を落として大きなため息を零した。

「――――ガキのママゴトみたいな計画だな」

一言で切り捨てる。
声からは熱が抜け、興味は明らかに霧散していた。
エンダの背に、冷たいものが走る。

「脱獄してどうなる? その先は?
 そんな事をしたところで、待っているのは国際指名手配され逃げ続ける日々だ。
 アビスの職員どもやGPAの追手と一生戦い続けるつもりか?」

エルビスの願いはただ一つ。
愛する女(ダリア)たちとの平穏な暮らし。
それを叶えるために、より良い計画に乗るのは吝かではない。

だが、それは脱獄などという無法では不可能だ。
彼にとって必要なのは、誰に咎めらる事のない正規の手段での出獄。
この恩赦はそこに繋がる唯一の道筋だ。
だからこそ、細かろうと危うかろうとその道に全てを懸けられる。

一歩、仁成の方へと足を踏み出し、拳を握る。
その仕草は、交渉決裂の合図だった。
エルビスはエンダの計画を見限った。

「――話にならん」

最後通牒。
そう言い放ったエルビスの拳が、無慈悲に振り下ろされた。

「まっ――!」

エンダの口から悲鳴のような静止の声が漏れる。
だが、それはあまりに遅きにすぎた。

拳は、すでに落ちている。
空気を裂くような風切り音にかき消され、もはや声すらも届かない。

倉庫に響くのは、肉を打つ――鈍い衝撃音。

だが、エンダの目に映った光景は、予想とまったく違っていた。

目の前にあったのは、エルビスの拳が仁成に叩き込まれる姿ではなく。
仁成の飛び蹴りが、エルビスの胸に突き刺さる姿だった。

意識を失っていたはずの仁成の身体が跳んだ。
背中を支点に全身のバネを弾ませ、一気に跳ね上がる。
わずかに身を捻って、振り下ろされるエルビスの拳を紙一重で回避。
そのまま空中で両脚を伸ばし、ドロップキックの要領で放たれた渾身の蹴りが、カウンターのようにエルビスの胸を正確に捉えた。

人類最高峰の肉体を持つ仁成。
その回復力もまた人類の極限に至っている。
エンダが交渉をしている間に意識を回復させ、ギリギリまで回復に努めていた。

仁成の足裏が、エルビスの胸を正確に打ち据える。
押し出すような蹴りの勢いに、わずかとはいえ、王者の体が揺れた。
エルビスはたたらを踏んで後退する。

対する仁成は、蹴りの反動で宙に浮きながら、ネコ科の獣のように空中で体をひねり、しなやかに着地。
そして一瞬の迷いもなく、呆然と立ち尽くす少女の手を取って出口へと一目散に駆け出す。
驚愕に目を見開くエンダの身体が、不意にぐっと引き寄せられた。

「ま、待っ――!」

だが、待っている暇などない。
仁成はそのまま、エンダの小さな体を肩に担ぎ上げる。

「ちょっ、人を荷物みたいに――!」

抗議の声が上がるが、聞いている余裕はなかった。
無視して全速力で駆け出す。

「脱獄王と契約分としては十分だろ。逃げるぞ。2対1でも無理だ」

できることなら仕留めたかった。
だが、相手の有利なフィールドから抜け出し、2対1の状況で仕掛けても勝てなかった。
無理だということは痛いほどに理解できた。
奴の拳には神憑った何かが宿っている。

振り返る余裕はない。
だが、背後から迫る圧だけは、確かに感じ取っている。

体勢が崩れたのは一瞬。
チャンピオンが、再び動き出した。

空気が軋み、空間が震える。
それだけで、彼の殺意が再起動したことがわかる。

「仁成! 拳を構えている!」

肩越しに後方を確認していたエンダが、即座にエルビスの状態を報告する。
この状況で取られる拳王の構えに、仁成は嫌と言う程心当たりがあった。

――百歩真拳。
通当ての神業にて、逃げる背を打つ算段だろう。

「エンダ! 手当たり次第に壊せ!」

叫び声のような指示。
エンダが即座に反応する。

黒靄が奔る。
物置部屋の備品棚、配電盤、照明器具、床の構造体。
ありとあらゆるものに刃のように黒靄が走り、破壊を開始する。

棚が崩れ、火花が散る。
ケーブルが千切れ、構造材が崩れ、倒壊していく。

倒れ込んだ備品が即席の盾となり、放たれた真空の拳圧を破砕しながら受け止める。
同時に崩れた荷物が通路を埋め、追撃を足止めする障害物となった。

だが――そんなもので、王者が止まるわけがない。

エルビスは足さばき一つで障害物を避けながら、迷いなく迫ってくる。
稼げる時間は、せいぜい数秒。

そして仁成も、それをわかっている。
エンダを抱えたまま、この男を振り切るのは不可能だと。

実際それは一度、味わった。
背を向けた瞬間、地獄が追いすがるあの感覚を。

「どうするつもりなんだいっ!?」

抱えられたエンダが問いかける。
破壊された部屋が、煙と靄と爆裂で曇る中。
その中で、仁成は曲がった左薬指を無理やり伸ばしながら――笑っていた。

「2対1でもアレには勝てない。なら、答えは簡単だ――」

倉庫を出て通路を全速力で駆け、足を止めることなく、決断を告げる。

「――それ以上を、巻き込むまでだ」

その言葉に、エンダの目が見開かれる。

「……まさか」
「このブラックペンタゴンには囚人が集まってるはずだ。なら――――巻き込めそうな奴を、全員巻き込む」

まだ混乱の渦中にある、ブラックペンタゴンの内部。
そこに仲間でも敵でもない、多くの受刑者たちが集まっているはずだ。

王者を引き連れそこに突っ込み、そいつらを戦いに無理矢理巻き込む。
そうすれば矛先はその場における最大の脅威に集中するはずだ。
確実ではないが、現状の戦力で勝てないのだからそれしかない。
急場も極まった傍迷惑な混沌の作戦である。

背後から、王者の足音が迫っているのを感じながら。
仁成は混沌に向かって全力で駆け出した。

【D?4/ブラックペンタゴン1F 北東・北西ブロック 連絡通路/一日目・午前】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:ダメージ(中)、疲労(小)
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ナイフ、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスから逃げる。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キング、ギャル・ギュネス・ギョローレンには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。

【只野 仁成】
[状態]:疲労(大)、全身に傷、右掌皮膚腐敗、右手薬指骨折、左頬骨骨折、左奥歯損傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスを誘導して、他の受刑者を巻き込む
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。

【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、右腕、右肘にダメージ、強い覚悟
[道具]:
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.エンダと仁成を殺す。
1."牧師"と"魔女"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。

100.熱き血潮のカプリチオ(前奏) 投下順で読む 102.[[]]
時系列順で読む
We rise or fall エルビス・エルブランデス [[]]
只野 仁成
エンダ・Y・カクレヤマ

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最終更新:2025年07月18日 20:51