◆
「プロの意見と、手助けが欲しい」
ブラックペンタゴン1F、北東内側ブロック――配電室。
無機質に並ぶ、数多の電気設備に囲まれる中。
神秘的な雰囲気を纏った白髪の少女が、眼前の男に問う。
「籠の中の鳥は、飛び立てそうかい?」
少女、エンダ・Y・カクレヤマが放った言葉。
そこに込められた“含み”に、男は反応する。
口の端をゆっくりと吊り上げて、不敵な笑みを見せた。
「“脱獄王”、トビ・トンプソン」
トビ・トンプソンは、自らの名を呼ぶエンダをじっと見据えていた。
不敵な笑みで応える中で、彼は内心思慮していた。
――――“ヤマオリの巫女”。
――――“何故こいつが此処にいる”。
腹の底から湧き上がった疑問を、トビは決して表情に出さない。
世界最大規模のヤマオリ・カルト。
その巫女として担ぎ上げられていた“神の化身”――“ヤマオリ様”。
既存社会を揺るがしかねない組織で祀られていた、絶対的な象徴(シンボル)。
ある意味で、名だたる大悪党達に並ぶ存在だった。
彼女の真なる名は裏社会でも知られておらず、このアビスに投獄されていたという事実も聞いていなかった。
そう、脱獄王でさえ掴めていなかった――あの銀鈴と同じように。
そもそも例の巫女は、組織の崩壊と共に命を落としたとも噂されていた。
その張本人が、こうして眼の前に現れたのだ。
恐らく彼女は、何らかの理由で秘密裏に投獄された存在。
即ち、あの銀鈴に並ぶ“もう一人の秘匿受刑者”。
その答えに行き着くのに、時間は掛からなかった。
――元より怪しかった“恩赦なるもの”の信憑性が、いよいよ現実味を失ってきた。
そもそも秘密裏の施設であるアビスにおいて、更に秘匿されている受刑者たち。
彼らがこの刑務に複数参加している時点で、アビスが素直に恩赦を認めるとは極めて考えにくい。
あるいは、アビス側にも何か思惑があるのか――今はまだ真相は分からない。
故に、今の自分に出来ることはひとつ。
脱獄王である己が成すべきことは、決まっている。
――“籠の中の鳥は、飛び立てそうか”。
エンダから投げかけられた問いに対し、暫しの思いを馳せた後。
「“フランソワ・ヴィドック”って知ってるか」
探偵風の装いをしたエンダを一瞥して、トビは口を開いた。
「18世紀フランスに生まれた“世界初の探偵”だ。
パリ警察の密偵や犯罪捜査局の創設者として成果を上げ、その後独立して自らの探偵事務所を作った」
不遜な笑みを見せながら、トビは語り続ける。
ぎょろりとした眼が、エンダを見据える。
「――――そいつは元々、“脱獄のプロ”だったのさ」
脱獄王と、探偵の少女。
その巡り合わせの“相性”を言外で訴えるように。
男の眼差しが、エンダの視線と交錯した。
「オレ様に賭けてみないか」
今はまだ飛べないが、可能性は模索できる。
そう伝えるように、トビは提案する。
「2階から3階の調査と、施設の検分。
そいつをオレ様が全て担ってやる」
脱獄王から直々の売り込み。
それをエンダは咀嚼するように受け止めた。
――監視のために飛ばした黒靄の蝿は、今もヤミナを追い続けている。
大まかな位置を探知した限り、彼女は何らかの手段で上層階へと足を踏み入れている。
既に現場の探索も行っている可能性は否定できない。
しかし、あくまで使い走りとして悪事を働いた女と、数多の脱獄を成し遂げたプロ。
実際に現場を見聞きした上でどちらの見解に価値があるかと言えば、間違いなく後者の方だ。
故にこの提案には、確かな価値がある。
「代わりに――――階段前に居座ってる野郎がいる。
エルビス・エルブランデス。かの“ネオシアン・ボクス”のチャンピオンさ」
そして見返りとしての条件を、トビが言及する。
この施設は、狩り場としての機能を有している。
内部の見取り図を眼にした時から、エンダもまたその可能性には勘付いていた。
一箇所のみしか存在しない階段。そこで待ち伏せを行う受刑者が現れることも、決して不思議ではなかった。
「あの野郎が生きている限り、おちおち探索も出来やしねえ」
それはこの施設を調査する上で、紛れもなく大きな障壁となる。
門番が立ちはだかる限り、籠の鳥が翼を広げることは出来ない。
「ヤツを足止め、あるいは排除してほしい」
――――地の底に、最初の朝が訪れる。
それは第一回放送を迎える直前のやりとりだった。
◆
《定時放送の時間だ――――》
ブラックペンタゴン1F、物置部屋。
倉庫も同然の空間に、悪辣なる看守長の声が響く。
第一回放送。この刑務における、最初の定時連絡。
この数時間における死者の名と、これより追加される禁止エリアについての伝達が行われる。
《諸君、刑務作業の進捗はいかがかな――――》
されど、彼は――只野仁成には。
その放送へと耳を傾ける余裕など、ありはしなかった。
呼吸を整えて、そこに佇む男を視界に捉えていたからだ。
距離にして十数メートル。積み上がった荷物の影から、ぬらりと現れた拳闘士。
仁成は戦慄と共に、その男を見据えていた。
《贖罪を果たし、己の価値をほんの少しでも――――》
放送を聞き届けるだとか、連戦の疲弊を癒すだとか。
そんな御託は、この拳闘士には無用の長物だった。
階段前の門番として立っていた男は、仁成の追撃を選んだ。
距離を稼がれる前に、確実に仁成を仕留めに来たのだ。
《さて、それでは事前に説明していた通り――――》
エルビス・エルブランデス。
無敗のチャンピオンが、再び仁成の前に立ちはだかる。
撤退した仁成を追い立てて、再び脅威として姿を現す。
《アンナ・アメリナ、並木 旅人、羽間 美火――――》
そんなエルビスの姿を、無言で見据えて。
身体の痛みが疼く中で、仁成は焦燥を抱く。
つい先程、身を以てその実力を思い知った相手。
無敵の絶対王者は、自分を逃すつもりなど無いのだと。
戦慄を感じるように、仁成は息を飲む。
あの紫骸の庭園からは抜け出したとはいえ。
それでも彼の凄まじい戦闘力に対し、今なお勝ち目があるかは定かではない。
真正面からの殴り合いとなれば、確実に相手に軍配が上がる。
エンダとは、未だ合流を果たせていない。
彼女の安否もまた、確かめねばならない。
《――――宮本 舞衣、恵波 流都、無銘、フレゼア――――》
故に、暫しの静寂と、張り詰めた緊迫が吹き抜けた直後。
仁成は迷わず、瞬時に地面を蹴った。
近くにある荷物棚の側面へと隠れ、王者の視界から逃れようとした。
そう、逃れようとしたのだ。
《以上の者たちが刑務作業により懲罰を――――》
瞬間、仁成の胴体側面に鈍痛が走った。
拳を叩き込まれるような衝撃が、突如として迸ったのだ。
駆け抜けようとしたはずの身体が、成す術なく吹き飛ばされる。
《いやはや、実に順調だ――――》
横転する仁成の身体。
床を転がり、咽ぶように何度も咳き込む。
内臓を揺さぶられるような苦痛が、肉体を駆け巡る。
何が起きた。仁成の思考は混乱を経て、すぐに理解する。
――――遠当ての魔技。百歩神拳。
つい先程の戦闘。自身が行使した技を、エルビスもまた放ったのだ。
《続いて、禁止エリアの指定――――》
最早仁成に、放送を片手間に聞き届ける余裕は無かった。
迫り来る。魔技を叩き込んで間も無く、エルビスが肉薄する。
蹲る仁成をすぐさま追うように、その距離を瞬く間に詰めていた。
《A-4、B-6、C-1――――》
そして、チャンピオンの右拳が振り下ろされる。
仁成はすぐさま床を転がり、その一撃を回避。
――躱された拳が、床の石材を勢い良く打ち砕く。
まるで鉄槌のような破壊力を前に、仁成は戦慄を抱く。
仁成はそのまま横たわった状態で、懐から拳銃を抜く。
拳を振るった直後のエルビスを狙い、発砲――鉛玉を放つが。
スウェーバックのような動作で、エルビスは近距離からの銃撃を回避。
そのままコンマ数秒程度の猶予、刹那の合間に彼は再び地を蹴る。
猛獣のような瞬発力で迫るエルビス。
思わず舌打ちをした直後、強靭な身体能力を振り絞る仁成。
両腕両脚を駆動させ、まるでバネのように身体を跳ね起こした。
跳躍の勢いで後方へと下がり、エルビスとの距離を稼ぎつつ着地。
再び両足を地に付けた仁成は、すぐさま腕を構えて防御の態勢を取る。
顔と胴体を庇うように据えられた両腕――その直後、次々に衝撃が叩き込まれる。
即座に至近距離へと肉薄してきたエルビスが、猛然と拳のラッシュを仕掛けてきた。
防御の上からも構わず、王者の拳撃が次々に襲い来る。
耐える。耐える――必死に耐える。
歯を食い縛り、人類最高峰の身体能力を振り絞る。
三度も受ければ腕さえ使えなくなると見越した威力。
それでも、仁成は耐え抜く。決死の覚悟で耐える。
人類の究極は伊達ではないと、血濡れで叫ぶかのように。
全ての感覚と筋肉を防御へと集中させて、仁成は拳撃を堪え続ける。
凄まじい威力の打撃によって、次々に打ち据えられる。
まるでサンドバッグのように、仁成は幾度も拳を叩き込まれていく。
仁成は既に、悟っていた。
どれだけ足掻こうと、どれだけ引き下がろうと。
この男は、自分を決して逃しはしない。
徹底的に追い詰めて、仕留めに掛かろうとしている。
――それほどまでに、恩赦を求めているのだ。
自分に与えられた道は、二つだけ。
チャンピオン、エルビス・エルブランデス。
この男を倒すか、この男に殺されるか。
ただそれだけなのだと、仁成は思い知らされた。
◆
最初の放送を聞き届けて。
図書室の出入口を通り抜けて。
二人の淑女は、広い通路へと踏み込んでいた。
物置部屋で暫く身を潜めてから、階段での待ち伏せを行う。
じきに受刑者達がこのブラックペンタゴンに集い、乱戦が巻き起こるだろう。
その隙を突いて、弱った敵へと奇襲を仕掛ける。
そうした手筈で動き出そうとした、その矢先だった。
されど――ソフィア・チェリー・ブロッサムは、見誤っていたのだ。
この地の底の要塞が、既に鉄火場と化していることを。
彼女が知りもしない怪物が、刑務へと潜んでいることを。
通路を歩き出した、血濡れの令嬢。
ルクレツィア・ファルネーゼ。
何の脈絡もない破裂音が轟いて。
彼女の脳天が、唐突に爆ぜた。
予期せぬ衝撃に、その身体が崩れ落ちる。
何が起きたのか。
同行者であるソフィアは、理解が遅れた。
全く前触れのなかった奇襲攻撃に、目を見開いた。
唐突な銃声。唐突な暴威。
超力によって気配を断ち、不意打ちを仕掛けてきたのか。
それは違う。ソフィアは、超力による影響を一切受けない。
例え気配を遮断していようと、その存在を秘匿していようと。
その術が超力によるものならば、ソフィアには全く通用しない。
超力による恩恵だとすれば、如何に息を潜めようとも――ソフィアには筒抜けになるのだ。
故にソフィアは、その予兆を全く掴めなかったことに動揺した。
図書室の方角から突如として放たれた“拳銃の発砲”を、一切察知することが出来なかった。
「――――こんにちは、人間さんたち」
まるで硝子玉のように、透き通るような声が響いた。
その声の主の存在に、ソフィアもルクレツィアも気付くことは出来なかった。
相手は突然現れ、突然奇襲を仕掛けた――二人はそれを全く察知できなかった。
ソフィアは無論、ルクレツィアすらもその瞳に驚愕を宿す。
「麻衣がいなくなってしまったの。とっても悲しいことだわ。
また“素敵な兵隊さん達”で遊びたかったのに」
舞うようなステップと共に、その声の主は姿を現す。
銀色の髪を靡かせ、漆黒のドレスを身にまとう――麗しき令嬢が其処にいた。
「でも、悲しみに浸り続けるのは良くないことね。
まだまだ楽しいことが此処にはあるもの。前向きに考えるべきだと思ったわ」
――――何だ、この女は。
――――何者だ、この受刑者は。
――――こいつは、一体何だ?
ソフィアは、驚愕と共に目を見開く。
彼女は、姿を現した淑女を全く知らなかった。
アビスは愚か、特殊部隊に属していた頃ですら存在を把握していない“未知の悪人”。
公的な組織に認知されていない悪党など、大抵は名の知れない矮小な犯罪者に過ぎない。
にも関わらず、そこいらの小物とは一線を画すほどの威圧感を滲ませている。
「歓びというモノは、いつだって寂しい風のよう。
あっという間に過ぎ去って、遠くへと行ってしまう」
これほどのプレッシャーを放つ受刑者の接近に、何故一切気付けなかったのか。
ソフィアは、その答えを理解できない。
ただ悠々と言葉を並べる相手に、戦慄を抱くことしかできない。
そもそも、この受刑者は一体“誰なのか”。
こんな囚人が、アビスに収監されていたのか。
「だから、存分に楽しむ価値が在るの思うの」
ゆらりと、淑女の影が揺れる。
唐突な銃撃で脳天を掻き乱されたルクレツィアを、彼女は見据える。
穏やかな微笑みとは裏腹に――まるで虫か何かを見つめるような眼差しで。
ぞくり、と。
ソフィアは言い知れぬ恐怖を感じた。
――こいつは、人間なのか。
――こいつは、悪魔か何かなのか。
そんなふうに思ってしまう程に、この銀髪の囚人は異様だった。
優雅に佇んでいるのに、人間味をまるで感じさせない。
応戦すら忘れてしまうほどに、ソフィアは唖然としていた。
「ねえ」
秘匿受刑者、“銀鈴”。
彼女は、次なる玩具を見つけた。
「私達と、踊りましょう?」
銀鈴が、笑みを浮かべた瞬間。
銃撃で脳天を破壊されたルクレツィアが、突如として動き出した。
額と後頭部から血を噴き出し、脳漿を溢れさせながら。
それでも血塗れの令嬢(エリザベート・バートリ)は、狂気を纏って銀鈴へと迫る。
「――――ルクレツィアッ!!!」
そんなルクレツィアを目の当たりにして、ソフィアは我に返った。
鋭利な刃のような殺気の気配を、即座に察知した。
それは、眼前の銀鈴が放つ匂いではない。
もう一人。別の新手が、銀鈴の後方で息を潜めていたのだ。
ソフィアが駆け出し、咄嗟にルクレツィアに追い縋る。
そして彼女の前に立ちはだかるように、地を蹴った直後。
その右腕を振るって、銀鈴の後方から放たれた“真空の刃”を掻き消した。
銀鈴が、感心したように「まあ」と声を上げた。
彼女の後方から飛び出し、広い通路を駆け抜ける影。
短いブラウンの髪を持った、オッドアイの男だった。
男は機敏な動きでルクレツィアの側面へと回り、距離を置いたまま三本の”真空のナイフ”を放つ。
ソフィアが再び盾になろうとした矢先、銀鈴が妨害の銃弾を放った。
迫る弾丸に対し、ソフィアは舌打ちをしながら咄嗟に側面へと跳んだ。
――超力に関わらない攻撃に対しては、回避を余儀なくされる。
隙を突かれたルクレツィアはナイフを躱し切れず、その身を刃によって穿たれる。
脳天に受けた銃撃と、死角から放たれた刃。
二度の攻撃をその身に受けて、ルクレツィアは怯む。
――――その目に、愉悦はない。
予期せぬ襲撃を前に、彼女は殺意を宿す。
「貴女。見知らぬ顔ですね」
その治癒能力を活かし、ルクレツィアが強引に躍動した。
自らの超力によって箍の筈れた肉体を操り、眼前の銀鈴へと接近。
悠々と佇む銀鈴の長い髪を掴もうと、その右腕を伸ばしたが。
ひらりと、銀鈴が動いた。
予備動作も、気配も、全く感じさせない。
そんな奇妙で、人間味のない動作だった。
まるで幽鬼のように、希薄な存在感でステップを踏む。
力任せに身体能力を行使するルクレツィアは、銀鈴の奇怪な動きに対応できない。
そのまま右手は虚空を掴み、一瞬の隙が生まれて。
直後に、ピッと首筋に一閃の傷が生じた。
斬撃を叩き込まれた白い首筋から、血が噴き出した。
ルクレツィアは、ハッとしたように振り返った。
銀鈴がゆらりと回避を行った直後。
すれ違いざまに、彼女は手刀を放っていたのだ。
その一撃はルクレツィアの細い首を的確に捉えて、皮膚を抉ったのだ。
「ふふ、丈夫な人間さんなのね。
それが貴女のネオスかしら?
とっても“長持ち”しそうだわ」
ふわりと、ドレスの裾を靡かせて。
銀鈴もまた、踊るように振り返った。
その顔に、微笑みを絶やさぬままに。
深淵にも似た瞳が、ルクレツィアを捉え続けていた。
――ソフィアが、駆け抜けていた。
銀鈴がルクレツィアに意識を向けている最中に、側面からの奇襲を仕掛けんとした。
されどソフィアの前に、男の影が割り込んだ。
まるで彼女の軌道を“予知”したかのように、機敏な動きで立ちはだかる。
「邪魔は、させねえよッ――!!」
その男――ジェイ・ハリックは、ソフィアへと目掛けて右足を突き出す。
槍の刺突のような蹴りが放たれ、咄嗟にソフィアは両腕で受け止める。
交差した腕で靴底を受け止めながら、肩の筋肉を躍動させた。
ソフィアは両腕を解き放つような動作で、ジェイの蹴りを弾き飛ばす。
片足を防がれ、弾かれたことでジェイは体勢のバランスを崩す。
その隙にソフィアが突進。勢いに乗せて、裏拳をジェイの顔面に叩きつけた。
がッ――と、苦悶の声を上げるジェイ。
されど、歯を食い縛りながら堪えてみせた。
即座にカウンターの左フックを、ソフィアへと目掛けて放つ。
ソフィアは咄嗟に後方へと身体を傾け、左拳を躱す。
虚空を切るように空振る拳。隙が生じ、胴体がガラ空きとなる。
その瞬間を見逃さず、ソフィアは瞬時に体制を整え。
脇腹へと目掛けて、手刀の一撃を勢いよく叩きつけようとした。
――――かちゃり。
奇妙な音が、通路に響いた。
刹那の合間に。
ソフィアは、そちらへと意識を向けた。
直感のように、危機を察知してしまった。
ルクレツィアは、幾つもの手傷を負っていた。
その身を刻まれ、穿たれて。
血を流しながら、それでも継戦を続けていた。
――銀鈴には、一撃を与えられていない。
一切の気配を纏わず、一切の殺意を放たず。
極端なまでに予兆も前触れもない動作の数々。
それは戦闘者としての技巧に乏しく、自己治癒と身体能力で強引に戦うルクレツィアの天敵に等しかった。
人体の急所を知り尽くす暴威の数々も、銀鈴を捉えることが出来ない。
「とっても凄いのね、貴女!
いくら刻んでも動じないなんて、ふふっ――」
されど銀鈴もまた、膂力そのものは決して優れていない。
故にルクレツィアを殺し切る決め手に欠けるのだ。
互いに身体能力のみで挑めば、勝負はジリ貧の持久戦と化す。
「――“これ”も、耐えられるのかしら?」
だからこそ、銀鈴は“放り投げた”。
空中を舞う安全ピン。回転と共に放られる円形の物体。
それは幾度となく攻撃を受け、手傷を負ったルクレツィアへと迫る。
ソフィアは、咄嗟に叫んだ。
惚けたような表情で、投げられた物体を見るルクレツィア。
――彼女は強靭な回復能力を持つ。されど、決して不死ではない。
爆炎で木っ端微塵に吹き飛ばされた上で、命を繋げられる保証はない。
駆け出すソフィアは、銀鈴へと攻撃を仕掛けんとする。
されど彼女を妨げるように、ジェイが機敏に飛び蹴りを放った。
対処を余儀なくされるソフィア。防御を行い、ジェイの脚を弾く。
虚空で踊り、そのまま地面を転がる円形の物体。
ルクレツィアは、たんとステップを踏む。
その場から跳ぶように、後方へと下がらんとした。
手榴弾。安全ピンを抜かれて、それは起動する。
先ほどの奇妙な音は、ピンを引き抜いた音だった。
――――そして、爆炎と轟音が迸る。
開闢の時代。超人を殺し切る火力を搭載された、小型爆弾。
人間を焼き尽くすための武器が、起爆する。
その炸裂は、この場にいる四人の視界を赤熱で埋め尽くす。
彼らはそれぞれ、回避行動を取っていた。
破壊と衝撃を凌ぎ切るべく、咄嗟の機動で距離を取っていた。
駆け抜ける四人の行動は、やがて戦局の分断へと至る。
彼らは走る。死の硝煙から逃れる瞬発の果てに、二分されていく。
◆
呼吸を整えて、ソフィアは駆け抜けていた。
敵の気配を探るように、意識を研ぎ澄ませる。
先程の手榴弾の炸裂から逃れる過程で、戦局は二手に分かれていた。
それぞれ別々の通路へと退避し、分断される形となった。
ソフィアはそうしてあの場から追い返されるように、再び“図書室”へと踏み込んでいた。
ルクレツィアとは分断された。
数分前。退避に突き動かされていた刹那、ソフィアは彼女の姿を微かながら視認することが出来た。
あの“ドレスを纏った銀髪の女”と共に、北東ブロック方面へと進んでいく姿が見えたのだ。
幾らかの手傷は負ったとはいえ、現状では行動に支障はない。
開闢時代の人類、それも鍛錬を重ねた者だからこそ、傷が疼きながらも継戦することができる。
故に、ソフィアは構え続ける。
テーブルと座席を囲うように、数多の本棚が立ち並ぶ中。
彼女は、周囲へと意識を集中させる。
あの分断によって図書室へと踏み込んだのは、自分一人だけではないのだ。
――――直後、死角から飛来する。
――――“不可視の刃”が、虚空を裂く。
ジェイ・ハリックの超力、『透明の殺意(インビジブルナイフ)』。
真空のナイフが、真紅の桜(チェリーブロッサム)へと迫る。
ソフィアの背後。その細い首筋へと目掛けて、襲い来る。
不意を撃つ形で鋭く放たれた、虚空の刃。
しかしそれは、ソフィアへの致命打には成り得なかった。
殺気を感知し、咄嗟に振り返ったソフィア。
死角からの攻撃に対し、彼女の反応は間に合わない筈だった。
だが刃は彼女の首筋に触れた瞬間、まるで硝子のように砕け散る。
破裂した刃は脆く崩れ落ち、そのまま消滅した。
ソフィア・チェリー・ブロッサムには、超力が一切通用しない。
五体を引き裂く攻撃だろうと、砲弾すら防ぐ防御であろうと。
人間の精神に干渉する術理であろうと、対象の存在さえも抹消する異能であろうと。
その技が超力である限り、彼女に何の意味も為さない。
それこそがソフィアの超力、『例外存在(The exception)』。
故にソフィアに“不可視の刃”は通用しない。
如何に完璧な不意打ちを叩き込もうとも。
それが超力であるならば、彼女の命を奪うことはできない。
そんなソフィアの虚を突くように。
突如として、ジェイ・ハリックが本棚の陰から躍り出る。
刃に反応したソフィア、その視界の左側面から飛び出してきたのだ。
つい先程――ジェイは気配を遮断し、素早く移動しながら息を潜め。
それから予め生成し、空中に留めさせていた“不可視の刃”を時間差で射出した。
刃が生成後に維持される時間は僅か2秒足らず。
その間にジェイは息を殺したまま鋭く駆け抜け、死角からの奇襲を敢行したのである。
まるで猛禽のように流麗な動きで、ジェイは肉薄した。
その右手に握り締める武器を、眼前へと突き出す。
ソフィアは目を見開きながら、すぐさま奇襲へと対応。
迫る攻撃が超力によるものではないことを、一瞬の内に悟った。
ソフィアが右手の手刀を鋭く振るい、ジェイの振るう攻撃を弾いた。
彼の右腕を逸らすような形で、彼女は斬撃を凌いだのだ。
奇襲への対処に、ジェイもまた驚愕の表情を見せる。
――ジェイの手には、木製のナイフが握られていた。
刺突に適した、杭のような武器だった。
ブラックペンタゴンへと向かう途中、超力の刃で樹木を削って作り出した即席の武装。
持続性の低さから投擲と暗殺にしか用いられない超力に代わり、近接戦闘を想定して用意したものだった。
超力制圧の異能を持つソフィアとて、純粋な武器ならば傷つけることが可能である。
ジェイは意図せずして、彼女への的確な対抗策を用いていたのだ。
刺突のように鋭い瞬発力で、ソフィアの左腕が突き出される。
武器を携えたジェイの右手を抑えようと、掴み掛かる。
しかし彼は、即座に対応――“先読み”する。
掴み掛かろうとするソフィアの腕を、咄嗟に左手の一振りで弾いてみせた。
そのまま間髪入れず、ジェイは即座に右手のナイフの刃を振り上げる。
これに対し、ソフィアは瞬時に身体をすぐ横へと逸らす。
刃が左の二の腕を掠めながらも、怯むことなく。
右手の手刀をジェイの首へと叩き込まんとする。
直後にジェイが、自らの左腕を振り上げた。
再び“先読み”。左前腕で手刀を的確に受け止めた。
防御と同時に、右手の刃をソフィアの腹部へと突き立てる。
手刀を防がれたソフィアは、瞬時の思考を続ける。
左手で振り払うように、ナイフを握るジェイの右腕を弾いて逸らす。
目を見開くジェイ。歯を食いしばり、驚愕の表情を見せる。
その隙を見逃さず、既に引いていた右手の拳を脇腹へと叩き込まんとする。
ジェイは動揺しながらも、後方へと即座に下がる。
右拳のフックを回避。“先読み”によって、軌道を予測した。
それでもソフィアは躊躇うことなく、床を蹴ってジェイへと接近。
電撃的な速度で迫るソフィアを、ジェイはキッと睨むように見据えた。
――――そこから先は、応酬の連続。
――――互いの両腕が、幾度となく交錯する。
拳撃。刺突。手刀。掴み。フェイント。
互いに技を繰り出し、その度に互いの攻撃を凌ぐ。
凄まじい瞬発力と反応速度で、相手の一手を悉く妨げていく。
至近距離。ゼロ距離。眼前で肉薄する攻防。
腕と腕が目まぐるしく放たれて、次々に捌かれていく。
技量においても、余力においても。
明確に優っていたのは、ソフィアの方だった。
反射神経と動体視力によって、的確に敵の攻撃へと対処していた。
対超力犯罪の特殊部隊に所属した過去を持つ彼女は、数多の超力犯罪者を体術によって制圧してきた。
“超力の無効化”という超力を持つが故に、あくまで戦闘は自らの身体能力に頼らねばならない。
そうして死線を潜り抜けてきたソフィアの格闘術は、紛れもなく卓越している。
彼女は応酬の中でも冷静に、淡々と手札を切り続けていた。
対するジェイの表情に、余裕はなかった。
鼻血を流して必死に歯を食いしばり、無我夢中の攻撃を繰り返し。
それでも尚、彼はソフィアとの応酬を成立させている。
ごく短時間の“未来予知”を連続発動し、相手の一手を次々に予測していたのだ。
ソフィアの超力無効化の影響を受けない、生来の異能。
それによる“先読み”を駆使することで、ソフィアに食らいついていた。
そして、15年ものブランクを背負っているとはいえ。
ジェイは暗殺者の家系に生まれ、物心ついた時から戦闘や暗殺の訓練を受けている。
彼にとってはそれが日常であり、それこそが当然の教育だった。
自覚こそ希薄なものの、ジェイの身には研ぎ澄まされた体術が染み付いているのだ。
激突が続く。交錯が繰り返される。
果てしない攻防が、延々と反復されて。
やがてその均衡を崩したのは、ソフィアだった。
ソフィアの瞬発力が、先読みするジェイの反射神経を上回った。
彼女の左手が、ナイフを握るジェイの右腕を掴んで制止させる。
咄嗟の反撃として繰り出された左拳の一撃も、ソフィアは右手で受け止める。
そのままジェイの行動を封じ込めて――両者の顔が、至近距離で肉薄する。
「――――ジェイ・ハリック、ですわね?」
膠着状態。乗るか反るかの状況。
眼前で視線を交わし合う二人。
鋭い眼差しを向けるソフィアと、動揺を瞳に浮かべるジェイ。
互いに睨むような表情で、相手と対峙する。
「知ってんのかよ、俺のこと」
「“予知能力一族”ハリック家のお話は、以前よりかねがね」
拘束から抜け出そうと力を込めながら、ジェイが言葉を返す。
冷や汗を流しながらも、強がるようにソフィアを睨みつけている。
ソフィアはあくまで淡々と、自らの言葉を続ける。
「貴方が行動を共にしていたお方。
アレは、このアビスにおいても“普通”ではないでしょう」
「……まぁな」
肉薄する対峙の狭間で、ソフィアは投げかける。
対するジェイは、自嘲するように苦笑を浮かべる。
ソフィアは、あの銀色の髪を持つ淑女――銀鈴の佇まいを振り返った。
名も知らぬあの犯罪者が何者であるのかは分からなかったが。
彼女が決して“まともではない”ことなど、一目見ただけでも明白だった。
ハリック家。超力時代を経て立場を失った異能者の一族。
公権力のエージェントへと転身した優秀な兄とは異なり、身を持ち崩して些細な犯行で逮捕されたとされる弟。
ジェイ・ハリック――その存在は、一族没落の象徴として扱われていた。
そうして堕ちぶれた男が、此処に来て“悪魔”に手を引かれている。
「お聞かせください」
故にソフィアは、この刹那の交錯の中。
眼前のジェイに対し、問いかける。
「貴方は、彼女と共に」
まるで、己に対する自戒を刻み込むかのように。
自らの葛藤に対する答えを求めるかのように。
「“地獄”へ堕ちるおつもりですか?」
――――お前もそうなのか、と。
ソフィアは、ジェイへと投げかけた。
問われたジェイは、唇を噛み締める。
苦い表情を浮かべて、葛藤を滲ませる。
ソフィアの問いかけに迷いを抱くように。
自らの指針に、躊躇いと不安を抱くように。
彼は僅かな間、その口を噤む。
この遣り取りの最中においても、互いの両腕は拮抗し続ける。
ジェイの両腕を制圧し、行動を留めさせるソフィア。
ソフィアの拘束を振り払うべく、両腕に力を込め続けるジェイ。
問答の狭間においても、二人の攻防は静かに続けられる。
「……分からねえ。俺にも、よく分からねえんだよ」
やがてジェイは、口を開いた。
「でもなぁ」
晴れぬ疑念と、道半ばの混迷の中。
それでも胸の内に、兄の教えが宿り続ける。
「“機を伺え、耐え忍べ”って。
そんな単純な教訓さえも学べなけりゃ……」
己を見失うな、と。
兄はジェイに語りかけていた。
それは今の彼にとって、紛れもない指針であり。
「きっと俺は、今度こそ本当のクズになっちまう」
自らの存在を繋ぎ止める為の、試練であった。
故にジェイは、貫くことを選ぶ。
「俺は、俺に価値があるのかを――――」
瞳に迷いを湛えながらも、ジェイは歯を食いしばる。
その眼でキッとソフィアを見据えながら、彼は啖呵を切る。
「――――ただ、確かめたいんだよッ!!」
次の瞬間。
ソフィアの視界の端で、何かが崩れ落ちた。
それは勢いよく落下し、一瞬の轟音を響かせた。
耳を劈くような音と、物体が床に叩きつけられた衝撃。
思わずソフィアが、目を見開く。
「ッ!!」
近くの灯りが途絶え、幾許かの影が生じていた。
――すぐ傍の天井から、照明器具が落下したのだ。
ソフィアは咄嗟に、反射的に、そちらへと気を取られた。
ほんの刹那。コンマ数秒の判断。しかし、それが命取りとなる。
ソフィアの鼻っ面に、衝撃が叩き込まれた。
鈍痛が顔面に響き、鼻から血を流しながら後方へと仰反る。
両腕を拘束されていたジェイが、頭突きを放ったのだ。
つい先ほど、密かに空中で生成されていた“不可視の刃”。
不可視であるが故に、初撃は悟られない。
刃はそのまま虚空へと放たれ、近くの照明器具を破壊したのだ。
例えソフィアに超力が通用せずとも、周囲の物体へと干渉することは出来る。
照明器具が破壊された際の音と衝撃によって、彼女の注意を僅かにでも逸らすことは出来る。
優秀な戦士であるが故に、ソフィアは咄嗟の反応を強いられた。
「っ、の――――!!」
ソフィアの喉元から、声が漏れた。
頭突きで怯んだソフィアの隙を見逃さず、ジェイは即座に彼女の両手による拘束を振り払う。
自由になった両腕を構え直しつつ、彼は後方へと跳ぶ。
苦悶を堪えつつ、咄嗟に追撃を行おうと右腕を伸ばしたソフィア。
されどその手は、ジェイが握る木製ナイフの一振りによって妨げられる。
ソフィアは即座に右腕ごと身体を引き、迫る刃を紙一重で回避。
攻撃への対処を強いられたソフィア。
彼女から逃れる形で、ジェイは豹の如き瞬発力で後退。
そのまま本棚の影へと姿を隠し――その気配を押し殺す。
暗殺者としての技能。隠密行動の術。
ジェイはこの大図書室にて、自らの技巧を発揮する。
鼻血を拭いながら、ソフィアは呼吸を整える。
並び立つ本棚の陰に潜みながら、敵は虎視眈々と此方を狙ってくる。
特殊部隊に所属していた頃に染み付いた格闘術の構えを取りながら、感覚を研ぎ澄ませる。
ルクレツィアとの合流に急ぐか。
あるいは、此処でジェイ・ハリックを討つか。
気配に絶えず注意を払いながら、ソフィアは思考する。
相手もまた、同行者と分断されている状況だ。
判断を強いられているのは、互いに変わりないだろう。
攻めるか、退くか。周囲に警戒しながら、彼女は決断を迫られる。
――――自分自身に、何の価値があるのか。
先程のジェイの言葉が、ソフィアの脳裏で反響する。
悪魔の手を取り、地獄へと堕ちていく――。
自分と同じ面影を、ソフィアはジェイに微かにでも見出していた。
その姿を感じ取ったからこそ、彼女は問いを投げかけた。
されど、彼は自分とは違っていた。
愛を失い、生きていく意味さえも失い、亡霊と化した自分とは違う。
あの男は――ジェイ・ハリックは、何かを得ようとしている。
葛藤の中で、自らの答えを探し出そうとしている。
それを察したからこそ。
ソフィアは、思い知らされる。
朝焼けにも似た悲哀を、胸に抱いていた。
刹那の戦局で、ほんの一瞬。
彼女は、感傷と悲壮に駆られていた。
【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(中央) 図書室/一日目・朝】
【ソフィア・チェリー・ブロッサム】
[状態]:精神的疲労(大)、疲労(小)、身体にダメージ(小)
[道具]:デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.恩赦を得てルクレツィアの刑を一等減じたい。もしも、不可能なら……。
0.ジェイ・ハリックに対処。始末か、ルクレツィアと合流か。
1.ルーサー・キングや、アンナ・アメリナの様な巨悪を殺害しておきたい
2.この娘(ルクレツィア)と一緒に行く 。例え呪いであったとしても
3.あの二人(りんかと紗奈)には悪い事をしました
4.…忘れてしまうことは、怖いですが……それでも、わたくしは
5.やはり、あのハリック家の者でしたか。
【ジェイ・ハリック】
[状態]:疲労(中)、全身にダメージ(中)
[道具]:木製のナイフ(樹木を超力で削って作った)
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き延びる。チャンスがあれば恩赦Pを稼ぎたい。
0.ソフィア・チェリー・ブロッサムに対処。始末か、銀鈴と合流か。
1.銀鈴の友人として振る舞いつつ、耐え忍んで機会を待つ。
2.呼延光、本条清彦、バルタザール・デリージュ、銀鈴に対する恐怖と警戒。
◆
ブラックペンタゴン1F。
北東ブロック中央――『補助電気室』。
そこは配電室のすぐ隣に位置する一室。
大規模な施設の電気供給を補うために、予備の設備が用意された空間だ。
四角いキャビネットにも似た電気設備が、整然と並び立つ。
規則正しく配置された機器の数々が、無機質な内装を形作る。
灰色の壁や天井には、幾つものパイプが張り付くように伸びている。
配電盤などが並ぶ通路。
無骨な施設に似合わぬ、二つの麗しき影。
分断された戦局の片割れ。
その姿を血に濡らした二人の淑女が、対峙する。
共に銀糸のような長い髪を持ち、陶器のように白い肌を際立たせる。
優雅な佇まいと瀟洒な面持ちで、互いに見据え合っている。
負傷が深いのは、“血濡れの令嬢”の方だった。
ルクレツィア・ファルネーゼ。手榴弾の炸裂で、その顔には火傷を負う。
更には幾度かの銃撃に穿たれ、また手刀によって肌を抉られている。
また先刻の手榴弾の炸裂によって、その右肩には火傷を負っている。
――そうした傷のいずれも、徐々に回復が進んでいる。
彼女の超力である黒煙が、その身を治癒させている。
ルクレツィアは、眼前の淑女――銀鈴を見据える。
相手の負傷は浅い。二、三度だけ強引に打撃を与えられただけだ。
彼女は優美な姿を保ち続け、そこに悠々と佇んでいる。
笑みは消えない。飄々と微笑みながら、銀鈴はルクレツィアを見つめていた。
そんな彼女を捉えるルクレツィアの瞳には、嫌悪と関心の入り混じった色彩が宿る。
「――嬉しいわ。貴女みたいな娘と遊べて」
やがて、銀鈴が悠々と口を開く。
「貴女、血の匂いが染み付いている。
粗相をしてしまうのはお互い様みたいね」
鈴が鳴るように、澄んだ声が。
ルクレツィアの鼓膜に、そっと触れる。
得体の知れない手触りのような、奇妙な感覚。
血塗れの令嬢は、眉間へと微かに皺を寄せていた。
「ええ。好きなんですよ、命と向き合うことが」
それでもルクレツィアは、すっと答える。
「誰かを愛でるのも、苦痛に喘ぐのも、私にとっては極上の愉悦です。
人間は愉しいですもの。私は骨の髄まで、それを味わうだけ」
銀鈴の気さくな呼びかけに対し、ルクレツィアは笑みと共に応える。
――それは気を張り、強がるような笑いだった。
「まあ、それはそれは――とっても素敵なことだわ!
私と同じように、人を愛しているのね」
肩の力を抜き、余裕を持って微笑む銀鈴とは違う。
彼女は悠々と、ルクレツィアを見つめている。
「こうして巡り会えたのも、きっと何かの縁ね」
「ええ……そうかもしれませんね」
二人は既に、幾度かの駆け引きを繰り広げていた。
つい先程まで互いの体術を駆使し、敵の命を刈り取らんと攻防を行なっていた。
故に、共に呼吸を整えている。
「お名前。伺ってもいいかしら?」
「……ルクレツィア・ファルネーゼ。貴女は」
「銀鈴。宜しくね、ルクレツィア」
優位に立っていたのは、銀鈴。
一切の気配も殺気も感じさせない攻撃に対し、ルクレツィアは後手に回り続けている。
驚異的な治癒能力も含めて、身体能力においては間違いなくルクレツィアに軍配が上がる。
されど、“血濡れの令嬢”の強みはあくまでフィジカルに物を言わせた強引な攻勢にある。
戦闘者としての技巧に乏しい彼女は、感知不可能の行動を次々に繰り出す銀鈴に対して不利に陥っている。
銀鈴もまた、ルクレツィアを殺し切れるほどの決め手に欠けるという状況ではあるものの。
それでも現状の交戦において常に先手を取り続けているのは、間違いなく銀鈴の方だった。
ルクレツィアの心は、ざわついていた。
まるで焦燥の波が押し寄せてくるかのように。
彼女の思考には、ざりざりとノイズが走っていた。
言い知れぬ不安が、胸中に押し寄せてくる。
これは何なのだろうか、と。
ルクレツィアは、思いを馳せる。
敵へと傾く戦局への焦りなのか。
きっと違う。そんなものではない。
「ねえ、ルクレツィア」
この感情の答えは、眼前の相手から突きつけられている。
ルクレツィアは半ば悟ったように、銀鈴の言葉に耳を傾けていた。
彼女を見るたびに、令嬢の心は掻き毟られていく。
「貴女。とてもかわいいわ」
――――何故ならば。
こんな眼差しで見られたことなど。
生まれて一度も、有りはしなかったから。
「貴女も、遊ぶのが大好き。人間を愛してる」
こういう目を、ルクレツィアは知っている。
人を、自分と同じモノと思っていない。
人を、自分とは違う下等な存在と見ている。
人を人として扱っていないから、幾らでも残酷になれる。
「私といっしょだけれど」
知っている。とうに見知っている。
退屈で、不粋で、つまらない眼差しだ。
人間と向き合おうともしない、稚拙な猟奇だ。
命を粗末に捨てるだけの、味気無い悪意だ。
この世界においては、ひどくありふれている。
「あなたはもっと無邪気」
だと言うのに。
このざわめきは、何なのか。
まるで、店頭に並ぶ愛玩動物として見られているかのような。
ルクレツィア・ファルネーゼという存在を、好奇心で観察しているかのような。
そんな態度で、眼の前の女は自分を眺めてくる。
とうに見慣れた筈の眼差しが、ルクレツィアの胸中を淡々と掻き乱してくる。
「無邪気だから、不安げになってる」
拷問を通じて、散々見つめてきた。
人間が絞り出す慟哭というものを。
紫煙を通じて、散々感じてきた。
人間に刻まれる苦痛というものを。
「――――私と向き合うのが、不安なのね」
ルクレツィアは、何年も、何年も。
貪欲なまでに、喰らい続けてきた。
「かわいいわ。ほんとに」
知り尽くした筈なのに、知りもしない戦慄が押し寄せてくる。
他人という媒体を介したモノではない、己が身を以て“生の感覚”を思い知らされる。
今まで生きてきた中でも、全く異質の――胸の内がさざめくような焦燥感。
「かわいい」
これは、何だ?
その自問の果てに。
“血塗れの令嬢”は。
それを理解する。
「赤ん坊みたい」
たおやかな微笑が、澄んだ瞳が、ルクレツィアを射抜いた。
人ですらない“怪物”に愛でられるような動揺を前にして、彼女は自らの感情の意味を悟った。
――――ああ、これは。
――――“恐怖”なのだと。
生まれて初めて抱くような、動揺。
生まれて初めて感じるような、戦慄。
狩る側。喰らう側。弄ぶ側。虐げる側。
ルクレツィアはいつだって、誰かの上に立っていた。
令嬢は常に、他者の命をその手に握り締めていた。
けれど、今は違う。
今は、目の前の相手に“見られている”。
犬か何かのように、貶められている。
此処に立つ自分は、彼女にとって好奇心の対象に過ぎない。
まるで自分が、孤児や召使い達を弄んだ時のように。
銀鈴という淑女は、私を見下している。
それを自覚した瞬間から。
言い知れぬような興奮に、掻き立てられる。
自らを苛める感覚に、胸の奥底から高揚が込み上げてくる。
ルクレツィアは、情動に揺さぶられていた。
何の感覚も、生きる実感も得られなかった幼少期。
けれど他者を嬲ることで、人の苦痛に触れることができた。
自らの超力を使うことで、生の感覚を得ることができた。
苦痛と絶望。人が人であるが故に得られる、極上の快楽。
それを求め続けてきた。渇望し続けてきた。
だからこそ、ルクレツィアは思う。
これもまた、一つの“痛み”なのだろう。
ああ、だとすれば――愛おしさすら感じる。
生粋の“恐怖”を味わうことなど、今まで一度たりとも無かった。
だからこそ今、眼前に立ちはだかる“闇”さえも愛おしい。
自分は紛れもなく生きている。そんな感覚を得られるから。
強がりでしかなかった、強張る笑みは。
獰猛なまでの、不敵で優雅な笑みへと変わっていた。
すっと優雅にステップを踏んで、礼儀正しくその場に佇む。
「ねえ、銀鈴さん」
まるで舞踏会の淑女のように、ぴんと真っ直ぐに佇む。
その身を夥しい程の赤い血に染めようとも。
ルクレツィア・ファルネーゼは、ひどく可憐だった。
そして、彼女は静かに一礼をする。
「悪魔と、踊りませんか?」
彼女は、舞踏へと誘う。
目の前の怪物に、手を差し伸べる。
死の匂いを纏う舞台へと、銀鈴を手招きする。
そんなルクレツィアからの誘いを、じっと見つめて。
銀鈴は、口の両端をゆっくりと吊り上げた。
愛おしさと高揚を掻き抱くように、彼女もまた優雅な所作で応えた。
片足を後ろへと引き、スカートの裾を摘んで――微笑みと共に一礼をした。
「ええ。喜んで」
【D–5/ブラックペンタゴン1F 北東ブロック(中央) 補助電気室/一日目・朝】
【ルクレツィア・ファルネーゼ】
[状態]: 疲労(小)、複数の銃創や裂傷(中)、顔面に火傷(中)、血塗れ、服ボロボロ
[道具]: デジタルウォッチ
[恩赦P]:0pt
[方針] 殺しを愉しむ
基本.
0.さあ、踊りましょう。
1. ジャンヌ・ストラスブールをもう一度愉しみたい
2.自称ジャンヌさん(ジルドレイ・モントランシー)には少しだけ期待
3.お友達(ソフィア)が出来ました、もっとお話を聞いてみたい気持ちもあります
4.さっきの二人(りんかと紗奈)は楽しかったです。出来ればもう一度会いたいです。
【銀鈴】
[状態]:疲労(小)
[道具]:グロック19(装弾数22/10)、デイパック(手榴弾×2、催涙弾×3、食料一食分)、黒いドレス
[恩赦P]:4pt
[方針]
基本.アビスの超力無効化装置を破壊する。
0.ええ、喜んで。
1.ジェイで遊びながらブラックペンタゴンを目指す。
2.人間を可愛がる。その過程で、いろんな超力を見てみたい。
※今まで自国で殺した人物の名前を全て覚えています。もしかしたら参加者と関わりがある人物も含まれているかもしれません。
※サッズ・マルティンによる拷問を経験しています。
※名簿で受刑者の姓名はすべて確認しています。
※システムAに彼女の超力が使われていることが真実であるとは限りません。また、使われていた場合にも、彼女一人の超力であるとは限りません。
◆
爆発のような轟音と衝撃が、何処からか響き渡る。
別のブロックか通路で、既に受刑者同士の交戦が始まっているのだろう。
されど今の仁成に、そこへと意識を向ける余裕などなかった。
それが手榴弾の炸裂によるものであることも、知る由はない。
物置部屋では、既に幾つかの棚が“腐敗”していた。
徐々に室内へと散布されていく、濃紫の瘴気。
拳闘士を起点に、次々と生まれていく紫花。
戦場と化した空間を、毒が蝕んでいく。
紫骸(ダリア・ムエルテ)――エルビスの超力が、展開されていく。
長期戦になればなるほど、彼の優位は約束される。
仁成は荒れる息を何とか整えながら、迫る敵を見据えていた。
エルビスが“待ち受ける側”だった、あの階段前での攻防とは違う。
むしろ今は、彼が積極的に攻勢に出てくる。
退却の隙を悉く潰すように、仁成へと幾度となくインファイトを挑んでくる。
人類最高峰の肉体を持つが故に、辛うじて粘ることが出来ている。
強靭な肉体を備えるが故に、エルビスの腐敗毒にも気力で持ち堪えることが出来ている。
迫り来るエルビスへと向けて、瞬時に拳銃を抜いた。
所謂、早撃ち。西部劇のガンマンのようなファストドロウ。
距離を詰めてくる相手への迎撃手段として、即座に発砲を行う。
ほんの刹那、迫るエルビスの右拳が風を切った。
脇腹を打ち据えるような低い軌道で、それは虚空へと放たれる。
――そして金属の破裂音が響いた。
放たれた拳が、弾丸を一瞬で打ち砕いたのだ。
先刻の初戦と同様の技巧だ。
銃撃の軌道を先読みし、それに合わせて拳を振るう。
言うのは容易くとも、そう簡単に実行へと移せるものではない。
故に此度もまた、仁成は驚愕させられるが――。
それでも一度は目にした技であるからこそ、彼は後方へとステップしながら対応する。
目視による角度の計測。物質の質量や高度の推測。弾丸の速度。
仁成はこの一瞬で、それを即座に割り出す。
そして、仁成は迷わず銃撃する。
数発の弾丸を、それぞれの角度で瞬時に放った。
反射音。金属製の棚や、無機質な壁面へと衝突。
弾丸は弾き返り、跳ね飛び、そして――エルビスへと目掛けて殺到。
跳弾である。反射した弾丸が、正確な角度で四方から拳闘士を襲った。
逃亡生活の中で体得した武器術により、仁成は拳銃をも自在に操る。
更には人類最高峰の身体機能を駆使し、視力と空間認識能力を極限まで引き出した。
そうして“ぶっつけ本番”で、跳弾を敢行したのだ。
放たれた銃弾の雨は、極めて正確にエルビスを狙ってみせた。
――首や胴体を、ほんの微かに動かしつつ。
――エルビスが、最小限のステップを踏んだ。
弾が掠れる。弾を躱す。
一撃たりとも、直撃はしない。
殺到した筈の跳弾が、悉く外れていく。
僅かな動作のみで、エルビスは完璧に回避する。
跳弾の“反射音”のみで、彼は弾丸の軌道とタイミングを読み切った。
そして、迫る。
エルビスが、再び肉薄する。
即座に地を蹴り、迫り来る。
されど仁成は驚嘆しつつも、最早跳弾すら躱してくることを予想に入れていた。
故に彼は、即座に迎撃の態勢へと切り替えようとしたが。
――拳銃の銃口が軋む。腐敗していく金属が、限界を迎えてゆく。
紫花の腐敗毒に曝され続けた拳銃が、先の発砲で遂に破損を迎える。
使い物にならなくなった鉄屑を、仁成は躊躇なくエルビス目掛けて投擲。
我武者羅な飛び道具など物ともせず、エルビスは突進を続ける。
拳銃が直撃したところで、怯ませるどころか瞬きひとつの隙を作ることさえ出来ない。
迫り来るチャンピオンから、バックステップで必死に距離を取り続ける仁成。
拳の射程から逃れるべく、歯を食いしばりながら後退に徹する。
その跳躍に乗じて、身を翻して出口へと向かおうとするが――。
そうして晒した隙をエルビスは決して見逃さず、即座に“遠当ての魔拳”で追撃。
仁成は対処へと追い込まれる。飛ぶ拳撃に対し、回避や防御を余儀なくされる。
その僅かな猶予の狭間に、再びエルビスが猛追を仕掛けてくる。
決してこの戦場から逃しはしないと、獲物を狙う豹の如く機敏に迫る。
怪物同然の強さを見せつけるエルビス。
己を殺すべく、牙を向き続けるチャンピオン。
目を見開く仁成の視界が、思考が、刹那へと収束していく。
極限の駆け引きの中で、彼は自らを必死に奮い立たせる。
まだだ、まだ膝をつくな、と。
己の力を振り絞って、敵を見据える。
自らの肉体を、全身全霊を持って躍動させる。
――――まだ、死ぬ訳にはいかない。
何が、己を奮い立たせるのか。
ただ生きるためか。刑務から抜け出すためか。
生き別れた家族と再会を果たすためか。
間違いなく、それもあるだろう。
けれど今は、きっとそれだけじゃない。
――――彼女が、自由を求めている。
そう、あの少女が。
自分と同じ、孤独と束縛の中に身を置いていた少女が。
自由と贖罪を求めて、この地の底で生き抜こうとしている。
――――彼女が、償いを望んでいる。
今の自分が、こうも立ち続ける理由。
そんなものが、あるとすれば。
結局、そこに行き着くのだ。
――――いつか、秘密を語り合おう。
あのとき彼女と、そう約束したのだ。
それだけだ、拳闘士(チャンピオン)。
留まるか、抗うか。
往くべき道は、既に決まっている。
――――くす。
そして、声が聞こえた。
まるで仁成の意志に、呼応えるように。
――――くすくす。
あの囁きが、耳に入った。
まるで仁成の決意に、共鳴するように。
――――くす。くすくすくす。
あの忌まわしき嗤いが、ぬらりと現れた。
ひどく悍ましく、禍々しく。
悪霊の如く、忍び寄ってくる。
――――くすくすくすくすくす。
祟りを思わせる、その嗤い声。
しかし仁成は、静かなる安堵を抱いていた。
彼女の存在。彼女の証を示す、黒鳥の囀り。
それは仁成にとって、己に寄り添う“昏き光”だった。
――――くすくすくす。くすくすくすくす。
そして、エルビスが。
瞬時にその場から跳躍した。
瞬きの合間に、斬撃が一閃する。
“漆黒の靄”が、鞭のように駆け抜ける。
振るわれた一撃が、荷台や貨物をギロチンのように断ち切った。
跳躍によってその一撃を躱したエルビス。
彼は後方へと着地し、靄との距離を取る。
しかし靄は大蛇の如く唸り続け、枝分かれしながら拳闘士へと殺到していく。
その褐色の肌を貫くべく、黒き敵意が迫り来る。
されどエルビスは、一呼吸を置いた後。
そのまま上半身を屈めた姿勢から、身体を∞の形に回転させ。
猛烈な遠心力を乗せた拳を、次々に打ち出した。
遠心力と反動を乗せた猛打が、黒い靄を打ち砕いていく。
祟りや禍を思わせる敵の攻撃を、鍛え上げた肉体によって破壊する。
乱入してきた黒靄を凌ぎ切り、エルビスは再び拳を構え直す。
――――仕切り直し。
――――エルビスの攻勢が、打ち切られた。
援護のように割り込んできた攻撃を見つめつつ、仁成は乱れた息を整えていた。
後方から姿を現し、すぐ傍らへと歩み寄ってきた影へと視線を向けることはない。
――それが誰なのか。それが何者なのか。
その目で確かめることもなく、仁成には理解できたからだ。
黒い靄が、仁成と“彼女”の周囲に展開される。
超力を否定する力。その力となる“恨み”の不足により、完全なる無効化は果たせない。
それでも無差別に撒き散らされる腐敗毒は、その防御によって軽減される。
「“脱獄王”、トビ・トンプソン」
先程まで響いた嗤い声とは、対照的な。
透き通るような声が、仁成の耳に入る。
「奴との協力を取り次げた」
この地の底で出会い、共に困難を乗り越え。
そして互いの境遇を共有した“同志”が、そこに佇んでいた。
彼女が口にした受刑者の名は、当然仁成も認知している。
脱獄のプロ。この刑務から脱出するための要となりうるかもしれない存在。
彼との協力を取り付けたのならば、それは間違いなく大きな収穫なのだ。
「見返りの条件は?」
そして、仁成が問いかける。
当然“ただ”で取引をしたわけではないのだろう、と。
「あのチャンピオンをどうにかすること」
――この施設の調査を阻む、最大の障壁。
無敗のチャンピオン、エルビス・エルブランデス。
彼の足止めや排除こそが結託の条件であることは、想像に難くなかった。
「……だろうな」
だからこそ、仁成はその一言で答える。
苦笑を浮かべながら、視線の先の敵を据える。
エルビスは、今なお連戦の消耗を感じさせない。
凄まじいタフネスとスタミナによって、鬼神の如き継戦を果たしている。
つくづくとんでもない怪物と出会ってしまったものだ、と。
仁成は己の不運を自嘲し、その上で静かに身構える。
この刑務から脱出する糸口を掴むべく、あの男を食い止める。
その為にも――――すぐ傍らに立つ彼女と共に、戦わねばならない。
仁成は、一呼吸を置いた。
そして、決意と覚悟を瞳に宿し。
並び立つ仲間と、言葉を交わし合った。
「――――行くぞ、エンダ」
「――――ああ、仁成」
その遣り取りが、開戦の合図。
リベンジマッチの始まりを告げる火蓋。
第2ラウンドの、幕開けだ。
【D–4/ブラックペンタゴン1F 北西ブロック(内側) 物置/一日目・朝】
【エンダ・Y・カクレヤマ】
[状態]:健康
[道具]:デジタルウォッチ、探偵風衣装、ナイフ、ドンの首輪(使用済み)、ドンのデジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱出し、『エンダの願い』を果たす。
0.エルビス・エルブランデスに対処。可能ならば排除。
1.仁成と共に首輪やケンザキ係官を無力化するための準備を整える。
2.囚人共は勝手に殺し合っていればいい。
3.ルーサー・キング、ギャル・ギュネス・ギョローレンには警戒する。
4.ヤミナ・ハイドを使うか、誰かに押し付けるか考える。
5.今の世界も『ヤマオリ』も本当にどうしようもないな……。
※エンダの超力は対象への〝恨み〟によって強化されます。
※エンダの肉体は既に死亡しており、カクレヤマの土地神の魂が宿っています。この状態でもう一度死亡した場合、カクレヤマの魂も消滅します。
※黒靄による超力干渉でエルビスの腐敗毒をある程度遮断できます。
ただし〝恨み〟による強化が発揮しない限り、完全な無効化は出来ないようです。
【只野 仁成】
[状態]:疲労(大)、全身に傷、ずぶ濡れ、服の全面が溶けている、精神汚染:侮り状態
[道具]:デジタルウォッチ、図書室の本数冊
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.生き残る。
0.エルビス・エルブランデスに対処。可能ならば排除。
1.エンダに協力して脱出手段を探す。
2.今のところはまだ、殺し合いに乗るつもりはない。
3.エンダが述べた3人の囚人達には警戒する。
4.家族の安否を確かめたい。
5.少女(四葉)にも対処したい。
※エンダが自分と似た境遇にいることを知りました。
※ヤミナの超力の影響を受け、彼女を侮っています。
【エルビス・エルブランデス】
[状態]:疲労(大)、幾らかの裂傷、腹に銃創(軽) 、強い覚悟
[道具]:
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.必ず、愛する女(ダリア)の元へ帰る
0.エンダと仁成を殺す。
1."牧師"と"魔女"には特に最大限の警戒
2.ブラックペンタゴンを訪れた獲物を狩る。
◆
(――上層階に行けば、警備室の類もあるだろう。
そいつがあれば施設内の様子を探れる筈だ。
ヨツハの安否もその時に確認すりゃいい)
放送を経て、エンダ・Y・カクレヤマと離別し。
探索を優先して結果的に放置することになった同盟者に対し、僅かに思いを馳せつつ。
トビ・トンプソンは、再び排気管を移動する最中に思慮する。
なぜ自分のような受刑者をこの刑務に参加させた。
なぜ自分という刑務の妨げになるような受刑者を選別した。
なぜ“脱獄王”と呼ばれる犯罪者に、こうして一時的にでも自由を与えたのか。
導き出せる答えは単純だ――“放り込むことに意味があるから”。
自分には何かしらの役割が与えられていると、トビは考える。
役割を与えたのならば、それを遂行して貰わねばアビスにとっても意味がない。
これは単なる刑務ではない。戦術や駆け引きが介在する命懸けの競技、いわばゲームなのだ。
ゲームマスターからすれば、プレイヤーにはイベントを経由して貰わねばならない筈だ。
この刑務とは、何のためのゲームなのか?
最も考えられる推測があるとすれば、それは“超力による戦闘実験”だ。
“開闢の日”以降、世界では表立った大規模戦争は起きていない――不気味な緊張状態のみが延々と続いているとされる。
されど東欧での紛争が示したように、対立の火種は今なお静寂の下で燻り続けている。
いつか超力を動員した国家間の衝突が起きるのも時間の問題であると、表社会でも噂話のように囁かれていた。
故に決して公の場には出てこない“地の底”で、そうした状況に備えた多角的な実験が行われたとしても不思議ではない。
それこそ噂に聞く“秘匿受刑者”が現実のものだったように、少なくともアビスは間違いなく犯罪者に“被検体”としての使い道を見出している。
受刑者同士を意図的に競わせる為の仕組みと、秘密裏に事を進められる“制御された盤面”。
そうしたシステムさえ用意できれば、世界でも記録に乏しいとされる“本格的な超力戦闘データ”を回収できる。
――なればこそ、奴らは実行に移したのだろう。
現状の世界を繋ぎ止めるGPAからすれば、そのデータは喉から手が出る程に求める代物なのだから。
そして土台を用意できたのなら、戦闘実験と並行して“受刑者を使った他の現場実験”を行うことも不思議ではない。
自分のみならず、怪盗ヘルメスやデザーストレのような受刑者も参加させられているのがその証拠なのだ。
彼らのような受刑者には、戦闘以外での明確な価値が存在する。
アビスがそうした面々を使い、実験と共に何かしらのテストを目論んでいると考えるのが妥当だ。
――先刻と同じように、排気口からトビは躍り出る。
1Fの階段前。既にそこには四葉の姿も、エルビスの姿もない。
伽藍堂となっていることを確認したが故に、トビは迷わず降り立った。
そうして今なお残留を続けている紫骸の瘴気から逃れるべく、彼は迅速に移動する。
門番がいなくなった階段を、素早く駆け上がっていく。
エンダによれば、上層階には彼女の同行者が居る。
ヤミナ・ハイドという女囚らしい。可能であれば彼女を回収してほしい、と頼まれた。
結託したよしみということもあり、トビはその依頼もまた引き受けた。
無論、あくまで施設調査が最優先であることは事前に伝えたが。
そう、施設を探ることがあくまで現状の目的なのだ。
――――賭けてもいい。
この施設には、間違いなく意味がある。
ブラックペンタゴンは、ただ受刑者達の鉄火場として機能するだけの施設か?
受刑者達を誘き寄せるための誘蛾灯に過ぎないのか?
その可能性も高い。順当に考えれば、この施設自体が何かしらの罠なのだろう。
だが、トビはそれだけではないと推測する。
この施設のみに電気や水道がある可能性からして、既に予見されていたが。
禁止エリアの配置からして、アビスは明らかに受刑者達を中央付近へと誘導することを意図している。
受刑者達の選出に明確な意味があり、彼らに役割を遂行させることをアビス側が見越しているのならば。
24時間のタイムリミットが設けられている中で、彼らを目的から遠ざけるような采配を取るはずがないのだ。
単なる刑務ならまだしも、これは恩赦という賞品を懸けた一種の実験(ゲーム)である。
恐らくは受刑者達を集わせることには明確な意味があり、受刑者達にイベントに挑んでもらうことに意義がある。
――廃墟と思わしき島であるにも関わらず、此処には野生動物の気配は一切存在しない。
この会場が何らかの手段によってアビスが用意した“都合のいい舞台”であることは明白だ。
有り得ないことなどない。開闢後の世界において、それだけは肝に銘じねばならない。
そしてこの刑務場がアビスによって用意された舞台であるのなら、彼らの意向に沿う形で会場が整備されているのも必然だろう。
故にアビスが“目立たない僻地”に刑務の要を設置するとは考えにくい。
あったとしても、それは多少のヒントに過ぎないか、大局には何の影響を齎さない代物である可能性が高い。
そして例え今後ブラックペンタゴンそのものが禁止エリアになるとしても、少なくとも現時点では“調査できる猶予”が与えられている。
電気が通り、水道が通っている可能性が高い。
受刑者達にとっては刑務を生き延びるための拠点となり、恩赦ポイントを稼ぐための狩り場となる。
故に、受刑者同士の争いそのものこそが“刑務の要”を守るための抑止力となりうるのだ。
ブラックペンタゴンは、受刑者達による主体的な相互監視と衝突によって成り立つ施設であるとトビは推測した。
此処に誘われることが、彼らの思惑ならば。
トビは、受けて立つのみだった。
悪党たちの流刑場。地の底の監獄、アビス。
彼らから直々に挑戦状を叩きつけられているのだ。
如何なる悪辣な罠が待ち受けていようとも。
それに挑み、打ち破ってこその“脱獄王”である。
トビ・トンプソンには過去の脱獄において、超力を含む数々の警備システムを出し抜いてきた。
彼は脱獄遂行のために、自らの身体機能を幾度となく“作り変えている”。
ネイティブに多く見られる”脳の自認に基づく心身の変異“を意図的に引き起こしているのだ。
当然ながら心身への負担は大きいため、おいそれと濫用できる手段ではないが。
それでもトビは、その変異を要所において的確に利用し続けている。
そしてアビスへと投獄されたトビは、対ヴァイスマンを見越した術理をも編み出している。
名付けるならば――――“脱獄最適化”。
この刑務を見届ける読者諸氏、その全貌については暫しお待ち頂きたい。
いずれ語られる時が来るであろう。
尤も、脱獄王がその時まで生き残れるか否か。
それは全て、彼の実力と天運に委ねられている。
此処は悪辣なる看守長によって掌握された舞台だ。
冷徹なる悪意の牙は、脱獄王さえも掠め取らんと機を伺い続けている。
彼は所詮、釈迦の掌の上で踊るだけの孫悟空に過ぎないのか。
または緊箍児の束縛さえも超越する、真なる斉天大聖(トリックスター)なのか。
その答えは、今は誰も知らない。
【E-4/ブラックペンタゴン2F 南西ブロック(内側) 階段付近/一日目・朝】
【トビ・トンプソン】
[状態]:疲労(小)皮膚が融解(小)
[道具]:ナイフ
[恩赦P]:0pt
[方針]
基本.脱獄。
0.ブラックペンタゴン2~3Fの調査、そして検分。可能ならばヤミナ・ハイドとも接触。
1.内藤 四葉と共闘。彼女の餌を探しつつ、護衛役を務めてもらう。
2.首輪解除の手立てを探す。構造や仕組みを調べる為に、他の参加者の首輪を回収したい。
3.ジョニーとヘルメスをうまく利用して工学の超力を持つ“メカーニカ”との接触を図る。
4.銀鈴との再接触には最大限警戒
5.岩山の超力持ち(恐らくメアリー・エバンスだろうな)には最大限の警戒、オレ様の邪魔をするなら容赦はしない。
6.ブラックペンタゴンには、意味がある。
※他にも確保を見越している道具が交換リストにあるかもしれません。
※銀鈴、エンダが秘匿受刑者であることを察しました。
※配電室へと到達し、電子ロックを無力化しました。
◇
人類の究極は、並び立つ同志と共に往く。
黒靄の巫女は、地の底から抜け出すべく奔る。
無敗の拳闘士は、愛に殉じて拳を振るう。
銀の凶月は、人ならざる好奇に嗤う。
血濡れの令嬢は、不敵なる狂気を翳す。
堕ちし桜花は、葛藤の中で過去を求める。
隠忍の暗殺者は、己の価値を渇望する。
不縛の脱獄王は、ただ脱獄の為に駆け抜ける。
――――彼らは戦士。
――――彼らは罪人。
――――立つか、倒れるか。
◇
[共通備考]
ブラックペンタゴン1Fの北西~北東ブロックの隣接地において、複数の戦局が同時多発的に発生しています。
今後それぞれの戦闘同士が合流して乱戦化する可能性があります。
最終更新:2025年07月16日 21:42