真昼の太陽が、廃工場の錆び付いた屋根を容赦なく打ち据えていた。
風は強くも弱くもなく、ただ乾いた熱気を運びながら、砕けたガラス片や紙屑を宙へ舞い上げる。
折れたクレーンの支柱が時折金属の軋みを響かせ、その音は誰もいない空の下に虚ろな残響を残して消えた。
煤けた外壁には、かつて工場の名を記していたと思しき文字が半ば剥がれ落ち、その原型すら判別できない。
人の往来を支えていた搬入口は、鉄の歯のようにねじ曲がり、もはや陽光を遮るものもない。
真昼の光は鋭利な刃のように内部へ差し込み、埃がそれを筋へと変え、風が絶えずかき混ぜていた。
その光と影の狭間に、一つの影が座していた。
瓦礫に囲まれた空き地のような床に背を預け、膝を立て、深く項垂れている。
煤にまみれた髪。ひび割れた鉄仮面の破片が顔の大半を覆い、その表情はほとんど見えない。
左肩から先は存在せず、根元に巻かれた鎖が止血帯のように肉へ食い込み、血の痕を隠していた。
その鎖の先端は地に垂れ、風に揺れながら石面をかすかに擦っている。
右手首のデジタル時計が、正午をわずかに過ぎた時刻を刻んでいた。
耳の奥には、つい先ほどまで流れていた定時放送の機械的な抑揚が、残響のように微かにこびりついている。
数多の死が読み上げられた。
それらはあまりに無感情で、まるで廃材に貼られた部品番号を順に読み上げるだけの作業のようだった。
事務的な報告が唐突に終わり、廃墟の中には沈黙が広がる。
その静寂の只中で、バルタザール・デリージュは身じろぎひとつしなかった。
休息によって荒かった呼吸は整い、頭蓋を刺すような痛みも徐々に引いていた。
左腕の喪失から来る疼痛も、もはや日常と化しており、彼の身体の一部として馴染んでいた。
鉄骨の影の中、彼はただ放送の余韻を受け止めながら、そこに在り続けていた。
仮面が砕け、常に頭の奥を締めつけていたような圧迫感は消え失せた。
荒ぶるエンジンのように暴走していた熱も、いまは引いている。
かつてないほどに、思考がクリアだ。
落ち着いて己の内に広がる思念を見つめることができる。
鉄仮面によって封じられていた記憶の蓋は、ついに外された。
バルタザールは、自分自身を取り戻したのだ。
バルタザール・デリージュ。それは監獄で与えられた偽りの名。
セルヴァイン・レクト・ハルトナ。ハルトナ王家の血を引く正統なる後継者だ。
失われていた記憶が整理されていく中で、ひとつの疑問が彼の胸中に浮かぶ。
スヴィアン・ライラプス。
彼女は何者なのか。
受刑者であるはずのバルタザールに長年付き従い、まるで影のように世話をしてきた刑務官。
過去も記憶のない己は、なぜ彼女が献身的に付き従ってくれるのか、その理由を知らない。
鉄仮面に施されていた封印に彼女の超力『鉄火の印(マメルティニ)』が使用されていた。
武具の状態を把握する超力によって、恐らく仮面の破損と共に記憶の復活も伝わっているだろう。
セルヴァインとしての記憶を取り戻しても、バルタザールとして過ごした記憶も忘れたわけではない。
あの獄中での年月、彼女と交わした言葉、行動、そして無言の忠誠。
あれら全てが虚構だったとは思えない。
彼女の真意を確かめる必要がある。
かつての忠義が、ただの任務によるものだったのか、それとも――もっと別の何かだったのか。
今の彼にとって、それは確かめずにはいられない問いだった。
その為にこの刑務作業を終わらせ、恩赦を獲得する必要がある。
刑務作業の参加者は、ついに開始時の半数を割り込んだ。
本来なら、生存者が減れば死のペースも緩やかになるはずだ。
だが現実は逆だった。第一放送を上回る数の死者が、無造作に読み上げられた。
死は、加速している。
生存曲線が、音を立てて折れ曲がる。
数はもはや一定を保たず、放物線のように膨れ上がっていた。
このままでは、終了を待たずに大半が屍となるだろう。
名を連ねる死者たちの中で、ひときわ耳を刺す名があった。
イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ。
己が殺した男。
同行していた少年が、そう呼んでいたことを覚えている。
思考の表層に、わずかに赤が滲む。
『無』を操り、この左腕と鉄仮面を砕いた男。
首輪得る事も叶わず、ただ損失だけを残した一戦。
だがそこに、激情も悔恨もなかった。
その記憶は、すでに色褪せた絵画のように、冷たい。
いまこの身を熱くする思いは、もっと別の場所に向いていた。
呼延とイグナシオによって破壊された鉄仮面。
その破片と共に解き放たれた記憶が、その熱の在り所を示す。
エネリット・サンス・ハルトナ。
放送では、その名は呼ばれなかった。
その沈黙こそが、生存の証。
名が読まれないという事実こそが、何より雄弁に語っていた。
燃え盛る王宮。血に濡れた玉座。
革命の夜が脳裏をよぎる。
甥はまだ、生きている。
あの忌まわしき血脈の、最後の残り火が。
だが、それは歓喜でも安堵でもない。
あるのは、ただひとつ――出会いの確信。
互いに顔を合わせずに終わるなど、あり得ない。
憐れみか、共感か、あるいは嘲笑か――与えるべき感情は、その時に決めればいい。
今はただ、彼が生きているという冷厳な事実だけを、胸に彫り込む。
埃の積もった床を、指先で軽く払う。
右手のウォッチを起動し、先ほどの放送で指定された禁止エリアを確認する。
列挙された座標を並べてみれば、南西一帯が丸ごと封鎖される構図が見えてきた。
放送で告げられた六時間の猶予。その間に該当地域へ退避すれば、刑務作業の終了まで身を潜めることも不可能ではない。
生き延びるだけなら、それも一つの選択肢だ。
――だが、それは罠だ。
与えられた逃げ道など、最初から逃げ道ではない。
『安全圏』と銘打たれたその地こそが、ヴァイスマンの用意した処刑場だ。
あの男の試みには、常に次の一手が仕込まれている。
退避路を提示し、そこへ群れを押し込んだうえで、次の放送で一気に塗り潰す。
そのくらいのことはヴァイスマンならやりかねない。
その冷徹な手際と残虐さを、地獄の看守長は常としてきた。
バルタザールは、左腕の断端から伸びる鎖の先端を指で弾いた。
乾いた金属音が一度だけ鳴り、廃工場の静寂を細く震わせる。
その音は、決意の音ではなかった。
ただ、自分が選び取る立ち位置の確認。
選ぶのは、安全でも回避でもない――狩人の座だ。
退避は愚かだ。
ただ生き延びることに意味はない。
重要なのは――生き残った者たちを、どう狩るか。
それこそが、この刑務作業における唯一の正義だ。
バルタザールが望むのは自由であり、恩赦である。
だがその先にあるのは、ただの解放ではない。
その先にあるのは、裏切りと簒奪によって穢された祖国そのものへの復讐である。
復讐の対象は、王家の血筋だけではない。
奪われた王座、消された名前、踏み躙られた誇り。
それらすべてを嘲笑う愚かな民草を、ひとり残らず殺し尽くさねばならない。
その繁栄に酔い痴れた愚民どもをも、根絶やしにするのだ。
そして、放送の最後に告げられた存在の名。
いや、それは名と呼ぶにはあまりに無機質で、侮蔑の響きを帯びていた。
『被験体:O』と言うただの記号に過ぎぬような、無慈悲なコードネーム。
黒い首輪。
死刑囚を上回る400もの恩赦ポイント。
そして、任意の分配が可能であるというルール。
そして、禁止エリアとなったブラックペンタゴンの北西・南東の扉は封鎖され。
ただ一つの逃げ道となった正面玄関に、黒首輪の門番を置く。
その意図はあまりにも明白だった。
『被験体:O』を越えなければ、生きて出る道はない。そう仕組まれた構図だ。
余りにも悪辣な罠。
その一言に尽きる。
この『被験体:O』と言う存在がどれほどの脅威かはわからない。
だが、ここでわざわざ補助要員として追加される以上、生半可な存在ではないのは確かだろう。
あるいは、自分と同じ改造型の超力者かもしれない。
脅威として恐るべき存在であることは、疑いようがなかった。
だが、この罠の本質はそこにはない。
それ以上に悪辣なのは、囚人心理を巧妙に利用する設計である。。
バルタザールは嘗て王国の軍議を取り仕切っていた記憶と共に、大局的な戦術的視点を取り戻したからこそ分かる。
この任意分配という設計が、何より狡猾だった
囚人にとって、恩赦ポイントは生存のための通貨だ。
一撃で死刑囚すら恩赦出来るだけの恩赦を、分け合える仕様にする。
一見すれば、協力を促す仕組みに見えるが、実際は違う。
分け前の相談こそ、人間を最も容易に殺すものだ。
焦燥と疲労で均衡を失った囚人たちに、甘い餌をばら撒けばどうなるか。
協力を装った裏切り、取り分をめぐる争い、そして最後は、首輪をめぐっての殺し合い。
自分本位のアビスの住民にまともな交渉など成立するはずもない。
倒した後ですら、争いの火種は消えず残り続ける。
まさに、ヴァイスマンらしい、二重、三重に計算された周到で冷酷な策謀だ。
踊らされる囚人たちは哀れだ。
同情を禁じ得ないが、それで済ますつもりはない。
――この混乱を、利用しない手はない。
この放送そのものが、囚人たちを踊らせる音楽だ。
ならば、自分は祭りの外から収穫を待つ者となろう。
ブラックペンタゴンの正面出入口には、まもなく禁止エリアから逃げ出そうとする者たちが殺到する。
群がる者たちはOと衝突し、その大半は叩き潰されるだろう。
だが、それでも全滅するとは限らない。
何人かは傷つき血反吐を吐きながらでも出口に到達する者もいるはずだ。
悪辣なるヴァイスマンの罠を乗り越え、逃げ延びたという安堵が最大の隙だ。
蜘蛛の子のように逃げ惑いながら門を抜けた者を、待ち伏せ――狩る。
正面出入口も禁止エリアに含まれているが、発動まではまだ猶予がある。
そのわずかな時間、そこで獲物を待ち受けるのも悪くはない。
力を使い果たし、疲弊し、重傷を負った者など、容易に屠ることができる。
それはもはや戦いではなく、収穫だ。
バルタザールは、無意識に鎖を握り直す。
乾いた鉄の感触が、掌を静かに叩いた。
そして、その群れの中に――もし、甥が紛れていたなら。
この手で直接仕留めるか。
あるいは、生かして策に用いるか。
判断は、その時に下せばいい。
仮に現れなくとも構わない。
他の首輪を狩れば、恩赦は積み重なる。
どのみち、待ち構える者こそが最大の果実を手にするのだから。
立ち上がる。
鉄骨の影を離れた瞬間、真昼の陽光が容赦なく皮膚を刺す。
焼けるような乾いた熱が肌を焦がし、白く反射する光が仮面を越えて直接視界を霞ませた。
長らく動きを止めていたせいか、身体の感覚がわずかに遅れて戻ってくる。
膝を伸ばした拍子に、張り付いていた砂がぱらぱらと崩れ落ちる。
左肩から伸びた鎖の先端が床を擦り、かすかな金属音を立てた。
床に描かれた細い弧が、一瞬だけ陽光を受けて金色に輝いたが、すぐに舞い上がった埃の中へと飲み込まれ、痕跡もなく消えた。
軽く頭を振る。
こめかみに指を当てると、鈍く重たい痛みが波のように脳内を打ちつけた。
一度だけ大きなうねりとなって押し寄せ、やがて静かに引いていく。
四時間の休息は、確かに効いていた。
頭蓋を締めつけるような鋭い痛みは遠のき、内側から吐き出されるような吐き気も消えている。
呼吸は整い、鼓動も平静を取り戻していた。
腹部に手を当てる。
そこに残る痣は、まるで石のように固く盛り上がっていたが、動作には支障がない。
左肩の根元へと視線を移し、止血のために巻いた鎖の結び目を引き締める。
布の下で血はすでに乾き、ざらりとした感触が皮膚をかすめた。
痛みはあるが、意識を濁らせるほどではない。
右腕をゆっくりと握り、開く。
関節の動き、指先の感覚、筋肉の張り――力は、戻っている。
この腕と鎖があれば、人間一人を砕くのに十分だ。
顔を上げる。
視線は廃工場の外へと向かう。
瓦礫と折れた鉄骨の向こう。
陽炎が揺らめく熱の先に、黒々とした壁の輪郭が浮かんでいた。
巨大な五角形。
不気味なほど幾何学的なあの構造体――ブラックペンタゴン。
まるで現実から切り取られた異物のように、蜃気楼めいて揺れている。
バルタザールは歩き出す。
靴底が砕けたアスファルトを踏み締め、乾いた破片がカリカリと音を立てる。
失った左腕の感覚が、かえって全身の重みを際立たせた。
崩れた搬出口を抜ける。
かつて工場だったその地を背に、彼は灼熱の大地へと躍り出た。
汗と血に塗れた身体が、乾いた風の中に溶け込んでいく。
次なる戦場が、そこで待っている。
その先にあるものは血と怒りに満ちた地獄であることを、彼は知っていた。
果たしてそれは誰にとっての地獄になるのか。
それを決めるべく狩人は、静かに歩を進めた。
【F-3/草原/一日目・日中】
【バルタザール・デリージュ】
[状態]:記憶復活(断片的な喪失あり)、鉄仮面に破損(右頭部)、左腕喪失、脳負荷(小)、頭部にダメージ(中)、腹部にダメージ(中)、
[道具]:なし
[恩赦P]:100pt
[方針]
基本.恩赦ポイントを手にして自由を得て、逆臣どもに報いを
1.ブラックペンゴンの正面で待ち構え逃げてきた連中を狩る。
2.エネリットを探す
※記憶を取り戻しましたが、断片的な喪失があります
最終更新:2025年09月01日 20:26