「ねぇねぇ、フィーネ。聞いたかしら?」
「なぁに、ビオラ? また面白い話でもあるのかしら?」
アビス刑務所――作業棟の奥まった一角。
人工灯の白い光がぼんやりと降り注ぐ休憩室の片隅で、金糸のような髪を揃えて並んだ双子の少女が、密やかに語らっていた。
制服の上着は軽く脱がれ、淡いブラウスの襟元からは細い首筋が覗く。
細身の身体をぴたりと寄せ合いながら、ビオラとフィーネは、まるで西洋人形が密談でもしているかのような佇まいで、ひそひそと内緒話をしていた。
「さっきね、独房の見回りに行ったのだけれど……」
ビオラがマゼンタ色の瞳をすっと細め、声を潜める。
「アリスちゃんが倒れたのですって。原因不明の急病で」
「まぁ……!」
フィーネがシアンの瞳をぱちくりと瞬かせ、口元を手で押さえる。
「刑務作業にも出ていないのに? 何があったのかしら」
「噂によると――全身が黒ずんで、泡を吹いてたんですって。まるで毒にでもやられたみたいに」
「黒いアリス……」
フィーネがぽつりと呟き、空気がひやりと揺れる。
「……それは、なんだか不吉な響きねぇ」
姉妹は顔を見合わせ、まるで秘密を共有する魔女たちのように、肩を寄せてくすくすと笑った。
「そうそう、聞いた? 所長が戻ってきてるんですって」
「ほんとぅ? 私、一度もお目にかかったことがないんだけど」
「私もよ。普段はどこで何してるのかしらねぇ。ずいぶんアビスを留守にしてたくせに、刑務作業に合わせて帰ってくるなんて怪しいわぁ」
「ふふっ、偉い人って計画とか、伏線とか、悪だくみが好きよね。看守長なんて、いつも眉間に皺を寄せて何か企んでる顔してるもの」
ふたりはおどけた仕草で顔をしかめ、悪戯を成功させた小悪魔のように笑い合う。
「ねぇフィーネ。悪だくみといえば──やっぱり、あの制度おかしいと思わない?」
「そうよねビオラ。どう考えてもおかしいわよね、あの娘」
「よりにもよって、このアビスで『一日看守官』なんて、ふざけすぎでしょ」
「それなー!」
フィーネが身を乗り出し、指をぴしっと突き出す。
ビオラも同時に立ち上がり、机に肘をつきながら身を起こす。
「素人の子に一日だけ看守をやらせるなんて、正気の沙汰じゃないわよね」
「しかも、その『たった一日』が、刑務作業の実施日とピッタリ重なってるの。偶然だと思う?」
「思わない思わない。完全に仕組まれてる。これは絶対、看守長の仕込みだよ~」
「あるいは、所長の復帰に合わせた二段構えの悪だくみかも……?」
「ふふ、これはもう考えるしかないわね」
姉妹の目がきらりと光を帯びる。
「「推理ターイムっ!」」
声がぴたりと重なり、同時に手のひらをパンッと打ち鳴らす。
まるで儀式の開始を告げるように。
「やっぱり、菜々子ちゃんの超力が刑務作業にお役立ちだからじゃないかしら?」
「うん、すっごく便利。でも、それだけなら菜々子ちゃんひとりで良かったはずでしょう?」
「なのに、藍寿ちゃんまで同行してる。付き添い兼護衛って話だけど、あの看守長が不要な同行を許すかしら?」
「ないない。つまり――本命は藍寿ちゃんのほう、ってこと?」
「うふふ、鋭いわフィーネ。さすが私の妹」
「ビオラのヒントがあったからよ」
ふたりは顔を近づけ、声をひそめてささやく。
「きっとね、看守長は最初から藍寿ちゃんの同行を計算に入れていたのよ。菜々子ちゃんを餌にして、本命を引っ張り出すために」
「それ、すっごく性悪なやり方じゃない?」
「性悪だもの。あの人」
再び肩をすくめて、おどけたように上司の陰口で笑い合う。
「でも気になるのよね。あの二人、どんな縁でここに来たのかしら?」
「聞いた事があるわ。母親がヤマオリの出身で、昔のヤマオリカルトの事件で囮になった縁があったんですって」
「囮(デコイ)、ねぇ……」
ビオラが呟くと、空気がふっと張り詰める。
一瞬、マゼンタとシアンの瞳が真っ直ぐ交わる。
「……ひとつ、思いついちゃった」
「まぁ素敵。教えて、ビオラ」
片割れに促され、ビオラがにやりと笑って口を開く。
「────『生贄』なんじゃないかしら」
一瞬の沈黙。
姉妹はぴたりと動きを止め、その言葉を噛みしめるように目を見合わせた。
「……うん、それだ」
ふたりの声がぴたりと重なり、ゆっくりと口角が吊り上がる。
アビスらしい不吉さ。
アビスらしい悪辣さ。
アビスらしい極悪さだ。
「ふふふ、秘密のお話はここまでにしておきましょう」
「そうね、そろそろヴァイスマンに気づかれちゃうわ」
「“地獄耳”のフィーネでも聞けない心の声を、あの人なら聞き出しそうだもの」
「怒られる前に、ちゃちゃっと撤収~」
そしてふたりは、心の内で繋がる『二人の心はいつも一緒(ツイン・ハート・トゥギャザー)』による脳内会話を、そっと打ち切った。
■
アビスへとつながる、ただ一つの出入口──管理棟の地上接続エレベーターが、重々しい機械音とともに到着を告げた。
鋼鉄の扉が左右に滑り、冷気を孕んだ薄暗い光が差し込む中、ひとりの少年が姿を現す。
彼は漆黒の制式制服を身にまとい、無駄な動き一つなく、地に足をつけた。
背筋はまっすぐに伸び、肩には軍章。
年若い容貌にもかかわらず、その立ち姿からは静かな威圧感と任務に対する揺るぎない自覚が滲んでいた。
「GPA実行局・戦術実行班、天原蒼光。任務により、アビスへの到着を報告いたします」
ぴたりと決まった敬礼。動作には一分の隙もない。
彼を迎えるのは、アビスの最高責任者──所長、乃木平だった。
「遠路遥々ようこそいらっしゃいました、蒼光くん。お会いするのは久方ぶりですね。ご両親はご壮健ですか?」
乃木平は穏やかな口調で、旧知の面影を滲ませながら声をかけた。
「ええ、まぁ……それなりに。嫌ってくらいに仲良くやってますよ」
「それは何より。彼女が幸福であるのなら、彼の地で散っていった者たちも浮かばれるというもの」
「とはいえ、いい歳こいていちゃつくのは年頃の息子の気持ちも考えて欲しいものですがね」
何気ない雑談に、一瞬だけ、軍人としての仮面が揺らぐ。
だがすぐに表情を引き締め、天原はすぐに公務の顔に戻る。
「では、こちらに署名をお願いします」
「ええ、承知いたしました」
乃木平が手を差し出すと、天原はタブレット端末を提示する。
画面には『被験体:O』に関する引き渡し及び運用試験の許可申請書が表示されていた。
乃木平は指紋認証を済ませた後、スタイラスを取って署名を行う。
「……まったく、2050年にもなって手書きのサインが廃れないとは。こういう時ばかりは、手書きのほうが信用されるのですから、皮肉なものですねぇ」
時代が進もうとも、偽造防止に手書きのサインに勝るものはない。
苦笑を漏らしながらも、彼の手は滑らかにスタイラスペンで署名を走らせる。
セキュリティ的には正しい。だが事務手続きの冗長さに、些か時代錯誤の感も否めない。
「確認しました。申請は正式に受理され、これより『被験体:O』の運用権限は、ヤマオリ記念特別国際刑務所および所長、あなたに一時委譲されます」
「ありがたくお引き受けいたします」
先ほどまでの旧知のやり取りと違い、冷静で機械的なやり取りだった。
それゆえに、かえって不穏な静けさが際立つ。
「では、引き渡し対象である『被験体:O』の現況について、ご報告いたします」
天原はタブレットに目を落とし、改まった口調で説明を始めた。
「身体能力は、現代の人類における最高水準を大きく超えています。
言語機能は完全に封印済み、感情の揺れは薬物的手段により極限まで抑制してあります。
思考は安定しており、任務への忠実性は高く、現段階で逸脱傾向は確認されていません。
ただし、自我そのものは完全に消去されておらず、想定外の刺激──特に外的な記憶刺激によって再活性化するリスクが残存しています。
元の超力は第零世代(ヤマオリ)由来ですが、『C理論』を元に調整を行い第三世代(ネクスト)相当の出力になっています。副作用も現在のところは安定状態です」
「なるほど……よく仕上がっているようですね」
乃木平は一つ頷くと、ゆるやかに問いかけた。
「これから、アビス内にて『被験体:O』の運用試験を実施する予定ですが──蒼光くん、ご覧になりますか?」
「はい。実戦投入の確認までが任務に含まれていますので。ご一緒させていただきます」
「かしこまりました。それでは、ご案内いたしましょう」
乃木平は手を振ると、管理棟の奥へと足を踏み出す。
天原もその後を静かに続いた。
「ようこそ、アビスへ────我ら悪党に相応しい、地獄の底です」
鋼鉄のゲートが、音もなく閉じる。
薄闇の中、二人の背が沈み、世界はまた一つ、隔絶された。
■
静謐な廊下に、規則正しく刻まれていく金属靴の硬質な響き。
その音は冷えたコンクリートに吸い込まれ、あっけなく消えていく。
やがて、無機質な自動扉が音もなく左右に開いた。
現れたのは、巨大な円形アリーナを見下ろす観測室だった。
壁一面を占める分厚い防弾ガラスの向こうには、アビス最大の実験区画が広がっている。
直径およそ五十メートルのドーム状の円形フィールド。
冷たい石床には古い裂傷と新しい亀裂が交錯し、中央には拘束用の鋼鉄フレームが突き立っていた。
天井には整然と並ぶ照明群が白々しい光を落とし、そのさらに上層には密集したセンサー群が、視線の檻で包み込むように実験場を監視している。
──戦術運用実験場。
アビスで最も危険な運用試験が行われる場所だ。
観測室に無言で足を踏み入れたのは、アビス看守長──オリガ・ヴァイスマン。
鉄のような瞳がガラス越しに広がる光景を射抜き、その場に先に立っていた背中へ、静かに声を落とした。
「おや……高峯刑務官。今回の担当は第二班ではなかったかな?」
ゆっくり振り返ったのは、第二班所属の刑務官──高峯 真。
整った顔立ちに知性が滲むが、その瞳には微かに憂いのような翳りがあった。
「……看守長。失礼しました。壮馬さんから今回は外れるようにと言われまして。せめて見学だけでもと」
そう言って彼女は申し訳なさそうに小さくため息をつき、肩を落とす。
──壮馬 誠二。
それは女性嫌いという一言では収まらない、徹底した女性差別主義者。
嗜好の自由は咎めるつもりはないが、公務にまで持ち込む姿勢は看守長としても目をつぶれぬものだ。
「……困ったものだ、壮馬刑務官は」
「いえ、私の超力は制圧向きではありませんので。判断としては妥当かと」
被害を受けた立場でありながら、なぜか相手を庇うような口ぶりだった。
高峯の超力──それは触れた物質を情報単位「0」と「1」に変換し、分解・消滅させる能力。
家族を失った喪失の果てに進化し、生物すら抹消できるまでになった力は、制圧ではなく終焉をもたらすためのものだ。
確かに、抹殺を目的としない今回の任務には不適格と言えた。
「それに、私などがいなくても……あの3人が揃っていれば、万が一の事態も起こらないでしょう」
「……さて。どうだろうね」
ヴァイスマンは肩をすくめ、高峯の隣に立つ。
高峯の所属する看守チーム第二班──班長サッズ・マルティン、副班長壮馬 誠二、最年少のルルナナ・グレイコート。
そもそもアビスの刑務官は、曲者揃いの受刑者を制圧するための精鋭が世界中より集められている。
複数人の受刑者が暴動を起こしても単独で制圧しうるのが刑務官に求められる最低条件だ。
それが三人がかりとなれば、制御できぬ相手などいないだろう。
少なくとも、高峯はそう信じていた。
だが、看守長の沈黙は、その確信を否定するかのようだった。
「看守長……ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。構わないよ、高峯刑務官」
ヴァイスマンは唇の端にうっすらと笑みを浮かべながら許可を出す。
まるで、何を問うかなど分かっているとでも言いたげな顔だ。
「──『被験体:O』とは、一体何なのですか?」
名前すら与えられぬ実験体。
何のために作られ、何を目的としてここに来たのか。
GPAから貸与された存在であること以外、何も知らされていない。
「気になるかね?」
「担当から外され、情報も頂けなかったので」
「ふむ。まあ、元より二班には共有される予定だったし……よかろう」
何がおかしいのか、楽しげに吐息を洩らしながらヴァイスマンは視線をガラスの向こうへ流す。
「あれはな──探索隊が持ち帰った『二つ目の遺物』だ」
「探索隊……ですか? 二つ目とは、どういう…………?」
不意に投げかけられた単語に、高峯の眉がわずかに動く。
その疑問に応えることなく、ヴァイスマンは独り言のように続ける。
「ヤマオリの地で採取された、人類最強の細胞。
それをイギリスが『Z計画』で推し進めていた遺伝子工学によって復元と再構成を行った。
そこに提唱されている『C理論』による超力の調整を加えた存在――それが、『被験体:O』だ」
高峯の瞳がわずかに見開かれる。
アビスに身を置く者として、その非人道性を問う資格などとうに捨てている。
だが、目を背けることも、できなかった。
GPAの提唱する『ABC計画』
アビスで行われるこの刑務作業はその実験場である。
明確に言葉にはされていないが、刑務官なら誰でもそれくらいは察しているだろう。
必要性という意味では『システムA』は理解できる。
超力社会において超力を制圧する治安維持のために必要なものだ。
だが、『システムB』からは分からなくなる。
異世界構築機構は何のために存在するのか?
今回の刑務作業に辺り、その存在がアビス内で共有された時、高峯には僅かにそんな疑問が沸いていた。
そして今明かされた遺伝子から人類を再現すると言う所業。
死者の蘇生に等しい禁忌の所業に加え、被検体を弄ったという『C理論』。
禁忌を侵すからには目的があるはずだ。
これらの技術は、果たして何のために必要なのか?
考え始めた瞬間、連想した言葉が彼女の中で繋がり始め、高峯の目がわずかに見開かれる。
彼女の脳裏に符合する一つの答えが朧げに浮かび上がってきたところで――。
「――――やめておきたまえ」
不意に差し込まれた声が、思考の回路を断ち切った。
ヴァイスマンは、しぃと自らの口元にそっと人差し指を当てる。
「余計なことに首は突っ込まないことだ。
どこぞの怪盗のように、地下送りになりたくはないだろう?」
ヴァイスマンは楽し気に口端をつり上げニィと笑う。
その声音は、警告というより愉悦に近い。
高峯は、自然と言葉を失っていた。
空気が、一段、冷えた気がした。
「おっと、そろそろ、運用テストの時間だ」
ヴァイスマンは話題を切り替えるように、視線をガラスの向こうへ落とす。
視線の先には、準備を終えた第二班と、その中央に立つ異形の存在。
話は終わりだと告げるような背に従い、高峯もまた無言のままその視線を追った。
■
『これより──『被験体:O』の戦術運用テストを開始する』
天井のスピーカーから、観測室にいるヴァイスマンの声が響いた。
次の瞬間、実験場東側の分厚い遮蔽扉が、油圧機構の唸りと共にゆっくりと開いた。
扉の奥から現れたのは3名の看守官。
アビス看守チーム第二班の精鋭たちである。
彼らは、台車に固定された巨大な何かを押しながら、静かにアリーナへ入場する。
「よぉルルナナ。刑務作業に身内がいるって、どんな気分だぁ?」
先頭を行くのは壮馬誠二。
切れ長の目を獲物のように光らせ、腰には黒革の鞭──彼の意思と感情に応じて形を変える超力の具現。
歩きながらも、常に誰かを値踏みするような眼差しで周囲を舐める。
「会ったこともない相手の話なんてどうでもいいですね。壮馬さん、誰彼構わず噛み付くのはやめた方がいいですよ」
灰色の長髪を揺らしながら応じたのは、ルルナナ・グレイコート。
少女のように整った顔立ちに、金と銀のオッドアイは感情の色を宿さない。
吐き捨てるような声の後、面倒そうに観測室の方へ視線を向けた。
「お二人とモ、お喋りはそこまでデス。集中ですヨ」
殿のように最後尾を歩くのは班長サッズ・マルティン。
狐のような細目を笑みで歪め、気配を限界まで殺している。
手にしているのは記録端末と鋭利な神経プローブ──手術ではなく相手に苦痛を与える拷問道具だ。
そして──三人の前方、彼らが運ぶ台車の上に『それ』はあった。
全身を分厚い拘束具で固められた巨大な塊。鋼の帯が交差し、肉体を金属の棺に押し込めている。
アリーナ中央に到達すると、三人は台車から離れる、遮蔽扉の向こうへと退避する。
中央に取り残された台座が、バチン──と鳴った。
それは遠隔から枷を一斉解錠する音だった。
鈍重な鉄が床に落ちて跳ねた。
一瞬、場が息を潜める。
「―――――――ふしゅぅ」
熱を帯びた吐息が解き放たれ、巨躯がゆっくりと立ち上がった。
それは男だった。
身長3メートルを超える肉体。皮膚は黒曜石のような鈍い光沢を放ち、岩肌のように硬質化している。
隆起した肩と胸郭、丸太のような四肢。分厚い首の奥で脈打つ血流が、低い唸りのように響く。
一歩踏み出しただけで、アリーナ全体がわずかに震えた。
鉄骨を軋ませる骨格、1トン近い質量が空気そのものを押し返し、観測室のガラス越しにも圧迫感が伝わる。
命令を待つことなく、巨体は定められた位置へと無言で進んだ。
観測室のコンソールに数値が次々と表示される。
対象コード:被験体:O(オーク)
身長:3.21m 体重:推定481kg
体脂肪率:0.3% 体表温度:42.1℃
状態:呼吸安定、視線虚無、戦闘命令待機──良好
人間ではない。
異能と異形が溢れるこの時代においても、なお異常と断じられる存在。
それは、人間を凌駕するために設計された純然たる『兵器』だった。
その時、再びスピーカーから淡々としたアナウンスが響く。
『──第一試験、身体スペック測定を開始する』
ヴァイスマンの声がスピーカーを通じて響いた瞬間、アリーナの照明が一段階強く光を放ち、床面の各所で赤外線センサーが赤く瞬く。
被験体:Oは中央で静止したまま、虚ろな視線を揺らすこともない。
最初の項目は、基礎運動性能と機動性の測定。
実験場の端まで移動した被検体が待機する。
そして、短い開始信号が鳴るや──3メートル超の巨体が爆ぜた。
肉塊が閃光をまとい、加速は0から100へ一気に跳ね上がる。
黒曜石のような皮膚が照明を鋭く反射し、巨躯が一直線に駆け抜ける。
その加速は、質量の常識と視覚情報が噛み合わない異様な速度だった。
石床を蹴るたび、空気が裂ける低音が観測室まで這い上がってくる。
「……2.21秒ですカ」
遮蔽扉越しに端末を覗き込んだサッズが呟き、笑みをわずかに深める。
直径50メートルの実験場を、端から端まで2秒で移動した。
恐るべきはその移動速度よりも、対面の壁を破壊することなく静止したその制御性だろう。
次は筋出力の測定。
天井から、320キロのチタン合金製の金属球が警告なしに落下する。
オークは視線を動かさぬまま腕を伸ばし、そのまま受け止めた。
『破壊したまえ』
短い指示に従い、金属球を握り潰す。
油圧プレスのように指が沈み込み、硬質なチタンが悲鳴をあげる。
めきめきと音を立てて形を失い、やがて紙粘土のように変形した塊が床に転がった。
観測室の計器が一瞬振動する。壮馬がヒューと口笛を吹いた。
記録された最大筋出力は200,000N(ニュートン)。
両手の腕力だけで約20tの圧力を発していながら骨格耐性に異常なし。
次いで跳躍・着地衝撃テスト。
高さ25メートルの天井付近に、ターゲットマーカーが投影される。
オークが膝をわずかに曲げ──静かに地を蹴った。
巨体が地上のから消える。
重力を否定するかのように垂直へと跳び上がり、照明群を抜け、観測室のヴァイスマンたちと同じ目線の高さまで達した。
マーカーが破砕する。空気が炸裂する音が観測室の分厚い防弾ガラスを震わせた。
頂点を越え、自由落下。
着地と同時にアリーナの地面が陥没し、破片と粉塵が円形に散った。
放射状の亀裂が走り、軋むような音を残す。揺れが止むまでの数秒、場内は水を打ったような沈黙に包まれた。
垂直跳躍は24.3m、着地による衝撃も耐性良好である。
筋出力・跳躍の測定が終わり、会場の空気が一度落ち着いたところで、ヴァイスマンの声が再び響いた。
『──続けて、戦闘技術試験に移る。標的識別能力と精密制御の確認だ』
次の瞬間、天井の装甲パネルが開き、無数のターゲットユニットが射出される。
高速で浮遊するドローン群──だがその中には「破壊対象」と「破壊禁止対象」が混在していた。
破壊すべきものは赤く点滅し、撃ってはならぬものは青い光を纏う。
数は百を超え、軌道は入り乱れ、速度は弾丸に匹敵する。
ただの力任せでは決して対処できない、識別と精密動作を要求される試験だ。
オークはわずかに首を傾け、虚ろな瞳のまま巨腕を上げた。
次の刹那、石床を砕く踏み込みと共に動き出す。
――鈍重さなど欠片もなかった。
3メートルを超す巨体が、まるで熟練兵士のように無駄のない制御で空を裂く。
肩の回転、肘の角度、指先のひと振りまでが計算され尽くした軌跡を描き、赤いターゲットのみを正確に叩き落としていく。
拳で砕き、肘で弾き、時に指先で突き割る。
巨体の一撃は雷鳴のように重く速いが、その軌跡は髪一本すら外さぬほど正確だった。
青いターゲットに触れることは決してない。
ガラス越しに見守っていた高峯は、無意識に息を呑んでいた。
それは野生の獣ではなく、徹底的に訓練された兵士の動きだった。
観測室の計器はターゲットの残数をリアルタイムで示す。
赤のカウントは秒ごとに減少していき、わずか一分足らずで全て消滅した。
一方、青は一つも欠けていない。
『判定──合格。精密識別および近接戦闘制御能力、兵士水準を大幅に上回る。
──これにて第一試験を終了する』
淡々としたヴァイスマンの声が響く。
全ての計測値は現代人類の水準を遥かに上回っていた。
怪物の巨躯に秘められていたのは、ただの破壊力ではなく、人類最高水準の戦闘技術までもが叩き込まれていたのだ。
何より恐るべきことに、ここまでの結果は超力を一切用いず、純粋な肉体性能のみで叩き出されたものである。
『──第二試験、耐久および超力による再生能力の測定を開始。被験体:Oは中央で待機せよ』
観測室のスピーカーから指示が落ちると、被験体:Oは一歩も動かず中央に立ち続けた。
天井パネルが開き、無機質な自動タレット群が姿を現す。銃口が一斉に黒曜石の巨体へと向けられる。
次の瞬間、観測室の照明がわずかに落ちた。
硝煙と火花を伴い、弾丸の雨が降り注ぐ。
耳を打つ連続音と跳弾の金属音が、アリーナの石床を削り粉塵を巻き上げる。
濃密な硝煙が扉を超えて漂い、ルルナナは思わず鼻をひくつかせ表情を歪めた。
だが、嵐の中心で被験体:Oは動かない。
命令に忠実に、反撃も回避もせず、弾丸を全身で受け止める。
その姿は、豪雨の中で崩れぬ黒曜石像のようだった。
やがて掃射が止み、硝煙がゆるく揺れる中に輪郭が浮かび上がる。
皮膚には浅い穿孔が点在するが、筋肉までは届いていない。
5.56mm通常弾では、分厚い筋繊維を貫くことすらできなかったと記録が示す。
タレットが格納され、床面の装甲パネルが音を立てて開く。
次にせり上がったのは大型重機関銃。
50口径級の超硬鋼製徹甲弾が、甲高い唸りと共に吐き出される。
着弾の衝撃でアリーナ全体が震え、鮮紅の血が散った。
黒い皮膚が破られ、筋肉が抉り取られる。
だが──損傷は数秒と持たない。
断面から肉芽が盛り上がり、筋繊維が絡み、皮膚が再び覆う。
再生開始まで0.8秒、完全修復まで7.2秒。計器の数値を見たルルナナが、低く呟く。
「……傷跡すら、残らないのか」
怪物に通用しなかった重機関銃が格納される。
代わって現れたのは巨大な戦車砲規格の砲身だった。
およそ人間相手に用いてよい兵器ではない。
砲口が低く唸り、直径120mmの徹甲榴弾が空気を裂いて放たれる。
空気を震わす轟音。
被験体:Oの胸郭が弾丸に穿たれ、巨体がたたらを踏んで後退する。
オークの胴体の中心にぽっかりと開いた空洞から、大量の血が噴き出し骨と肉が崩れ落ちる。
しかし──裂けた肉が蠢き、筋繊維が絡み、骨格が再構築されていく。
断面は時間を巻き戻すように閉じ、表面が覆われ元の形状へと復した。
膝をついていた巨人が活動再開するまで24秒。ヴァイスマンの口元がわずかに歪む。
外面を取り繕うだけなら1分と掛からなかった、内臓を含めた中身を完全再生が完了するまで2分と言ったところか。
この再生力、部位欠損すら再生するだろう。ルクレツィアに匹敵する再生力だ。
実験場に漂うのは血の匂いではなく、背筋を這う研ぎ澄まされた冷気だった。
その性能を目の当たりにし、アビスの職員たちですら言葉を失っていた。
何より恐ろしいのはその耐久力と再生力ではなく戦車砲から微塵も逃げようとしないその忠実なる精神力だ。
変わらぬのは看守長と班長の二人、そして当人である被験体:Oだけである。
オークは何事もなかったかのように、再び静止し次の命令を待っていた。
『二次試験を終了──第三試験、戦闘模擬演習を開始する』
何一つ動じることないヴァイスマンの変わらぬ調子の声が響く。
それと同時にアリーナ四方の装甲壁が分割して開き、黒鉄色の自動防衛兵装ユニットが滑り出した。
四脚の機動砲台、二足歩行の戦闘ドローン、壁面を疾走する小型攪乱ユニット──計十二機。
すべてが同時にロックオン信号を送信し、被験体:Oを中心に包囲陣を構築する。
短い電子音が試験開始を告げた。
四方八方から銃火とエネルギービームが降り注ぐ。
閃光が交錯し、アリーナの床が抉れ、破片が雨のように弾け飛ぶ。
しかし、黒曜石の巨体は──ふっと視界から消えた。
「……消えた?」
観測室の高峯が呟いたその瞬間、左翼の四脚砲台が内側から爆ぜた。
衝撃波が粉塵を巻き上げ、視界が真白に染まる。
その濁流を切り裂くように、オークの影が走った。
次の標的の背後に回り込み、背面装甲を片手で握り潰す。
金属が悲鳴をあげ、内部コアが赤熱したまま引き抜かれた。
右から突進してきた二足ドローンの突撃を、反射のように左腕で掴み、全力で床へ叩きつける。
コンクリートが雷鳴のような轟音とともに蜘蛛の巣状に割れた。
背後から放たれたロケット弾。
オークは振り向きもせず、後方に腕を伸ばして空中で捕らえ、そのまま真横のユニットへ投げ返す。
次の瞬間、爆炎と破片が連鎖し、二機が一瞬で沈黙した。
壁を疾走する攪乱ユニットのレーザー掃射が、空間を赤い線で切り裂く。
オークは一歩も動かず、首だけをわずかに傾けて軌道を追った。
次の刹那──石床を蹴った巨体が残像を残して天井付近まで跳躍。
そのまま壁ごと走行ユニットを掴み取り、鉄と回路を粉砕する。
残る三機が隊形を組み、集中砲火を浴びせた。
弾丸とビームが煙の渦を作り、巨体を包み込む。
轟音と光が止んだ瞬間、煙の中から、傷一つない黒い輪郭が歩み出る。
左手には潰れたドローンの残骸、右手には砲塔を引き千切られた四脚機。
それらを同時に床へ放り捨てると、場内は水を打ったような静寂に沈んだ。
観測室の計器が赤字で「制圧完了」を表示する。
投入されたのは最新鋭無人戦闘ユニット。
その戦力は、中規模テロ組織であろうとも壊滅可能な水準だ。
だが──それらは一分も経たずに全滅した。
被験体:Oに残ったのは、表皮をかすった擦過傷のみ。
そしてそれも、次の瞬間には肉と皮膚が再生し、痕跡すら消えていた。
正しく怪物と呼ぶにふさわしいスペックである。
『──よろしい。では、次が最終試験だ』
実験場のスピーカーが、何の感情も宿さない無機質な声で告げる。
その直後、遮蔽扉が油圧音を響かせながら開き始めた。
そこに居たのは第二班。
そして暗がりの向こうから、ルルナナに引き連れられて、一人の少女が姿を現す。
ピンクゴールドの髪は腰まで届くロング。両側を三つ編みにまとめ、お団子のように結い上げている。
左右で色の異なる水色と黄色のオッドアイが、不安げに前方を見据えていた。
無骨なコンクリートと鋼鉄の世界に似つかわしくない、柔らかな輪郭。
与えられた看守服の裾を何度も気にしては、小さく身じろぎしている。
高原藍寿──、一日看守官としてアビスに招かれた少女。
同じくサポート役として招集された高原菜々子の、実妹にして護衛役。
姉と共に刑務作業に勤しんでいたのだが、突然ここに呼び出されたのだ。
「えっと……どうして、私、呼ばれちゃったんでしょうか……?
菜々子ちゃんのそばにいないといけないとなんです……」
場違いな空気の中、藍寿は戸惑いを隠せない。
周囲の第二班からは答えはない。
返ってくるのは、観測室からの冷ややかな指示のみだった。
『気にしなくていい。君はそこに立っていればいい……ただし──その場を一歩も動かない事だ』
その瞬間、アリーナ中央の巨体がゆっくりと首を向けた。
被験体:O──オークの虚ろだった瞳に、鋭い光が灯る。
視線が交差する。藍寿の呼吸が一瞬止まった。
あれほどの運動テストを熟しても息ひとつ乱さなかったオークの呼吸が荒くなる。
心拍が狂い、筋肉が波打ち、背中に角のような突起が浮かび上がる。
冷たく鋭い悪寒が藍寿の背骨を這い上る。
次の瞬間、彼女の視界から目の前の巨体が消えさった。
彼女の感覚ではそうとしか言いようがなかった。
「え……?」
超質量の肉体が、地を割る踏み込みで加速する。
質量と速度が常識を凌駕し、突進はもはや弾道兵器のそれだった。
空気が押し潰され、観測室のガラスが低く唸る。
少女の悲鳴が上がるよりも早く、オークは爆発的な跳躍で藍寿へ迫る。
だが、二歩目を踏み込む直前──巨体がガクリと崩れ、膝をついた。
「させませんヨ」
抑え込んだのは、すでに超力を発動していた第二班班長、サッズ・マルティン。
彼だけが、この場においてその動きに反応していた。
狐のような目が鋭く開かれ、対象の『傷』を抉る。
『追想傷(ペイン・メモリー)』
過去の痛みを呼び起こし、数十倍に増幅して脳に叩き込む拷問能力。
解体、打撲、銃疵、火傷、骨折、切断。実験により被検体に刻まれた数え切れぬ苦痛の傷跡。
一つ一つは堪えられても、全ての苦痛が倍加され同時に襲い掛かれば、動きを止めるほどの激痛となる。
しかし。
「ひっ……!」
藍寿が短く悲鳴を上げたのと同時に、オークは歯を砕かんばかりに食いしばり、泡を吹きながら前進を再開する。
筋肉が膨張し、制御不能の域へ突入していた。
「誠二! ルルナナ! お仕事ですヨ!」
サッズが即座に指示を飛ばす。
これは想定されていた状況だ。
こう言った事態に対処するために第二班は配置されているのだから。
「躾の時間だぁッ! 合わせろ、クソガキィ!!」
壮馬 誠二の叫びとともに、彼の手に黒鞭が生まれる。
意志と感情で変化する『破滅の審判(デストラクション・ジャッジメント)』。
その刃鞭は殺意そのものを具現化しており、巨体の関節を的確に狙って打ち据える。
「口が悪いですよ、壮馬さん…………!」
ルルナナ・グレイコートが、それを模倣する。
『二律灰反(アッシュ・ナンバーズ)』が複製した鞭が、反対側の死角から同じ軌道を描いて炸裂した。
第二班の精鋭たちが、人間兵器オークの暴走を、全力で抑え込みにかかる。
空気が爆ぜる。
二条の鞭が同時に叩きつけられ、皮膚を裂かずに神経だけを削る痛覚が奔流となってオークを襲う。
そこへすかさずサッズが超力によってその痛みを三十倍に増幅する。
痛みの三重奏──人間なら即死すらあり得る神経地獄。
負傷は回復できても、与えられた痛みは即座に消えない。
痛みこそがこの怪物を止めるための最適解だ。
――――――だが。
「なっ……!?」
ルルナナが驚愕の声を上げる。
さすがの壮馬も、顔をしかめる。
「まだ……動いてやがる……?」
オークの身体は、悲鳴を上げながらなお前進していた。
痛みに身体を焼かれ、筋肉が震えても──その眼だけは、ひたすらに藍寿を追い続けている。
なんと言う精神力。
目的を成し遂げるという鋼の意志。
この怪物は痛みでは止まらない。
刑務官たちに危害を加える様子はないが、藍寿(ひょうてき)に向けて前進を続けている。
その様子を見ていたサッズが観測室の上方へ視線を送る。
そこには黙して全てを見下ろす看守長、ヴァイスマンの姿。
サッズが左手を掲げて合図を送ると、その合図に応じ、ヴァイスマンが指先を動かす。
すると藍寿の前の開いていた扉が重く音を立てて閉じられて行った。
音を立てて消えた視界の中から、標的が遮断される。
目標を見失ったオークの動きが、徐々に、しかし確実に鈍くなっていった。
呼吸が収まり、体表の異常な発熱も沈静化していく。
暴走は収まった。
だが、観測室の空気には──言葉にならない不穏さが、確かに残っていた。
■
「初の稼働実験にしてはこんなところか」
実験場の喧騒が収まり、アリーナに静寂が戻った頃、ヴァイスマンが呟いた。
その隣で観測室の分厚いガラス越しに光景を見守っていた高峯はも、思わず声を漏らす。
「ですが……突然、暴走するなんて……」
「――――それは恐らく、ヤマオリの匂いに反応したのでしょうね」
高峯の疑問に答える声があった。
それはヴァイスマンのものではない。
背後から、別の何者かの声が足音と共に割り込んできたのだ。
「おや。ご覧になられていたのですね、所長」
振り返ると、そこにはヤマオリ記念特別国際刑務所の所長、乃木平の姿があった。
軍服めいた黒のロングコートを羽織り、温和そうな笑みを浮かべているが、その眼差しには一瞬の鋭さが潜む。
「オリガくんから見て『被験体:O』の試験結果はどうでしたか?」
「そうですねぇ。身体能力や戦闘能力は及第点でしょう。まあ初の実戦投入と言うのが懸念点ですが」
「そこは問題ないでしょう。細胞に宿った経験が補ってくれるはずだ。後は実戦でアジャストできるでしょう」
稼働実験に対して所長と看守長は簡単な意見交換を行う。
その隣には、GPAの制服を纏った若い青年が直立していた。
「そちらは?」
「GPA実行局・戦術実行班、天原蒼光。任務により立ち会わせていただきます」
青年は背筋を正し、軍人らしい無駄のない敬礼を見せた。
その瞳には、年齢にそぐわぬ冷静さと、氷のような静寂が宿っていた。
「これはご丁寧に。初めまして、看守長のオリガ・ヴァイスマンです」
「……看守官の高峯真と申します。よろしくお願いいたします」
天原の整った所作に、高峯もわずかに緊張しつつ慌てて頭を下げる。
ヴァイスマンはそのまま握手を求めるように右手を差し出した。
天原もそれに応じて手を伸ばす。
だが、その手が触れる寸前、天原の手が宙でピタリと止まり、唐突に何もない空間をパシッと掴んだ。
「……?」
傍から見ていた高峯には突然の奇行にしか見えなかった。
だが、ヴァイスマンは驚いたように目を大きく見開いている。
鉄の看守長のこのような表情、高峯は始めて見る。
「オリガくん。彼にはやめておいた方がいい」
「…………そのようで」
背後からの含みを帯びた乃木平の声に、ヴァイスマンはわずかに唇を引き結ぶ。
天原は何事もなかったかのように手を下ろし、特に気にした風もなく眉ひとつ動かさない。
そのやり取りで、高峯もただならぬ気配を察した。
「……では、つまり彼が?」
「ええ。元『女王』のご子息ですよ」
「? 女王…………?」
その話声を聞いていた高峯は思わず声を漏らした。
彼が王族なのか、それとも何か別の意味を持つ称号なのか、言葉の意味をすぐには呑み込めない。
そんな高峯の様子に、乃木平はやわらかな笑みを向けた。
「そういえば高峯さんとは今日が初対面でしたね。所長の職にありながら、なかなか常駐できず申し訳ありません」
「い、いえ、とんでもありません……!」
乃木平が申し訳なさそうに頭を下げると、高峯は慌てて頭を下げ返す。
所長に頭を下げられるなど新人としては心苦しい場面だった。
「先ほどの話は今回の件とは無関係ですので。どうかお気になさらず」
「……は、はい」
乃木平は笑顔のままはぐらかす。
乃木平の柔らかさに押されるように、高峯はそれ以上深追いできず、言葉を飲み込んだ。
「先ほどは失礼しました」
「いえ、お気になさらず。よくあることですので」
一方その傍らでは、ヴァイスマンと天原が今度こそ形式的に握手を交わしていた。
その様子を横目に、高峯は小声で乃木平に尋ねる。
「……彼と、お知り合いなのですか?」
「ええ。彼のご両親と、少し縁がありましてね」
それは、どう言った縁なのか。
詳細を問うべきか逡巡し、高峯は視線を逸らす。
だが本来の疑問を思い出し、再び口を開いた。
「それで……ヤマオリに反応した、とは?」
乃木平は頷き、ガラスの向こうへと視線を移す。
そこには、ただ沈黙を保ち続ける被験体:Oの巨体があった。
まるで命令が下るのを待つ、生ける兵器のように。
「高峯さん。君は『被験体:O』の正体をどこまで聞いていますか?」
「……ヤマオリの地で採取された細胞から作られたクローンだと」
その回答に乃木平はゆるく頷いた。
「その通りです。あの細胞の持ち主は、最後に『山折殲滅』の任務を帯びていました。
命令に忠実だった『あの人』は、その使命感を細胞の奥底にまで刻み込んでいたのでしょうね」
それは細胞に刻まれた意志の残響。
生物の本能を超えた、かつての信念の残滓だった。
ヤマオリ絡みの事象に強く反応を示すのは任務に忠実だった男の使命感が細胞にまで宿った結果なのだろう。
「まったく……あの人らしい愚直さだ」
乃木平の唇に、懐かしさを滲ませる笑みが浮かぶ。
そこに含まれた感情を、高峯は読み取ることができなかった。
「……それでは、運用試験は失敗ということですか?」
先ほど行なわれた運用テストでは命令を無視して暴走した。
制御不能になるようでは兵器としては失敗だろう。
だが、その冷静な指摘に乃木平は静かに首を振った。
「――――問題ないでしょう」
その口調は穏やかだったが、内に確信を宿していた。
「命令遂行には一切の遅延も誤差もなかった。
反応したのは、ヤマオリ由来の刺激に対してだけです。
その条件を適切に管理できるなら、実戦投入に支障はありません」
その言葉に、不愉快そうに高峯の眉が寄る。
「……つまり。高原さんを暴走のトリガーとして、最初から反応を見るつもりだった――そういうことですね?」
その声に、僅かな怒気が混じっていた。
弟妹を喪った過去が、重く胸をよぎる。
無垢な少女を、最初から「餌」として試験に組み込んでいたという事実。
高峯にとって、それは看過しがたいやり方だった。
「彼女には不死の超力がある。万が一があっても死ぬことはあるまい」
ヴァイスマンが口を挟む。
その能力──不死鳥の加護──が彼女を守る保障になる。
万が一、オークの攻撃を受けても絶命することはなかっただろう。
さらに冷たく告げる。
「何より、それを制止するために第二班が配置されていたはずだ。高峯看守官、君は彼らを信用していないのかね?」
「…………それは」
そう言われては、何も言い返せない。
今回の任務も第二班の実力もよく理解している。
実際、二班はその任務を十分に果たしていた。
任務から外された未熟者が、その功績に泥を塗るような言葉を吐くわけにはいかない。
「では――『被験体:O』を『システムB』内へ転送する準備を進めましょう」
乃木平の確認に、ヴァイスマンが頷く。
ヴァイスマンは視線をリレーさせるように高峯に視線を向けた。
「高峯看守官。実験場のモニターをケンザキ看守官に回すよう手配を」
「了解しました」
高峯は敬礼し、踵を返す。
「それでは、私もこれから放送の準備がありますので、失礼を」
軽く一礼し、ヴァイスマンも観測室を後にする。
残されたのは、乃木平と天原の二人だけとなった。
「蒼光くん、今後の予定は?」
「長官からはオークの投入まで立ち会えと命じられています。それが確認でき次第、次の任務に移ります」
「なるほど。相変わらず忙しいようですね。では放送までの間、所長室に移動しましょう。お茶でもお出ししますよ」
「ですが……」
「いいではないですか。一杯くらいは付き合ってください。ご両親の様子も伺いたいですし」
「……そういうことでしたら、少しだけ」
ふたりは軽く言葉を交わしながら、観測室を静かに後にした。
■
執務室へと続く廊下を、ヴァイスマンが軽やかに歩いていた。
スキップでも始めそうな足取りで、唇には楽しげな笑みを浮かべている。
戦場の経過は、実に順調。
事態は期待通り、否、それ以上に転がり始めている。
予測通りに進行している局面もあれば、想定外の乱流も混ざり始めた。
だが、それこそが面白い。計算から外れるほど、戦場は輝く。
メアリーは惜しかった。もう少し戦況を波立てると踏んでいたが、早々に脱落してしまった。
やはり、旅人の介入が大きかったのだろう。死んでからも傍迷惑な男である。
港湾の方も面白い動きを見せている。
キングが慎重なスタンスを取って人気のない区画に潜伏し、そこへジャンヌが向かう。ここまでは読み通りだ。
だが、大金卸の乱入は完全に想定外だった。乱数が混じるのは新たな数値を得るためのいいスパイスである。
バルタザールの鉄仮面が砕かれ、記憶が戻りつつある。彼がハイオールドとして本領を現すのは、時間の問題だろう。
仕込みの一つである氷月(ジョーカー)も、そろそろ盤面に姿を見せる頃だ。
次の一手が、実に待ち遠しい。
ブラックペンタゴン内の戦況の激化は、まさしく理想的な状況だ。
データとしては申し分ない成果が得られている。
中庭の仕掛けは上々の成果だった。
いくつかのパターンを想定して配置したものが、銀鈴が使用すると言う一番理想的なパターンとなった。
エンダがシステムBに介入する様子まで確認できたのは僥倖である。
さて表に引きずり出されて後がないぞ、サリヤ・K・レストマン。
門番役として配置したエルビスは想定以上によくやった。脱落のタイミングを含めて、実に都合のいい働きをしていくれた。
ヤミナはよくわからないが、トビを通したのはいい調整だったと言えるだろう。こちらへの反骨心もいい材料になっている。
彼が最奥へと近づきつつある今こそが、仕掛けを生かす最高のタイミングだ。
ブラックペンタゴンの黒い外壁には『システムA』の防壁が組み込まれている。
あの中にはネイ・ローマンやギャル・ギュネス・ギョローレンがいるが、奴らでもそう簡単に破れるものではない。
廊下の角に姿を消す直前、ヴァイスマンは肩を揺らしながら、愉快そうに呟いた。
「さあ――楽しい楽しい、殲滅戦の始まりだ」
■
――――定時放送の時間だ。
これで二度目の放送となる。
刑務作業も折り返し地点を迎えたが、君たちの贖罪は、どれほど果たされたのかな?
贖罪を果たし、望みに手は届きそうかな? そうであったなら幸いだ。
さて、それでは今回も刑務作業の経過報告を行おう。
まずは、刑罰が執行された者たちの報告からだ。
これよりその名を読み上げる。
イグナシオ・"デザーストレ"・フレスノ
ドミニカ・マリノフスキ
ルメス=ヘインヴェラート
メアリー・エバンス
内藤 四葉
セレナ・ラグルス
ハヤト=ミナセ
ソフィア・チェリー・ブロッサム
ルクレツィア・ファルネーゼ
ジルドレイ・モントランシー
大金卸 樹魂
エルビス・エルブランデス
銀鈴
本条 清彦
ジェーン・マッドハッター
以上だ。
刑務作業の参加者も、これで開始時から半数を割るまで減少した。
折り返しを目前にしては、順調な進捗だと言えよう。
しかし、後半になり君らの作業ペースも鈍化するだろう。
疲労、焦り、混乱。それらが君たちの思考を鈍らせ、行動を誤らせてしまう。
そこで、我々は1名の『補助要員』を追加することにした。
その名を──『被験体:O(オーク)』という。
君たちと違う、黒い首輪が目印だ。
通常の規制を受けず、禁止エリアにも侵入可能な特別仕様だ。
この『被験体:O』の首輪からは、400ptの恩赦ポイントを取得することができる。
これは、君たちがこれまで目にしてきたどの首輪よりも高額だ。
恩赦に向け頑張る君らへの助けとなるだろう。
さらに、この黒首輪には特例がある。
それはポイント取得時、範囲内から何ポイント獲得するかを任意に選べるということだ。
つまり、複数人による分配獲得が可能ということだ。この意味が分かるね?
『オーク』は、この放送の終了と同時に、ブラックペンタゴンの正面出入口である──エントランスホールより出現する。
それに伴い、ブラックペンタゴンのメインエントランス以外の出入口は封鎖される。
既に北西の出入口は破壊されているようだが、これに加え、南東側も封鎖となる。
正規の入り口以外は使えなくなるという事だ、注意したまえ。
さて、最後に禁止エリアの指定を行う。
D-2
D-4
D-5
E-4
E-5
F-2
G-4
G-6
以上を禁止エリアとする。
今回のエリアは特殊な事情を考慮し、発動まで長めに猶予を設けることにした。
発動の猶予は6時間だ。該当エリアにいる者は離脱できるよう努めたまえ。
君らに伝えるべき報告は以上だ。
引き続き、刑務作業に励みたまえ。
どうか、己が罪と向き合う有意義な時間を。
■
一度目と同じ閉め括りの言葉が終わり。
ヴァイスマンの声から切り替わった、事務的な合成音声が会場中に響き渡る。
『警告します。
これより ブラックペンタゴン エントランスホールに 『被験体:O』が 転送されます。
周囲の人間は 転送に巻き込まれぬよう ご注意ください』
※ブラックペンタゴン・エントランスホールに『被験体:O』が出現しました。
最終更新:2025年09月18日 20:05