朝陽が低く照りつける高級住宅街には朝の静けさが漂い始めていた。
いやそれは朝の静けさというより、災害直後の人気のなさに起因するものだろう。
立ち並ぶ高級住宅の一軒にはシャッターが閉じられたガレージが備え付けられていた。
ガレージの内装は白く塗り固められた壁で囲まれており、天井は高く、照明が全体を照らしていた。
打ちっぱなしのコンクリートの床面には地震で天上から剥がれた灰色の塵が所々に散らばっている。
奥隅には愛車の整備をするための様々な雑貨を並べる収納棚が備え付けられており、地震による影響かその中身が地面に乱雑に転がっていた。
締め切られた空間は朝を告げる光が差し込まず、換気口だけが唯一の外の世界のつながりのようだ。
さわやかな外の空気と違い、ガレージの中はどこか息苦しく感じられる。
そこにガレージに主役たる車はおらず、その代わりにガレージの中には異質な3人が閉じ込められていた。
シャッタースイッチのある壁際に腹部から血を流す年にそぐわぬ成熟した外見の少女がもたれかかっていた。
この少女、岩水鈴菜こそがこの密室を作り上げた張本人である。
己が異能を使いシャッターを固く閉ざしたのは危険すぎる男を閉じ込めんがため。
カレージスの隅、冷たいコンクリートの上に横たわるのは緑色の肌をした巨人である。
明らかに人の枠から外れた小山のような巨体。
脳を損傷し意識を朦朧させている和幸と名付けられた元豚のオーク、いや元オークの豚である。
閉じ込められた全身を迷彩色の防護服で固めた大男、大田原はシャッターへと近づくと確かめるようにコンコンとノックする。
鉄とも違う不思議な返りだ。固い水という矛盾した印象を受ける。
シャッターの状態を確認すると、そこから僅かに距離を取るように一歩下がった。
そして、トッと地面を蹴って巨体が跳んだ。
傍からその様子を見ていた鈴菜が驚きに目を見開いた。
炸裂した飛び後ろ回し蹴りが、シャッターに重量級の衝撃を奔らせる。
「なるほど」
当の本人は何事もなかった地面に着地すると冷静に呟き、自身が蹴りこんだシャッターを再度確認する。
鉄板すら打ち砕くような一撃の直撃を受けても、シャッターには傷一つなかった。
尋常なものではない。閉じ込められたと言うのは嘘ではなさそうだ。
「…………納得はしたか?」
鈴菜は血を流し続ける腹部を手で押さえながら、不敵に笑って言葉を吐く。
血の気の引いた顔色は青いままだが、イニシアティブを握っていることを主張するために強気は崩さない。
男は答えず、ガレージを物色するように歩き回ると、収納棚から落ちた使い捨て雑巾とガムテープを拾い上げた。
そうして鈴菜の前まで歩いてゆくと腹の傷に合わせるようにその場に屈みこんだ。
そして腰元のホルダーからナイフを引き抜く。
突き付けられた鈍い光の鋭さに思わず鈴菜がぎょっとする。
「何を……」
「弾丸を摘出するだけだ。少しだけ我慢しろ」
言って銃創に向かって素早くナイフが揺らめいたかと思うと、先端を引っ掛けて弾丸を摘出した。
傷口を抉られ一瞬、鋭く焼けるような痛みはあったが、既に銃弾を受けた後だ。
飽和気味だった痛みが多少増した程度である。
血の溢れ始めた傷口を雑巾で抑え、強く圧迫した状態でガムテープをグルグル巻きにして固定する。
そうして名医もかくやという手際で止血は完了した。
「っ………………ふぅ」
ひとまず安堵の息を吐く。
まだ痛みはあるが、出血死は避けられそうだ。
あっさりと要求が通ったのは少しだけ拍子抜けしたが、まだここからだ。
次に和幸の治療をさせ、少しでも情報を引き出すべく交渉に挑まねばならない。
だが、その前に先んじて相手が要求を突き付けてきた。
「扉を開け」
「まだなのだ、その前に和幸の傷も……んんぅ…………っ!?」
鈴菜の言葉を遮るように口に雑巾を詰められ、ガムテープで塞がれる。
突然の凶行。鈴菜の頭が混乱する。
これから交渉を始めよう状況を理解していないのか、口を塞がれては話せない。
混乱している間にあれよあれよと後ろ手に親指を結束バンドで拘束された。
「扉を開け」
繰り返し述べられる端的な要求と共に、背後に回った男が手袋に包まれた無骨な手で少女の細い指先を優しく摘まんだ。
男は状況を誰よりも正しく理解している。その感触に少女も次に起こりうる事態を理解し始め、その背筋が凍る。
そして口に詰められた雑巾が自殺防止の措置であると気づいた時には、すべてが遅かった。
「…………っぅううッッッッ!!!」
枯れ木でも折ったような乾いた音とくぐもった悲鳴がガレージの静寂を乱した。
神経の集中する指先に激しい痛みが奔る。
全身に脂汗が滲み、目じりには涙が浮かんだ。
口を塞がれ呼吸もままならず、荒い鼻呼吸を繰り返す。
少女の小指は第一関節から逆側に曲がっていた。
見事にへし折られた小指には内出血も殆どなく綺麗なものであった。
腹部の出血は止血こそしたものの、失われた血液を取り戻した訳ではない。
出血を伴わず苦痛を与える手法として取られたのがこの方法である。
小指をへし折った無骨な手が、何事もなかったようにすっと薬指へと移動する。
「扉を開け」
機械的な繰り返し。
それは嗜虐性を満たすでもなく、躊躇いを殺してやっているでもない。
ただ、扉を開くために必要な作業として行っている。
不気味なガスマスクも相まって感情のない虫のようだ。
それが何よりも恐ろしい。
だからと言って異能を解除し扉を開く訳がない。
扉を開けば用済みになって殺されるのは目に見ている。
何よりも、こんな奴のいいなりになってなるものか。
特殊部隊という危険な存在を絶対に表に解き放ってはならない。
鈴菜は強い決意と覚悟をもって、雑巾越しの奥歯を強く食いしばった。
「んぅんんぅぅうううう……………………ッ!!」
まるで割りばしでも折るみたいな気軽さで、薬指がへし折れる。
耐えがたい痛みが指先を貫くのに、口を塞がれその叫びを吐き出すことすらできない。
行き場を求めた衝動が体内を暴れまわり、胃と喉が痙攣を繰り返す。
嗚咽と嘔吐感が止まらず、口の中に溜まった唾液と胃液が雑巾に吸い込まれてゆく。
どうして自分がこんな目にあっているのだろう?
何のために、こんな痛みを耐えているんだっけ?
曖昧になりかけたその目的を思い出す。
そうだ、うさぎが助けを呼びに行ってくれている。
扉を開くのは、うさぎが助けを引き連れてきた瞬間だけだ。
災厄を鎮める岩水の人間として、多くの人を助ける。
そのために、この危険な男は絶対に自由にしてはならない。
改めて決意を思い返し、自分自身を奮い立たせる。
………だが、それはいつになるのだろう?
交渉に持ち込むのに失敗した以上、鈴菜にできるのは耐える事しかない。
いつ来るともわからない助けが来るまで、この責め苦は続くのだろうか?
一瞬、そんな弱気が脳裏を過った。
「扉を開け」
何一つ変わらぬ感情のない声を聴く。
本当に何一つ変わらない。鉄で出来ているかのようだ。
痛みで朦朧とし始めた頭を覚醒させるように中指がへし折れた。
激痛を味わいながら、そこで鈴菜は気づく。気づいてしまった。
指を折る間隔が、一定間隔である事に。
拷問において、一定間隔という事は重要だ。
一定間隔に額に水滴を落とすだけで人は気が狂うとさえ言われている。
必ず痛みがやってくるという恐怖は推し量りがたいものがあった。
間隔は30秒ほどだろうか。
つまり、この永遠のような責め苦はまだ1分半も経過していない。
たったそれだけ。
その事実が絶望の黒い染みとなって心に広がる。
うさぎがきっと助けを呼んできてくれる。
本当に?
うさぎは助けてくれる人を見つけられるのか?
見つけられたとして、その人たちはこの男を倒せるのか?
そもそも、うさぎは本当に助けを探してくれているのか?
自分だけが助かりたくて逃げていたりはしないだろうか?
普段は浮かばないような疑心が次々と脳裏をよぎる。
そんな訳ないと理解していながら、心の奥底でその疑念を拭いきれない。
ここで出会ったばかりの赤の他人が都合のいい助けを呼んでくれるかもしれないなんて。
そんな不確かなもののために、体を張る必要などどこにもない。
そもそも。
みんなを殺そうとする男から皆を守護する。
そんな責任を何故負わねばならないのか。
「扉を開け」
地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、この状況から逃れる唯一の解決策が提示される。
開いてしまえばいい。
言いなりになってしまえばいい。
この男を開放してしまえばいい。
このまま嬲り殺されるくらいなら、扉を開いてイチかバチか逃げ出した方がまだ助かる。
幸い両脚は無事だ、皮肉にも腹部の止血も完璧だ、指の痛みを無視すれば走れないこともない。
そうすればこの責め苦から解放される。
楽になれと、悪魔のささやきが脳内に響き渡る。
だが、その誘惑を振り切って揺らぐ心を、ぎりぎりの所で必死に押しとどめた。
彼女の心を薄皮一枚で留めるのは、閉じ師としての誇りである。
極限状況が人の本質を突き付けるのならば、この誇りこそが彼女の奥底に残る本質。
災厄を防ぎ多くの人を救う閉じ師としての仕事を誇りに思ってきた。
近年、閉じ師でも感知できない災害が全国的に増えていた。
それは地震のみならず様々な天変地異の件数自体が増加していた。
ベテランの閉じ師である父にも原因は分からず、そのことについて最近の父はいつも思い悩んでいた。
その背を見て、早く一人前になって父の助けになるのだと、懸命に修業を重ね青春を捧げてきた。
これはその使命を忘れ友達や恋人と遊びたいなんて、浮かれていた罰なのだ。
そう自分に言い聞かせ、次に来る痛みに耐えるべく鈴菜は雑巾ごと奥歯を強く噛み締めた。
人差し指が折られた。
だが、どうしようもなく涙が零れた。
零れ落ちる涙を止めることができない。
痛い。
右手全ての指が折れ曲がり、常に痛みを訴えかけてくる。
心に秘めた決意などとは関係なく、どうしようもなく痛いのだ。
守護りたかったもの、夢見たもの、憧れたもの。
その全てが、ただの痛みによって涙と共に押し流されていく。
人間は痛みに勝てない。
決意や崇高な理想など、痛みの前に曖昧になってゆく。
死ぬ覚悟だって出来ていたはずなのに、その過程でしかない痛みに押し流されてゆく。
「ぅ……………………ぷッ」
痛みとストレスに精神が限界を迎え、ついに鈴菜が嘔吐した。
口を塞がれた状態での嘔吐は、吐瀉物によって喉が塞がるため窒息の危険性がある。
その異常にいち早く気付いた拷問官は、張り付いた髪の毛ごと素早くガムテープを剥ぎ取った。
口内から汚物に塗れた雑巾をズルリと抜き取ると、コンクリートの床にびしゃびしゃと吐瀉物がぶちまけられる。
「ぉうぇえッ…………ッッ!!」
口が解放されたその一瞬の隙をついて、鈴菜は自らの舌に噛み付いた。
鈴奈とて決して、死にたいわけではない。
まだ生きていたいし、人並み以上にやりたいこともたくさんある。
だけど、ゾンビになるかもしれないと聞かされた時に自らの舌をかみ切ろうとしたように、誰かの迷惑になるくらいなら死を選ぶ。
そんな岩水に生まれたモノとしての覚悟が彼女にはある。
「が…………ぷっ!?」
「まったく。油断も隙も無いな」
だが、彼女の自死は口内に差し込まれた野太い指によって防がれた。
せめてもの抵抗に、差し込まれた指を噛み千切ってやろうと思い切り噛みつくが。
ケブラー繊維で編まれた防刃手袋は噛み切れず、むしろ歯のほうが持っていかれそうだ。
そして二本目の指を口内に差し込まれ、少女の咬合力を上回る指の力で無理矢理口を開かれる。
その隙間に再び新たな雑巾を詰め込まれ、彼女は口(じさつ)を封じられた。
「再開と行こう―――――扉を開け」
言って、何の感傷もなく拷問が再開される。
右手の指は終わり次いで左手の指へと取り掛かる。
雑巾越しのくぐもった悲鳴がガレージの中に響き渡った。
■
「ふぅッ…………ふぅッ!!」
少女の鼻から過呼吸なまでの荒い息が漏れる。
塞がれた口内に突っ込まれた雑巾を歯が折れんばかり勢いで噛み締めていた。
あれから2分。結束バンドでつながれた親指以外の全ての指への拷問を彼女は耐えきった。
これは大田原にとっても予想外の粘りである。
指の1、2本でも折れば根を上げると思っていたが、よもや指8本まで粘られるとは思いもよらなかった。
少女を殺さぬよう出血させないと言う制限があるとはいえ、ただの少女と侮っていたのは確かである。
まあ、だからと言って、ここで終わる訳ではないのだが。
感服はすれどそれを表に出すことなし、手を抜くこともあり得ない。
全ての指をへし折った無骨な手が何事もなかったように小指まで戻り、より深く第二関節を摘まんだ。
「ぁっ…………っ…………ぁ…………!!」
その感覚に、鈴奈の全身が恐怖に引き攣って喉が痙攣する。
鈴菜は耐えきった。耐えきったがまた耐えきれるかは別の話だ。
あの痛みをもう一周?
いや、既に折られた指をもう一度折られるのだ、繰り返されるのは先ほどまで以上の痛みになるだろう。
想像するだけで発狂しそうになるほど脳の奥が痺れる。
「扉を開け」
もう聞き飽きた言葉を皮切りに地獄が再開される。
先ほど以上の地獄が。
笑えるくらいにリズムよく指が折れてゆく。
一定間隔で刻まれる音は、まるで小気味いい音楽みたいだ。
次々と折れてゆく指と共に心が、己の中の尊厳が破壊されてゆく。
肉体に痛みが刻まれ、頭の中が痛みと痛みが痛みに痛みで埋め尽くされる。
痛い。
痛い痛い痛い。
なんでどうして自分こんな目に合わなければならないのか。
帰りたい帰りたいこんな村に来なければよかったもう帰して。
誰のせいだ誰が悪い誰のせいでもない千歩果のせいだ違う違う千歩果せいじゃない恨んじゃいけないこんなこと考えちゃいけない。
私は痛い痛い私の意思で選んだ私の決意をもって私の私のわたわたわたわたしはもういやだやめて痛い助けて誰か誰か誰か。
きっとうさぎがきっと助けを呼んでくれるもうすぐだ考えが甘かった全然来ないじゃないか本当に助けなんて来るのかうさぎを信じなくちゃ仲間を疑ってはダメだ信じろ信じろ信じられなくても信じろ早く早く早く早くしろ助けて誰でもいいから助けて私が悪かったから謝る謝るからどうか助けて痛い痛い痛い。
私は間違ってないこんなやつに負けてたまるか痛みなんかに負けるものか和幸を見捨てればよかった和幸だけを閉じ込めて逃げればよかったんだそんな事してたまるか私は閉じ師として恥じない行いを逃げ出したい見捨てなくてよかった私は間違ってないどう考えてもこいつが悪いだろ痛い痛い痛いもう殺して嫌だ死にたくない私にはまだやりたいことがたくさんたくさんあるのに人々を救わなくては覚悟ならしている昔からそうしようと私の意思は誰かの責任になんかしては痛い痛い痛い誰かお父さん助けてわたしは止めて止めて止めて助けてお父さんお父さんお父さん嫌だもう嫌だ痛い痛い助けて助けて助けて助けて痛い痛い痛い痛い痛い嫌だいやだいやだもうやめてやめてやめて!
そうして――――2週目の地獄が終了した。
右手の全ての指は逆さまに折れ曲がり、まるで逆向きに拳が握られているようだ。
こうなっては治療を施したところで、もう元に戻ることはないだろう。
腰元から下は垂れ流した小便でびしょびしょに濡れていた。
全身をビクビクと痙攣させ、もはや自身の体重すら支えられず己の小水の上に倒れこんでいる。
耐えたというより、もはやまともな思考もできていない。
最後の方はろくな反応すら返さなくなっていた。
廃人になる寸前と言った風である。
だが、そのような状態になってなお、ガレージの扉は閉じられたままであった。
「………………」
全ての指をへし折った大田原は無言のまま鈴奈を見下ろし、拷問の手を止めていた。
大田原は多くの人間を壊してきた。
だからこそ人間の壊し方も、その加減も見極められる。
このまま続けたところで死ぬことはないだろうが、精神の方が耐えられないだろう。
拷問は趣味や嗜好で行うモノはない。
あくまで扉を開けさせるという目的を達成するための手段である。
心を折る必要があるが、心を壊しては意味がない。
彼女の肉体には小休止が必要だ。
そう結論を下した大田原は鈴菜から離れ踵を返した。
鈴菜は痛みで曖昧になった頭で見つめる。
離れてゆく背は拷問の終わりを意味していた。
いや一時的な中断かもしれないが鈴菜は耐えきった。
そんな希望が僅かに鈴菜の中に灯る。
終わるはずもないのに。
そんな、ありもしない希望に縋った。
鈴菜から離れた大田原が足を向けたのはガレージの隅だった。
そこに転がる巨体、和幸の元へと近づいて行った。
ヒュンと風切り音が鳴る。
同時に、びちゃりという水音が鳴って、倒れこむ鈴菜の目の前に何かが落ちた。
鈴菜の作った黄色い水溜りにジワリと赤が広がる。
それがなんであるか気づき、悲鳴のように鈴菜の喉が鳴った。
それは切り落とされた緑色の耳だった。
「そら。起きろ、デカブツ」
「ぐぅわぁぁあああああああああああああああッッ!?」
意識を昏睡させぐったりと倒れていた和幸の巨大な手の平にナイフが突きたてられる。
大田原はそのまま手首を捻り傷口をグリグリと抉った。
その痛みが、気付けとなって混濁していた和幸の意識が覚醒する。
「扉を開け。そうしなければ、30秒毎にこいつの体の一部を削ぎ落していく」
これ以上、鈴菜の体は傷つけられない。
だからと言って、拷問の手を止める訳がない。
故に、大田原は自身の苦痛ではなく、仲間の苦痛へ攻め手を変えた。
天秤にかけられるのは仲間の命と見知らぬ多くの命だ。
極限状況にて突きつけられる究極の選択。自分の命は差し出せても鈴菜は決断できない。
何より治療を求めたはずの仲間が脅しの道具にされると言う状況は強烈なストレスとなって脳を焼く。
だが、鈴菜が決断を下せず戸惑っている間にも和幸の解体は進んでゆく。
ナイフが奔り、逆側の耳がガレージの壁に張り付いた。
ネバついた血液で一瞬張り付いた耳が、ボトリと地面に落ちる。
大田原からすれば気軽なものである。
拷問対象はあくまで鈴菜であって、和幸はただの拷問道具に過ぎない。
死なれては困る相手と違って、こっちは最悪死んだっていい。
「扉を開けろ」
「だめだぁあ!!! 開けるなあああああああああああああああああああああ!!!!」
熱量も意見も正反対の声が響く。
その声が鈴菜の脳を揺らして気が狂いそうになる。
熱を孕んだ腹部の痛みとジクジクとした右手の痛みで、頭がおかしくなりそうだ。
やめてと叫びたかった。
だが、それはできなかった。
口枷によって叫ぶ口をふさがれているのもそうだが、それ以前に、叫ぶ資格など鈴菜には無い。
その凶行を止める手段を持っているのに、止めようとしないのは鈴菜の意思だ。
誰かを助けるために、誰かを見捨てる矛盾。その矛盾が鈴奈を苛む。
何のために、誰のために、この痛みに耐えてきたのかすらわからなくなる。
自分が傷つくわけでもないのに刺されたように胸が痛い。
胃の奥が苦しくて気持ちが悪い。今にも吐き出してしまいそうだが、もう胃液しか出てこない。
だけどそれ以上に、少女の心を抉ったのは、己の中に生まれた一つの感情。
こうして仲間が傷つけられているのに。
心の奥底に痛めつけられているのが自分ではなくてよかった、と言う安堵の気持ちがあった。
なんて醜い。
己の中の醜さが、たまらなく情けなくて悔しかった。
多くの命を救え。常に誇り高くあれ。
閉じ師として生きた岩水の誇り。
自分なりに、それに恥じないように生きてきたつもりだった。
けれど、その気高さも、痛み一つで剥がれ落ちるメッキでしかなかったのか。
それからどれほど時間がったのか。
永遠のようでもあり一瞬のようでもあった。
和幸を解体する大田原が血まみれのナイフを振った。
ナイフについていた血糊が地面にへばり付く。
和幸の大きな体には刳り貫いたような穴が幾つも開けられていた。
両耳は削がれ、鼻は平らに慣らされていた、瞼を裂かれた眼球は常に見開かれ、唇を失った口元は歯茎が剥き出しになっていた。
それでもまだ息があるのはとんでもない生命力だ。
だが、それでもそろそろ限界だろう。
これ以上続ければ確実に死に至る。
だが、大田原はそこで手を止めていた。
死んでもかまわないつもりで扱ってきたが、実際殺してしまうのは色々と不都合もある。
殺害は拷問対象の心を折る最後の一手になる可能性もあるが、逆効果になる可能性も大いにあるからだ。
仲間の死に報いるために意固地なるなんて手合いを大田原は多く見てきた。
目の前の相手がそうである可能性も否定できない。むしろここまで観察した限りでは高そうな可能性である。
大田原は暴力に酔う性質でも殺人嗜好という訳でもない。
秩序を守護ることを是とする守護者である。
その過程において非効率な手段はとらない。
いかに強い心を持っていようとも、拷問対象はただの少女だ。
訓練されたプロならまだしも、心の動きなど手に取るようにわかる。
少女の心に僅かに出来た、暗い安堵という隙間。
そこに忍び込む様にカツンと、足音をガレージに響かせる。
自らに近づく足音に鈴菜がビクンと身を震わせた。
「休憩は終わりだ。再開と行こう。次は足か? いや目を抉ろうか」
眼球の前に血の滴り落ちるナイフが突きつけられる。
腹部の銃創や両手の痛みは未だに治まっていない。
一度間をおいて熱を冷ましたからこそ、再開される痛みに耐えられるだろうか。
鈴奈は不安と恐怖に震え、絶望に視線を落とす。
だが、後ろから髪を掴まれ無理やり引き上げられる。
そのまま寝転んでいる状態からその場に座らされると、目の前の惨状を目の当たりにさせられる。
そこで片目を潰され、瞼を裂かれむき出しになった瞳と目が合った。
血だらけで転がる顔無しの巨人。
これから辿る自分の末路。
「それとも――――――こいつと同じようにしてやろうか」
「…………………………ぁ」
それで、折れた。
これまで自分を支えてきた誇りや矜持。
折れないよう、負けないよう、ずっと意地を張り通していたものが完全に折れた。
むしろ、ただの高校生がよくここまで折れなかったと評価すべきだろう。
一度折れてしまえば、感情は箍が外れたように溢れ出した。
死にたくない死にたくない
嫌だ嫌だもう嫌だ痛いのは嫌だ。
今すぐにでも逃げ出したい。
使命なんて知らない。誇りなんて知らない。
そんなもの投げ出してでも逃げ出したい。
どうしても助かりたかった。
大田原はその目を見て、少女の心が折れたのを確認した。
拷問が趣味嗜好ではなくあくまで目的達成のために行われていたモノである。
恐らくもう一度大田原が繰り返せば、大人しくその要求に従うだろう。
ならば、ここで手を止めるのは必然である。
目的達成した、その一瞬の空白。
最後の命令を口にしようとした、その隙をついて。
「ぐぅおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「!?」
緑の怪物が再起動した。
その瞬間、大田原は自らの失態を認めた。
「しまっ………………」
しまったと思った時にはもう遅い。
狭いガレージ全体を震わす咆哮と共に、大田原の背後から道路標識が振り下ろされた。
炸裂するのはかつて魔王軍の精鋭であったオークの命を賭した一撃である。
それは、この瞬間打ち出せる最も効果的な一撃だった。
斧が如く振り下ろされた道路標識が肉と骨を深く切り裂き、間欠泉のように噴出した赤い血が天井を濡らす。
天井にできた水たまりが雨のようにボタボタと降り注いだ。
降り注ぐ血の雨を浴びるのは迷彩色の大男。
大田原には傷一つない。
一瞬の虚をつく不意打ちじみた攻撃にすら反応して、咄嗟に身を躱していた。
だが大田原にとって、攻撃を避ける事しかできなかった事こそが問題だった。
袈裟気味に振り下ろされた道路標識は鈴菜の肩口から胸の中央まで深く食い込んでいた。
生気のない瞳。喉奥から吐かれた大量の血が、行き場を求め鼻から溢れる。
ポンプする様に傷口からは大量の血液が噴き出す。
年齢にしては発育した乳房を両断し、脂肪の断面を露わにしながら心臓まで至っていた。
犬山うさぎを守る。
それこそ和幸が自らに誓いを立てた使命だ。
その誓いを守るためには、うさぎのいる外にこの男だけは出してはいけない。
そのためには、こうするしかなかった。
「鈴、菜…………す、まな……い」
犠牲にした少女に謝罪の言葉を述べて、全ての力を振り絞った和幸の体は倒れた。
平たくなった顔から自らの作った血だまりに沈む。
同時に、完全に生気を失った鈴菜も力尽きた
寒々としたコンクリートの上に損傷の激しい二つの死体が転がる中、最強の存在はただ一人、傷一つなく立ち尽くす。
血だまりと小便と嘔吐物。人間からから吐き出される汚物の詰め合わせが広がる冷たい檻。
その牢獄に閉じ込められた。
完全にしてやられた。
言い訳のしようもない。大田原の失態である。
逃亡した少女が連れてきた助けを引き入れる際に、救援ごと皆殺しにして脱出するプランBもあったが。
少女が未帰還である可能性と、異能者の集団を相手取るリスクを鑑みてこのプランAを取ったのだが、やや性急すぎたか。
あの少女には、全てを守護らんとするために己の全てを捧げる覚悟があった。
そしてあのデカブツには一人を守護らんがために己と仲間の命を捧げる覚悟があった。
その二つの覚悟を見誤った。
「……さて、どうしたものかな」
独り呟く。
出口のない鉄の牢獄。
最強の男はここからの脱出方法を探さねばならなかった。
【岩水 鈴菜 死亡】
【和幸 死亡】
【C-4/一軒家のガレージ/1日目・朝】
【
大田原 源一郎】
[状態]:右腕にダメージ、全身に軽い打撲
[道具]:防護服、拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.正常感染者の処理
1.ガレージからの脱出方法を探す
2.追加装備の要請を検討
※ガレージにはシャッターの他に出入り口はありません。シャッターは鈴菜の異能によってロックされています。
※鈴奈と和幸の荷物がガレージ内に転がっています
最終更新:2023年05月19日 21:37