『死ね……クソジジイ……』
何故助けてくれなかったのか。そう意味する言葉が老人に刃の如く突き刺さる。
しとしとと降る雪解雨が少女の身体の饐えた男の臭いを洗い流す。
黒髪から滴り落ちる雨粒が頬の痣を、赤く腫れぼった瞼を濡らす。
薄月より漏れ出した淡い光が怒りの籠った双眸と共に乱れたセーラー服を照らし出す。
穢されたその姿こそ、八柳藤次郎の新たな咎。
奇しくも環円華の今際の言葉は、あの日の愛弟子から吐かれた悪罵と酷似していた。
◆
―――故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪。
―――即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経。
経を唱え終わり組んだ手を解く。そしてゆっくりと目を開く。
八柳藤次郎の一日は座禅から始まり、座禅で終わる。
六十余年の間で己の中に染みついた習慣は、例え亡者が蔓延る地獄になろうとも、己の命運が尽きる日になろうとも変わらない。
ここは猟師小屋から東の森林地帯。その手前にある『民宿やまと』。大和あい媼が経営する民宿。
清潔に保たれた和室には所狭しと注連縄や仏像、天河石などが麗々しく飾られており、ある種の神々しさが醸し出されていた。
上質な檜製の食卓の中央に鎮座する花瓶。山折村の象徴花である夾竹桃と色とりどりの薊が活けられており、眩んだ目に癒しを齎す。
いびつな神聖さと清澄な自然の調和が『民宿やまと』が山折村に訪れる観光客に愛される理由の一つである。
そこで、藤次郎は昂った精神を治めるために休息を取ることにしていた。
急須から注いだ熱い煎茶。湯気の立つ若芽と豆腐の即席味噌汁。糠床から頂戴した沢庵の糠漬け。ザックから取り出して湯煎した非常食の白米。
質素な朝餉を前に藤次郎はただ一人両手を合わせる。
一礼の後、煎茶に口をつけて喉を潤す。白米を咀嚼し、素朴な甘みを噛み締める。
味噌汁を啜り、鹹味を楽しんだ後に沢庵の糠漬けを齧る。コクのある酸味に舌鼓をうつ。
食事の最中、ふと花瓶に活けられた花の一つである赤薊が藤次郎の目に留まる。
脳裏に過るとある女性の顔。八柳道場の玄関口に飾られている花瓶。その中に活けられている色鮮やかな花々。
面倒そうな顔で大きな花壺に水を注ぐ幼い頃の哉太。その傍らで満面の笑みを浮かべ、活けるための花束を抱えるセーラー服の少女。
時が経ち、一人寂しげな表情を浮かべながら花壺に花束を活ける金髪の愛らしい顔立ちの女性。
「茶子は、花が好きな子だったな……」
◆
とある晩秋の土曜日。落陽差す八柳新陰流山折道場の片隅にて風が吹き荒れ、樫の木の二重奏が奏でられる。
若い門下生に指導する巨漢の男は奇妙な演奏を忌々しげな、赤髪の小柄な少女は羨望と畏怖の混じった眼差しを向ける。
奇妙な演奏会の奏者は二人。八柳新陰流創設以来――否、剣に捧げた人生の中でも見ることのなかった天賦の才の持ち主達。
それが18歳の少女と14歳の少年であるとは誰が想像できようか。
演奏に使用される楽器は木刀。鳴る音は八柳新陰流の剣術。
雀打ち、乱れ猩々、空蝉、鹿狩り、三重の舞、天雷―――。
幾度となく続く剣はどの技も形だけであるのならば誰もが真似できるもの。ゆるりと舞えば八柳新陰流は健康促進の体操にもなる。
だが、二人の剣はその側面を持たず。敵方の刃を折り、叩き伏せることを目的とした限りなく殺人剣に近い活人剣。
活劇を彷彿させる殺陣。荒々しくも流麗に連なる剣舞。八柳道場にいる中で技を認識できる者は己と浅葱樹翁、その孫娘の碧だけであろう。
永遠に続くかと思われた暴風を思わせる形稽古。その終わりは唐突に訪れる。
少女の上段からの振り下ろしを少年が受け流そうと木刀同士が十文字になるよう受けた瞬間、双方の木刀がぽきり折れた。
『ぎゃーー!茶子姉のせいで折れた!』
『違う違う。哉くんが受け流し失敗したせいっすよ。碧ちゃん、そこんとこどう思う?』
『あ……ええと、その……』
『大丈夫大丈夫。正直に言っても哉くんは勿論、愛しの『山折センパイ♡』も君のことを嫌いになんてならないからさ』
『それは……でも……わたし……』
『ほむほむ……哉くんが雑魚だったせいだって。やーい、ざぁこ♪ざぁこ♪』
『碧ちゃんは何も言ってないだろ!くそ……いつか絶対分からせてやる……!』
『あわわわわ……』
道場で繰り広げられる青春の戯れ。その様子に樹と共に苦笑する。
『昔を思い出すね、藤次郎君』
『そうですね、樹先輩』
戯れはすぐに終わる。次いで碧が木刀を構えると茶子が折れて短くなった木刀を構え、かかり稽古が始まる。
◆
八柳哉太と虎尾茶子。かつての弟子、沙門天二は疎か己や浅葱樹すらも超える逸材。その才能は控えめに言って桁が一つ違う程。
哉太は未完成の器ではあるものの剣に人生を捧げてきた藤次郎ですらも才能の底が見えない。未熟である今ですら、己が勝てるかどうか怪しい程。
茶子は体格に恵まれていないが、剣に至っては『八柳新陰流歴代最強』に相応しい実力を身に着けている。
太刀筋はほぼ完成されており、今の自分どころか全盛期の自分すら超えかねない強さを持つ。
だが、精神面においては二人とも年齢相当に未熟。
哉太は容姿こそ若い頃の己と瓜二つであるが、妻や息子夫婦の血が強く出ているのか、穏やかで自己肯定感の低い性格。
茶子は偶像もかくやと斯くやと言わんばかりの愛くるしさと美しさを併せ持つ女性。社交的かつ負けん気が強い、芯のある性格。
しかし、失策のツケを支払わされて以降、藤次郎の見た限りではあるが、どこか危うい雰囲気を持つようになった。
◆
朝餉を終え、煎茶を口に含む。
藤次郎は天を仰ぎ、ぼそりと呟いた。
「何故堕ちた、網太」
◆
八柳藤次郎と木更津網太。二人は同じ山折村で生まれ育ち、夢を語り合った友であった。
しかし、数十年の時が流れるにつれ、生き方も、立場にも違いが生まれた。
藤次郎が八柳新陰流を創設し山折村に帰還したとき、網太は『木更津組』と呼ばれるならず者の集団を率いて村を闊歩していた。
竹馬の友が堕ちた。その原因を探るために藤次郎は山折村を調べ、『歪み』を知った。
その『歪み』からかつての友を救うべく、奔走したが己の謀略は悉く失敗に終わった。
『なあ、藤次郎。お前は棒振り遊びをするだけの猿でおればいいんじゃ……』
十余年の歳月の中で友情が歪みに歪んで憎悪へと変貌した時、網太に告げられた言葉。
理性的にも、本能的にも山折村は滅ぶべき存在として認知した頃。自身の人生で培ってきた正義は逃避を許さない。
そのツケを支払わされることなった8年前の事件。
弥生の夕暮れ時。
藤次郎は一人、木更津組の事務所へと呼び出された。
策略がいつものように失敗に終わり、遂に己自身で支払わされることになるのかと覚悟した。
だが、ただで殺される訳にはいかぬ。藤次郎は己の手足となる打刀と脇差を持ち出して歪みの巣窟へと向かった。
『よう来たな、藤次郎先生』
『王仁か。貴様に用はない。網太を出せ』
『まあ落ち着け。親父は診療所で寝ている。引退した老人をいじめるために剣を磨いていたわけではないのだろう?俺は話し合いをしに先生を呼び出したんだ』
よくもまあ口の回る男だと藤次郎は蔑んだ。
王仁の周りには銃火器を構えた息子達。そして傍らには今にも抜刀せんと刀に手をかける元最強の門下生、沙門天二。
『息子の閻魔はどうした?人でなしの貴様でもやはり息子には情を持っているのか?』
『口を慎め、ジジイ。俺の親父に――』
『逸るな天二。あの盆暗は麓でバイクを乗り回している』
藤次郎と王仁の間にぴりぴりと張り詰めた空気が漂う。
その空気を断ち切ったのは王仁の言葉。
『なあ、先生。今まで俺らはアンタの面子を考えて大抵の事には目を瞑ってきたつもりだ。だが、今回は少々やり過ぎたな』
王仁の目が細められる。それは獲物に狙いを定めた毒蛇のようにも思えた。
やはり制裁か。望むところ。己の命が尽きようとも、王仁と天二は必ず斬る。
その様子を感じ取ったのか王仁はまあまあと宥めるように両手を動かした。
『交渉だと言ったろう。老人は気が短くていけねえな』
『……どうせ碌なことではあるまい。儂の腑か?それとも土地の権利書か?』
『それじゃあ先生に対してのケジメにはなりゃせんだろうか』
宥めるような穏やかな口調で藤次郎に語り掛ける。
王仁の目が更に細められ、口角が釣り上がり、三日月の如く弧を描く。
『今週末、木更津組で食事の会合がある。そこで今後の組の立ち回りを話し合い、その後は女だ』
『……』
『そこで、アンタの言う『山折村の根源』について俺が口を滑らせちまったらどうなるだろうな?』
『――――ッ!!』
鷲掴みにされたのように心臓が激しく脈打つ。
山折村の根源。それは怨敵である前村長すら知らぬ絶対的な禁忌にして山折村を終わらせる劇毒。
根源を知りうるものは藤次郎の知る限り、今現在までは二名。己と―――。
『落ち着けよ先生。アンタにはもう一つの選択肢がある』
『――――』
『今度の会合、女が集まらなくてな。岡山林業勤めの虎尾さんのご令嬢……アンタの孫と一緒に可愛がっていたよな?』
もう一方の選択肢も最悪のもの。己が理性では差し出せと囁くが、育んできた愛情が、信じてきた正義が、それを拒む。
立ち尽くす咎人へ向けて、断罪者は冷え切った声で選択を迫る。
『これがケジメだ。今選べ、八柳藤次郎』
『……ッ!』
『選ばんかったら山折村も虎尾茶子も己の孫も全部終わらすぞ糞爺!!』
孫も含めた全てを捨てるか、村そのものを滅ぼすか、愛弟子を贄として差し出すか。
藤次郎の理性(こたえ)は既に決まっていた。
『先生よぉ、アンタは謀には向いてねえ。棒振り遊びをするだけの猿であれば良かったんだ』
帰り際、藤次郎の背中に木更津王仁の侮蔑しきった声がかけられる。
その日の夜、下校途中に虎尾茶子は連れ去らわれ、穢された。
◆
時は流れ、孫の哉太が都内の進学校へ通うために上京することが決まった。
その前日、彼と特に親しい仲であった少女――今は女性となった金色に髪を染めた愛弟子が一人、道場で花束を作っていた。
『……哉太へ贈るのか?』
『そっす』
『ここで作らなくても良いだろうに』
『うち、今はリフォーム中っす。親父とお袋は麓のホテルで仲良くしてます。あたしは最後だし、哉くんの部屋に泊まる予定です』
『……哉太ももう一人の男だぞ』
『大丈夫っすよ。あの子は童貞拗らせていてもヘタレだし。あたしも手を出す気はまだありませんよ』
軽口を叩きながらもせっせと花束を作り続ける。
飾られる花の名前は何か、と問う前に茶子が口を開く。
『この白いのはマーガレット。こっちの黄色いのはヒヤシンス。ピンクがコチョウラン。そんでコチョウランと色が被るけれど、こっちはヴィオラ』
『それでこれは随分と可愛らしい向日葵だな』
『割と高かったんすよ、季節外れのものが多いし』
遂に完成した花束を前に茶子は満足気な笑顔を浮かべる。
茶子の作品は花について疎い藤次郎から見ても見事な出来栄えであった。
花束を覗き込む藤次郎に茶子は気づく。
『……今度、先生にもプレゼントしましょうか?花束』
『……いいのか?』
『日頃お世話になってますし、あたしからの気持ちを込めて作ります』
儂にそんな資格はない。何も知らぬ茶子にそう言いたかったが、彼女の古傷を抉るのを躊躇う。
己が咎の身代わりで受けた娘。孫娘のように可愛がっていた彼女は、昔と変わらぬ笑顔を向けた。
『……先生、アンタは正しいやり方をした』
道場を出る前に背中にかけられる茶子の言葉。その言葉に思わず振り返る。
月から差す光に照らされる愛らしく美しい茶子の顔。それはまるで能面のように無表情だった。
後日、茶子から笑顔と共に色とりどりの花束を手渡された。
妻に花の種類を聞く。飾り付けられた花の名は待雪草、三枚葉の白詰草、狼茄子、赤薊。
『あの子、花言葉についてはまだ知らないみたいね』
苦笑する妻に藤次郎は首を傾げる。
そして翌年の藤次郎の誕生日に、茶子は花蘇芳の苗木が贈ってくれた。
◆
「お世話になりました」
この場にはいない、大和あい媼に向けて一礼する。
朝餉の後、藤次郎は申し訳なさを感じながら備え付けてあった箪笥を漁り、着替えた。
現在の服装はYシャツにスラックスのスーツ姿。村の会合など重要な行事に参加する時の衣装。
これから先どうするのか。答えは既に出している。
一切鏖殺。その指針に変わりはない。
無垢である孫も。己が咎の代償になった愛弟子も。全てを斬る。
既に虎尾茶子の両親も、八柳哉太の両親も切り捨てている。
あの時、山折村を終わらせる選択肢を取らなかった後悔は拭えない。
せめて今、地獄の蓋が開かぬようにするために穢れなき魂を滅ぼす。
虎尾茶子も、八柳哉太も命のやり取りは知らぬ。
哉太は性格故に自分を斬る決断をするのは万に一つしかないであろう。
茶子は己と同様に悪を憎む正義感として育てた。しかし、真っ直ぐな性格故情が厚く、背後からの闇討ちなどせずに己を説得しようとするだろう。
故に、最大の難敵は沙門天二と見極める。
逃げられた小田巻女史も、命の狩人たる特殊部隊員も全て。何一つ残さず。
山折村に最後に残った悪鬼を斬るまでは止まらぬと決意する。
だが、八柳藤次郎は所詮井の中の蛙に過ぎぬ無知蒙昧の老人に過ぎない。
藤次郎は知らぬ。八柳哉太の心は幼き日のままではないことを。
藤次郎は知らぬ。自分の想いこそ山折の歪みの一部になっていることも。
藤次郎は知らぬ。己の祈り(ゆがみ)は哉太には継承されず、贄として差し出した弟子に継承されていることを。
藤次郎は知らぬ。虎尾茶子は山折の歪み、藤次郎の罪科を藤次郎以上に知り尽くしていることを。
藤次郎は知らぬ。愛弟子が贈った花の意味を。
夾竹桃と赤薊が咲き乱れる山折の道を咎人は一人、征く。
【B-5/森林地帯・民宿やまと前/一日目 朝】
【
八柳 藤次郎】
[状態]:健康、スーツ姿
[道具]:藤次郎の刀、ザック(手鏡、着火剤付マッチ、食料、熊鈴複数、寝袋、テグス糸、マスク、くくり罠)、小型ザック(ロープ、非常食、水、医療品)、ウエストポーチ(ナイフ、予備の弾丸)
[方針]
基本.:山折村にいる全ての者を殺す。生存者を斬り、ゾンビも斬る。自分も斬る。
1.出会った者を斬る。
2.小田巻真理を警戒。
最終更新:2023年05月08日 22:12