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地獄が現世に顕現したようなあの悪夢の一日から、一体どれくらいの月日が経ったのだろう。
季節は真夏、盆の時期だろうか。
窓から差し込む陽光に顔を照らされ、むくりと起き上がる。
目覚まし代わりに脳を揺さぶるのは、街を覆い尽くすほどのけたたましい蝉の鳴き声だ。
シャツ一枚パンツ一丁でベッドからよろよろと出て、時計を見る。
具体的な時刻は記憶に残らなかった。もう昼過ぎだなと理解しただけだ。
灼熱の陽光がコンクリートへと降り注ぎ、陽炎のように空気がゆらゆらと揺れている。
網膜に映るのは、安アパートの一室。
洗濯籠に突っ込んだだけの衣類に、吊るしたままの洗濯物。
ベッドから半分ずり落ちている敷布団と、穴の開いたシーツ。
流し台に突っ込まれたままの皿と箸。
適度に埃の溜まった棚に、ゴミ箱代わりにしている40Lの指定ゴミ袋。
充電率100%のスマホと、スリープ状態で放っておかれたPC。
割り箸の立てかけられた空のカップ麺と缶ビール、それと半分ほど入ったコーヒー牛乳。
机の上に整理しているようで半分ずり落ちたネタ帳の山と、乱雑に置かれた風俗店の名刺。
そして高価故にこれだけはしっかりとメンテナンスをおこなっている取材機器。
どこからどこまで見ても、見慣れた自室だ。
何の変哲もない、かけがえのない日常だ。
失いかけて、その貴さがはじめて分かる。
自分は、今こうして生きている。
持ち帰った村の惨状は、贔屓にしてもらっている週刊誌や、SNSを火付け役に、
一気に大手マスメディアにまで広がり、海外メディアまでもがこぞって記事を打ち出した。
大手マスメディアも地方メディアもSNSも動画配信サイトも、連日あのゾンビパニックの話で持ちきりだ。
ネット記事に引用されている画像は、まさに自分自身があの村で撮影したゾンビたちの写真だ。
少年のゾンビが人間の死体を食い、自身も襲われたあの衝撃的な映像はテレビニュースで全国公開された。
時の内閣は責任を取って総辞職。
永田町の妖怪と言われた与党幹事長の野部も、自身の選挙区での不祥事ということで遂に辞任に追い込まれた。
人死にも出たために不謹慎ではある。
不謹慎ではあるが……必死こいて掴んだネタが世間を動かし、ついには倒閣まで至るというのはやはりライター名利に尽きると思うのも事実だ。
――本当にそうか?
――本当に自分のネタが世間を動かしたのか?
どうやって生き延びたのか。
靄がかかったかのように思い出せない。
まだボケが始まる年齢じゃない。
新型ウイルス後遺症のブレインフォグというやつだろうか?
ワクチンはしっかりと5回打ったはずだが。
「いや、思い出したぞ。自衛隊の救助部隊が来たんだったな。
そうだ、そうだ。迷彩の防護服を着た連中だった。
思えば、本当に運がよかったんだな……」
決定的なシーンを思い出せれば、そこをとっかかりに前後の状況も思い出せる。
消防車に乗り込み、そのまま西へ西へと消防車を走らせ、村の西端へと到達した記憶がある。
商店街から東にはゾンビの姿が見えた。
南は、銃声を聞いた方角に近くて行く気にはなれなかった。
北はゾンビだらけで論外。
そして西だけはなぜか一切ゾンビが存在しなかった。
何かの罠かと思いはしたが、消防車を走らせれば、診療所の駐車場まで楽に到達できた。
診療所の前の道を妖しい紅白の巫女がうろついていたが、あれがゾンビを浄化していたのだろうか。
だが、もはやゾンビだろうが神職だろうが、声をかける気力はもうない。
そもそも、剣を携えた人間に話しかけたところで、ロクな目には遭わないのは目に見えていた。
スマホのカメラで後姿を数秒ほど撮影し、それっきりだ。
その後は診療所で消防車を乗り捨てて、西側の山へと踏み入った。
消防署から拝借した地図に記されていた地元の人間しか知らないような道――ほぼ獣道といって差し支えない道なき道を進んでいった先で、
防護服に身を包んだ集団を見つけたのだ。
今思い返せば、間違いなく自衛隊だ。
だいたい、迷彩服の防護スーツに身を包んだ連中が自衛隊でなくてなんなのだ。
ゾンビパニックを抜きにしても、トンネル崩落が起こった。
救助のための部隊が送られてくるのは当然のことだろう。
そして彼らに助けを求めたはずだ。
そこから先の記憶はない。
記憶はないが……。
「夜通し走り回って、散々死ぬ思いをしたんだ。
そりゃ、緊張も途切れるわな……」
安堵と疲労で、身体が限界を迎えて、その場で倒れてしまったのだろう。
そして、無事に保護されて病院に担ぎ込まれたのだと推察できる。
自分は今ここで、生きている。これが事実なのだ。
もっとも、何があったのかは結局謎のままだ。
自衛隊が村に踏み入った以上、なんらかの結論は出たのだろうが、記者クラブに属してもいないフリーライターに真相はまわってこない。
それと、結局和雄から託されたおもちゃを直接渡すことはできなかった。
そもそも一色洋子が無事にあの村を脱出できたのかも不明だ。
ふと思う。
もしもの仮定でしかないが、バスで和雄に声をかけられなければ、何も分からぬままトンネルの崩落に巻き込まれて死んでいたのではないか?
逆に和雄におもちゃを託されたタイムラグがなければ、それはそれで前方で起こった崩落に巻き込まれて命を落としたのではないか?
そうなったらそうなったで別の行動をとっていたのかもしれないが、何もしないのも居心地が悪い。
こういうときは、風俗にでも行って下世話な話をしながら昏く沈んだ気持ちを発散するのだが……。
目の前で死なれたんだ、さっぱり忘れるのもそれはそれで気分が良くない。
「そういや、盆だったっけな?」
赤の他人。たった一日限りの縁。
けれど、墓参りくらいしてもバチは当たらないだろう。
今日の日付は思い出せない。思い出せないが、別に特定の日付でないと墓参りをしてはいけないなんてこともあるまい。
風景が切り替わる。
墓地の場所はすでに分かっていた。
そこに和雄の墓があることを確信して、すぐそばの墓地へと足を踏み入れた。
「あの子の住んでたところは、こんなに近所だったのか。
偶然もあるもんだな……ん?」
目当ての墓の前で、小学生くらいの女の子がお参りをしていた。
顔は見えない。陽光がきついのか、逆光なのか、顔に穴がぽっかりと開いたかのように認識ができない。
ただ、供花のための花を入れてるおもちゃ屋のビニール袋は見覚えがある。
「まあ、わざわざ声をかけることもないよな」
すでに墓参りは終えた後のようで、女の子は足早に立ち去って行った。
その先にいるのは母親だろうか。
彼女らが誰なのかは聞いてはいないが、そういうことなのだろう。
そう考えると、与田先生ご一行に晒した態度はあまりよくなかったな。
もし生きてたら、詫びの品でも持っていくか?
そんなことを考えつつ、目的の墓石の前まで移動する。
真新しい墓石には九条家之墓と刻まれており、花立には百合や菊の花が生けられていた。
そこに一本、いつの間にか持っていた菊の花を差していく。
全部捧げ終わったら、井戸から汲んだ水を水鉢に注いで、余った分は墓石の上から浴びせ清める。
義理を果たしたというとあまりに大袈裟だが、少しばかり罪悪感は薄らいだ気がする。
所詮は一日限りの関係だ。
生きているうちに、和雄のことはやがて記憶から消え、時折思い出すだけの関係になるのだろう。
だからこそ、今やっておかないといけなかったことだ。
ふと、隣に無縁仏の墓石群があることに気付いた。
墓地の向こうには、立派な消防署の建物が見える。
あのとき、殺害した消防団員のゾンビのことを思い返しながらもう一本、持っていた花を捧げる。
こんなところに埋葬されているはずもないことは分かっているが……。
そうしないと自分の気持ちが落ち着かないというだけだ。
「ううっ、さっぶ……。
夏ってこんなに寒かったか?
まさかゾンビの幽霊が俺を祟ってるなんてことはないよな?」
気が付けば、逢魔が時と言われる昼と夜の境目に差し掛かっていた。
ますますけたたましくなる蝉の声に、まるで異界へと迷い込んだような錯覚を覚える。
やることはやった。もう帰って寝よう。
アパートの扉を開けると、汚い部屋が出迎えてくれた。
やはり、ここが一番落ち着く。
「ただいま」
なぜか無性に言いたくなったその言葉を口に出し、ベッドへと倒れ込む。
今回はとんでもないことに巻き込まれてしまったが、自分はライターだ。
飯の種となる限り、書くのをやめることはない。
明日にはどこか別の場所で取材をするのだろう。
そして、読み流されたり、読者に叩かれたり、記事の内容がちょっとした騒ぎになったりしながら、毎日を過ごしていくのだろう。
夢のないしみったれたことを考えてしまったが、悪いことではない。
それが人生であり、明日を生きるということだ。
明日からはまた仕事を再開しよう。
まだ見ぬ記事が俺を待っている、なんてことを考える歳じゃないが、それなりに快適にやっていけるだろう。
そんなことを考えながら、目を閉じる。
目を閉じてしまえば、あとは吸い込まれるように眠りに誘われた。
今日は、いい夢が見られそうだ。
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通称、安眠香。SSOG隊員の南出耶衣梨だけが調薬できる非認可の睡眠ガスだ。
監視カメラに取り付けた装置から音もなく噴射される催眠ガスは、吸い込んだ参加者を即座に夢へといざなう。
SSOG入隊前、無人島でのサバイバルに心折れかけた彼女が、自分用に、とある薬草類からブレンドした。
糞ったれた現実から逃げ出すために作った『逃避』のための薬だ。
疲労は肉体を蝕む。
ストレスは精神を蝕む。
高山を越えて村外に脱出するという行為。
女王感染者を殺すでもなく、運命に抗うでもない。
この行為そのものが、自棄であり、心折れた証左である。
せめて夢の中くらい、いい思いをしたい。
すべてを忘れたい。
心も身体も弱り切った者が、三大欲求にはたらきかけ、睡眠の快楽へといざなうこの香に耐えられるはずがない。
人間は苦痛に耐えることはできても、快楽に抗うことはできないのだから。
夢の世界への一方通行。意志だけで後戻りする道はない。
そして、一度夢へと招かれれば、二度と生きて目を覚ますことはない。
間を置かずに追いついたSSOG隊員は脳に弾丸を食いこませ、ナイフで脳と心臓を分かち、確実に処理をおこなう。
山越えをしようとする村人を抹殺するだけならば通常兵器でも事足りただろう。
遠隔操作で発射可能なテイザー銃なども部隊には存在する。
だが、村人には異能がある。
どのような異能があるか分からない以上、ガスによる罠も設置されているし、画像認識による自動掃射が可能な銃器も設置されている。
斎藤拓臣は風景に溶け込む異能である。
サーモグラフィを付ければ位置は知れるものの、銃器やテーザー銃だけでは取り逃がしていたかもしれない要注意人物であった。
けれども、範囲に影響するのであれば、風景に溶け込む異能であろうが関係ない。
深い睡眠に由来する脳の休息は、拡張区域の活動すらも休止させ、異能の自律的な発動を防止する。
殺傷力の高い毒ガスもあるが、こちらは国際的に禁止された化学兵器にあたるため、事後処理工作も考えれば安易な使用はためらわれる最終手段だ。
その点、睡眠ガス程度であれば問題はない。同じく非認可ではあるが。
持ち運びが仰々しくなる関係上、抹殺任務の隊員には持たせていないが、
広大な山々における逃亡を妨害する設置系の罠として使う分には問題ない。
三籐探による人間心理のプロファイリングと、五十嵐フジエによる地の利を活用し割り出したポイントへの罠の設置である。
逃亡者を取り逃しはないし、万が一切り抜けたところで、待っているのはSSOG隊員による追撃だ。
故に脱出は最初から不可能であった。
拓臣の活動を停止させた隊員は、その亡骸へと近づく。
処理終了のダブルチェックである。
見た目だけであれば確実に死んでいる。
だが、擬態をおこなうような応用が為されていないとは言い切れない。
そのためのチェックである。
体温。脈。物理的な接触による、そこに死体があるという確認。
「ターゲット、活動停止を確認」
「同じく、活動停止を確認。擬態の可能性もなし」
「ターゲットの所持品を確認。複数の記録媒体を所持。
おそらく現地での貴重な記録と思われます。
すべて臨時作戦指令室へと送ることにしましょう」
「了解しました」
デジタルカメラ、ICレコーダー、メモ、筆記用具、スマートフォン、現金、その他雑貨、山折村周辺の現地地図。
貴重な現地からの記録媒体である。
拓臣の持ち物のすべては臨時作戦指令室へと送られた。
斎藤拓臣は何も知らないまま、自分が死んだことすら知らないままにその生を終えた。
けれど、彼が撮った記録はムダに破棄されることはなく、一コマたりともぞんざいに扱われることもない。
日本を裏から守る部隊の作戦行動の一助として、丁重に取り扱われる。
それだけが、最期まで鳴かず飛ばずであったライターへの手向けであろう。
【斉藤 拓臣 死亡】
※斎藤拓臣の所持品
デジタルカメラ、ICレコーダー、メモ、筆記用具、スマートフォン、現金、その他雑貨、山折村周辺地図
以上はすべて臨時指令室へと送られました。
最終更新:2023年03月09日 00:27