朝の訪れを告げる日の光は人のいない民家であろうとも差し込むものである。
音のない静かなトイレの一室にも窓より光が差し込み、光を浴びて埃が舞う。
そんな静寂を打ち破るように、突然便座の中からぬぅと手が伸びた。
その手は便座の端を掴むと、引き上げるように体を持ち上げた。
現れたのはトイレの妖怪などではなく、小太りの中年男だった。
男はトイレの下水から這い上がってきたという訳ではない。
男が現れたのは、便器の上に浮かぶ透明な檻の中からである。
異能『愛玩の檻』
能力者の歪んだ願望を世界に具現化した、愛玩物を決して逃さぬために閉じ込める檻。
そこから自由に出入りできるのは檻の使用者ただ一人だけである。
つまりは、そこから出てきたこの男こそ檻の主たる宇野和義だ。
檻よりトイレに這い出た宇野はゆっくりとトイレの扉を開いて隙間から慎重に外の様子をうかがった。
視線だけを泳がせひとまず異変がないことを確認すると、足音を殺しながら外に出る。
そのまま偵察がてら一通り家内を見回るが、既に全員出ていったのか人の気配はなさそうだった。
家の中に誰もいないことを確認終えた宇野は、改めてトイレに戻る。
妙に興奮した様子で頬を紅潮させながら便座を見つめていた。
何かを掴む様に手を出し、そして何かを壊すように手を握る。
瞬間。設置された檻が破棄されその中身が出現した。
それは人形のように華奢で可憐な少女だった。
ドレスの様にフリルの付いた赤い服から伸びる手足は陶器のように白く、赤い服も相まって彼岸に咲く花を思わせる。
保護欲を掻きたてる幼さの中に、女の色香と妖艶さを覗かせる、男を狂わすファムファタール。
彼女を見て狂わぬ雄はいないだろう。
他ならぬ宇野もまた、少女に狂わされた一人である。
あの日、草原で踊る少女を見た瞬間から、その心は侵略されていた。
逃げ延びた逃亡犯と言う稀有な立場を捨ててでもこの少女を手に入れたい。
そう思わせるだけの魅力が少女にはあった。
便座の上に現れたリンはすやすやと寝息を立てている。
檻に閉じ込められていたにもかかわらず大した度胸だ。
宇野は米俵よりも軽い少女の体をお姫様抱っこで抱え上げ、寝室にしていた2階の部屋に場所を移した。
優しく少女の体を布団の上におろして毛布を掛けると、改めて窓の外を見た。
遠目に見えていた争いも既に収まっているようである。
ふと見下ろせば、朝日に照らされる近場の道路にゾンビに食い散らかされた死体が一つ転がっていた。
痩せ細り食い荒らされ見る影もないが、服装からして閻魔だろう。
宇野がリンと共に身を隠してから、この家で何があったのか想像に難くない
残った二人が疑心暗鬼となって言い争いでもしたのだろう。
いや、もしかしたら争いあったというより、一方的な殺害だったかもしれないが。
状況を確認し終えた宇野は視線を室内に戻した。
そこにあるのは、かわいらしく寝息を立てる天使の寝顔である。
宇野の呼吸が荒げられ、だらしなく顔が綻ぶ。
少女に触れようと無意識に伸びた腕を必死で押しとどめる。
お楽しみは後でだ。
蜜月の時間は特殊部隊が村を焼き払うまでと限られている。
一刻も早く彼女を可愛がる玩具の揃った自宅へと辿りつかなくてはならない。
いつまでも寝顔を見守っていたいけれど、優しく肩をゆすって眠っていたリンを起こす。
「おはよう。リンちゃん」
「…………おはよう、ウノのおじさん」
目を覚ましたリンはかわいらしく「くぁ~」とあくびをしながら眠気眼をこすり周囲を見渡す。
そのままきょろきょろと首を振って、目当てのモノが見当たらなかったのか首を傾げた。
「あれぇ? エンマおにいちゃんたちは?」
いくら探せどそこに閻魔の姿はない。
当然だ。彼の死体は家の外でゾンビに齧られている。
宇野は優しい笑みを張り付けたまま、しれっとした態度で言う。
「閻魔様と月影さんは用事があるって先に行っちゃいましたよ」
「ええ~!? 先にいっちゃったの!?」
リンが驚きの声を上げた。
眠って起きてみれば頼りにしていた閻魔が自分を置いて出て行ったなどと、リンからすれば青天の霹靂だろう。
「おにいちゃんたちのようじってなに?」
「なんでも、忘れ物があるとかで取りに行ったみたいですね」
なんとも適当な言い訳であるが、リンは疑問を持たず「そっかぁ」とその言い分を受け入れた。
人を疑うという事を知らぬ純粋無垢さだ。
それこそが宇野が惹かれたリンの天使性であり、男の黒い欲望はその純粋さを都合よく利用する。
「けど、さみしいな……エンマおにいちゃんと逢いたいよ」
そう言ってリンが肩を落とす。
言い分には納得したが、その内容にまで納得した訳ではない。
リンにとって閻魔は自分を危機的状況から助けてくれたヒーローだ。
信頼していた閻魔が自分を置いて行ってしまったというのはリンにとっては悲しい出来事である。
そんなリンを慰めるように宇野がなでるように肩にふれた。
「大丈夫だよリンちゃん。閻魔様とは僕のお家で合流する予定なんだ」
「ほんとう!?」
「ああ本当だよ。だから一緒に僕の家に行ってそこで待っていよう」
「うん!」
喜びの声と共にパタパタと足音を立ててリンが廊下を駆けてゆく。
宇野は笑顔のまま、その背を見送り、ゆっくりとその後を追った。
閻魔が待っているなどももちろん嘘だ。
だが、リンにはまだ閻魔への執着が残っている。
宇野としては嫉妬心を煽られ心中穏やかではない話だが、無理にこれを否定して宇野から離れて閻魔を追うとでも言いだすのが最悪の展開だ。
そうならぬよう、閻魔を餌としてリンを釣り出す方向に話を変えた。
弾むような足取りで階段を降りてゆくリン。
だが、玄関の付近にまで来たところで何か違和感があったのか、その足が止まる。
下半身に気持ち悪さを感じてリンがスカートをたくし上げると、そこにはびしょ濡れになったショーツがあった。
小便に向かったトイレで檻に捕らわれ、ほとんど漏らすようにぶちまけてしまった結果である。
その感触が気持ち悪くて、リンはその場で下着を脱ぎ捨てるとポイとその辺に投げ捨てた。
2階から宇野が降りてきたちょうどそのタイミングだった。
「どうかしたのかい?」
「うんん。何でもない」
本当に何でもない様子でいうモノだから宇野もそれほど気にすることなくリンの脇を通り抜け玄関の扉を開いた。
先導するように宇野は表に出ると、さりげなく閻魔の死体が転がっている方向を避けるようにリンの視線を誘導する。
「それじゃあ行きましょうか、リンちゃん」
「うん! ウノのおじさんのおウチに行こう!」
二人は振り返ることなく、様々なパニックを生み出した家を後にした。
■
登り始めた朝日が目に入り虎尾茶子は目を細めた。
もうすっかり村は朝を迎えていた。
崩れた建物、どこか捲れ上がったような地面。
夜に紛れていた大地震の余波が徐々に露わになってゆく。
そんな中を彼女は情報収集のため、双眼鏡で見かけた民家に向かっている最中である。
役場で見た登記を思い返せば、確か最近引っ越してきた袴田さんとかいう変わり種の小説家の家だったか。
村に迎合するでもなく、住宅街からわずかに離れた場所に一軒家を構える辺り、家主の偏屈さがうかがえる。
別段その民家の家主に会いたいわけでも、そこ誰かがいる当てがある訳でもない。
なんとなく見かけたから向かっているだけである。
果たして、話の出来る正気な人間がいる可能性がどれだけあるのか。
茶子はこの事態の元凶たる研究所の関係者ではあるものの、どの程度の感染者が正気でいるのか派遣のバイトでは予測もつかない。
もしあの民家に話を聞ける相手が誰もいなければ、そのまま人のいそうな高級住宅街の方に移動する事になるだろう。
そんな無駄手間にならない事を祈りながら高級住宅街の方をちらりと見ると、そちらから歩いてくる影が見えた。
すぐにさっと身をかがめ、双眼鏡を取り出して影を確認する。
ズームを絞ってゆくと、双眼鏡のレンズに映ったのは見覚えのある顔だった。
山折村で農家を営んでいる宇野和義という男である。
地元農家と村役場の非正規職員。
建築関連の部署に努める茶子とは直接的な関わりがあった訳ではないが、宇野が役場に顔を見せた際には挨拶がてら雑談をする程度の顔見知りである。
妙にこそこそした様子だが、ゾンビや異常者に見つからぬようにすると言うのは状況を考えれば不審と言う程でもない。
接触すべきか無視すべきか迷う所だが、経験上顔見知りの地元住民だからと言って安全とは言い切れないのが辛い所である。
だが虎穴に入らずんば虎子を得ずと、ある程度のリスクを飲み込む決意をしたところである、接触はすべきだろう。
「ん?」
双眼鏡を覗いていると大柄な宇野の影にもう一つ小さな影が隠れていることに気づいた。
少女である。
こちらは見覚えのない顔だ。
年のころは10にも満たない、下手すれば小学校に入ったばかりの年齢に見える。
偶然現れたと言う子ともなく、どうやら宇野と連れ立っているようである。
こんな状況にもかかわらず妙ににこやかな二人の様子が気にかかるが、子供安心させるためと言うのならわからないでもない。
どの道接触するつもりだったが、子供がいると言うのであればなおさら無視できない。
茶子は身を起こすと、宇野たちの方へと近づいて行った。
「おはようございます。宇野さんじゃないっすか」
「虎尾さん、どうしたんです? ひどい怪我じゃないですか」
あえて身を隠さず正面から声をかける。
現れた茶子の様子を見て、宇野が驚きの声を上げた。
それも当然だろう、応急処置を施してはいるが血の滲む包帯で左手を固定されている状態だ。
見るも無残な酷い有り様である。
「ああこれっすか? 銃キチ刑事とちょっとありまして。宇野さんも気を付けたほうがいいっすよ」
「薩摩さんが? あぁ……」
銃キチで通じる辺り、流石は同郷の村人同士と行った所だろう。共通認識がある。
あの人がまさかそんな事を……とはならないあたり然もありなん。
むしろいつかやると思っていたというのがこの村の住民の総意であろう。
「それで、宇野さんはどちらに向かわれるおつもりなんっすか?」
「自宅の方に向かおうかと、夜の散歩中に地震に出くわしてしまったもので、家族も心配ですし」
「なるほど。確かにご家族は心配でしょう。けど、確か宇野さんのご自宅も古民家の方でしたよね?
あたしもそっちから避難してきたんっすけど地震で建物が崩れて近づくのは危険っすよ?」
「そうかもしれないですねぇ。けれど行かない訳にはいかないですから」
自宅に向かうと言う宇野の決意は固いようだ。
ひとまずの忠告はした。ならばこれ以上茶子が止める理由もない。
それよりも気にかかるのは。
「ところで、そちらのお嬢さんは? 見ない顔っすけど」
茶子の視線が宇野の脇に佇んでいた見覚えのない少女を指す。
少女の事に触れられた宇野はあたかも今気づいたような何かを誤魔化すような仕草を取った。
「あぁ……彼女はこの場で出会ったリンちゃんと言う子で、こんな状況ですし子供が一人でいては危ないですから同行してるんですよ」
「ああ、そうなんっすね」
「あまり知らない人が話しかけては、リンちゃんが怖がっちゃうのでご勘弁を」
咄嗟に宇野は自らの大きな体でリンを遮るように立ち位置を変えた。
宇野としてはリンに下手なことを話させるのはよろしくない。
だが、そんな宇野の事情など茶子が構うはずもなく、ひょいと宇野を避けて、目線を合わせるように屈みこみリンへと話しかける。
「そうですか? 人懐っこそうな子じゃないですか、ねー? リンちゃん。あたしは虎尾茶子だよ。よろしくね」
「うん。リンだよ! よろしくね、チャコおねえちゃん!」
少女たちが元気よく挨拶を交わす。
仲良く笑いあう少女たちの姿は、一見すればほほえましい光景だが、それを見た宇野の心に広がるのは焦燥である。
極上の餌を目の前にしてお預けを喰らって涎を垂らす犬のようでもあった。
今の宇野にとって茶子は獲物を掻っ攫おうとする邪魔者でしかない。
念願のリンをようやく独占できたのだ。こんなくだらない会話は早く切り上げて目的地に向かってしまいたい。
だからと言って強引に会話を打ち切って不審がられても面倒になるのも避けたい。
そんな焦燥を抱えている間に茶子とリンは会話を進めていく。
「リンちゃんは村の外の子だよね? どこから来たのかな?」
「うんん。この村だよ」
思いもよらぬ返答に茶子が眉をひそめた。
近年の村長が行った政策により若者人口が増えたとはいえ、2000人程度の小さな村だ。
村の子供の顔など把握しているはずだが、リンの事は見たことがない。
茶子の中にある悪い予感が確信へと変わって行くが、その様子をおくびにも出さず質問を続ける。
「そうなんだ。リンちゃんのお家は村のどの辺にあるのかな?」
「うーん。よくわかんないけどお家はあっちの方だよ」
そう言ってリンが西の方を指さした。
「それって、山の近くの草原にあるお家?」
「うん。そうだよ」
茶子は役場の建築部に務めているだけあって、山折村の建築物は大方把握している。
住宅街から外れたその方向にあるのはヤクザ事務所と、隠れるように建てられた別荘が一つ。
その家の主の名は確か。
「――――――朝景礼治」
『少女性愛調教師』朝景礼治。
この村に巣食う多くの闇の一つ。
そう言った輩の居所を把握する事こそが、茶子が役場に勤める理由の一つである。
「あさかえれいじ! パパの名前だ!」
呟きにリンが大きく反応を見せた。
「朝景……さんが、リンちゃんのお父さんなの?」
「? 違うよ。パパはパパだよ。たまに訪ねてリンをかわいがってくれるの」
「かわいがる」
「ふだんは、みんなとちょーきょーしのおじさんと暮らしてるんだ」
リンに合わせて屈みこんでいた茶子が立ち上がり、その視線を宇野へと向ける。
剣呑な光を帯びた鋭い瞳に、宇野は思わず怯んでしまった。
「宇野さん。リンちゃんはあたしが預かります」
「え!? どうしたんですかいきなり!?」
突然の言葉に宇野は驚愕と困惑を隠せずにいた。
宇野からすればリンを他人に預けるなんてありえない話だ。
ようやく手に入れた天使。彼女が居なければ終わりが始まらない。
「この子は未成年略取誘拐、及び児童性的虐待の被害者である可能性が高いからです。
役所の人間として、いえ大人としてこの子を保護する必要があるからです」
つまり、この少女は朝景礼治の被害者である可能性が高い。
己が被害者である事すら理解できていない幼子。
これを放置しておくなど茶子に出来ようはずもない。
「いやいやいやいや。だとしてもケガ人にそんな、負担をかけられませんよ。僕がちゃんと責任もって預かりますから」
茶子の提案を慌てて否定する。
だが茶子としてもここは譲れない。
「ご心配なさらず、これでも八柳流免許皆伝。片腕でもゾンビ相手に後れを取ることはありません。子供一人くらいは守って見せますとも。
それにヒャッハーしてる銃キチ警官は行き過ぎにしても、災害直後って犯罪率が上がる物なんですよねぇ。
そんな中、男一人で幼女を連れまわすっていうのも、ほら、危ないじゃないですか」
性被害にあったかもしれない児童を男と一緒に行かせるのは不安であると言外に述べていた。
「それとも、どうしてもリンちゃんを連れていきたい理由でもあるんっすか?」
「それは…………」
問われ宇野は口ごもる。
リンを連れて行く茶子に同行すると言う手もあったが、自宅に向かうと言った以上今さら目的を撤回はできない。
かと言ってリンを自宅に連れて行く合理的な理由もない。
なにせ本当に性犯罪が目的なのだから、堂々と言えるはずもなかった。
「……ケンカしてるの?」
不安そうな顔をしたリンが割って尋ねる。
子供というモノは不穏な空気に対して敏感だ。
「リンちゃんの前でこう言う話をするのもなんですし、場所を移しましょうか」
「そうですね」
宇野から提案はもっともだ。
自覚のない被害者にお前は被害者だと突きつける様な真似をするのは茶子としても本意ではない。
「ではあちらの方に、リンちゃんは少しだけそこに隠れて待っててね」
「うん?」
ひとまず、事態をよくわかっていないリンを安全な場所に置いて、茶子と宇野は市街地の方へと向かってゆく。
流石にゾンビがいつ来るとも分からぬ状況で幼女を置いて遠くまで離れるつもりはない。
話し声が聞こえない程度の距離まで離れれば十分だろう。
「それで、宇野さ、」
住宅街の一角に入り、茶子が宇野を振り返る。
瞬間。
その眼前に鋭い刃の先端が迫っていた。
戦場において人を撃てる兵士は15~20%しかいないと言う調査結果がある。
人を傷つけるにはハードルがあり、戦場と言う異常な状況においてもそれを乗り越えられる人間は非常に稀だ。
そして何のことない日常生活においてそのハードルを容易く超えてしまえる異常者も確かに存在する。
5件の拉致監禁及び殺人犯。
宇野和義は間違いなくその異常者の一人だった。
人を殺すという一点において、躊躇いがないと言うのは大きな強みである。
戸惑うように狼狽える様子を見せながら、茶子の後をついて行く宇野は半身にした後ろ手を自らの腰元にやっていた。
その腰元には民家より拝借した、雑草を刈るための物であろう、鎌が隠し持たれていた。
そして市街地に入って、リンからの死角となった瞬間。
農家にとって使い慣れた武器を、何の躊躇いもなく茶子の脳天に向けて振り下ろしたのである。
正しく雑草を刈るがごとく、人間の頭部を柘榴と裂く一撃はしかし。
「分かるんすよねぇそう言うの」
逆手に構えたサバイバルナイフで受け止められた。
宇野和義が生まれながらの先天的な異常者であるならば。
虎尾茶子は怒りと憎悪を燃料とし、狂気の域に至る程の鍛錬によって生まれた後天的な異常者だ。
ここまでのやり取りを経て、茶子の宇野への疑いは確信へ変わっていた。
少女に向けられる男の情念。受け入れるしかない弱い存在を喰い物にする腐れ外道。
自らに向けられたそういうものを茶子は多く見てきた。
その全てが彼女にとって唾棄すべき吐き気を催す邪悪である。
今の茶子は手傷を負って絶不調な状態である。
片腕は動かず、まともに戦える状態ではない。
だが、それがどうした。
少女を食い物にするような悪鬼羅刹を斬り捨てるために剣を取った。
喰われるだけの兎ではなく、捕食者を刈る虎になるために。
もう負けないように、その為に鍛え続けてきた。
茶子だって清廉潔白という訳でもない。
青い青い青少年と違って、正義感なんて掲げる年でもない。
自分が助かるためなら、女であるというだけで欲情するような男なんて、見捨てる事も厭わない人でなしだ。
だが、そんな人でなしにも譲れない信念はある。
あの子は自分だ。
強い大人に媚び諂わねば生きていけない弱い子供。
そんな過去の自分を救うために強くなった。
それを見捨てるくらいなら死んだほうがましだ。
鎌を防ぐ逆手持ちのナイフ。
宇野は知らぬ事であろうが、それは八柳流には存在しない構えであった。
茶子は受け手を滑らせそのまま柄頭で鳩尾を打った。
反吐を吐いて下がった頭部に向けて、打ち上げるように降りぬいたナイフで顎下を切り裂いた。
防御、崩し、攻撃を一連の動作で行う反撃技。八柳流・登り鯉。
薩摩相手に炸裂するはずだった技である。
本来であれば崩しは刀を持たない肘鉄で行われるのだが、左腕の利かぬ茶子はこれを刀の柄頭で打つ事で補った。
八柳流をそのまま使うのではダメだ。それでは赤点の動きしかできない。
ゾンビや素人相手に遅れをとることはないが、それ以上を相手取るならその先が必要だ。
八柳流を左腕が動かないことを前提とした技に再構築する。
それは変則技の域を超え、片腕というオリジナル。
ならばもはや八柳流に非ず。
「これはもう、虎尾流創設しちゃおっかなー?」
だが、完成にはまだまだ程遠い精度だ。
片手故に取り扱いやすさを優先して長柄の武器ではなくナイフを選択したためだろう。
本来は顎下から頭部を割る技であったのだが、顎先を裂くにとどまっていた。傷は浅い。
一代にして己が流派を完成させた八柳流も、道場での棒振りで完成させた流派だ。
虎尾流は実戦で鍛え上げてゆくしかない。
この状況であれば練習相手には事欠かない。
実戦の中で八柳流以上のものに仕上げてみせる。
「ケツ顎になって男前が増したじゃないっすか、宇野さぁん」
「う…………ぐっ」
ボタボタと血が流れる顎を抑えている宇野を煽る。
宇野は悔しさを噛み殺すように奥歯を鳴らした。
月下で踊る様を草原で偶然見かけたあの日から、宇野の心を捕食した姫(プレデター・プリンセス)。
このままでは、ようやく手にした念願のリンを奪われる。
これは宇野にとっての終活である。
VHが発生した時点で自身の命はあきらめている。
死は恐ろしくはない。
それよりも恐ろしいのはこの愛が成し遂げられぬこと。
宇野にとって監禁は愛だ。
過去の拉致監禁殺人だって愛した結果、相手が死んでしまったというだけだ。
この愛を成し遂げられぬなら死んだほうがましだ。
宇野が駆け出す。
茶子に向かってではない。
踵を返して向かったのは、高級住宅街の奥へである。
「逃がすか…………!」
片腕を固定した状態での全力疾走は走りづらさはあるが、小太りの中年相手を取り逃すほど鈍くはない。
駆け抜ける茶子の足取りは早く、一瞬で距離が詰まる。
追いつかれそうになった宇野が角を曲がって家同士の間にある路地へと逃げ込む。
だが悪あがきだ。すぐにでも追いつける。
そう確信した茶子が、同じく角を曲がったところで。
宇野を完全に見失った。
路地から宇野の姿は完全に消えていた。
障害物など何もないような路地だ、隠れられそうな場所もない。
何より、あの小太りの巨体をそう簡単に見逃すはずもない。
ありえない現象である。
つまりは。
「…………異能か」
常に警戒していたが、ここで使われた。
急に姿を消したと言うのなら瞬間移動の類か。
だが、本当にそうなら逃げると決めた瞬間、すぐに使えばいいだけの話だ。
わざわざ路地にまで逃げ込み発動したと言うのは気にかかる。
発動の瞬間を見られたくなかったとするならば、単純な瞬間移動と言う訳でもないのだろう。
そうなると何か罠の可能性もある。深追いをするのは危険か。
異能への警戒はし過ぎると言う事はない。
少女を魔の手から救えた、それだけでも良しとすべきだろう。
そう考え、茶子は宇野の後を追う事を諦め、その場を引き返した。
結果から言えば、その判断は正しいモノだった。
茶子が引き返したそのすぐ先。
そこにその透明な檻はあった。
そのまま進んでいれば宇野が待ち受ける透明な檻に囚われていた可能性は高いだろう。
檻に捕えてさえしまえば、敵は無力化する。
皮肉にも薩摩相手の苦い経験が彼女を救ったと言える。
檻の中に逃げ込んだ宇野は血の滴り続ける顎を抑えながら憎悪を燃やす。
付けられた傷などはどうでもいい。
許し難いのはリンとの絆を引き離された事である。
リンの所有権が閻魔の手元にあった時とは違う。
一度手に入れたモノを奪われたというのは耐えがたい苦痛だ。
愛に殉じるというのは死ぬまで殺り合うという事ではない。
茶子が剣道の有段者であることは元より知っているし、先ほどの攻防で正面からでは勝てぬ相手と分かった。
無謀に挑み死ぬのは違う。
いつか必ず成し遂げるという意思こそが愛に殉じるという事だろう。
絶対に、何としても、あの女からリンを取り戻すと誓う。
これは彼にとっての愛の誓いだった。
【D-4/『愛玩の檻』内/1日目・朝】
【
宇野 和義】
[状態]:顎に裂傷
[道具]:なし
[方針]
基本.リンを監禁し、二人でタイムリミットまでの時間を過ごし、一緒に死ぬ。
1.絶対にリンを取り戻す。
市街地よりリンの元まで戻ってきたのは茶子一人だった。
当然宇野の不在をリンが不審がっていた。
リンになんと説明すべきか、茶子はわずかに逡巡するが、そのまま説明することにした。
「宇野さんはね、キミを浚おうして悪いことをしようとしていたの」
大人の悪意にさらされていた事実を突きつける事になるが、無知であることが正しいとは限らない。
むしろ自衛のため知ることこそが彼女のためになるとそう信じた。
何より、この少女に自分の都合で嘘を付つきはくはなかった。
「ウノのおじさんはわるい人だったの?」
「ええ、そうよ。だからお姉ちゃんが追っ払っちゃった」
信じていた大人の裏切りを伝えられリンは少しだけ肩を落として落ち込んだ。
しかし、すぐに明るく表情を変えて顔を上げた。
「じゃあ! おねえちゃんはわるい人からリンをたすけてくれたの?」
「そうなるのかな?」
「そうなんだ……ありがとうね、チャコおねえちゃん」
そういって花のような笑顔を見せた。
その笑顔を見て自分は間違っていなかったと確信する。
「リンちゃんもう誰にも縛られる必要はない、何に媚びる必要もない、あなたは自由よ」
そう言って少女を、過去の自分を抱きしめた。
言いたかった言葉を、言われたかった言葉を投げかける。
茶子は助けたかった誰かを救えた。
それだけでよかったと思える。
「じゃあ、お礼をしなくちゃね」
「お礼?」
ちゅ、っと頬にキスされた。
かわいらしいお礼に茶子の顔が思わず綻ぶ。
だが、熱烈なキスの雨はそこで止まらず、徐々に口元へと移って行き唇が触れた。
これは少し行き過ぎじゃないか? とそろそろ止めようとした瞬間。
口内ににゅるりと舌が割り込んで粘膜を生き物みたいにくすぐった。
思わず茶子はリンの体を引きはがすように身を離す。
「なっ、にを…………!?」
「何って、お礼だよ?」
そう言いながら口元に唾液の糸を引かせたリンが首をかしげる。
「違う! そんなことをする必要はないのよ! あなたはもう誰にも媚びる必要なんてない」
茶子は悲鳴のようにヒステリックな叫びをあげる。
それを受けてリンは不思議そうなキョトンとした顔で首を傾げた。
「こびる? 違うよ、これはお礼だよ。チャコおねえちゃんもうれしいでしょう?」
「違うッ! どうしてそんな……」
言葉を失う茶子。
分からないからではなく、分かっているからこそ絶望が深い。
「だって――」
クスリと笑う少女から淫靡な女の顔が覗く。
貴族のような上品な所作で少女が自らのスカートをたくし上げると、縦筋のような未熟な性器が露になった。
「――――パパはこうしたら悦んでくれたよ?」
何の悪気もなく無垢な少女は言う。
差し出せるものは自らの体だけ。少女は他人の喜ばせ方などこれしか知らない。
そういうやり方しか人との繋がり方を知らないのだ。
他の方法など教えてくれる大人などいなかった。
その少女の在り様こそが何よりも茶子の精神を抉る。
そこにいるのは大人に気に入られようと媚びるように笑う過去の自分だ。
何も知らない純粋無垢なアリスだった頃の自分。
抵抗もできず汚い男どもに慰み物にされるだけの弱かった自分。
いや、抵抗するという選択肢すらない、ただ喰い物にされるだけの弱者だった頃。
否定したい自分。なかった事にしたい自分。
「……うぷっ」
突きつけられた心的外傷に茶子が吐き気を抑えるように口元抑え、足元をふらつかせた。
「どうしたの!? 大丈夫、おねえちゃん!?」
突然顔色を悪くした茶子に、リンが驚きスカートから手を放して駆け寄った。
過呼吸気味に呼吸を乱す茶子を落ち着かせるように優しく胸元に抱き寄せ頭をなでる。
「大丈夫。大丈夫だよ、チャコおねえちゃん。こわがらないで」
リンの異能『プレデター・プリンセス』
それは誰か一人を対象として自身に庇護欲を植え付けると言う無自覚な異能だ。
これまでその能力は木更津閻魔を対象として発動していたが、閻魔が死亡したことにより新たな庇護対象(ターゲット)を求めていた。
そして茶子の異能『リベンジ・ザ・タイガー』も少女と同じく無自覚に発動していた。
彼女の異能は自身に行われた精神干渉を無効化しその効果を相手へと跳ね返すという、絶対に心だけは誰にも侵されないという意識の具現化。
つまりは、互いに無意識化で異能を応酬していた。
その結果がこれだ。
「よちよち。安心してねチャコおねえちゃん。こわいものがあってもリンが守ってあげるから」
リンは茶子に強い庇護欲を覚え、未成熟な少女は母性を目覚めさせた。
取り乱す成人女性を落ち着かせるその様子はさながら聖母のようだ。
だが、それこそが茶子にとっての呪いである。
花のような無垢な笑顔は穢れていないのではなく、穢れを知らぬだけの毒花だ。
綺麗なのは花弁だけで、穢れた地面から養分を吸い上げた花は根本から腐っている。
二度とそうならないために、二度とそうさせないために。
その手を取るために茶子は強くなった。
誰にも負けない。
それこそ■■にだって負けないくらいに、強くなったはずなのに。
「チャコおねえちゃん、だいすき♪」
少女は笑う。
無垢なまま、穢れぬまま。
過去の自分を救いたいのであれば、その手を振り払うことはできない。
茶子は己が信念のために、この少女を守護らなければならなかった。
だからこそ、目をそらす事は許されない。
己を救わんとするならば己が心的外傷と永遠に向き合い続けることになる。
誰を救いたかったのか。
何を救いたかったのか。
その思いを置き去りにしたまま。
過去はどこまでも亡霊のように付きまとう。
【D-4/道/1日目・朝】
【
虎尾 茶子】
[状態]:動揺、左肩損傷(処置済み)、左太腿からの出血(処置済み)、失血(中)、■■への憎悪(絶大)
[道具]:木刀、双眼鏡、ナップザック、長ドス、サバイバルナイフ、爆竹×6、ジッポライター、医療道具、コンパス、缶詰各種、飲料水、腕時計
[方針]
基本.協力者を集め、事態を収束させる
1.極一部の人間以外には殺害を前提とした対処をする。
2.有用な人物は保護する。
3.未来人類研究所の関係者(特に浅野雅)には警戒。
4.■■は必ず殺す。最低でも死を確認する。
[備考]
※自分の異能にはまだ気づいていません。
※未来人類研究所関係者です。
【リン】
[状態]:健康、虎尾茶子への依存と庇護欲
[道具]:なし
[方針]
基本.チャコおねえちゃんのそばにいる。
1.やさしいチャコおねえちゃんだいすき♪
2.リンをいっぱいあいして、チャコおねえちゃん。
[備考]
※リンは異能を無自覚に発動しています。
※異能によって虎尾茶子に庇護欲を植え付けられました。
最終更新:2023年05月08日 22:12