ホルス【Horus】


古代エジプトにおける神の一柱。
ハヤブサの顔をした男神。あるいはハヤブサの化身。
オシリスとイシスの子であり、太陽と月の瞳を持つ天空神である。

右目の太陽(ラー)の目は破壊と殺戮を司り。
左目の月(ウジャト)の目は守護と再生を司り、全てを見通す知恵の瞳であるとされている。

外敵と戦う神として、国家の守護神として信仰されている。


地下研究所の実験準備室には地震の余波がまだ色濃く残っていた。
壁にはひびが入り、天井からは細かなほこりが舞い落ちている。

冷蔵庫や冷凍庫は倒れ、その中に保管されていたであろう特殊な試料や生体組織が床に散乱していた。
冷たい金属の床には破片や化学物質が散らばり、混ざり合った薬品から有毒ガスが発生している可能性もあるだろう。
部屋の隅にあるファンが異音を立てながら回転しかろうじて空気を入れ替えているが何とも心もとない。

そんな危険地帯となった準備室には昨夜の地震で多くの機器や装置が倒れて多くの死角が生まれていた。
その一つである大きな作業台の陰に、小田巻真理は身を隠していた。
こんな危険な場所に逃げ込んだのは、より大きな脅威から逃げるためである。

迫りくる鬼軍曹の影に迫られ、思わず目の前の実験準備室に逃げ込んでしまった。
だが、狭い室内に逃げ場はない。
こちらに気付かず通り過ぎてくれてと祈りながら、気配を遮断して息をひそめる。

小田巻の持つ気配遮断の異能。
この異能をもってすれば追手が獣染みた野生の勘を持っていてもやり過ごせる。
階段の方に逃げ出した研究員の方を追ってくれれば、小田巻を襲った嵐は去るのだが。

ドカン、と。

その願いを淡くも打ち砕くような轟音が響いた。

「……………ッッッ!?」

思わず漏れ出しそうになった声を押さえる。
どこかの壁が破壊された音だ。
爆薬などではなく、純粋な物理破壊によって。
考えるまでもない、こんなことができるのはあの怪物、大田原の仕業だ。

壁を壊されたのは小田巻の隠れている実験準備室ではない。
音の位置からして、恐らく向かいの――確か会議室だったか――その辺りだろう。

だが、これは好機だ。
大田原が会議室の探索に向かっているのなら、今のうちに準備室から抜け出して逃げる事も出来るだろう。
神経工学研究室に戻って扉に吹っ飛ばされた天の救援に向かう、という選択肢もあるだろうが、天には悪いがこのまま階段から別フロアに逃げるのもありだと思う。
あんな怪物とまともにやり合っていられるか! 私は別フロアに逃げさせてもらう! と言うやつだ。
いや、これじゃ死亡フラグだな。

心の声にツッコミを入れながら、小田巻が身を隠していた作業台の陰からそっと身を乗り出した。
耳を澄まして壁の外の様子を伺いながら、脱出を試みようとした、ところで。

ドカン、と。
三度、地に響くような破壊音が鳴り響いた。
同時にひしゃげた扉が準備室の中へと剛速球のように飛んできた。
扉は部屋奥の壁に叩きつけられ、跳ね返って瓶の破片や残骸を弾きながら地面に落ちる。

神経工学研究室の時と同じだ。
大田原が拳で破壊したのだ。

だが、会議室の探索を終えたにしては早すぎる。
まるで手あたり次第だ。
普段の大田原では考えられない乱雑さである。

大田原が来る。
入り口をふさぐ巨大な鬼のような怪物。
サイズの小さい扉周りのコンクリート壁を、ビスケットで出来たお菓子の家みたいに壊していく
素手でコンクリート壁を破壊するなど、いつもの大田原を上回る怪物っぷりである。
そもそも体格も倍近くあるし、頭には角が生えていた。
どう見ても人間やめている。

小田巻が生き残るには、もはや大田原を殺すしかない。
だが、殺せるはずがない。
心情的な話ではなく切実かつ世知辛い実力的な話である。

――――――本当にそうか?

ビビり散らかす小市民小田巻真理とは違う。
頭の奥底にある兵士としての小田巻真理が問う。

よく考えれば、いやよく考えなくてもおかしい。
神経工学研究室や会議室もそうだが、実験準備室に鍵はかかっていない。
扉は普通に開ければいいし、標的を探しているのなら隠密行動を行うべきだ。
にもかかわらず、扉を開けるという当たり前の動作すらできずに、標的に居場所を知らせる愚かな行為を繰り返している。

そんな事をする必要がどこにある?

体格も膨れ上がり、身体能力は確実に強化されており、筋力は人間の領域を超えている。
見た目からして人の枠から外れている。
まるで理性のない戦うためだけの鬼だ。

常に心を動かさず任務を遂行するその冷徹さで効率的に相手を殺す。
大田原の恐ろしさは人類の極限とも言えるその合理性だ。

だが、今の大田原はまるで違う。
確かに今の大田原も恐ろしい。だがそれは獣や怪物としての恐ろしさだ。

これは強みではない。
明確な、付け入る隙だ。

――――――今の大田原であれば、殺せるのではないか?

小田巻が普段の大田原に挑めば10回戦っても10回負けるだろうが。
今の大田原ならば10回戦えば9回は普段以上に無残に惨殺されるだろうが。1回は殺せる気がする。

すっとと目が細まる。
呼吸は落ち着き、心音は限りなく平常に。
思考は鋭い刃のように一点に定まってゆく。

荒く息を吐く戦鬼。
圧倒的な強者は自身の存在を隠そうともしない。
その呼吸に合わせて、弱者は奇襲のタイミングを伺う。

気配遮断からの不意打ちであれば、確実に初撃は通る。
その一撃で殺せれば、それで終わりだ。

床に転がる薬品瓶の破片や注射針などまるで存在しないかのように、全てを蹂躙しながら戦鬼が進む。
準備室の片隅で息をひそめながら、小田巻は心中でその足音をカウントしていた。
その足音は果たしてどちらの破滅へのカウントダウンなのか。

そして、ついにその瞬間が来た。
大田原の歩みが近づき、巨大な足音が爆ぜる。
次の一歩が小田巻の潜む作業台を蹴り飛ばすように破壊したところで。
破壊された作業台の陰から、小田巻が飛び出した。

音も立てず、気配すらなく。
一瞬で大田原の懐に忍び込んだ小田巻は、自らの目線より高い喉元に向けて剣ナタを突き出した。

サクっと小気味よい音を立て、刃が喉に深々と突き刺さる。
小田巻はそのまま手首をひねると、刃を斜め下に振り抜いた。
パックリと切り裂かれた断面から、大量の血液が噴出される。

秒にも満たぬ一瞬。
瞬きの間に遂行された、完璧な暗殺だった。
だが、

「あ……………あれぇ?」

山のような巨体は不動のまま倒れず。
破裂した水道管のような大量出血も、すぐさま異常発達した筋肉の収縮により止血された。
そして血管の浮く赤い筋肉が蠢き、傷口が目に見える速度で再生を始める。

その余りに異様な様子に懐にとどまったまま固まる小田巻。
そんな小田巻を、血走った赤い瞳がギロリと見下ろした。

「あ……あの、痛かったですよね、へへっ」

愛想笑いを浮かべながら後ずさる。
だが、すぐに背後の壁に行き当たり、小田巻はあっという間に追い詰められた。
大田原は口端から涎と血をそれぞれ垂れ流しながら、歯軋りをしてゆっくりと距離を詰める。

「小ォォ田巻ィィィイイイイイイッ!!!」
「ひぃいいいいいいいいいっ!!! さーせんしたぁぁぁあああああああッッッッ!!」


アメリカ、ネバタ州。
ラスベガスから程遠い砂漠の村でその少女は生まれた。

その村は人口が100人に届くかという程度の小規模な村でありながら雑多な人種のあふれる村であり、少女は中国系の血を引くアメリカ人であった。
少女は世界は様々な人間の溢れるものなのだと幼いころから体感で理解していた。

砂に囲まれた村の立地や規模に見合わぬほど、多くの人間が訪れていた。
その中には砂漠に合わぬスーツ姿の人間もよく見られた。
彼らが何であったのかを少女が知るのは10歳の誕生日を迎えたちょうどその日であった。

その村はとある政府機関の実験場だった。
少女も知らず、その実験の手伝いをさせられていたのだ。
実験場で事故が起こり、村は壊滅的な被害を被った。

事件はアメリカの誇る世界最強の秘密部隊によって人知れず処理された。
元よりその村はそのために作られた地図にも載っていない村であり彼女の故郷は最初からなかったことにされた。

過去すらも失い、生き残りである少女は復讐を誓った。
二度と自分のような犠牲を出さぬという、この世の理不尽に対する復讐だ。
エージェントとしての道を選び、彼女は復讐の鳥ハヤブサの名を受け、ハヤブサⅢと呼ばれた。


「ずいぶんと外が騒がしいわね」
「気にすんな。今はあたしだけに集中してな」

通信室には浅からぬ因縁の女と女が二人きりで対峙していた。
特殊部隊員とエージェント。
平和な村にあってはならない裏の世界に生きる只人ならざる者たち。

「お熱い口説き文句ね。そんなに私と二人きりになりたかった?」
「ああ、氷の中に閉じ込められた時も、ずっとお前の事を思ってたぜ」

標的をどう殺すか。
ずっとそれだけを氷の中で考えつけ、殺意の炎を燃やしてきた。
ようやく、その炎を爆発させられる機会を得たのだ。

真珠は後ろ手に通信室の扉を閉じた。
望んだ一対一の状況だ。邪魔は入らせない。

自分の手で宿敵を仕留めたいという私怨も含まれていることは否定しないが、それだけという訳ではない。
一対一を望んだのは、もちろん合理的な理由もある。

足手まといがどうこうと言う話ではない。
腐っても特殊部隊だ、新人だろうと戦力としては申し分ない。
そうだとしても一対一の方が勝率が高い。

人数が増えれば必然的に戦場に偶然や淀みのような紛れも増える。
ハヤブサⅢはそういった紛れを生かすのが抜群にうまい。それこそ呼吸でもするように。
だからこそ、その紛れを無くすために一対一の状況を作るのは任務達成の絶対条件である。

「一応聞いといてやるぜ。お前、この研究所で何を調べてた? 何を知った?」

聞いたところで答えるはずもないのだが。
保育園での再現のように秘密特殊部隊隊員としての義務として一応尋ねる。

「――――――『Z』について」

だが、意外にも答えがあった。
その答えに真珠は首をかしげる。

「『Z』? んだそりゃ?」
「やっぱり、あなたたちは知らないみたいね」

戦闘において兵士は一日の長があるが、情報においては諜報員が先を行く。
諜報員と言う目と耳が得た情報を得て、指導者と言う頭が判断し、兵士と言う手足が実行する。
多少の違いはあれど、どの国でもそういう仕組みになっている。

この国の指導者は手足に伝えないと言う判断をしたのだろう。
武力でどうこうなる問題でないのだから妥当ともいえるが。

「調べてみなさい。真に救国の守護者でありたいのならね。
 その上で、私たちを殺すことが本当に正しいのか自分の頭で判断なさい。私のようになりたくなければね」

花子なりの忠告だ。
指導者の判断が常に正しいとは限らない。
花子自身、世界を救う妨害と言う今回の任務に疑問がなかったわけではない。

「知らねぇよ。テメェの頭で判断しろ? 誰に向かって言ってやがる。あたしらは上から与えられた任務をこなす、それだけだろうが」
「そう。ま、そういう奴よねあなたって」

わかっていたことだが、真珠は聞く耳を持たない。
頭の判断に疑問を挟まず実行する手足。
それが本当に正しいのかなんて疑問は呑み込んで然るもの。
そんな物は戦場では邪魔なだけ、少女のような甘い夢は童貞と共に捨てさるべきだ。
実行部隊としては実に理想的な兵士と言える。

「それ以上言うべき事がないのなら始めるぞ――――殺し合いだ」
「あら、話しを続けるのなら、付き合ってくれるのかしら?」
「はっ。んな訳ねぇだろ」

真珠は中段に拳を構えスタンスを広めに構えを取る。
閉じられた出口を塞ぐように位置取っており逃げ道はない。
戦う以外の選択肢はなさそうだ。

外から聞こえた声からして、最初に戦った特殊部隊の青年、小田巻と呼ばれた女、そして最強と名高い大田原。
目の前の真珠と合わせて、1人でも花子より強い一騎当千の特殊部隊が最低でも4人このフロアにいる。
なかなかに絶望的な状況だ。まともに遣り合えば、研究内の人間はまず間違いなく皆殺しにされるだろう。

「……どうしたものかしらねぇ」

余りにも大きすぎる課題を前にひとりごちる。
まずは目の前の強敵を乗り切らねばならない。


日本のごく普通の一般家庭に生まれたどこにでもいるような少女だった。
それなりに余裕のある裕福な家庭で、両親はボランティアなどの奉仕活動に熱心であり。
少女もそんな両親に習い誰かを助けることに喜びを覚える、そんな誰にでも好かれ活発な少女だった。

事件は発展途上国への活動支援のため国際ボランティアに家族で参加したときの話だ。
中東を訪れ、両親と一緒に現地の小さな村で医療支援活動に従事していた際、現地のテロに巻き込まれた。
両親を殺害され、少女はその後消息不明となる。

次に彼女の存在が確認されたのはそれから8年後。
中東の某国で反政府組織に所属する謎の日系人が確認された。
隣国との紛争により某国がごと解体されたことにより、その存在が明るみとなった。
国家解体の動きの一助にその日系人の活躍があったと実しやかに噂されている。

彼女は組織内で光の象徴であるハヤブサの名を冠し、ハヤブサⅢと呼ばれていた。


「くっ………………ぅう」

扉の破壊された神経工学研究室の中。
倒れた棚の下で乃木平天は意識を取り戻した。

何が起きた? 何分落ちていた?
戦況は? ハヤブサⅢの襲撃の結果はどうなった?
研究所に現れた大田原は? 小田巻はどこに行った?

次々と沸く疑問に混乱しそうになる頭を何とか落ち着けながら、心を落ち着け冷静に状況確認に努める。
まずは自分の上に乗っていた棚を両手に力を籠めて持ち上げる。

上半身がある程度自由になったところで横合いに歪んだ扉が転がっていることに気づいた。
どうやら自分の意識を刈り取ったのは、飛んできたこの扉のようだ。

巨大な拳大に凹んだ様子から、信じがたいことだが、殴って飛ばしたのだろう。
とても人間技ではないが、大田原であればあるいはと言ったところか。
だが、なぜ大田原がそんなことを? と言う疑問は拭えないが。

何者かに敗れ、小田巻によれば異能に目覚めた可能性もあるとのことだった。
ならば異能の副作用か。何らかの暴走状態にある可能性がある。
そうなると非常にまずい事態だ。
暴走する大田原など考えたくもない。

急がねばなるまい。
立ち上がった天は防護服に張り付く散らばったガラス片を払う。
防護服がなければ大怪我となっていたかもしれないが、幸いと言っていいのか目立った怪我はない。
飛んできた扉に打ち付けた肩が痛むが、行動に支障はなさそうだ。
慌てて部屋を飛び出すと足に当たった歪んだ扉が地面に転がりガランと音を響かせた。

廊下に出る。
だが、まずはどこに向かうべきか。
元の作戦行動に従い標的がいると想定される通信室か。
それとも、すでに戦場は移り変わっているのか。
状況がつかめない。

そう天が思案している所に、唐突に轟音が響く。
地下を震わす音の衝撃に、転がる扉がカタカタと鳴く。

幸いと言っていいのか、大田原の位置は分かった。
このような事が出来る人間など彼しかいない。
音からしてまだ戦闘は続いているようだ。

問題は、果たして、その相手が小田巻なのかハヤブサⅢなのかと言う点だ。
厳格に任務を守護る大田原は小田巻の存在を許しはしない。
立場上の上官である乃木平が間に入らない限りは確実に小田巻を殺すだろう。
乃木平が間に入ったとして暴走状態の大田原が聞き入れるかどうか。

どうかハヤブサⅢであってくれ、と祈りながら無人の廊下を駆け抜ける。
廊下にはまるでブルドーザーでも通ったようにひき潰されたゾンビたちの死体が散らばっていた。
角を曲がり扉の閉じられた通信室を通り過ぎる。急ぎ音の発信源と思しき最奥の部屋前まで駆け付けた

そこにあったのは、両脇には凄まじい力によって破壊された壁が二つ。
そして非常階段につながるであろう突き当りの扉の前には、無残にも食い散らかされた死体があった。
見る影もないが、衣服や頭髪の特徴からして碓氷だろうか。

そして崩れた壁から覗くその先に、鬼と見紛う巨大な男が立っていた。
はち切れんばかりに肥大化した筋肉。腕の太さと言ったら女性のウエストどころの騒ぎではない。
何より目につく頭部に生えた2本の角。明らかに人のそれから外れている。

だが、普段から怪物じみた印象だからだろうか。
変わり果てたその姿でも、すぐに大田原だとわかった。

その大田原に壁際に追い詰められているのは小田巻だ。
振り上げた拳に、今まさにトドメを刺されんとする瞬間だった。

「止まってください、Mr.Oak!」

土壇場の光景に、思わず天が静止の声を上げた。
だが、今の大田原は傍から見ても分かる程、明らかに暴走している。
とても声一つで止まるとは思えない。

豪と風を切り、小田巻の顔よりも巨大な拳が振り下ろされる。
「ぎぃゃあああと」汚い悲鳴が響く。
だが、その悲鳴が強制的に止められることはなかった。

振り下ろされた拳が小田巻の顔面を平らに均す直前で、ピタリと止まっていた。
動きを止めた鬼の首がギギギと油の切れたロボットみたいに動く。
もはや白目とも黒目ともつかぬ血走った赤い目が天を捕らえた。

脳を破壊された大田原は、本能に従っている。
彼にとっての本能、秩序という名の本能に。
彼は秩序を果たそうとするが故に、立場上の上官である天の命令に耳を傾けざるを得ない。

拳を引いた大田原は天へと向き直り。
確かめるような足取りで目の前にまで歩いてきた。
準備室の奥では小田巻が必死の形相で何とかしてくれと言う視線を送っている。

天がゴクリと唾をのむ。
生物として隔絶した絶対的な差。
よく飼いならされた猛獣を前にしているようだ。
理性では安全であるとわかっているが、気まぐれ一つで命を摘み取られる本能的な恐怖がある。

「ノギ…………ヒラ」

戦鬼が言葉を放つ。
張り詰めた糸のように、ギリギリで絞り出すようにその名が呼ばれた。
ゆっくりと巨大な手が天に向かって差し出される。
それが何かを手渡そうとしているのだと気づき、躊躇いがちに天も迎えるように手を差し出した。

「これは……………?」

手渡されたのは小さなスイッチだった。
それは大田原が自決のために用意した爆破スイッチである。

暴走した大田原の現状。首に巻かれた首輪。
説明はされずとも、それだけで天はすべてを理解した。

大田原は自らの命の手綱を天に預けたのだ。
任務から、あるいは秩序の守護者として逸脱したのならば殺せ。
これはそういうメッセージだ。

「うぅぅああああああああああああああああああああああああっっ!!」

そうして、スイッチと共に最期の理性を天に預けたのか、本能のまま戦鬼が叫ぶ。
研究所の地下2階に咆哮が木霊した。
その迫力は防護服越しにもビリビリと伝わってくる。

「ぎぃゃあああああああああああああああああああ!!!」

咆哮に入交り小田巻の悲鳴も木霊する。
完全なる秩序の戦鬼と化した大田原は標的も向かって攻撃を開始した。


イギリス秘密情報部、通称MI6。
彼女の祖父はそこに所属する一流のエージェントであった。
祖父は女王よりサーの称号を受けるほどの凄腕であり、父も母も一流の諜報員である。
そんなエリート一家で英才教育を受けた純粋培養のスパイ。それが彼女だ。

そんな尊敬すべき祖父に、ある日汚職の疑惑がかけられた。
そんなことがあるはずがないと、少女が一番よく知っていた。
少女はその汚名を晴らすべく働きかけ、それが祖父を狙う政敵による情報工作であると言う事実を暴いた。
学生の身分でありながら諜報員同士の情報戦を暴くという偉業。

その功績を称え、祖父は自らのコードネームを少女に受け継がせた。
ハヤブサの紋章を掲げるスパイファミリーの3代目。
コードネーム、ハヤブサⅢ。


閉ざされた通信室では、女の戦いが開始されていた。
激しく攻め立てるのは防護服に身を包んだ特殊部隊の女。黒木真珠。
武によって研ぎ澄まされた鉄の拳と脚が、所狭しと乱舞する。

打撃において拳の硬さは破壊力に直結する。
握力で固めた拳が鈍器となるように、鉄で覆われた真珠の手足は頑丈な鉄板すらも穿つだろう。
まさしく全身凶器である。

雑多で狭い通信室を縫うように、鋭く放たれるハイキック。
蹴り足は頂点でピタリと停止し、そのまま斧のように踵が振り下ろされる。
そしてダンと打ち付けるように振り下ろした足を弾みとして流れるように正拳が二発。

全弾がガードしたところで骨ごと砕く、受けることすら許されない必殺の連撃。
それら全て踊るように避けるのはスーツ姿のエージェントの女。田中花子、またの名をハヤブサⅢ。

その『眼』を持って打撃を見極め、先を読むように回避する。
烈火のような連撃は全てがかすりもしない。

だが、敵も超一流の狩人である。
避けられようが連撃の手は止まらず、むしろ徐々にその速度を増してゆく。
如何に観えていても、体捌きの差で花子は次第に追い込まれて行った。

そして膝を狙った押し蹴りからの、跳ねるような中段の回し蹴り。
それらを躱した所で、ついに花子は僅かにバランスを崩した。
それを勝機と見たか。真珠は弓のように大きく拳を引き絞ると、大振りの一撃を放つ。

豪快に風を切るスイングパンチ。
バランスを崩した状態でこれを完全に回避するのは難しい。

これに対して花子は僅かに横に移動するだけで行動を済ませた。
回避にもならない動き。
だが、その動きを見て、どういうわけか真珠が大振りで振るった拳を緩める。
その隙に花子は床を転がり、完全な回避を成功させた。

「チっ。相変わらず小賢しい真似をしやがる」
「巧い立ち回りと言ってほしいわね」

戦場となっているのは通信室である。
花子の背後には通信用のコンソールがあった。
当然ながらそこには通信機器や精密機械が並んでいる。

真珠はプロフェッショナルだ。
ハヤブサⅢの抹殺は彼女に与えられた至上命令ではあるが、それは達成して当然の大前提である。
彼女は優秀であるが故に、その先を無視できない。

この先の展開を考えれば、放送設備は残しておきたい。
通信の遮断を命じられたのならともかく、自らの独断で破壊するのは躊躇われる。

素手格闘を主体とする真珠であるが、鉄甲で固められた真珠の拳は威力が高すぎる。
掠めるだけでも通信機器を容易く破壊しかねない。

だからこそ花子はその状況を利用するように、精密機器を背負って盾にするように立ち廻っていた。
これで大振りな大技は打ち辛くなったはずだ。
そんな小細工を真珠は鼻で笑い飛ばす。

「はん。それがどうした? テメェを殺すのに大振りな技なんて必要ねぇ」

言って、真珠が構えを変える。
空手のような大きくスタンスを取ったか前から、拳をコンパクトに構えたボクシングスタイルへ。

トン、トンと。
リズムを取るようなステップ。
そこから真珠の左腕が閃光の様に瞬いた。

放たれるのは格闘技における最速の打撃技、ジャブ。
主に牽制を目的とした威力のない打撃である。
だが、鉄甲を装備した真珠のジャブは人を殺せるジャブだ。

マシンガンのように散打される死の閃光。
花子はそれをスウェイとバックステップによって紙一重で避けると、その隙間を縫うようにAK-47を構え弾丸を打ち返す。
真珠は撃ち込まれた弾丸を鉄甲の角度を調整して弾きながら、何かを納得したようにわずかに頷く。

「…………なるほどな」

乃木平から本部の予測は聞いていたが、保育園での戦いと今の動きを見て確信を得た。

「やはり――――先が見えているな。お前」

反応が良すぎる。
ジャブは見てから躱せるものではない。
予備動作から予測して躱すものである。

だが、今の動きはそのどちらとも違う。
予備動作を見てから躱すのではなく、予備動作の前に回避している。
未来でも見ていないとできない動きである。

「それを確かめたかったってこと?」
「ああ。敵の戦力把握は基本だろ?」

情報だけでなく自分の目で確かめる。
そうして初めて生きた情報になるのだ。
そして乃木平から聞いた成田の話によれば、数キロ離れた狙撃手の存在を捕らえたらしい。
豪華客船の時はそんな異常視力は持っていなかった。

「そしてお前の異能は目の異能だ。未来予知はその延長。
 つまり、お前が予知できるのは目に見えるものだけだ」

視覚を起点とした異能。
未来予知と言うのは確かに破格の異能だが。
能力が分かっていれば対抗策など馬鹿でも思いつく。

例えば音響弾のような目に見えない攻撃は有効な手段だ。
視力を起点とした異能である以上、目に映らない攻撃であれば予知の対象外となる。

「あら、見えない攻撃でもするつもり? 拳法家らしく気でも打ってくれるのかしら?」
「ま。遠当てもできなくはねぇが、実践的じゃあねぇな。なぁにテメェを攻略するにはもっと簡単な方法がある」

言って、真珠は重心を深く沈め開手に構える。
そうして、前傾姿勢のまま強く地面を蹴って。
アマレスもかじっているのか矢のように鋭いタックルが放たれる。
打撃だけではない、明らかに素人の域を超えた一流の動きだ。

打撃戦からの唐突なタックル。
確かに意表を突く動きだ。
だが、予知によってその動きは観えている。

その動きを予知した花子はタックルを切った。
後方に下がりながらそのまま真珠の肩に手を押し当て押しつぶすように体重を預ける。
だが、真珠は押しつぶされながら強引に滑り込むようにして手を伸ばし、花子の足首を取った。

そのまま足を引き寄せると、踵を握ってヒールフックの体勢に移る。
格闘技においても禁止されている危険な技だが、実戦に反則はない。
真珠は花子の踵を捻り相手の膝関節と靭帯を破壊にかかる。

だが、あまりにも強引な突撃であったためか拘束が甘い。
花子は完全に極まる直前で膝を抜いて拘束から抜け出すと、そのまま逆足で顔面を蹴る。
すぐさま身を引いて起き上がると、距離を取って離れようとするが、それを逃すまいと再度真珠がタックルを仕掛けてきた。

花子はその勢いを巧みに受け流す。
すぐに花子は反撃に出て後方に回り込むと腰に抱き着くようにして相手のバランスを崩そうとするが、真珠もまたバランスを崩さないように機敏に反応し花子の攻撃をかわす。

黒木が一瞬の隙を突いて反転すると、花子の腕を掴みフットスイープで足を掃く。
しかし、花子はその攻撃を予測していたように素早く体を捻って反撃に出る。
花子の脚が巧みに真珠の腕を絡め取り、アームバーの体勢に移行するが、真珠もまた素早く腕を抜き花子の攻撃を防ぐ。

凄まじい速度で展開される技の応酬。
マウントにでも持ち込むつもりかと思ったが、どうやら本気で寝技で戦うつもりらしい。

寝技は接触した状態での動きの読み合いだ。
体格と重量に差のない2人にとって、重要なのは感覚と触覚。そして積み重ねた技術と経験値だ。
こうなると視覚による未来予知は、無意味とまではいかないが、ほとんど関係がなくなる。

確かに、異能対策としては正しい判断だろう。
だが、打撃戦の優位を捨てたのは愚策のように思える。

真珠は打撃のスペシャリストだ。
打撃戦に限定するならば特殊部隊の誇るサイボーグ、美羽ですらその技術をもって沈められる。
いかに未来予知があろうとも立ち技の打撃戦では分が悪かったのは花子の方だろう。

だが寝技であれば互角の戦いに持ち込める。
まともに遣り合えば不利は変わらないだろうが。
高性能であろうとも全身を防護服に身を包んだ状態では動きが鈍る。
ましてや、固い鉄甲鉄足に手足を包んだ状態ではグランドの攻防で大きな不利となる。

激しいポジションの取り合いの末に、花子が上を取った。
正面から首にギロチンのように腕を通すと、クラッチして仰け反るように締めあげた。
頸動脈を圧迫するギロチンチョーク。これであれば防護服の上からでも締め落とせる。

この状態で警戒すべきはナイフや銃と言った武器による抵抗だが、そのような行為を許す花子ではない。
武器を取り出すような真似を許さず、そのまま背筋に力を込めて相手の意識を刈り取りに行く。
首を締めあげられた真珠の手が足掻くように花子の腹部に触れた。

腹部に固い感触。
鉄の拳が当てられる。

瞬間、体内で衝撃が爆発した。

密着状態から、花子の体が僅かに跳ねる。
床を転がり拘束状態が解かれ、距離が離れた。

「ゴホッ……あぁ、ようやく当たったな」

一つ咳払いをして、締め付けられた喉元を抑えながら真珠が立ち上がった。
真珠は打撃を捨ててなどいなかった。
狙いは最初から寝技などではなく、組み着いた状態からの零距離打撃。
すなわち寸勁である。

「…………最初から、そういう狙いだった訳ね」

花子は血の混じった胃液をまき散らしながら後方へ転がっていくと。
足に来ているのか、足を縺れさせ倒れそうになったところを背後のコンソールに手をついて体を支えていた。

真珠は喉元を押さえているが、ダメージはその程度だ。
対して花子のダメージは内臓に来ている。
ダメージレースでは圧倒的に真珠の有利だ。
最悪な事にこれは組み着かれた時点で防ぎようがない、真珠はこのまま同じ手を繰り返すだけで勝てるだろう。

「……まぁ予想通りではあるけど、一対一じゃこちらに勝ち目はなさそうね」
「潔いじゃねぇか。降参でもするつもりか?」
「そうね、それも悪くない」

わかっていたことだが、直接戦闘では勝ち目がない。
真珠と花子では戦闘力には大きな開きがある。
一対一に持ち込まれた時点で花子の負けだ。

「んなわけねぇだろ。テメェがそんなタマかよ。何を企んでやがる?」
「さて、何かしらね」

こんなところで潔く負け認めるような女ではないことは真珠が一番よく理解している。
何か狙っている。それは間違いない。
狙いがあるのなら迂闊に攻めるのは躊躇われる。

それとも何か狙いがありそうな素振り自体がハッタリなのか。
手札がブタでも、そういうブラフはお手ものだろう。
どちらの可能性は捨てきれない。
そう迷わすこと自体が時間を稼ぐ策なのか。

だが、この状況でそんな時間稼ぎをして何になる?
時間稼ぎは救援が望める状況でなければ意味がない。
むしろ救援が期待できるのは真珠の方である。
時間を稼いだところで花子に有利になることは何一つない。

あるいは別のフロアにいる仲間を逃がすための時間稼ぎか。
逃げ延びた白衣が合流して事態を知らせていればそれはありうる。
だが、真珠一人を足止めしたところで、他のメンツがフリーでは無意味だろう。

仮に、この時間稼ぎに意味があるとするのなら。
この場、この状況で使える何か、と言うことになるが。
そんな考えを巡らせながら、睨みつけるように観察をして。

「おい……何してやがる?」

花子が体で死角を作った後ろ手に、不審な動きをしている事に気づいた。
立ち上がるために手を突いたコンソールを操作している。

花子がこの通信室で通信画面を立ち上げた際に画面に通信ログ表示された。
その通信先の種別は三つあった。

本部との直通回線(Headquarters)。
村内への村内放送機能(Village)。
そしてもう一つ。

「特殊部隊の皆様ー! 正常感染者は通信室にますよー!!」

院内(Hospital)。
研究所内の研究員に連絡事項を伝えるための施設内への放送機能である。
地下研究所のB2フロアに花子の声が響き渡った。

その行為の意図が読めず、思わず真珠も一瞬呆けた。
そんな放送に何の意味がある?
だが、すぐさまその狙いに気づく。

瞬間。答えが来た。
その声に呼び込まれるように轟音が響く。

「なぁッ!?」
「正常ぉ感染者はああああ!! 処ぉお理するぅぅぅうぅうううううう!!」

正常感染者を殺す秩序の怪物が現れる。
隣室である認知神経科学研究室から、通信室の壁がぶち抜かれたのだ。

「さぁ、踊りましょうか。真珠」

二人きりの逢瀬は終わりだ。
混沌を引き込み舞踏会を始めよう。


南米生まれの日系三世。
彼女の生まれた街にはマフィアや麻薬カルテルが蔓延っており、警察はマフィアと癒着して完全に腐敗していた。
それに対抗する自警団のような民間組織も存在したがマフィアたちに対抗しうるものではなかった。
力なき一般市民は食い物にされるばかりで治安はもはや崩壊していた。

だが、ある日を境に地元のマフィア組織が次々と壊滅していった。
対立するマフィア同士が潰しあい、あるいは内紛により崩壊して、それと癒着する警察幹部も次々とその立場を追われていった。
それらの出来事を裏で糸を引く者がいた。

空を飛びまわるように情報を操り、的確に敵を追い詰める恐るべき情報兵。
地元の自警団をまとめ上げ、武力ではなく、情報を操りマフィアたちを崩壊させた。
杳として知れないその正体が10にも満たない少女であるなど誰が信じようか。

伝令役として3匹のハヤブサを操ることから彼女は畏怖と尊敬の念をもって敵味方からこう呼ばれた。
ハヤブサⅢと。


通信室と認知神経科学研究室の壁がぶち抜かれリフォームされた地下研究室。
戦場は壁を越え手狭な通信室から認知神経科学研究室へ場所を移していた。

地下深くにある研究者たちの楽園は、戦士たちが踊り狂う戦場と化していた。
全員が血の匂いが染みついた戦場を謳歌するものたち。
この領域に常人など一人もいない。

この戦場の中心に吹き荒れるのは触らば死する暴虐の大嵐だ。
それは脳の損傷と強烈な飢餓によって理性を失い、秩序という名の本能のままに暴れ狂う、大田原源一郎という名の戦鬼。
その標的となるのは正常感染者である花子と小田巻だった。

今の大田原は対象が目に入り次第に考えなしに襲い掛かるだけの狂戦士だ。
壁や地形すらも物ともせず突き進み、触れるだけで人を殺す。
人外染みたスピードとパワーで、純粋な暴力を相手に向かって叩きつける。

その圧倒的な暴力は標的のみならず、そうでない者にとっても十分な脅威だ。
暴の嵐に下手に巻き込まれればそれだけで死あるのみだ。
防護服を貫く攻撃を受けてはならないという制約以前に、まともに食らえば防護服の性能をぶち抜いて一撃死だろう。
故に、誰も下手に突っ込むことができず、嵐の中心には妙な空白ができていた。

その嵐の中心に自ら突っ込む者がいた。
特殊部隊の集結したこの場における唯一の例外。
エージェントである田中花子を名乗る謎の女。
彼女はハヤブサⅢと呼ばれていた。

彼女は台風の目の如く、そこが一番安全圏だと言わんばかりに大田原の懐に向かって自ら飛び込んでゆく。
死中に活を見出すにしても命知らずにも程がある。
とても正気ではない。

何より、特殊部隊の精鋭4人に囲まれ標的として全員に狙われている絶望的なこの状況で、いまだに生存している。
それだけでこの女の異常さは理解できるだろう。

そんな花子を仕留めんと一人の刺客が飛びかかった。
この地においてただそれだけの任務を愚直に追い続けて女、黒木真珠。
彼女は隙を見てハヤブサⅢに向かって攻め入ろうとするが、そこにすべてを吹き飛ばす勢いで鬼の巨体が割り込んだ。

「…………くっ」

周囲を巻き込むような剛腕が振るわれる。
巨大なその一撃に遮られて、たまらず真珠も身を引かざるを得ない。

これは偶然などではない、大田原が巧く使われている。
こうならないよう一対一を望んだのに。
真珠として最悪の展開だ。

花子は未来予知を駆使して大田原の攻撃から身を躱す。
威力も速度も大したものだが、巨体ゆえに機敏さがなく工夫もないため読みやすいし躱しやすい。
花子からすれば今の大田原よりも真珠の方がよっぽど厄介だった。

「処ぉ理するぅぅぅぅぅうううう!!」

獣の唸りのような声を上げ、暴走特急のように突き進む戦鬼の猛攻。
それをひらりと躱しながら、花子は徐々に立ち位置を変えてゆく。

「え、ちょ…………ッ」

その先にいるのは小田巻だ。
自らを囮に大田原を誘導していき、最後に入れ替わるようにターゲットをスイッチさせる。

自分が標的になったことに気づいた小田巻は戸惑いながらも咄嗟に構えたライフル銃で迎え撃つ。
血の弾丸が、巨人の脚を貫くが進撃は止まらない。
恐るべき圧力と共に突進して、首ごと持っていくような腕を振るう。
小田巻は悲鳴を上げながらも転がるように身を躱して難を逃れた。

小田巻も名目上は天の指揮下に入りハヤブサⅢの討伐に加わっているが、他の隊員と違い正常感染者である彼女は秩序の鬼の標的でもある。
正直、戦っている場合ではない。
自分の生存が最優先、この場では逃げの一手だ。

という訳で、現場をほっぽり出して逃げようかと目論んだところで、足元に銃弾が撃ち込まれた。
バララララと、MP5によって張られた弾幕を小田巻はタップダンスのような足踏みで避ける。
花子の妨害だ。

「あら? 12時にはまだ早いんじゃなくって?」
「用事があるのでお構いなくぅぅううう」

まだ舞踏会から立ち去られるわけにはいかない。
花子にとってターゲッティングを分散させる小田巻の存在は生命線だ。
花子が行っているのは異能を使ったペテンのようなものだ
あのスペックで狙われ続ければすぐに追い詰められるだろう。

弾幕に足を止めた小田巻に大田原が迫る。
とどめを刺されんとするその直前に、横合いから大田原の頭部に弾丸が撃ち込まれた。

「ほらほら、鬼さんこちらっと」

同時に殺されるわけにもいかない。
適度なところで太田良らにも銃弾を撃ち込み自分にヘイトを向ける。
常に全員が動き回り流動する戦況を完全に彼女がコントロールしていた。

彼女はこの戦場で常時に未来予知と言うエンジンをフル回転させ続けていた。
焼きつくように脳と目の奥が熱を帯びる。
だが、止めるわけにはいかない。

彼女を攻略するにはこの異能を攻略する必要がある。
そして、その攻略を目指すものが一人。
戦場の中心が大田原なら、戦場の大外にいるのが特殊部隊側の指揮官である乃木平天だ。
天は全員の動きを把握できる一歩引いた位置にあえて身を置いていた。

ハヤブサⅢの意識は大半が大田原に割かれている。
後の意識は逃げようとする小田巻の足止めと、自分を狙う真珠の対応に振っていた。
そこから天は浮いている。その状況を利用する。

大田原を利用する動きを見せる標的の更にその先を読んでクレバーに立ち回る。
敵の視界から逃れるように回り込み、予知の範囲外である死角へ。
戦場の中心である大田原の動きに合わせ、その背後から花子を銃で狙撃した。

だが、花子は天に一度の視線もやることなく、予知不可能な背後からの銃撃を避けた。
必要最低限の動きで完璧に、それこそ未来でも予知していたかのように。
未来予知、推定される彼女の異能。

だが、それだけは足りない。
視覚を起点とする異能である以上、死角からの攻撃は避けられないはずだ。
それを躱した以上、何かを見誤っている。

何を見誤っているのか。
その答えを求めて天は敵の姿を観察する。
すると、すぐにその変化に気づいた。

太陽と月の瞳。
戦場で踊る女の瞳に変化が生じていた。
左目に月、右目に太陽の文様が浮かぶ。

その異能の名は『全てを見通す天の眼(ホルス・アイ)』
天空神の名を冠す知恵の眼。
彼女は天空から見下ろすかの如き視界を得た。

人間の視界を超えた俯瞰の視界。
彼女には戦況のすべてが観えている。
そうでなければこの戦場をコントロールすることなど不可能だ。

だが、ありえない視界を得たところで、常人であれば常と異なる視界に混乱するばかりだろう。
その視界に瞬時に対応して駆使していることこそが、この女の異常性だ。

天空神の瞳が戦場を見渡す。
大田原は小田巻を狙って猛攻を仕掛けており、小田巻は逃げ腰の体勢で逃げ回っている。
堂に入った逃げっぷりだ、後5秒くらいは持つだろう。

天は少し離れた位置から様子を伺っている。
こちらの変化に気づいたようだ。だが詳細まではつかめていない。
いくつかの推論を立て、確認と確証を得ようと動くだろう。

真珠は変わらず、ただひたすらにこちらを仕留めんと向かってくる。
この場において一番厄介な相手だ。
そんな真珠から逃げるように花子は跳ぶように地面を蹴った。

その先にいるのは大田原だ。
隙を晒して自らに近づく標的に反応して大田原が反応を示し、それが真珠の攻撃を遮る壁となる。
真珠は強く舌を打ち、花子を殴りつけるはずだった拳をそのまま大田和の脇腹に叩きこんだ。

分厚いタイヤのような感触。
だが、その奥で確実に骨を砕いた手応えがあった。
特殊部隊最強の拳だ。真珠の鉄拳はこの怪物にも十分に通じる。

「さすがに邪魔だぜ、大田原サンッ!!」

真珠の目的はあくまでハヤブサⅢの抹殺。
その障害となるのであれば仲間であろうと排除するまでだ。
だが、

「ぅぅううおおおおおおおおおお!!! 正ぃぃ義ぃぃいいをぉぉお執っ行するぅぅぅううう!!」

秩序の咆哮は止まらず。
元より痛みで止まるような人間ではないが、そもそも痛みをまるで意に介していない。
殴りつけた傷も、すぐさま再生を始めた。
筋力だけではない再生能力も怪物じみている。

「チィ……ッ!?」

暴れ狂う暴虐の手を後方に下がって回避する。
指先が掠めるだけで防護服など引きはがされるのだから溜まったものではない。
仲間だろうと排除する覚悟はあるが、排除しようにも余りにも強大すぎる。
少なくとも真珠一人では不可能だ。

「乃木平ッ! 決断しろ!」

司令官の叱咤するように真珠が叫ぶ。
この状況、明らかに大田原が癌だ。

任務達成を考えるなら、まずは全員で大田原を仕留めるべきだ。
ハヤブサⅢはその次に殺ればいい。
それがこの状況における最適解である。

今の大田原は正気ではない。
見た目からしてそうだ。
大田原はもう切り捨てるべきだ。

任務の達成のためなら真珠は仲間であろうと排除できる。
小田巻も自分が生き残るためなら仲間であろうと殺せる。
だが、天だけが大田原に対して半端なスタンスをとっていた。

当然だろう。
何せ相手は秘密特殊部隊最強。
日本の至宝。国防の要だ。

男子なら誰もが一度は憧れる、地上最強。
武闘派とは言い難い乃木平といえど、それは例外ではない。
むしろ対極であるからこそ強い憧れがあった。
天の手にはそんな大田原(さいきょう)の命を終わらせるスイッチがある。

このスイッチを託された意義を問い返す。
大田原が兵士として逸脱したならば殺すべきだ。

「何とかしてくださいよぉ! 乃木平さぁああん!!」

助けを求めるように小田巻が叫ぶ。
大田原は正気を失った今でも、純粋に与えられた任務を遂行し、兵士足ろうとしている。逸脱はしていない。
その基準で言うなら、正常感染者(ひょうてき)である小田巻を取り込んだ乃木平たちの方が逸脱しているだろう。

確かに、現状では状況を動かす駒としていいように利用されているが、これはこの状況を利用できるハヤブサⅢが異常なだけだ。
ハヤブサⅢの討伐さえ完了すれば、正常感染者を刈る最強の死神として大いに任務達成の助けとなるだろう。
ここで切り捨てる理由には足らない。

迷いを見せ決断を下せない天の態度に真珠が舌を撃つ。
同時に、その迷いを撃ち抜く銃声が響いた。

天が構えていた銃に弾丸が当たり、遠くに弾き飛ばされる。
撃ったのは花子だ。
視線を向ける事すらなく、背中越しに真後ろの天に向かってAK-47の銃口を向けていた。

ここまで花子が思うままに状況をコントロールしているように見えるが、彼女に余裕など一欠けらもない。
一秒たりとも気を抜かず、常に神経を張り巡らせて、己が全能力を駆使しているのだ。余裕などあるはずもない。
血を吐き命を削るように戦わなければこの戦況は維持できない。

そこまでしても出来るのは状況を凌ぐだけ。
ただ凌いでいても状況は変わらない。
残弾という現実的な制限時間もある。
できるなら今のうちに戦力を削っておきたい。

戦場を引っ掻き回す役の大田原、ヘイトを散らす囮役の小田巻。
この2人は状況を維持するために必要だ。
どちらかが欠けた時点で圧倒的戦力によって花子は即座に蹂躙されて死ぬだろう。

一番厄介な真珠を仕留められれば理想的だが、常にこちらの隙を伺い続ける相手を仕留められれば苦労はしない。
そうなると標的は一人だ。

リスクを取ってでもここで1人仕留める。
大田原に背を向け、銃を取り落した天へと反転する。

反転しながら弾切れしたAK-47のマガジンを抜きその場に投げ捨てる。
ここから腰元の弾倉を引き抜き、マガジンを交換して天を撃ち抜くのに3秒とかからない。

俯瞰の予知により全員の動きと未来は見えている。
この3秒に邪魔は入らない。確実に仕留められる。
そう確信した花子が迅速にマガジンを交換しようとしたところで。

手を滑らせ、掴んでいたマガジンを取り落した。

まさかの失態である。
戦況の未来を見渡す万能とも言える異能。
だが、そこに一点だけ、見落としがあった。

俯瞰であろうと見えないモノがただ一つだけある。
それは観測者である自分自身だ。
張り詰め続けた極限の状況に加え、左手の凍傷によって精密動作に支障が出た。

すぐに取り落しかけたマガジンを空中で掴みなおす。
秒に満たないコンマの遅れ。
だが、この極限の戦場では致命的な隙だ。

そこに背後より迫る、空間ごと抉り取るような戦鬼の魔手。
振り下ろされるその一撃の軌道上にあったAK-47は無惨に破壊され、身を躱した花子の腹部を指先が掠める。
それだけで丈夫なスーツが引き裂かれ、腹部の肉が抉れた。血飛沫が飛ぶ。
あと1センチ深ければ、内臓ごと抉りだされていただろう。

だが、避けきった。
致命傷には至らず、行動に支障はない。
すぐさま花子は崩れた体制を立て直そうとするが、それよりも早く彼女に迫る影があった。

暴の嵐の渦中に飛び込む女が一人。
それはこの地においてハヤブサⅢを仕留めるという特殊任務を一途に貫き続けた者。
黒木真珠。

驚くほど冷静に真珠は標的を視界に捕らえていた。
ようやく生まれた決定的な隙。
全てはこの瞬間。この一撃のために。
彼女はそれ以外の余分に思考を割かず、ただ待ち侘びてきた。
そんな、彼女がこの瞬間を見逃すはずがない。

息遣いすらわかる距離。
見惚れるほど美しい所作で全身が流動して拳が伸びる。
足先から拳へ向かう勢いが加速し、風を切る音が響いた。

必撃必滅。鉄拳制裁。
分厚い鉄板すらも砕く渾身の正拳が花子の体に直撃した。

衝撃が爆発する。
骨の砕ける音が研究室に響き、花子の体が通信室に放り込まれるように吹き飛ばされた。

会心の一撃が決まった。
だが、この一撃を叩きこむために、彼女が踏み込んだのは戦鬼の暴れ狂う危険領域だ。
そこに飛び込んだ真珠も、当然その代償を支払う事となる。

正拳を打ち終わった真珠の体を、降りぬかれた戦鬼の剛腕が巻き込んだ。
交通事故のような衝撃を受け、錐もみ回転しながら真珠の体も花子の後を追うように通信室に向かって弾き飛ばされる。
人とは思えぬ速度で飛んで行って研究室からでは見えなくなった。

そうして花子と真珠が退場したことにより、戦況は一変する。
認知神経科学研究室に残されたのは天と小田巻、そして秩序の怪物、大田原。
花子がこの場から退場した以上、戦鬼のターゲットは小田巻に絞られる。

「何やってるんですかぁ乃木平さぁん!? 助けてください!!!」

未熟な新人である天と小田巻では暴走する大田原を止められない。
このままでは小田巻は確実に殺されるだろう。

そんな小田巻を助ける手段を天は文字通り手にしている。
小田巻を助けるのならばこのスイッチを押すしかない。
だが、そうなれば大田原を殺すことになる。

大田原か小田巻か。
賭けられているのは敵ではなく仲間の命だ。

標的である小田巻を殺そうとする大田原は秩序の守護者として正しい。
だが、清濁飲み込み小田巻を取り込んだ判断も秩序を守護るための正しい判断だったはずだ。

果たして、どちらが正しいのか。
何を選べばいいのか。

正しい答えがあるのかもわかない。
天は、そんな決断を迫られていた。


以上がコードネーム「ハヤブサⅢ」の過去に関する調査結果を報告するものである。
詳細な経歴や事件に関わる経緯については、矛盾する過去が散見するが、これらはすべて現地の証言者への裏取りや公的書類や記録などの物証も確かな精度の高い情報である。

別人の経歴をロンダリングしたものであると考えられるが。
どれが真実であるのか判別する決め手は見つけられなかった。

これ以上の調査はコストに見合わぬ徒労に終わる可能性が高く。
[正体不明]そう結論付け、調査を終了する他ない。

以上。


通信室に2つの物体が飛来する。
剛速球もかくやと言う速度で飛んできた飛来物は通信機器へと突っ込み。
内部の機器を派手に吹き飛ばしながらようやく静止した。

「…………よぅ。生きてるか?」

ガラリと音を立て飛来物の一つ。防護服に身を包んだ黒木真珠が膝に手をついて立ち上がる。
如何に防護服に身を包もうとも最強の剛腕に巻き込まれたのだ、当然無事ではない。
直撃の寸前、インパクトポイントをズラした上で鉄甲と鉄足で受けた。
にも拘らずこれだけのダメージを負っているのだからとんだ怪物である。

受け止めた左の鉄甲と鉄足は大きく歪み、その下の手足を押し潰している。
手足から滴る血が溜まり、防護服の先端はちゃぷちゃぷと水音が鳴り響いていた。
左の手足はもう使い物にはならないだろう。

こうなることは分かっていた事だ、後悔はない。
ようやく得られた千載一遇の機会を突くためなら命すら惜しくはなかった。

「死んでるわよ…………まったく」

同じく、体に乗った機器の破片を押しのけ田中花子も立ち上がる。
正拳突きが衝突する寸前に、左腕を挟み込み直撃は避けた。
その代償として左腕は関節が一つ増えたようにプラリと折れ曲がり完全にお釈迦になっている。
そこまでしても衝撃は胸部まで突き抜け、胸骨と肋骨もいくつか折れているがの分かる。
致命傷とまではいかずともダメージは甚大だ。

互いに重症。
片手をずり下げ、片足を引きずりながら、真珠が進む。
それに応じるように花子もゆっくりと立ち上がって、上体を無理やり起こして、気だるげに片手で構える。

互いに向かい合って、息を吐く。
今にも倒れそうな体を奮い立たし拳を握る。

二人の耳に訪れる静寂。
隣室で戦鬼が暴れる喧噪も今も耳には入らない。
互いの世界に互いだけがある。

「……それじゃ、まあ……決着でも、つけるか」
「ま、付き合いましょう…………他にやることないしね」

決闘の開始を告げるように、真珠が腕を振るう。
瞬間、真珠の顔面が見えない何かに殴られた。
大した威力ではない、だが一瞬視界を奪うには十分な不可視の一撃。

『遠当て』と呼ばれる技術。
何が、実践的ではないだ。
強かにも、ここ一番まで切り札をとっておいたのだ。

この一瞬。
視界を起点とする異能が封じされた。
完全に相手を見失った。

その空白を付いて、死角へと移動した真珠が大ぶりの拳を振るう。
もはや機器の保護など気にしていない。そんな余分は切り捨てた。

だが、花子はその一撃を躱した。
敵の姿を捉えたのではなく。
未来予知した『殴られた自分の視界の動き』から相手の位置を逆算して推測。
殆どコケて転がるような形だが、花子は相手の攻撃を避けると、転がりながら袖口に隠していたベレッタM1919を引き出し銃撃を見舞う。

「ッ。効かねぇんだよ!!」

脇腹と胸元に弾丸を受けながら真珠が叫ぶ。
弾丸を避ける足も弾く余裕もないが、小口径の護身銃など防護服の性能でゴリ押せる。
衝撃と痛みはあるがそれだけだ、そんなものは無視してしまえばいい。

強引に距離を詰めた真珠は、倒れたままの花子の顔面に向けて蹴りを見舞った。
鉄足が潰れた左足で顔面に向けてサッカーボールキックを振りぬく。
潰れた足では踏ん張りがきかない以上、軸足ではなく蹴り足にするしかない。

その蹴りを頬に掠めるギリギリで躱して、軸足に向かって飛び掛かるように抱き着く。
それはタックルと言うより、ただの緊急回避である。
しかし、真珠の方もそれを支えるだけのバランスを保てないのか、花子と真珠はもつれあうように地面に転がった。

つい先刻と同じ場所、同じ相手との戦いだが、先ほどまでの華麗さとは程遠い泥くさい攻防になっていた。
技術ではなく意地のぶつかり合い。傷は深く、体力も気力も限界に近い。

地面を転がるようにもみ合いながら、真珠が振り回した肘が花子の鼻頭を打った。
鼻血を吹き出し相手が怯んだところで、一気にマウントを取りに行こうと真珠が相手に体重を預ける。
だが次の瞬間、真珠の視界が赤に染まった。
花子が垂れ流していた鼻血を口に含み、目つぶしとして防護マスクのレンズに吹きかけたのだ。

今度は真珠が視界を奪われた。
すぐさまレンズを指で拭おうとしたが、後頭部に衝撃があった。
打撃を受けた。だが敵は目の前でもみ合いになっている状況だ。どこから?

混乱は一瞬。その疑問はすぐに解消した
花子が折れた左腕を振り抜いて、ありえない角度からの攻撃を実現していたのだ。

痛みで言えば放った花子の方が上だろう。
だが、相手の意表をついて隙を作るには十分な効果はあった。
その隙にお返しとばかりにヒールフックを仕掛け右膝を破壊にかかる。

「……………んのぉッ!!」

だが、左腕が折れた片腕では拘束が緩い。
真珠は右足を極められたまま、潰れた左足を思い切り振りぬいた。
掠めた鉄の踵が鋭利な刃物のように肉を削って、拘束が解かれる。
その間に敵を払いのけ、這い出るように拘束から抜け出した。

「…………ハァ………ハァ……ゴフッ!?」

敵を逃した花子は息を切らしながら距離を取って、壁に手を付き立ち上がる。
鼻に詰まった血をフンと吹き出すと、ねっとりとした血液が床に張り付いた。
胸骨の折れた状態で無理をしたからだろう、僅かにせき込むと塊のような血を吐いた。

「…………ふぅ…………ふぅ……くッ!?」

視界を取り戻した真珠も、同じく立ち上がろうとするがガクンと膝が抜ける。
左足は鉄足と共に怪物に潰され、右膝の関節の破壊こそ免れたが、無理に足を振ったため靭帯を痛めた。
膝をついた体勢で真珠は息を荒くしながら敵を睨む。

死力を尽くした、原始的な殺し合い。
互いに限界などとうに超えている。

真珠はナイフホルダーから引き抜いたサバイバルナイフを投げつけた。
普段であれば首一つ傾けて躱せるような投擲を、花子は必死の形相で飛び込むように避ける。

そこに向かって、お次は懐中電灯を投げつけた。
まるで子供の喧嘩のように、持ってるものを手あたり次第に投げつける。
スイッチをオンにして投げ放たれた懐中電灯の強烈な光が目を潰す。

「くっ………………ッ!?」

ホルスの瞳はそれを観てはいたが、どこまでも伸びる光を避けるには体が追いつかない。
ほんの一瞬だけだが、花子の視界が白に染まる。

「うぉぉおおおおおお――――――ッッ!!!」

命を燃やす咆哮。
その隙を見逃さず、真珠が最後の力を振り絞って四つ足の獣のように駆けだした。
白む視界の中、咄嗟に花子は向かい来る真珠に銃口を向けるが、もはや腕を上げる力もないのかゆらゆらと照準が定まっていない。

真珠は唯一生きている右拳に全てを懸けて必殺の一撃を見舞う。
悪あがきのように花子は引き金を引くが、弾丸は迫りくる真珠のはるか上方に逸れ、その体を捉えることはなかった。

放つ一撃。
胴の中心を捉え、骨と肉を砕く。
直撃を受けた花子の体が巨大なディスプレイに叩きつけられる。

殺したという確かな手ごたえを確信する致命の一撃だった。
真珠が勝利を確信する。
同時に、その頭部に、パンと強い衝撃があった。

「な…………っ?」

何が起きたのか。
それは先ほど花子が放った弾丸だった。
弾丸は崩れた壁を何度も跳弾してピンポイントに真珠の頭部にヒットしたのである。

跳弾を繰り返した弾丸が当たるなど、この土壇場でそんな偶然が重なる奇跡などありはしない。
ならばこれは周到に狙った必然だ。

滅びをもたらす太陽の瞳。俯瞰の視点と未来予知。
銃口のブレは弾丸の軌道を探るためのシミュレートだった。
あらゆる角度で弾丸を撃った際の未来を観測して、敵を撃ち抜く未来を確定させたのだ。

「やってくれたな」

呆れとも称賛ともとれる声。
弾丸は防護服と防護マスクのつなぎ目にヒットしており、ほんの小さな穴が穿たれた。
だったそれだけの事だが、マイクロサイズのウイルスを防ぐ防護服としては致命傷である。

「ま、分けって事にしといてやるよ」
「…………そりゃ……どうも」

ギリギリのところでまだ意識はあるのか、花子は血濡れの口元に微かな笑みを作る。

「ま…………あの状況から”2人”…………持って行けただけでも上出来でしょう…………」

2人。つまりは真珠ともう一人。
隣室に残してきた小田巻か大田原。どちらかが死ぬしかない状況を作った。
直接戦闘ではなく、状況を操作して敵を殺す。
これこそが情報工作員の本領だ。

戦闘員ではない花子がここまでやったのだから上出来だろう。
特殊部隊4人が相手なら全滅だろうが、半分を削れたなら他の連中にも少しは希望も見える。
彼女たちがハヤブサⅢを失ったのとどちらが痛手だったのか。
採算が合っているのかは結果を見るまで分からない。

相手の思惑通りの展開になったことに舌を打ちながらも、真珠は花子前まで近づきその懐を漁り始めた。
与えられた任務はハヤブサⅢの持つ通信機を破壊することだ。
雑談はここまでだ。意識のあるうちに任務は果たさねばならない。

「って、おい。お前、通信機はどうした?」

特殊部隊の動きに制限を掛ける通信機。
だがどれだけ身を改めても通信機は発見できなかった。

「…………さぁ? どこかに……隠したのかもしれないわよ…………?」

それはない。
即座に内心で真珠は否定する。
あの通信機は誰かが持って使用する可能性があるからこそ脅威なのだ。
誰にも見つからない場所に隠したところで抑止力にはならない。

「誰に預けた? 白衣の研究員か? それともあの氷使いの方か?」

花子は答えない。
答える気力もないのだろうが、そもそも答える気もないのだろう。
これ以上、問い詰めたところで無駄だろう。

「ちっ。まあいいさ」

後は勝手に探すまでだ。
と言っても、真珠は時期に時間切れだ。
探すのは真珠ではなく、任務を引き継いだ天たちになるだろうが。

「何でそこまでする? お前一人ならどうとでも逃げられただろ」

特殊部隊の人間としてではなく、純粋に沸いた疑問を問うた。
通信機の話だけではない。
全員を引き付けるように戦っていたが、逃げるという選択肢もあったはずだ。
大田原をうまく使えばそういう目もあっただろう。

何より、この研究所の資料室にたどり着いた時点で彼女の任務は終わっている。
そこからすべてを解決しようというのは生き残り全員を救うための行動だ。
全てを見捨てて、彼女一人生き残るだけなら、それこそどうとでもなったはずだ。
それが正しいエージェントとしての在り方だろう。

「………………似ていたからかもね」
「似ていた?」

真珠が問い返す。
花子は今にも意識が途切れそうな、遠くを見つめる目をして。
苦し気に息を吐きながら、途切れ途切れに語り始める。

「私も…………下らない……陰謀で、故郷を奪われた……一人だから………………。
 そんな人を……少しでも減らしたくて………………この道を選んだから」

この村の陥った現状が過去を思い出させた。
だから、らしからぬ無理をしてしまったのだろう。
初めて聞く彼女のルーツに真珠は首をかしげながら。

「…………いや待て。お前、客船の時は政敵に嵌められた祖父の名誉を晴らすためにエージェントになったとか言ってなかったか?」
「あら…………? そうだったかしら…………?」
「ったく。最期まで適当こきやがって」

語る全ては嘘に塗れている。
真実を確かめる術はない。

「けど……私たちにとって…………過去なんて……どうでもいい事でしょう?」

人当たりもよく、積極的に人と関わっているが、彼女の過去を知る者はいない。
それは相棒であるブルーバードですら例外ではない。
人好きする性格も諜報員としての顔でしかない。
現在すら塗り固めた嘘で覆われている。

「ま、そうだな……」

その活躍も功績も誰にも知られることなく消えていく。
彼女たちは裏側に生きる、その人生を受け入れた人間だ。
過去も現在も捨てて、それぞれの思うより良い未来のために。

「あたしにとってのお前はただのむかつく女だったってことだな」

過去は分からずとも、現在が嘘でも。
真珠にとってハヤブサⅢはそういう女だったというのは真実だ。
何の救いにもならないが、それが彼女がいたことの証明である。

「…………そう。私は……あなたの事、嫌いじゃなかったわよ…………」

真珠は肩をすくめながらひらひらと手を振った。
そして崩れた壁に向かってゆき通信室を後にする。

「あばよ。ハヤブサⅢ。次に会うなら地獄だな」
「……そうね。地獄で合ったら……鬼さん相手に合コンでもしましょ」


引きずった足で崩れた壁を越えて真珠は認知神経科学研究室へと戻ってきた。
そこで真珠が見たのは引きつぶされた小田巻の死体だった。

「………………」

別段、言うべき事はない。
そういう結末になったか、そう思うだけだ。

それよりも意識のあるうちに報告をしておかなければならない。
室内を見渡すと、スイッチを片手に立ち尽くしていた天を発見した。
そのスイッチが何かは知らないが、真珠にもおおよその察しはつく。
押せなかったのか、それとも押さなかったのか真珠には知る由もないし、気にしているだけの時間はない。

「乃木平。悪いな、見事にしてやられた。ここであたしは脱落だ。ゾンビになったあたしはここに捨て置け」

真珠は天の様子に構わず目の前にまで近づいてゆくと。
トントンと頭部に空いた穴を指先で示しながら真珠は報告を始める。

「とりあえず報告だ。標的(ハヤブサⅢ)は仕留めた。ただし通信機はなかった。
 仲間の誰かに預けた可能性が高い、恐らく氷使いの女か、白衣の研究員だろう、そこを当たれ」

天からの返事はない。
真珠は構わず報告を続ける。

「それとハヤブサⅢが、通信室で研究所の上と交渉したらしい。
 女王感染者が死んだ時点で命令が変わる可能性はある。どうするかは、お前が判断しろ。大田原さんもあんなだしな」

見れば、太田原は小田巻の死肉に食らいついている。
誰に負けたかは知らないが日本最強もこうなれば哀れなものだ。
真珠もゾンビになった後どうなるのか、ぞっとしない話だ。

「あとはそうだな、『Z』について調べろ、だとよ。
 ハヤブサⅢの言だが、意味のないことを言うようなヤツでもない。一応気にしておけ」

ハヤブサⅢは意味のないことはしない、そういう信頼はある。
問題はそれが誰を利する意味なのかと言う点なのだが。

「…………黒木さん」

天がようやく口を開く。
だが、そこで限界が来たのか、言いたいことを言うだけ言って真珠は意識を手放した。
両足が壊れているためかこれまで両足を動かしてきた強靭な意思が消え、その場に崩れ落ちる。
まともに動くこともできない這いずるゾンビとなった

そうして、この場に残った人間は天と大田原の2人だけだ。
天は明確な意思を持ってスイッチを押さなかった。
あの時、天秤にかけて小田巻を切り捨て、大田原を取ったのだ。

それは情を切り捨て実利を取る選択だ。
成田辺りならこの判断を聞けば特殊部隊らしくなったと皮肉気に笑うだろう。

大田原は明らかに暴走しているが、この乱戦の最中でも一度たりとも天を襲うことはなかった。
その力はかつてと遜色はない、どころか単純な膂力で言えば普段をも上回るだろう。
任務遂行において小田巻よりも大田原の方が有効である。
そう判断したのは他ならぬ天自身だ。

その暴走を利用できるハヤブサⅢを真珠が仕留めた。
同じ芸当ができる人間などそうはいないだろう。
気がかりがあるとするなら、大田原をこんな状態にした何者かだ。
理性を失う前の、最強たる大田原を退けた。
それだけは警戒しておかねばならない。

「行きましょう……大田原さん」

その呼び声に、小田巻を喰らい口元を汚した大田原が振り返る。
飢餓もいくらかましになったのか、素直に従うくらいの理性はできたようだ。
特殊部隊最弱が特殊部隊最強を従え、研究所の地下3階へと向かっていった。

【小田巻 真理 死亡】
【田中 花子 死亡】
【黒木 真珠 ゾンビ化】

※「通信機(不通)」を仲間の誰かに預けたようです。預けられた側に持ってる自覚があるかも不明です。

【E-1/地下研究所・B2 認知神経科学研究室/1日目・夕方】
乃木平 天
[状態]:疲労(大)、ダメージ(大)、精神疲労(大)
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、ポケットピストル(種類不明)、着火機具、研究所IDパス(L3)、謎のカードキー、村民名簿入り白ロム、ほかにもあるかも?、大田原の爆破スイッチ
[方針]
基本.仕事自体は真面目に。ただ必要ないゾンビの始末はできる範囲で避ける。
1.研究所を封鎖。外部専用回線を遮断する。ウイルスについて調査し、VHの第二波が起こる可能性を取り除く。
2.一定時間が経ち、設備があったら放送をおこない、隠れている正常感染者をあぶり出す。
3.大田原を従えて任務を遂行する
4.犠牲者たちの名は忘れない。
[備考]
※ゾンビが強い音に反応することを認識しています。
※診療所や各商店、浅野雑貨店から何か持ち出したかもしれません。
※ポケットピストルの種類は後続の書き手にお任せします
※村民名簿には午前までの生死と、カメラ経由で判断可能な異能が記載されています。

大田原 源一郎
[状態]:ウイルス感染・異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』、意識混濁、脳にダメージ(特大)、食人衝動(中)、脊髄損傷(再生中)、鼓膜損傷(再生中)
[道具]:防護服(内側から破損)、装着型C-4爆弾、サバイバルナイフ
[方針]
基本.正常感染者の処理……?
1.感染者ヲ、ショリスル
2.正義ヲ、執行スル
※脳に甚大なダメージを受けました。

117.穢れ亡き夢/其は運命を―― 投下順で読む 119.『厄災・隠山祈』
時系列順で読む
Tyrant 田中 花子 GAME OVER
黒木 真珠 MISSION FAILED
小田巻 真理 GAME OVER
乃木平 天 白き墓標にて
大田原 源一郎

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最終更新:2024年03月12日 23:05