白亜の夢迷宮にて、少女と少年は白い光に導かれるまま薄闇の奥底へと進んでいた。
彼らの背後には悍ましき双角の悪鬼。轟音と共に壁を破壊し、黒い靄をコンクリート片と共に撒き散らしながら、二人を捕食せんと追跡する。
遂に少女らは奥底へと到達し、閉ざされた扉を開く。彼らの眼前には階段。怪物は未だ少女らに狙いを定め、破壊を続けていた。
最早一刻の猶予もない。意を決して少女と少年は奥底の更に底――地の獄へと続く階段を降りて行った。

―――瞬間、開闢の光が広がる。
何が起きたのかと少女は周囲を見渡すと、そこは一面が白に包まれた無機質な空間の中。
怪物との追跡で殿を務めていた剣士の少年の姿はなく、少女jの目の前には白い扉。

「なんだろう、これ」

そっと白い扉に触れてみる。檜のように温かみを残しつつも鋼鉄のように確かな硬さがある不思議な材質の扉。
この先には何があるのか、または何が封じられているのか。何となくだが少女は理解していた。
(きっとこの先にはーーー)
怪物から命からがら逃げ出してきた時とは違う、穏やかな感情のままドアノブへと手を掛ける。

『望、この扉だけは開けてはいけない』

背後から聞こえる女性と思わしき綺麗な声。振り返るといつの間にいたのか、ふわふわな毛並みの一羽の白兎。
その愛らしさとは裏腹に雰囲気は神々しく、少女を見つめる紅い双眸には獣とは思えぬ英知の色を漂わせていた。
少女――犬山うさぎは白兎の事を知っている。

「ウサミちゃん……」
『この先には何もないんだ。君の友達と一緒に外の世界に戻ろう。私が案内する』

白兎は有無を言わせない口調で断言し、ついて来いとばかりにうさぎへと背を向けた。
うさぎには白兎の強い言葉は内に秘める不安や焦燥を覆い隠し、悟られないようにしているとしか思えなかった。
だから、少女は白兎の言葉を無視してドアノブへと手を掛ける。

『ーーー話、聞いてた?ここには何もない、何もないんだよ』

今度は確かな怒りと僅かばかりの困惑の入り混じった声。
その声色で、その態度で少女は確信する。

「ウサミちゃん。嘘、ついてるよね。この先にあるもの、貴女は知ってるんでしょ」
『…………』
「答えて」

白兎に背を向けたまま、普段とはかけ離れた厳しい口調で少女は問い詰めた。
それでも白兎は問いに答えることはなく、口を噤み続け、痛々しい沈黙が白い空間の中で流れる。
埒が明かないとばかりにうさぎはドアノブに手を掛けて扉を開こうとすると、観念したかのように白兎が口を開いた。

『ここは女王の作り出した即席異空間(ダンジョン)や現実世界など様々な世界が交差する分岐路。
当然、望が地球に再度転生する際に経由した時空の狭間へも繫がっている。
この空間の中にある存在は、私達の魂――いや、脳かな?それが認識できるように変換されて具現化したものなんだ。
だから、こう……扉という分かりやすい形で時空の狭間に接続された経路(パス)が現れたのかもしれない』
「――それだけじゃ、ないんでしょ?」
『……望は異世界(あちら)の記憶と力を時空の狭間で失い、魂そのものを書き換えられてもう一度地球に転生した。
だけど、君が再び狭間(こちら)に来たこととあちらから持ち出した御守りの力で失われた力が蘇りかけている。
扉を潜れば剣と魔法の世界で得た力と接続され、君が絆を紡いだ『干支時計』の皆は本来の姿に近い存在に戻る筈だ。尤も、全盛期とは程遠い、けどね』

うさぎの追及に白兎は苦しげな口調で答えていく。
一通り話し終わり、『でも――』と心から話したくないような躊躇いを出した後、再び言の葉を紡いだ。

『――望は二度も輪廻転生から外れ、因果を捻じ曲げて転生を繰り返した。人間の魂で何度も輪廻転生を繰り返せば、必ずその皺寄せが来る。
その皺寄せを防ぐため、君の魂と結びついた『隠山望』としての君の記憶や力を時空の狭間で削ぎ落とさなきゃいけなかったんだ。
それに私の力ではこれ以上君の因果を捻じ曲げられない。……君の因果を歪曲したのは私。身勝手だって、マッチポンプだって私を恨んでくれても構わない。
それでも君には……この村で身勝手な理由で人柱にされた君には幸せになって欲しかった』
「……………」
『幸か不幸か、あの異空間に閉じ込められたことで君の『干支時計』は進化を果たした。後は少しだけ私達10体が無茶をすれば、今度こそ君を助けられる。
……もう十分でしょう。後は私達に任せて、これ以上君が苦難の道を歩む必要はないんだよ』

苦悩の言葉による説得の後、白兎はうさぎの足元まで歩み寄り、彼女を見上げる。
白兎の言葉も、彼女がうさぎを慮っているのは事実であり、うさぎ自身もそこには何一つ疑いを持っていない。
もうこれ以上私が苦しむ必要はない。後はこの子に全て任せて楽になってしまえ。
白兎の甘言が天使の囁きの如く、少女の心の中に反響する。

(だけど――――)
「それって、スネスネちゃんやトラミちゃんみたいに、ウサミちゃん達が犠牲になってもいいって事なの?」
『……………』

うさぎの問いに白兎――ウサミちゃんは沈痛な面持ちで沈黙した。その答えで、少女の心は定まった。
足元で見上げる白兎に目もくれず、少女は閉ざされた禁忌の扉へと手を掛ける。
その瞬間、白兎は少女の足元へと縋りついて言葉を発する。

『望。この先へは行かないでくれ。この扉の先に行ってしまえば、君は……!
お願いだ!君には幸せな天寿を全うして欲しいんだ!これ以上、私に大切な人を失わせないでくれ……!
私達12体がこの世界に訪れたのは、君に幸せになって欲しいからなんだ!君に使い潰されても良い!君の友も助けると約束する!だから―――』

諭すような説得はいつしか悲痛な懇願へと変化し、それに伴い白兎の小さな前足にも力が入るのを肌で感じ取った。
この先へ進めば「犬山うさぎ」としての何もかもが変わってしまう。その分岐点に立たされていて、不安や恐怖を感じない訳が無い。
白兎に導かれ、彼らを犠牲にして安寧の道を行くか、歪曲された因果の皺寄せを一身に受けて、真実を知る苦難の道を行くか。
答えは既に決まっていた。
うさぎは一度振り返り、足元の小さな友達へと目を向け、精一杯の笑顔を向ける。

「……ごめんね、ウサミちゃん。貴方達も私にとっては大切な友達なの。だから、死なせたくない」

伸ばされた救いの手を振り払い、友の悲痛な声に背を向けて、隠山望(いぬやまうさぎ)は閉ざされた禁忌を開く。
白亜の扉の先、少女の眼前には眩い光が広がる空間。その先に何があるのかなんて想像がつかない。
光の先へと一歩、少女は踏み出す。もう振り返ることはない。

「ここは……?」
踏み出した光の向こう側。少女の目の前には夜闇に包まれた草木生い茂る自然。つい先程の人工的かつ無機質な漂白空間とは対極にある風景。
靴から伝わる腐葉土の柔らかい感触。鼻孔をくすぐる野花の匂い。素肌に感じるひんやりとした澄んだ空気。
現世(いま)も前世(むかし)も変わらない、優しい世界。
「犬山うさぎ」という一人の漂流者の因果が収束する全ての原点(はじまり)、隠山の里。
この地に足を踏み入れた瞬間から、少しずつ自分の中で何かが戻ってくる感覚がする。
ふと、耳を澄ませばそう遠くない場所から聞こえてくる少年と少女の声が重なる小さな小さな祭囃子。
遥か昔/ほんの少し前、聞いたことがある懐かしい音色。

(きっと、あそこにはーー)
犬山うさぎは知らない/隠山望は知っている、大切な人達がいる。確信し、少女は駆け出す。
静謐な森。その中にある月光に照らされた神秘的な空間。そこに、彼らはいた。
木の枝を手に取り、きらきらと輝く笑顔で演舞を舞う少年とっ少女。演舞の中心で手拍子を打つ、巫女装束を身に纏う白い髪の美しい幼子。
彼らの演舞の中――白い『あの子』が、隠山望としての全てが具現がした姿。彼女を見た瞬間、それをうさぎは理解していた。

「ここに、来てしまったんだね」
背後から聞こえるのは悲しそうに響く幼い少年の声。振り返ると犬山はすみ(おねえちゃん)の面影がある少年――隠山覚の姿。
もう後戻りはできないし、するつもりはない。言葉を交わさずともそんな様子を察したのか、双子の弟は困ったような笑顔を浮かべた。

「昔から、望は姉上に似て頑固者だったよね」
「それは覚も同じでしょ。姉様に似て、とっても頑固者」

顔を突き合わせて笑い合う双子。600年の時を超えた再会。
どれだけ時が流れようとも以心伝心。言葉はこれ以上不要。だから、別れの挨拶はたった一言。

「いってらっしゃい、望」
「いってきます、覚」

その言葉を最後に隠山覚の姿は掻き消え、隠山望は三人の演舞の中に足を進める。そしてーー。


山折村南西の草原地帯。月が導く異界にて暗黒を纏いし悪鬼、大田原源一郎。地を踏み砕きながら疾走する。
異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』によって理性と引き換えに爆発的な身体能力に加え、更に女王日野珠による魔術と山折に巣食う厄の恩恵を得ている。
対峙するのは一組の男女。淡い光を放つ打刀を構える若き剣豪、八柳哉太と異世界と肩に直立する山ネズミを乗せた過去を行き来した獣愛でる召喚士、犬山うさぎ。
距離は僅か数十メートル。到達までの時間は数十秒。
少年は聖刀を下段に構え、腰を低くして迎え撃つように疾駆する。それを合図に少女は少女は右手を突き出し、祈りの言葉を紡ぐ。

「お願い、来て―――」

召喚士の目の前に現れる魔法陣。それはかつてのうさぎの異能では現れることはなかったもの。
白兎との邂逅。かつての山折の地での記憶遡行。それらを以て、犬山うさぎの体内に眠る『干支時計』は全盛期ほどではないが、力を取り戻した。
それだけに留まらない。VH発生により現在に至るまで保菌者であるうさぎに与えられ多大なストレス。
閉じ込められていた時空が捻じ曲がった閉鎖空間により時針が狂わされた干支時計。
二つの相乗効果が取り戻した力と複雑に絡み合い、干支時計は歪な進化を果たしていた。

遠吠えと共に現れたのは角を生やした白獅子のような逞しい体躯の聖獣――和犬の形でうさぎを守護していた拒魔(こま)犬、ワンタ。
羽音と共に顕現するのは東方神話において猛禽の姿をし、大風(たいふう)の名を冠した厄鳥、タカコ。
本来の干支時計ではワンタは10時の犬、タカコは9時の酉として、それも魔力のない地球上の獣へと変換された姿で召喚されるはずだった獣。
しかし、干支時計は時空の乱れた空間による異変、持ち主である犬山うさぎが時空の狭間にて喪失した力を取り戻したことによる影響をダイレクトに受けた。
そこに莫大なストレスというエッセンスも加わる。故に、うさぎの持つ干支時計は歪な進化を果たした。
保持者の意志により時針を自在に動かせるようになり、主の思い描く本来の姿の動物の召喚、それの複数顕現が可能となった。
だが、その対価は当然求められる。

「―――はァ……はァ……!」

ガクガクと足を震わせ、荒い呼吸を繰り返すうさぎ。額から脂汗が滴り落ち、顔も土色に変色している。
歪で不相応な進化を遂げた「干支時計」が求めた対価は魔力。地球の理(ことわり)から逸脱したエネルギー。
異世界においては酸素と同様に空気中を漂い、その世界に住まう生物も魔力を貯蔵する器官を備えていた。
だが、犬山うさぎの身体には魔力を生成・貯蔵する器官は存在しない。
故に魔力の代用となるのは主の生命力。必要なエネルギーは干支時計を介して魔力へと変換され、それによって生成された魔力にて召喚が行われる。
更に召喚に必要な魔力(コスト)は獣ごとに個体差がある上、現状では消費したうさぎの生命力を補填する手段は見つかっていない。
召喚士「イヌヤマ」が転生と共に持ち出した「干支時計」は消費される主の生命力と魂を守るため、自らの機能に制限(リミッター)をかけていた。
彼女と絆を結んでいた残り10体の召喚獣も同様。友への負担を減らすため、「隠山望」としての記憶と力を枷に嘗ての姿を封じ、魔力を要せず力の弱い現地生物の姿へと身を落としていた。

だが度重なる異常事態(イレギュラー)により前提は崩れ、戒めの楔は外された。
干支時計は発生したバグにより自ら貸したセーフティレベルが大幅に低下。それに伴い、地球では極僅かしか存在しない魔力を求めるようシステムが改変された。
獣達はうさぎが記憶と力を取り戻したことで強制的に安全装置が外され、この世界に各々持ち込んだ魔力を消費する姿へと戻らざるを得なくなった。

だが、召喚獣達はその結果を甘んじて受け入れた訳ではなかった。
自分の魔力が尽きれば再び干支時計に封じられるか、力無き現地生物へと身を落とすかの二択。最愛の友を守護るため、彼らは元の姿で顕現していたい。
故に彼らの選択は折半案――本来の力をスケールダウンさせて消費魔力を抑え、一体でも多く、、少しでも長く、彼女と共にいられるように画策した。

うさぎも「召喚士イヌヤマ」の経験から召喚獣達の意向、異常が発生した干支時計に気付き、対戦鬼においての最適解を導き出した。
呼び出す友は犬(ワンタ)、酉(タカコ)、そしてーー。

「■■■■■■■■■■■■■■■■ーーーーー!!!」

天地を揺るがす雄叫びと共に巌の如き凶戦士が急接近する。
その身に纏うのは悍ましき暗黒。影法師の少女『隠山祈』の片割れが使役していた凝縮された山折村の厄そのもの。
立ち向かうのは剣士と番犬。一人と一匹は迫りくる怪物を打倒すべく左右に分かれて並走する。
激突する数秒前。その僅かな隙間に巨人の纏う厄が蠢く。
瞬間、蠢動する暗黒は八つ首の触手へと分裂して襲い掛かる。その有様はまさに八岐大蛇。

「バウッ!」
「ああ、分かってる!」

一瞬のアイコンタクト。走る速度はそのまま、襲い来る黒蛇へ向かう。
迫る暗黒。穢れの槍が勇士達を貫く刹那ーー。

「キルルルルゥオオーーーーー!!」

怪鳥の如き咆哮と共に暴風が吹き荒れる。
暴風を巻き起こしたのは災害の異名を持つ猛禽、妖怪『大風』の酉、タカコ。
魔力を帯びた風は八つ首の蛇を胡散させ、巨人に纏わりついていた厄の鎧を一時的に吹き飛ばす。
巨人は未だ健在。哉太達に迫るのは地を砕く鉄槌の如し巨大な拳。直撃どころか掠めでもすれば血肉を撒き散らし、大地の栄養分と化すであろう。
だが、吹き荒れる烈風は哉太達の追い風となり、その風に乗った魔力は一人と一匹の肉体を強化させる。

突撃(ドッグ・チャージ)が大田原の左足を穿つ。
八柳流『這い狼』が大田原の右足を切り裂く。
振り下ろされた鉄杭が地を穿ち、小規模のクレーターを作り出す。
哉太達は暴風に背を押され、横殴りの風圧を風で生成された魔力の膜で耐え、怪物の横を駆け抜ける。
剣士達により受けた傷は瞬く間に再生するも、彼らの猛撃は赤鬼の巨体を揺るがすのには十分な威力だった。
だが、赤鬼は数多の敵対者を葬り去った歴戦の猛者。狂気に陥り、技を忘れようとも本能と直結した体捌きは健在。
すぐさま体勢を立て直し、駆け抜けた勇士達を尻目に次の獲物ーー召喚士たる少女へ目を向ける。
だが忘れることなかれ。この地に降り立った召喚士も歴戦の猛者。力を失おうとも魔王アルシェルの軍勢と死闘を繰り広げた経験は生きている。
大田原が動き出すその刹那、干支時計がうさぎの生命力を吸い、再び魔法陣が顕現。呼び出す獣はーー。

「ーー三猿様!」

三つ子の猿が魔法陣より現れる。同時に彼ら3匹の身体が3つの光球に変化。それらが合わさり、一つの光球へ。
光が消え、3匹の猿がいた場所には額に黄金の輪ーー緊箍児を巻き、魔術で作り出した長棍を手に持つ成人男性サイズの逞しい1匹の猿。
かの異世界から地球へ転移した際、三つ子の魔猿は魔術を封じ、ただの野猿として干支時計の中で眠りについていた。
だが、枷が外され、友を守護るために禁じていた魂と肉体の結合を実行。
三猿合体、斉天大聖。異世界における魔術と棍術のエキスパートたる獣(モンスター)である。
戦鬼が突撃する。激突する寸前、斉天大聖は召喚士を抱え、跳躍。
三メートルの赤鬼を飛び超え、安全地帯――哉太とワンタのすぐ後ろに着地し、うさぎを降ろす。

「ありがとう、三猿様」

感謝の言葉に振り返らずサムズアップで応える。そのすぐ後、飛翔していた怪鳥タカコが召喚士の隣へと舞い降りる。
獲物を仕留め損ねた人食いの巨人は地の底から轟くような唸りと共に振り返り、狂気と食欲に満ちた血走った眼を向ける。
召喚士イヌヤマを守護るよう前に立つのは犬、猿、酉。そして聖刀を構えた若武者。
少年は赤鬼を見据えて告げる。

「ーー鬼退治、開始だ!」


「……ふむ。再び此処へ堕ちることになろうとはな」

一筋の光明すら射さぬ深淵。地の獄の如き暗黒の底より凛とした美しい声が響き渡る。
声の主は神楽春姫。全てを識り、全てを凌駕し、全てを統べる山折の女王その人である。
春姫は己が威光にて聖剣ランファルトの後継たる魔聖剣の調伏を試みた。しかし、新生した剣は屈することなく、春姫を拒絶。
尚も女王は先代たる聖剣と同じように従属させるべく己の強固な我にて屈服させようとするが、突如御守が閃光を放ち、闇へと意識が誘われたのである。
春姫がここに堕ちたのは二度目。一度目は女王に謀反を企てた逆賊――物部天国の呪詛により命を落とし、闇へと落とされた。
しかし、運命に導かれるように聖剣が顕現し、春姫は己が神威で調伏。運命を覆し、黄泉返りを果たしたのだ。

「妾が征く道こそ正道。なれば此度も聖剣が妾に傅くのは宿命(さだめ)なり」

春姫の視線の先には深淵の果て。そこに身の程を弁えず裁定者たる女王の天命に背いた、無知なる剣の気配を感じ取る。
女王の使命は山折村(せかい)の救済。人類救済を掲げる聖剣の後釜なれば裁定者に従属するのが道理というもの。

「ーーーハッ!」
一喝と共に春姫の身体が威光(ひかり)を放ち、闇の果てーー魔聖剣へと至る路を露にする。
王道は拓かれた。女王の行く手を遮る痴れ者は存在しない。

「いざ参らん」
何一つ疑うことなく、春姫は光に照らされた彼方へと歩みを進める。
女王が天の頂に立つのは必然。故に運命も神の御子たる春姫への従属は決定づけられていたのだろう。
悠然と光の中を歩き続け、春姫の視界の先には彼女という絶対を拒絶した生まれたての魔聖剣。
愚剣と女王まで残り僅か。数歩歩みを進めれば手が届く距離である。
身知らずの剣を従属させるべく女王は足を進めようとするもーー。

『そこまでだ』
「む……?」

突如、女王の行く手を阻むかのように剣の前に現れたのはふわふわの体毛を持つ一羽の白兎。
凛とした声とは対極に位置する、打ちひしがれた力ない女の声が、春姫の脳内に響き渡る。
感情の読み取れない獣の赤眼を女王の夜空の如き美しい瞳が冷たく見下ろす。

「何処の不躾者かと思えば、礼を知らぬ獣であったか。退け、今は汝の相手をする時間が惜しい」
『断る。彼女は「あの子」の種違いの妹。片方は私の主を手籠めにした悪霊、もう片方は私の主を殺しておいてその記憶すら忘却した鉄屑だ。
だけど生まれはどうあれ、二人は祝福された我が主の娘子。君のような不埒者にその身を任せるわけにはいかない』

尊大な女王の言い分に対し、不遜な態度で返す白き獣。売り言葉に買い言葉。一触即発の空気が流れる。
だが、両者の語調は鏡写しのように正反対。強気な姿勢の春姫に対し、白兎から滲みだす雰囲気は敗者のように弱々しい。
裁定者の道を阻む最後の障壁(プロテクト)にしては何とも頼りない。威嚇とも呼べる弱々しい言葉を無視し、か弱き獣の横を通り抜けようとする。

『ーーー通さないってニュアンスが伝わらなかったのかい?』
しかしそれは叶わず。縫い付けられたかのように地に足が固定され、ピクリとも動かすことはできない。
抑え込まれるような原因不明な力の出処は眼前の獣か。女王の王道を妨げる獣に冷たい視線を投げかける。

「もう一度言う。退け、下郎。妾は大義を為さねばならぬ。貴様の下らぬ些事に妾が付き従う道理はない」
『下らない些事とは主の忘れ形見を未だ想い続ける私の感情かい?その大義ためなら些事とやらを顧みることなく踏み躙っても構わないと?』
「然り。山折村(せかい)は全てに優先する。貴様の個人的な感傷も妾は知らぬ。妾が剣に適合するのではない。剣が妾に適合せねばならぬ』
『…………そうかい』

裁定者の言葉に獣は何かを考え込むかのように俯いた。
それと同時に春姫の足を地面に縛り付けていた謎の力が僅かだが緩む。
所詮は身の程を知らぬ獣。不敬にも女王を抑えようにもそう長くは続かないらしい。
白兎の問答には価値を見出せない。しかし彼女に威光を知らしめてなければ、魔聖剣の担い手にはなれぬ。
しばらく沈黙が流れ、石のように動かない白兎に対して春姫が力を解くよう命じる寸前、『まだ話は終わっていない』と疲れ切った女の声が聞こえた。

「……これ以上の問答は無意味であると言外に伝えたつもりであったが、畜生如きには理解できなかったか?」
『……そうだね。私程度の存在には到底理解が及ばない話だったよ。無駄な時間を使わせてしまったね。
それで、君が入れ込んでいる山折村だけど、禁忌の地と呼ばれる所以は当然知っているよね。何せ隠山祈の記憶を読み取ったんだから』
「無論。嘗ての山折村――隠山の里がただの小娘に業を背負わせ、悪神へと貶めたのは事実よ。原罪に幾重もの欺瞞を被せ、封じてきたのも事実。
しかして、原点はどうあれ今の山折村には罪があるまい。神楽春陽を始祖とした我が一族が不浄を許さず、この地を治めてきたのだ」
『…………だったら隠山祈と同じように人柱(ぎせい)となり、その存在すら隠匿された者達にも同じことが言えるのかい?』

一度しおらしくなったかと思えば、感情の読み取れない平坦な口調へと変わり、白兎は問いかける。
しかし、続く問いは山折村が忘却してきた罪に対するもの。春姫自身もその問いには僅かに顔を顰める。
神が降り立った不浄なき山折村。それが覆され、創生(はじまり)は穢れと共にあったことを知り、流石の春姫も衝撃を受けた。
しかし、自らの中で既に答えは出している。

「言う他はあるまい。現在(いま)に至るまでの歴史は彼らの犠牲と共にある。だが、流れた血は決して無意味なものではない。
隠山の地の明日を築く礎となっているのだ。その犠牲は尊ぶべきものであり、その否定こそ死者への冒涜ぞ」
『………冒涜、ね。君の一族の始祖ーー神楽春陽が娘の死肉を死した人々に与えて蘇生させたことも尊ぶべきことなのかな?』
「……ふむ、それは初耳だ。その問いへの答えは是。民の安寧を願った春陽の行動は過ちであり、その罪は我が一族に引き継がれていることは認めよう。
だが、それを愚行という一言で切り捨ててはならぬ。その犠牲の果てに安寧の地が生まれ、今までに繁栄に繫がったのだ」
『……つまり、君は神楽春陽と同じ立場に立たされた時、山折村を存続させるために同じことができる。そう言う事だね』
「当然であろう。我が大義は――山折村の存続は全てに優先する」
『ーーーああ、そう』

気の抜けたような返答と同時に女王を縛っていた謎の力が消える。
神楽春姫の強固たる意志の前に白兎は屈し、王道への道を譲り渡す。結果は既に決まっていた。
この問答は無意味だったかと問われればそれは否。更なる真実を知り、己の意志を強固にする通過儀礼。
魔聖剣の担い手となり、神楽春姫は山折村を新生させる使命を果たす。

「そなたとの問答、有意義であったぞ」
『ああ、私にとっても君を理解できる良い機会になったよ。これでーーー』

物言わぬ白兎に山折の女王は言葉をかける。白兎も同様に春姫へと穏やかな声で語り掛ける。
言葉を交わした後、春姫は地に突き刺さっている剣の柄に手を掛け、そしてーーー。

『ーーーー憂いも呵責もなく君達と縁を切れる良い理由もできた』
「なッーーーーー!?」

瞬間、足どころか指一本すら動かせない、先程とは比べ物にならない力が働き、春姫の身体を完全に硬直させた。
身体に纏わりつく謎の力は徐々に強まっていき、春姫の思考にすらも及び始めた。

『君が神の御子を自称し、無知陋劣な平均的「神楽」で本当に良かったよ。殊勝な態度で来られていたら後味が悪い』
「貴さ、ま………!!」

白兎の安堵の声に春姫は驚愕と怒りの混じった声で返す。
剣の柄を握ったまま硬直した春姫の横を通り、白兎は剣のすぐ後ろで春姫を見上げる。

『隠山祈を鎮めたのは間違いなく君の功績だ。もしも全て良い方向に事が運んでいたのなら君に力を貸し続けるのも吝かではなかったよ。
でもね、そうはならなかった。スポンサーの意を汲むことはなく、それどころか蔑ろにした。この結果は必然だ。潔く運命を受け入れたまえ』

口も硬直し、最早言葉を紡ぐことすらできぬ春姫に対し、感情の失せた冷めきった声を放つ。
今の春姫のできることは王道を妨げた傲慢な獣へと怒りの視線をぶつけることのみ。

『私「達」は少しでも望の生きる可能性を選びたい。だから君のように己の願望を優先することにした。
尤も君に与えたギフトを回収しても焼け石に水かもしれないけれど、ないよりはマシだろう。
それに「あの子」が目をかけた子供達の事も心配だ。君から回収した力は望と彼らの未来への礎とさせてもらうよ。君の尊いご先祖様のようにね』
「同……列に、語る……な……!」

女王を明らかに見下す畜生への憤怒からか、抑えつけていた『ナニカ』を振り払い、、途切れ途切れながらも口だけは動かせるようになった。
だが、反抗はそこまで。いつの間にか剣の柄から手が離れ、春姫の足から徐々に暗黒の世界から消えていく。
消えながらも、女王は己を拒絶した白き獣の目を見据える。

「な……んだ……その目……は……!」
只の獣とは思えぬ英知を帯びた赤い瞳。神楽春姫を見るその目は彼女が19年の人生の中で向けられたことのない、徹底的な嫌悪と侮蔑。
意識が闇から現世に引き戻される直前、怖気のするような冷え切った声が女王の頭に響いた。

『失せろ、小娘』
『貴様ら白痴の一族にも薄汚い忌み地にもほとほと愛想が尽きた』

『………………』
「春姫、さっきから黙りこくってるけどどうしたの?夢の中でウサミになんか言われたから拗ねてるの?」
『……大事ない。あの畜生の言の葉なぞ取るに足らぬものよ』
「そう……それならいいんだけど」

幅広の中国刀を携え、夜闇を疾走する乙女の身体を間借りする隠山いのりは宿主である神楽春姫へと問いかける。
意識が目覚めてからというもの、春姫の様子がおかしい。具体的には唯我独尊を地で行く彼女の雰囲気が不安定になり、どことなく危ういものへと変わってしまっている。

(だけど、それを言うのも何だかなぁ……)
いのりと春姫の関係は僅か二、三時間程度のもの。親類でもない自分が彼女の内面に踏み込んでいい物か躊躇われてしまう。
下手につつくと折角良好になりかけている彼女との関係を拗らせてしまうかもしれない。
すぐ隣で疾走する魔聖剣を携えた少年ーー山折圭介が心配そうな顔でいのりの憂い顔を覗き込む。

「いのりさん、春の奴がどうかしたんスか?」
「ううん、何でもない。そんなことより消えていた気配がまた二手に分かれて現れたみたい。多分どちらかに「天原くん」がいると思う」
「だったら俺らも二手に分かれましょう。天原って奴を保護したら合流するってことで」
「了解!」


「……はぁ、はぁ……!」
山折総合診療所より北の草原。夜闇の中、流星のように金色の髪をたなびかせながら少女が走る。
少女の名は天宝寺アニカ。夢幻の牢獄へと閉じ込められ、山折の厄そのものである女王「日野珠」に命を狙われつつも辛くも逃げおおせた正常感染者である。
しかし、アニカは完全に魔の手から逃れられた訳ではない。

――女王に隷属せよ。
――女王に命を捧げよ。
(くぅ……さっきからずっと、頭の中で何度も……!)

女王との邂逅から今に至るまで。頭に直接叩き込まれる指令(コマンド)が探偵少女の精神を蝕み続ける。
発信され続ける女王の下命を拒絶できる所以はアニカ自身の譲れぬ矜持か、それとも女王曰くはすみの強化により身体に宿った高魔力体質故か。
どちらにせよ早急に仲間と合流し、女王の正体や自分へ起きた異変を知らせねばならない。
不安を露わにした少女を励ますように彼女の懐にある御守りが暖かな光を放つ。

「Thanks、Ms.Rabbit」
御守りに宿る力ーー女王からアニカを逃し、異空間からの脱出を助けてくれた心優しき白兎に感謝を述べる。
アニカの視線の先ーー御守りが指し示す方向から感じるのはVH発生から自分と共にいてくれた少年の気配。
彼の元へと急ごう。そしてーー。

「改めまして今晩は。月が綺麗だね、天宝寺アニカ」
「ーーーーッ!!!」

何の前触れもなく、幼き天才少女の前に混沌たる秩序ーー「日野珠」の姿をした女王ウイルスが降り立った。
咄嗟に反応して身を翻そうとするも、小学生程度の運動能力では魔の力により強化された超常的存在を振り切ることは叶わない、
瞬く間に前へと回り込み、後ずさるアニカの首へと手を掛ける。

「あっ……!」
「さあ、ランデブーと洒落込もうじゃないか」

高魔力体質により無力化されるのはアニカを害する魔王由来の力のみ。
絞殺しかけた時に新たに確認した謎の閃光も高魔力体質に由来するものだと仮定するならば、その線引きさえ間違えなければ問題ない。
手首から下の筋肉に強化を施し、アニカの首を掴む握力は随時魔術によって筋肉疲労を回復させ続ける。
だが、それだけでは先程の謎の閃光による焼き回しになりかねない。
使用するのは浮遊魔術。少女を締めあげながら、天高く登っていく。

「あ……あ……!」
「ご覧。ビル10階分ーー30mにも及ぶ絶景だ。ワインも高級料理もないが、この景色だけでも十分お釣りがくるだろう」

少女二人の身体を生温い初夏の夜風が撫でる。
両者の反応は正反対。絞首による窒息と死の恐怖にアニカは身を震わせ、珠は撫でる風に心地よさを感じうっとりと目を細めた。
この高さであれば、手を離せば落下。受け継がれた高魔力体質の者と思われる閃光により運命視の目が封じられたとしても死からは逃れられない。

(安心して、アニカ。もうすぐ救援が来る。それまで時間を稼いでくれ)
従属の令の狭間で聞こえるメゾソプラノの声。紛れもなくアニカをあの異空間(ダンジョン)から脱出させてくれた白兎のものである。
絶体絶命の現状ではその言葉を信じる他はなく、締めあげられながらも不敵な顔を浮かべる。

「おや、どうしたのだね?この状況を打破する策でも思いついたのかい?それとも犯人には屈しないという君の矜持かね?」
「No… reason、to respond……!全能の女王を名乗るのなら……推理してみなさい……!」
「ふむ……そう来たか。テレパシー的な心理を読む異能もないし、魔王の力によるリーディングも恐らく君の体質によって弾かれると思われる。
宿主の記憶からすると、君は数々トリックを暴いてきたそうじゃないか。時間稼ぎの可能性の方が高いが少しばかり付き合ってあげよう」
「ぐ……ぁ……!」

アニカの首を締めあげつつ、顎に手を当て考え込む仕草をする女王。
可能性が高いと言っていた時間稼ぎ。女王の目測に探偵は冷や汗を流す。
不敵な仮面に隠された焦燥を悟られぬよう、わざとらしく悩まし気な顔を向ける女王に無理やり挑発的な笑顔で睨み返す。

「Take your time.……Think ……slowly……ぐぅ……!」
「ああ、ゆっくりとそうさせてもらうつもりさ。それにーーー」

ぐにゃり。愁いを帯びた表情から一転。天真爛漫とは程遠い悪意に満ちた笑顔へと変わる。
その変容に数多の凶悪犯、数多の悪意を見てきた探偵少女の顔が強張る。

(ーーーまさかッ……!!!!)
アニカの脳裏に響き渡る驚愕の声。同時に御守りに込められていた白兎の気配が消える。
その事実に蒼褪めるアニカの前に、女王は言葉を紡ぐ。

「ーーー運命が動き出す」


勇猛精進。狂瀾怒濤。闇が踊り、暴風が吹き荒び、地が砕かれ、銀の一閃が煌めく。
幾度となく激戦が繰り広げられてきた山折の大地に再び戦の嵐が巻き起こる。

大蛇の如き厄の鞭が躍動し、空を裂き大地を抉りながらターゲットを追尾する。
襲い来る触手を剣士ーー八柳哉太は聖刀の切り落としーー八柳流『蠅払い』にて悉くを打ち祓う。
しかし安心するのも束の間、追撃とばかりに赤鬼ーー大田原源一郎の縮地により一気に距離を詰められる。
流星の速度で振り下ろされる鉄槌。その威力はクレーターを作り、まともに食らえば原型を留めない程すり潰されるだろう。
だが振り下ろした先の獲物ーー聖刀の担い手は凡才では非ず。

「ーーーーハッ!」
墜天する隕石を刀身にて受け、波打つ柳のように受け流す。八柳流「空蝉」。
同時に返し震脚と同時の踏み込みの斬り返し「天雷」にて大樹のような上腕の肉を切り裂く。
骨ごと叩き折る重斬撃を受けた傷は異能の力にて瞬く間に塞がる。
傷が完全に塞がる寸前、拒魔犬、ワンタの牙の一閃が広がる傷口へと突き刺さり、回復を阻害する。
だが剣士と同じく赤鬼も只人では非ず、変異前は武術の達人であった。
脇を駆け抜ける二者。その刹那、地に沈めた片足を軸にもう片方の足を旋回させる。
独楽のような回転蹴り。風圧すらもだけ気に匹敵する一撃。

「キルルルルゥオオオオオーーーー!」
哉太とワンタに送られる暴風。大風タカコによる魔力を帯びた疾風は二者の肉体強度を底上げし、横殴りの風を耐えさせる。
同時に追い風となり、紙一重で恐るべき脚撃から紙一重での回避を成功させた。
僅かに巨人が体勢を崩す。踏みとどまる僅かな隙間を縫って現れたのは長棍を構えた斉天大聖、三猿。
彼の魔術で強化された長棍が片足を強かに疾走と同時に強かに打ち付け、巨躯に蹈鞴を踏ませ、明確な隙を作る。

「…………」
お供を連れた剣士と赤鬼の戦場から少し離れた場所で戦況を見極める召喚士、犬山うさぎ。
戦士達は庇護対象でもあり軍師でもある彼女を巻き込むまいと危険がギリギリ及ばない場所で待機させていた。
魔王軍と戦ってきた経験からかうさぎも戦士達の意図を理解し、最善手を打つタイミングを計っていた。

戦闘は拮抗。されど綱渡り。赤鬼から一撃でも受ければ戦闘者達は瞬く間に肉塊へと化すであろう。
生命力の消費は大きいが、まだ干支時計による召喚は可能。
目を閉じ、時計をイメージする。静止した時針を動かし、道理を捻じ曲げる。
追加召喚する眷獣を選択。同時に干支時計を作動させる。


――起動確認(セット)
――目標・捕捉(ターゲット・ロック)
――黒槍・装填(バレル・リロード)
――発射(ファイヤ)

因果が、収束する。


「ーーーえ?」

衝撃と共に少女の胸から一凛の彼岸花が咲く。
獣の奏者が見下ろした視線の先には紅い涙を滴らせる魔力を帯びた漆黒の槍。打ち込まれた戒めの杭は直後に黒霧へと変化し、雲散する。
裏返された因果は正しく覆され、元の形へと戻る。逆巻に捩れた懐中時計の螺子は修正され、正しい時を刻み始める。
きぃきぃ。頽れる最中、聞こえてきたのは肩に乗っていた小さき友――夢幻の迷宮に手召喚され、少女に寄り添い続けた山ネズミの悲痛な鳴き声。


狩猟の本質は獲物(ターゲット)の命をいかに効率的に、確実に奪い取ることにある。
何も弓矢で射抜いたり、鉄砲で撃ち落としたりするだけじゃない。それぞれのケースで最適解を選択するのが大事なんだ。
「下手な鉄砲も数撃てば当たる」なんて格言があるけど、それではあまりにも非効率的で確実性がない。
だから、私は罠を張ることにしたんだ。
君達を不思議な国(ワンダーランド)に招待する前、運命(イベント)が確実に怒る場所にね。
隠匿・黒槍生成・自動起動・照準固定・狙撃の魔術(コード)を組み合わせて、運命点(キルポイント)への配置。
特に起動トリガーの条件の設定――生命力の一定値までの減衰確認のプログラミングには梃子摺ったよ。
これを片手間で行える魔王や彼の娘のセンスは流石としか言いようがない。
……ん?何故私が魔王の事を知っているのかって?いや、君の顔を見れば想像がつくよ。
まあ、今更隠す必要もないし、この際だから教えてあげようか。特別サービスだ。感謝したまえよ、天宝寺アニカ。


いのちがうしなわれていく。
すごくさむい。からだがおもい。めのまえがくらくなっていく。
うけつがれてきたおもい。たくされたねがい。わたしのいのり。
すべてがいしきとともにだんだんとうすれていく。
おとうさん。おかあさん。みそらちゃん。ケージ。さとる。あねさま。おねえちゃん。
みんなのおもいをうらぎって。なにものこせなくて。いきてかえれなくて。わるいこで、ほんとうにごめんなさい。

『望……望……!あ、あああ………!そんな……嘘……嫌だ……!』
みみもとできこえてくるかなしそうなこえ。だれのこえなんだろう。かおをむけてみる。
ふわふわでぽかぽかなちいさなからだ。むかしからずっとみまもってくれたわたしのさいしょのともだち、ウサミちゃんがいた。
ぽつぽつとてにしずくがおちるかんかくがする。ウサミちゃんが、ないている。ルビーいろのきれいなひとみから、ながれていく。
なかないで。
なんとかうごくゆびでなみだをぬぐってあげても、ずっとながれてくる。

『ごめんなさい……ごめんなさい……。私はまた何も……。何もかも手遅れになって……!』
ううん、。それはちがうよ、ウサミちゃん。わたしはあなたたちがいたから。あなたたちがずっとそばにいてくれたから、いままでがんばれたんだよ。
スネスネちゃんも、トラミちゃんも、ひなたさんも、けいこちゃんも、あねさまも、おねえちゃんも。だれもたすけられなかったけど。
それでもわたしは「いぬやまのぞみ」としてのおもいをとりもどしたせんたくをこうかいしていないよ。
ちゅうこくをむししてごめんなさい。それと、まもってくれてありがとう。
わたしはもうおしまいだけど、あなたたちのいのちはまだつづいていく。だからーーー。

「おねがい……みんな……どうかーーー」
ふわり。ことばがおわるまえ、つめたかったからだがぽかぽかとあたたかくなってくる。やわらかいひかりがわたしをつつんでいく。
まどろみとともにいままでのたのしかったきおくがめぐる。
ありがとう、みんな。わたしのじんせい、とてもしあわせだったよ。


「う、おおおおおおおおおッ!!!」

少年の悲痛な叫びが夜闇に木霊する。
命を賭して守護るべき存在であった少女。厄災で命を落とした彼女の姉に託された希望。
恵子や勝子のように手の届かぬ場所で殺された訳ではない。
選択を誤らなければ未然に防げた不意打ち。哉太が盾になれば落とさずに済んだ大切な命。
犬山うさぎの死は共に戦っていた彼女の眷獣達にもあまりにも強すぎる影響を与えた。
その衝撃により綱渡りの縄が断たれ、戦況は一気に傾く。

愛する主の命が潰えた瞬間、数秒前まで剣士と共に果敢に赤鬼に立ち向かっていたワンタは石像のように動きを止める。
魔力の風を送り続けていたタカコは一瞬だけ動きを止めた後、空を切り裂くような嘶きと共に電光石火の速度で西へと飛び去って行く。
魔術と棍術による遊撃を担当していた三猿はうさぎが倒れ伏した一目散にうさぎが倒れ伏した場所へと向かっていく。
崩壊する連携。その明確な隙を赤鬼が見逃すはずがない。

「■■■■■■■ーーーーー!!!」
人の言葉ですらない咆哮。その直後、彼に纏わりつく霧状の厄が膨れ上がり、一気に爆発する。
撒き散らされる暗黒。咄嗟に哉太はバックステップで有効範囲を離脱して直撃は免れたものの、爆風の風圧は凄まじく、いとも容易く彼の身体を吹き飛ばした。
狛犬ワンタは避けることすらせず、厄を一身に受ける。暗黒により分解されていく身体。崩壊する自我。全てが消し飛ぶ直前、彼の瞳から流れる一筋の涙。
最愛の友の願いも空しく、大切な存在を守り抜く使命も果たせず、主無き天の番犬は冥府へと旅立った。

赤鬼の最優先は減衰を続ける理性を取り戻すための食事。たった今、女王より賜った下賜より食皿に備えらえた贄は2つ。
たった一人、僅か数十メートル先に飛ばされた剣道少年か。その反対側にいる女王の手によって屠殺され、猿と兎一匹ずつ傍らに従えた召喚士の肉袋か。
一早く己の技を取り戻し、女王の元へと衰残するために選んだ完全食は、手早く捕食可能な少年の方だった。

「くっ……!!」
供を失った剣士へと黒い闇をまき散らしながら突撃する赤鬼。大型トラックの質量を持ちながらスポーツカーもかくやの速度で肉薄する。
タカコの魔風による援護、ワンタによる攻撃の阻害(インターラプト)、三猿による遊撃。
それらが失われた今、例えVH発生後から数多くの強敵達と戦い、経験を身に宿してきた少年といえど、技と適応力だけでは赤鬼の餌食となるだけであろう。
ーーーー救援がなければ、の話だが。

「ーーーらああああああああああああああッ!!!」
裂帛の叫びと共に一条の光が漆黒を切り裂いて奔り、流星の行く先は接近する巨星。
輝星の担い手たる少年は、哉太の前へと立ち、魔力の光を迸らせた剣を構え、襲い来る鬼(オーク)へと切っ先を向ける。

「爆ぜろッ!魔聖剣ッ!!」
瞬間、切っ先に収束した光が炸裂し、周囲一帯を真昼のように照らし出す。
同時に質量を持つエネルギーへと変換された魔力が迫る赤鬼を纏う闇ごと後方へと吹き飛ばした。
哉太の目が見開かれる。眼前にいる彼は縁を互いに断ち切ったかつての友。
VHで再会を果たしてから協力し、喧嘩をし、殺し合った男。
闇纏う厄神に連れ去らわれた彼は、哉太へと振り返る。

「よう、助けに来たぜ。八柳哉太」
「山折、圭介……!」

光が収束し、哉太の懐に小さな御守りが現れる。
それは、淡い光を放っていた。


「ーーーーと、まあ要約するとこんな話だ。結局のところ、君達はあの亡霊から逃げずにいれば全てが丸く収まる筈だったのさ。
結果論にはあるが、君達の判断のお陰で私は九死に一生を得た。これも運命の導きと言う奴かな」
「く……うぅぅ………!」

上空30メートル。初夏とは思えない冷たい風が吹く中、首を掴まれたアニカは呻ぎ声を漏らす。
歯を食いしばり、青い瞳に涙を滲ませる異分子に対し、女王は悪意に満ちた笑みを向けた。
女王の一方的な会話の中、彼女の『狩猟』により遠方にいる仲間、犬山うさぎが命を落としたを知らされた。
殺傷を未然に防げず、親しくしてくれた優しい友達の命が失われた。その事実が刃となり、アニカの未成熟な心を抉った。

ーーーギュオオオオオオオオオオオッ!!!!
「ーーーッ!!」「おやおや」

耳を劈くような咆哮が轟き、浮遊する少女二人へと巨大な影が風を纏いながら突撃してくる。
その影の正体は巨大な怪鳥。月明りに照らされた細面の貌は、本当に獣であるのか疑わしく思えるほど激情に塗れていた。
ターゲットは紛れもなく女王「日野珠」。感情を殺意一点に絞り、主の友であるアニカ諸共撃墜すべく特攻(バードストライク)を仕掛ける。
到達まで僅か。光陰の如し突撃は女王を鎮めるかに思われたが。

「ーーー知ってるかい?太陽へと飛び立ったイカロスは偽りの羽を焼かれ、天から堕ちたのだよ」
女王の頭上に出現する巨大な黒炎球。到達する数メートル前で怪鳥に放たれた。
災厄の名を冠する大風タカコ。黒い太陽を継いだ厄の化身に一矢報いる事は叶わず、無謀の代償をその身で支払う事となった。
墜落する最中、彼女が思い出したのは故郷ーー異世界の空。背中に乗せた友、召喚士イヌヤマの無邪気な笑い声。
貴女の眷獣でいられたこと、それが私にとって一番の幸せでした。
今際に抱いた思いは夜風に吹かれ、肉体と共に灰に変わっていく。

「……何がしたかったのだろうね、彼女」
「許……さない……!絶対に……許さ……ない!!」
「やれやれ、困ったものだ」

愛らしい顔を怒りに歪ませるアニカの視線を受け、女王は肩を竦める。
現状、アニカが打てる手はない。それでも「日野珠」に擬態した殺人者には心だけでも負けるわけにはいかない。
幼気な少女の決死の抵抗に、女王は嗤う。

「そういえば、君が考案した現状を打破する策はどんなものか、推理してみろって言ってたよね?」
「Try to……answer……!」
「それなんだがね、どうにも私程度の頭脳では答えに至らなかったよ。おめでとう、天宝寺アニカ。女王(わたし)を出し抜いた君の勝ちだ。
ーーーだから、何の捻りもない手段で応えさせてもらうよ」
「ーーーーあっ」

屈せず最期まで抗った探偵へ僅かばかりの賛美の言葉を贈り、女王は命綱と化していたアニカを掴んでいた手を離した。
明晰な頭脳が回転を止め、動きを止める。地上30mからの落下の中、脳裏に過ぎるのは最初に解決へと導いた事件。被害者の死因は落下死。
ああ、被害者になった女の子はこんな風に命を落としたんだ。
そんな間抜けな感想を抱いて、地面へと叩きつけられる瞬間ーー。

「間、に、合ええええええええええええええッ!!!」
女性が発したとは思えない怒号と共に身体を抱きかかえられる感覚を覚える。
目を丸くし、自分を助けたと思われる人物を見上げる。
神の彫刻と見間違えんばかりの美貌に張り付いた快活な笑顔。風にたなびく美しい黒髪。
パートナーの話していた人物像とは違うが、アニカは目の前の女性を知っている。

「アナタは……カグラハルヒメ……?」
「え……ええ、そうよ。私が神楽春姫。山折村の始祖の地を引く巫女、神楽春姫!」
「誰かと思えば、山折村を穢し続けた一族の末裔ーーいや、その取り巻きになった亡霊か。
丁度いい。私の進歩のために踏み台になって貰うよ」

神楽春姫らしき人物が手慣れた様子でアニカを下し、天高く登る女王を見上げる。
下ろされた直後、視線を下げるとポケットに仕舞っていたいた御守りが再び仄かな光を放っていた。

【D-2/草原/一日目・夜中】

八柳 哉太
[状態]:異能理解済、疲労(特大)、精神疲労(大)、喪失感(大)
[道具]:脇差(異能による強化&怪異/異形特攻・中)、打刀(異能による強化&怪異/異形特攻・中)、双眼鏡、飲料水、リュックサック、マグライト、八柳哉太のスマートフォン、白兎の御守り
[方針]
基本.生存者を助けつつ、事態解決に動く
1.うさぎちゃん……。
2.アニカを守る。絶対に死なせない。
3.圭介と共に目の前の鬼を討伐する。
4.村の災厄『隠山祈』を何とかしてあげたい。
5.いざとなったら、自分が茶子姉を止める。
6.ゾンビ化した住民はできる限り殺したくない。
[備考]
※虎尾茶子と情報交換し、クマカイや薩摩圭介の情報を得ました。
※虎尾茶子が未来人類発展研究所関係者であると確認しました。
※リンの異能及びその対処法を把握しました。
※広場裏の管理事務所が資材管理棟、山折総合診療所の地下が第一実験棟に通じていることを把握しました。
※『神楽うさぎ』の存在を視認しました。

山折 圭介
[状態]:疲労(大)、眷属化進行(極小)、深い悲しみ(大)、全身に傷、強い決意
[道具]:魔聖剣■、日野光のロケットペンダント、上月みかげの御守り
[方針]基本.厄災を終息させる。
0.うさぎがいると思わしき場所へと向かう。
1.女王ウイルスを倒し、日野珠を救い出す。
2.願望器を奪還したい。どう使うかについては保留。
3.『魔王の娘』の願い(山折村の消滅、隠山いのりと神楽春陽の解放)も無為にしたくない。落としどころを見つけたい。
4.春……?
[備考]
※もう一方の『隠山祈』の正体が魔王アルシェルと女神との間に生まれた娘であることを理解しました。以下、『魔王の娘』と表記されます。
※魔聖剣の真名は『魔王の娘』と同じです。
※宝聖剣ランファルトの意志は消滅しましたが、その力は魔聖剣に引き継がれました。
※山折圭介の『HE-028』は脳に定着し、『HE-028-B』に変化しました。

大田原 源一郎
[状態]:ウイルス感染・異能『餓鬼(ハンガー・オウガー)』、眷属化、脳にダメージ(特大)、食人衝動(中)、理性喪失
[道具]:防護服(内側から破損)、サバイバルナイフ
[方針]
基本.女王に仇なす者を処理する
1.女王に従う
[備考]
女王感染者『日野珠』により強化を施されました。

【E-2/草原/一日目・夜中】

天宝寺 アニカ
[状態]:異能理解済、衣服の破損(貫通痕数カ所)、疲労(大)、精神疲労(大)、悲しみ(大)、虎尾茶子への疑念(大)、強い決意、生命力増加(高魔力体質)、眷属化進行(極小)
[道具]:殺虫スプレー、斜め掛けショルダーバッグ、ビニールロープ、金田一勝子の遺髪、ジッポライター、研究所IDパス(L2)、コンパス、飲料水、医療道具、マグライト、サンドイッチ、天宝寺アニカのスマートフォン、羊紙皮写本、犬山家の家系図、白兎の御守り
[方針]
基本.このZombie panicを解決してみせるわ!
1.早く皆と合流して、「Queen Infected」の事を知らせなくちゃ!
2.私を助けてくれたMs.Rabbitの事、ウサギに聞いてみましょう。
3.あの女(Ms.チャコ)の情報、癇に障るけどbeneficialなのは確かね。
4.やることが山積みだけど……やらなきゃ!
5.リンとMs.チャコには引き続き警戒よ。特にMs.チャコにはね。
[備考]
※虎尾茶子と情報交換し、クマカイや薩摩圭介の情報を得ました。
※虎尾茶子が未来人類発展研究所関係者であると確認しました。
※リンの異能を理解したことにより、彼女の異能による影響を受けなくなりました。
※広場裏の管理事務所が資材管理棟、山折総合診療所が第一実験棟に通じていることを把握しました。
※犬山はすみが全生命力をアニカに注いだことで、彼女の身体は高魔力体質に変化し、異能『魔王』に対する強力な耐性を取得しました。
※『神楽うさぎ』の存在を視認しました。
※日野珠が女王感染者であることを知りました。
※白兎の存在を確認しました。

神楽 春姫
[状態]:疲労(極大)、眷属化進行(極小)、額に傷(止血済)、全身に筋肉痛(極大)、魂に隠山祈を封印、精神不安定(無自覚)、白兎への怒りと屈辱(大)、???喪失、隠山祈人格
[道具]:柳葉刀、血塗れの巫女服、研究所IDパス(L1)、[HE-028]の保管された試験管、山折村の歴史書、研究所IDパス(L3)
[方針]
基本.妾は女王……?
1.女王ウイルスを止め、この事態を収束させる
2.日野珠は助け出したいが、それが不可能の場合、自分の手で殺害する
3.襲ってくる者があらば返り討つ。
[備考]
※自身が女王感染者ではないと知りましたが、本人はあまり気にしていません
※研究所の目的を把握しました。
※[HE-028]の役割を把握しました。
※『Z計画』の内容を把握しました。
※『地球再生化計画』の内容を把握しました。
※隠山祈を自分の魂に封印しました。心中で会話が出来ます。
※隠山祈は新山南トンネルに眠る神楽春陽を解放したいと思っています。
※隠山祈と自我の入れ替えが可能になりました。
 隠山祈が主導権を得ている状態では、異能『肉体変化』『ワニワニパニック』『身体強化』『弱肉強食』『剣聖』が使用可能になりますが、
 周囲の厄を引き寄せる副作用があり、限界を超えると暴走状態になります。
※白兎の干渉により???が失われました。

日野 珠
[状態]:疲労(小)、女王感染者、異能「女王」発現(第二段階途中)、異能『魔王』発現、右目変化(黄金瞳)、頭部左側に傷、女王ウイルスによる自我掌握
[道具]:研究所IDパス(L3)、錠剤型睡眠薬
[方針]
基本.「Z」に至ることで魂を得、全ての人類の魂を支配する
1.Z計画を完遂させ、全人類をウイルス感染者とし、眷属化する
2.運命線から外れた者を全て殺害もしくは眷属化することでハッピーエンドを確定させる
[備考]
※上月みかげの異能の影響は解除されました
※研究所の秘密の入り口の場所を思い出しました。
※『Z計画』の内容を把握しました。
※『地球再生化計画』の内容を把握しました。
※女王感染者であることが判明しました。
※異能「女王」が発現しました。最終段階になると「魂」を得て、魂を支配・融合する異能を得ます。
※日野光のループした記憶を持っています
※魔王および『魔王の娘』の記憶と知識を持っています。
※魔王の魂は完全消滅し、願望機の機能を含む残された力は『魔王の娘』の呪詛により異能『魔王』へと変化し、その特性を引き継ぎました。
※魔術の力は異能『魔王』に紐づけされました。願望機の権能は時間と共に本来の機能を取り戻します。
※戦士(ジャガーマン)を生み出す技能は消滅し、死者の魂を一時的に蘇らせる力に変化しました。
※異能「???」に目覚めつつあります。


戦場の喧騒から離れた自然の中、仄かな月明かりが季節外れの白百合が咲き誇る小さな花園を包み込む。
白百合のベッドの中心には一人の少女ーー犬山うさぎが身体を横たえていた。組まれた彼女の手には季節外れの一輪の赤いアネモネ。
身体には傷一つなく、安らかな顔で眠りについていた。だが、もう二度と眠り姫は目覚めることはない。

『望…………。こんな、粗末なベッドしか用意できなくてごめんね……』
眠るうさぎを取り囲むのは三匹の獣。長棍を背負った猿、二足歩行の山ネズミ。そして、ふわふわの毛並みの白兎。
全員がうさぎの異能『干支時計』に応えて、彼女を守るべく山折村に召喚された眷獣である。
致命傷となった心臓の傷は猿こと斉天大聖が魔術にて失った血液ごと治療を施し、生前と変わらない綺麗な姿に戻した。
召喚士が眠る花園と供えられたアネモネは白兎と山ネズミが魔術で生み出されたもの。
白百合の庭園の下には魔法陣が敷かれ、こちらは隠匿を始めとした魔術式が組み合わされており、その精度はかの魔王が生み出した術式にも匹敵する。
せめて、これ以上彼女が穢されないために。女王にも、山折村にも、特殊部隊にも、研究所の薄汚い連中にも手を出させないために。
たった3匹の見送り。噛みしめるのは己の無力。願うのは大切な家族と友達のため、世界を超えて精一杯生きてきた隠山望の安寧。
黙祷の後、3匹の眷獣は眠る愛しき主に背を向けて歩き出す。主を失った今、自分達を縛るものはない。なくなって、しまった。

戦場とうさぎが眠る中間地点で、3匹の獣は足を止める。
先頭を歩いていた白兎ーーウサミは振り返り、沈痛な表情を浮かべる三猿とヤマネに濡れそぼった紅い瞳を向ける。
直後、ウサミの前に魔法陣が展開され、彼女の足元にチェーンのついた懐中時計ーー召喚士イヌヤマの異世界における召喚術『干支時計』の具現が現れた。
己の魔術でうさぎの身体から干支時計を転送した白兎は器用に頭を動かし、付属のチェーンを自らの首にかける。

『…………私達の主は眠りについた。主亡き今、彼女の願いを聞き入れて逃亡するのは自由だ。そう望むのであれば干支時計から解放する。
だけどもし望の魂を、望を大切に思ってくれた人達を、穢れた隠山の地や妄執に取り憑かれた王の贄として献上されるのを拒むのであれば、私についてきてくれ』

白兎の問いに二匹の獣は頷きを返し、彼女へと一歩歩み寄る。同じく干支時計の文字盤に書かれた数字が弱光を放つ。
既に殺されたスネスネとトラミ、ワンタ、タカコ以外の眷獣が同意したとみて、ウサミは話を進める。

『分かった。これから私達は望の遺志に背き、自分達を使い潰してでも目的を果たすことになる。望と同じ場所に行けないと覚悟を決めるんだ。
ーーーー私達に、王はいらない』

【犬山 うさぎ 死亡】
犬山 うさぎの遺体はD-2にて死亡した直後の状態で保存されています。基本的に発見されることはありません。
※犬山 うさぎの異能『干支時計』は白兎が懐中時計として顕現させました。また、犬山 うさぎの異能の進化を受けて魔力による封印された眷獣の本来に近い姿での自由召喚が可能になりました。
※D-2には白兎、三猿、山ネズミが顕現しています。


128.机上の最適解 投下順で読む 130.彼女たちのささやきが聴こえる
125.地下3番出口 時系列順で読む
地下3番出口 犬山 うさぎ GAME OVER
山折 圭介 遍くデストルドー
大田原 源一郎
日野 珠
神楽 春姫
八柳 哉太
天宝寺 アニカ

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最終更新:2024年06月12日 22:44