診療所のすぐ傍を、女児のような小さな影がよたよたと走り抜ける。
顔色は土気だち、息遣いは荒く、一目見て重傷だと分かるだろう。
そんな彼女は最先端設備の整った診療所へ治療を求めてやってきたのではない。
むしろ逆――『未来人類発展研究所』と決別し、その尖兵から逃げ延びてきたのだ。
「ハァ……! ハァ……! ぐぅッ!」
銃弾によって体内を掻きまわされ、刃物によって背はざくりと斬り裂かれ、多くの血が流れ出た。
肉体の無理を押してウイルスの研究をおこない、巣くう者としての呪いを浴びせかけられた。
熱を帯びた鈍い痛みに苛まれ、少しでも気を抜けば意識は朦朧となりそうだ。
幻聴すら聞こえてくる。
――先生、助けて……!
ここにいないはずの珠が懇願する。
渇いた目をした特殊部隊の男に命を狩り取られ、研究所の実験室でサンプルとして腑分けをされる光景を幻視する。
――珠ちゃんのこと、どうかお願いしますっ!
――私は力になれませんでした。けれど、先生ならきっと……!
死んだはずの茜とみかげが耳元で囁く。
生き延びたスヴィアに珠を託す言葉が聞こえる気がする。
あるいは幻聴ではなく、異能が死者の声すら聴こえるように進化したのだろうか。
もう分からない。そんなことを調べる余力はない。
ただ、一つだけ言えることは。
(まだ朽ちてなるものか……!)
そんな身体で一体何ができる、今は休め。
あなたが倒れれば、みんなもきっと悲しむ。
何も事情を知らない者が彼女を目にすれば、そのような言葉を投げかけてくるだろう。
――ふざけるな。
一度でも足を止めてしまえば、もうきっと、再び歩み始めることはできない。
目の前の地獄(げんじつ)に屈し、一度心が折れてしまえば、もう未来には届かない。
自らのハッピーエンドを見つけ出してみせると啖呵を切った彼女だが、その実、取れる選択肢はもう多くはない。
タイムリミットまで残り30時間を切った。
そんな厳しい状況下で、最後の特殊部隊の追跡を振り切りながら成果を掴まねばならない。
想像を絶する険しい道のりだ。
HE-028ウイルスの真理に達した、開発の第一人者が女王の治療は不可能だと断言したのだ。
それはすなわち、研究所で取り扱われたすべての成果が、珠の治癒に繋がらないという死刑宣告に等しい。
スヴィア以上に優秀な先達の歩んだ道のりは、すべてがバッドエンドに繋がる道のりだ。
直接女王を治療せずに収束させる方法として提言されていた隔離策にしても、研究所内部でのレポートを見るに望み薄だろう。
理論上どれほど離れていても女王との通信が可能だという、量子力学に見られるような奇妙な性質がウイルスに観測されている。
30時間で量子もつれを解き明かすことができれば、ノーベル物理学賞の受賞は内定したに等しい。
それほど難解な原理だ。
仮に錬や烏宿暁彦と出会ったところで、一切の解決策は浮かび上がってこないだろう。
彼らが長谷川たちを出し抜いて研究を進めていたとは思えない。
つまるところ、道なき道を探し出し、歩まなければならないのだ。
それでも。
「希望は……まだ……ある……!」
ただの強がりではない。
梁木らの結論は絶望的な宣言であるが、考え方を変えれば、正攻法は切って捨ててしまっていいということでもある。
無数の可能性をばっさり切り捨てたことで、埋もれていた新たな道も見えてくる。
すなわち、スヴィアが希望を見出したのは、彼らの領域外の要素。異能のさらなる進化だ。
ウイルスを否定する異能では治癒は不可能だという。
だが、その異能がさらに進化すれば、一体何が起こるのか?
さらにさらに進化すれば、どこに行き着くのか?
それは蓋を開けてみないと分からない。
その希望は、砂漠で揺らめく蜃気楼のようなもの。
実在すら定かではない。掴んだ瞬間に霧散してしまうかもしれない。
あるいは、地獄に垂らされた一本の糸。
縋りつくにはあまりに脆弱で、今この瞬間にぷつりと切れてしまうかもしれない。進み切ったその先は天獄かもしれない。
けれど、断崖絶壁のような悪路であろうとも、目的地が地平の彼方であろうとも、道が断たれたわけではないのだ。
創は無事。与田の異能を取り込んだ隠山祈は春姫の中に封じられたが、いまだ健在。
ならば諦めるには早すぎる。
もはや科学者としての王道はすべて切り捨てた。
科学者としてのスヴィアが決して進み得なかった道に全生命を賭けるしかない。
これが研究所と決別したスヴィアの取れる唯一の道である。
生徒を守るためなら、この瀕死の肉体を捧げたっていい。
隠山祈に身体を明け渡してかまわない。
だから運命よ、もう一度機会を与えておくれ。
『てめえ、付くならもっとマシな嘘をつきやがれ!!』
『チャコおねえちゃん、どうしたの?!』
『虎尾さん、やめて!』
風に乗って届いたのは、
虎尾 茶子の怒声と、それを諫める声。
極限のストレスなのか、スヴィアの五感はいつになく鋭敏だ。
幻聴ではない。
暗がりの向こうから響いてくる声を確かに捉えた。
平時であればかかわりを避け、踵を返すような剣吞な雰囲気の集団。
けれどもスヴィアにとっての唯一の前に進む道だ。
光に縋る蝶のように、声のもとへ、ふらふら、ふらふら、ふらふらと近寄っていく。
■
診療所の正面を東西に横切る道は、かつては湖のほとりの遊歩道であった。
村人たちは渡鳥のさえずりに耳を馳せ、虫たちの囁きを楽しみ、豊かな生態系、その営みを享受し心を休めていた。
近年もまた、診療所に詰めかけては世間話をおこない、世情に塗れて汚れたこころを癒した老人たちが、
湖上を吹き抜ける爽やかな風を受けながら帰路につくのが定番となっている。
そんな老人の憩いの小路を行くのは、四人のうら若き男女。
しかし一行の雰囲気は、和気あいあいとは程遠く。
四人の間には重い沈黙の帳が降り、ときおりかわされる言葉は、創による極めて事務的な説明と報告のみだ。
彼方を睨みつける茶子は、苛立ちを隠す様子はない。
そんな茶子への不信感が所作に滲み出る雪菜と、それを牽制してぶー垂れるリン。
せめて間違いが起こらないようにと、雪菜とリンの間に入る創の表情は苦悩に満ちている。
(なんで、そんな取り澄ました顔ができるの?
悪かったとも思わないわけ?)
雪菜の心の奥底からふつふつと湧き出してくる苛立ち。
不満はずっと燻っていたが、発露したタイミングは明確だ。
すさまじい剣幕で創につかみかかった、先の茶子の感情の発露。
よもや流血沙汰に至りかけた先ほどの衝突は、雪菜の敵愾心を大いに刺激した。
創に謝罪の一言もなく、従うのが当然だと言わんばかりに偉そうに指示を出し、一切悪びれることはない。
自分が信用されていないのはまだいい。
村人でもなく、魔王や呪いと戦う力もないお荷物だ。
興味を持たれていないことなど分かり切っている。
茶子にとって雪菜とはただの便利な道具。移動可能なマスターキーだ。
マスターキーの機嫌を伺う所有者など存在しないだろう。
だが、創とは歪ながらも信頼関係を築き上げたのではなかったのか。
対等な関係として認め合ったのではなかったのか。
世界の裏も表も、人の表も裏も、何もかも見透かした態度を取り続けておいて、人の感情の機微に疎いはずがないだろう。
もし彼女が人の感情を理解できないサイコパスなら、魔王を徹底的に貶める作戦などうまく行くはずがない。
知識も経験もただの女子生徒でしかない雪菜と比べて、茶子は隔絶した領域にある。
なのに敢えて他者の心を慮らない選択をとり続ける理由があるというのか。
言葉の選択一つで、固く結ばれた友との絆が朽ち果ててしまうことすらあるのに。
それとも、最初から創すらも取るに足らないものだと見做していたとでもいうのか。
彼もまた、簡単に替えが効くものだと考えているのか。
(ダメ。気持ちを落ち着けて……!)
安易な感情の吐露も、浅薄な考えの元に吐かれた言葉も、取り返しのつかない亀裂を生む。
それは雪菜にとっての人生の自戒だ。
それで親友を、恩師を、大切な人たちをみすみす失いかけたのだ。
漏れ出す悪感情を抑えつける。
極力考えが表に出ないように努める。
自分が悪感情を飲み込めば丸く収まる。
母の機嫌を伺い過ごした幼少期のように、こころを抑え付ければこの場は収まる。
なのに。
「セツナおねえちゃんでしょ。さっきからなんかぶつぶついってくるの。
しゃきっとしなきゃダメだよ!」
この一行で最もか弱い乙女は、雪菜が覆い隠そうとしている悪感情を掘り出しては、正義の御旗を掲げて弾圧を施行する。
独裁者の子飼いの親衛隊のように、敵性勢力をめざとく見つけ出しては、「指導」をおこなう。
「……ごめんなさい、まわりに配慮できてなかった。血を流しすぎたのかもしれません」
「チャコおねえちゃんにメーワクかけちゃメッ! だよ!」
「リンちゃん、悪いね。ホントにリンちゃんはしっかり者だな」
「そんなことないよ! チャコおねえちゃんがタイヘンなときなんだから、リンがしゃんとしないと、だもんね!」
それとも、学級委員長でも気取っているのか。
リーダーにむくれて反発する不良少女には、その異能はさぞ使い出があるだろう。
『守らなきゃ。大切な人を。
ほかでもない、あなた自身が』
ぼんやりとそんなニュアンスの感情が湧き上がり響いてくる。
大切な人とは誰だ?
虎尾 茶子を守れとでも言いたいのか?
いつから響いてくるのかは分からない。リンの異能なのかも確証はない。
ただ、脳に強烈な感情を叩きつけるその異能と、脳に直接感情を焼き付けられている今の状況は酷似している気がする。
思考の合間に割り込んでくるノイズが、思考をさらに散漫とさせる。
「哀野さん、本当に大丈夫ですか?
記憶が残っていない以上、僕らがあの白い空間をどれだけ彷徨っていたのかは分からない。
自覚以上に疲労が蓄積している可能性もあります」
「そんなの、こっちだって同じことだ甘えんな」
「あまえんな!」
「うさぎや哉くんがクソ疫病神にどんな目に遭わされてるのか分かんないってときに、そこの一人のために足を止める選択はないわ」
「ちゃんとチャコおねえちゃんのいうこときかないと、わるいこになっちゃうよ!」
「大丈夫です、本当に大丈夫ですから」
場を丸く収めようとすれば、リンが事を大きくし、茶子はリンを甘やかし、リンは鼻を膨らませる。
刺々しい本音をオブラートに包めば、自己管理のなさをあげつらわれる。
これまで不和が表面化しなかったのは、魔王にイヌヤマイノリというあまりに大きな脅威に覆い隠されていたから。
そして、議論のたびにリンが眠っていたからにすぎない。
言葉だけを切り取れば茶子が正論を吐いているようにも思えるが、そもそもの発端は誰だと思っているのだろうか。
サバサバしているように取り繕いながら、その実はいつ噴火するか分からないマグマ溜まり。
哉太にだけは全幅の信頼をおいていることは分かるが、
それも含めて意中の男に媚び、依存を繰り返し、気まぐれに慈愛と虐待を繰り返していた母を見る様で気味が悪い。
自己管理すらできないのはどっちだ。
爪を噛みちぎりたくなるような衝動を抑え、本心を押し殺す。
けれどリンは雪菜を信用していないのか、茶子におだてられて調子に乗っているのか、それとも感情が漏れ出しているのか。
未だその異能で心に囁きかけてくる。
(大丈夫、本当に大丈夫)
生物災害を解決すれば、二度とこの不愉快な姉妹と関わり合う機会はない。
ただ、茶子やリンのほうを向けば、初対面の時のように彼女らを睨みつけているように思われそうで。
目を逸らしたのはまったくの偶然だった。
「スヴィア先生!?」
命を賭してでも救い出すと心に決めた人が、ぼろぼろの身体を引きずりながら近づいてくるのが見えた。
■
白い廊下から脱して以降、リンから見ても茶子の様子はおかしかった。
どこかうわのそら、かと思えば突然遠くを睨みつけたりする様子には、思わずびくりとしてしまう。
かと思えば、心配ないよとでもアピールするかのごとく、取り澄まして凛とした顔つきを作り出す。
(きっとカナタおにいちゃんのせいだ。
チャコおねえちゃんにだまって、いなくなるからこうなっちゃうんだ)
リンと男性との関りは、愛とは程遠い。
爛れに爛れた性的な関係がすべてであった。
あるいは閻魔ならばまた別の関係性を作れたのかもしれないが、そうなる前に彼は姿を消した。
愛や恋の機微なんてリンには分からない。
けれど、茶子が哉太にただならぬ感情を抱いているのは分かる。
なのに哉太もまた、閻魔と同じように姿を消した。
アニカもいつの間にか、黙っていなくなった。
結局ほかに残っているのは創と雪菜のみ。
創は茶子の子分一号としてそれなりの節度で接しているが、雪菜はあまり好きじゃない。
パパの家で世話係をおこなっていた使用人の女のように、嫌悪と同情、そして哀れみの視線を向けてくるから。
(なんでメーワクかけてばっかりのカナタおにいちゃんのことばかりしんぱいするんだろう。
ムチャばかりするから、ほうっておけないのかな。
ヨシヨシしたくなるのかな?
リンもカナタおにいちゃんみたいに、もっともっとムチャすればチャコおねえちゃんもリンのことを心配してくれるのかな?
リンのことをもっと、もーっとアイしてくれるようになるのかな?)
最初は哉太なんていなくなっちゃえばいいのに、と思った。
けれど、そんなことになったら、きっとますます茶子は哉太を追い求めるだろう。
世の中は理不尽だ。若干9歳にしてリンはその真理を覗き見た。
(リンがわるいこだったら、チャコおねえちゃんはもっとリンをしんぱいしてくれるのかな?
みんなにいたずらして、こまらせるようなわるいこになったら……みんなどうするだろう)
むすりと口を結んでいる茶子の横顔。
気まずそうに顔を逸らす創。
創を慮る雪菜。
ふと、リンの視線を感じたのだろうか。雪菜の視線がリンの視線とかち合う。
――う そ つ き。
あの日の血走ったお姉さんの目が、リンの記憶の棚から引き出された。
ウソつきの悪い子に憎悪と怨みを焼き付けた、あの赤い瞳がフラッシュバックした。
――リンちゃんも悪い子だったんじゃないですか。
――じゃあ、ボクとおそろいだね。
――虎尾さんなんかじゃなくて、ボクと一緒に行きましょ?
――さあ、おいで。
宇野がリンを誘う声が聞こえるような気がした。
お腹を割くためのカマとたくさんの石を持って、手招きしているような気がした。
(リンはわるいこにはならないよ。
かってにいなくなっちゃダメだよね、しょうじきじゃないとダメだよね、ウソはついちゃダメだよね)
悪い子は許されない。
ウソつきオオカミはお仕置きされちゃう。
大好きだったパパはウソつきの悪い大人になったから、閻魔にお仕置きされた。
閻魔はこっそり冒険に出かけてしまったから、きっと見てはいけないものを見て引きずり込まれてしまった。
アニカと哉太もリンを置いてこっそり冒険に出かけてしまった。
今もリンを愛してくれるのは茶子だけ。リンが愛するのは茶子だけだ。
(だけど、チャコおねえちゃんもなんだかこわい。
やさしいチャコおねえちゃんでいてほしいから、リンがもっともっといいこにならなきゃ。
いのりちゃんだよね? そういうコトだよね?)
どこからともなく語りかけてくる声なき声に呼応するように、リンは決意を改め直した。
その時刻は奇しくも、犬山うさぎが力尽きたその時刻。
御守りに宿る神通力がざあーっとブレた瞬間のことであった。
(あといのりちゃん、ひとつだけまちがってるよ。
チャコおねえちゃんはたいせつなひとだけど、
じょおうじゃなくて、かっこいいおうじさまなんだから!)
■
最先端設備をふんだんに取り入れた診療所は、大災害に備えた非常電源装置も完備しているが、
優先度の低い屋外の光源にまでは電気はまわしていない。
闇広がる草地を照らすのは月明かりだけ。
距離は遠く、顔のパーツまで判別することは難しい。
血に濡れた服は着替えさせられたのか、服装だって最後に出会った時とは違っている。
村の雑貨屋に売っていそうな一昔前のおくれたセンスの服は、スヴィアの印象とはまるで紐づかない。
それでも、ポケットの中に入れている二本と同じ銀色の髪。
月明かりを受けて煌めくそれを見間違えることはない。
彼女こそが、雪菜の探し人だ。
待ち詫びた再会の瞬間だ。
「雪菜さん?」
創の呼びかけを後ろに、雪菜は走り出す。
「どこ行くつもりだ!」
刃物のように鋭く冷たい茶子の警告音も雪菜の足を止めるには至らない。
茶子の殺気すら伴ったそれを全身で受け、雪菜を引き留めるため駆け出そうとしていた創はつんのめるように足を止める。
けれど雪菜に殺気を感じとるセンスはない。そんな特殊な才能はない。訓練も受けてはいない。
素人ゆえに茶子の警告は届かない。
この瞬間を、誰にも邪魔されたくない。
そんな想いは、無情にもさらなる感情で遮られる。
「……リンちゃんを守らなきゃ」
頭を掻き回される感覚に、雪菜の足が止まる。
大人よりもまず小さな女の子を守るべき。
先生は大人だから大丈夫、それよりも庇護すべき幼い女の子を……。
「そんなわけないじゃない……!」
リンが雪菜をその場に釘付けにする。
けれども、リンの異能を受けながら、雪菜は自意識を確かに保ち、リンをキッと睨みつけた。
クロスブリード。その隠れた恩恵だ。
叶和の精神と自前の精神、二人分の精神を受け継いだ雪菜が、リン一人分程度の意志に呑み込まれるはずがない。
「ひっ……!」
雪菜の視線にたじろいだリンはさらに異能による干渉を強める。
加減を知らない子供の本気の干渉だ。
雪菜の身体は動かず、けれども雪菜を調伏することはできず、リンの干渉だけが強まる千日手。
「リンさん、いくらなんでもやりすぎです!」
「セツナおねえちゃんは、どうしてリンをあいしてくれないの!?」
会話が噛み合わない。
精神干渉だけでも、相手に銃口を向けるような危険な行為だ。
まして、自我に干渉するレベルでの異能の行使は敵対行為に片足を突っ込む行為である。
創は、右手で雪菜の額に触れ、リンの干渉を払う。
だが、不信感までは払えない。
待ちに待った再会、それも見るからに重症な恩師の救出の邪魔立て。
普通の人間なら自我すら消滅するほどの強力な衝撃を受けては、年下の童女相手といえども心穏やかではいられない。
それでも、その身に積もった不満は吐き出せない。
彼女には絶対の守護者がいるのだから。
リンは茶子の後ろに身を隠す。
「よしよしリンちゃん、怖かったね。
……あのさ、リンちゃんはリスク度外視で突っ込もうとするアンタらを止めてあげてたわけ。
創、お前も諜報員の端くれなら、リスクくらいいくらでも思いつくだろ。
手前らのミスでリンちゃんを責めるのはお門違いだ。
それとも、うちの担任が悪い人なはずありません~とかほざくワケ?」
「何が言いたいんです?」
「とらわれのスヴィアせんせーが一人で動いてる。
それ自体が不自然だって言ってるのが分かんないかな」
「隙を見て逃げ出してきたのかもしれないじゃない!」
「隙を見て? 大怪我した素人のチビ女が? 特殊部隊相手に?
はっ、頭ん中に花でも咲き乱れてるわけ? そのオダマキの花畑、総とっかえするのを薦めるわ。
人間様を食い殺して、皮かぶって為り代わる野生のクソガキがいるんだ、そいつが擬態してるほうがまだ可能性はあるだろ」
「先生を勝手に殺さないでッ!!!」
「二人とも落ち着いてくださいッ!」
リンは明確に敵意を持った目で睨んできた雪菜に戸惑い、
リンの異能の危険度具合を実感していないがゆえに茶子は皮肉気に正論を吐き、
その危険性を身をもって実感した雪菜がその言い方に反発する。
このまま傷害沙汰にすら発展してしまいそうな三人に対し、創も声を荒げる。
ここに至って余計な諍いは誰の本意でもない。
向いている方向はそう違わないはずなのに、どうしてこうも軋轢が生じてしまうのか。
これが自分たちを白い回廊に閉じ込めた祟り神の狙いなのだろうか。
「哀野さん。虎尾さんの指摘は尤もです。
確かにスヴィア先生の状況は不自然だ」
「あなたもッ……!?」
創に梯子を外されたことに、雪菜は若干動揺する。
だが、創のどこか苦みのある表情に、先の句は紡げなかった。
「彼女を連れ去った特殊部隊は、人質をみすみす逃がすような間の抜けた仕事をする人間でしょうか?」
雪菜にとっても思い出したくもない苦い記憶だが、創の言葉に感情を抑えて冷静に思い返す。
ゾンビの群れを嗾けて創たちを篭城させ、店の裏口というあからさまな出口へと誘導。引っかかるならばそれでよし。
目論みをひっくり返すために敢えて正面突破を選んだ相手に対しては、伏兵を配して戦力を分断。
離脱した相手に対しては手駒による時間稼ぎをおこない、雪菜の異能すら把握し対策を講じ。
捨て身でぶつかって退けたものの、スヴィアを連れ去った後も一切の油断はなく、痕跡はすべて偽装、スヴィアが残せた手がかりは髪の毛二本という徹底した隠蔽ぶりだった。
結局、あれから彼女の一切の痕跡を得ることができず、情報戦という一点では完全敗北を喫したと考えるしかないだろう。
「僕は今朝、特殊部隊の張った罠に嵌り、みすみす先生を攫われてしまいました。
十分に警戒しておきながら、敵はその何手も先を行く相手です。
同じ失敗を繰り返すわけにはいかない」
「それでも……!」
スヴィアを疑いたくない。
敵の罠であったとして、スヴィアがそれに加担しているだなんて考えたくない。
雪菜がその切なる思いを口に出す前に、創は人差し指を口に当てて先の言葉を制し。
「僕と雪菜さん、二人でスヴィア先生と接触します。
万一は起こさせません。どうか僕を信じてください」
努めて冷静に説明している創の表情に、一瞬だけ陰りと不安が見えたのを雪菜は見逃さなかった。
目の前でスヴィアを攫われ、臍を嚙んだのは雪菜も同じ。
こちらの気持ちも知らず、手前の状態を棚に上げて上から責め立ててくる相手には反発もしたくなるが、
同じ傷跡を持った仲間の共感なら、収める鉾もある。
「虎尾さん。
スヴィア先生の容態次第では、こちらは自由に動けなくなるかもしれません。
念のため、お貸ししておきます」
創から茶子へ手渡されたのは、ハヤブサⅢの位置を示す発信機だ。
この先スヴィアが足手まといになるとしたら、自分たちに構わず行けという意思表示でもある。
発信機に示された光点は、今の場所から少し北。
まるで何かを確認するようにときおり立ち止まりながら、東方向へと向かっていた。
「まあいいさ。お前は甘いヤツだが、実力は信頼してる。ヘマはするなよ」
「誓って」
「それから、ほらっ」
「なんですか? これは」
茶子から創に投げ渡されたのは、スマートフォン。
何の変哲もない、とはとても言えない妙なアプリがホーム画面を埋め尽くしているが。
道中、袴田伴次から無断で借用した機体である。
「議事録。録音アプリの使い方くらい分かるだろ?」
「……ああ、分かりました」
実力は信頼するが、けれども身内による尋問だ。
モノとして残せ、ということだ。
■
『朝方ぶりだね……。
話したいことは山ほどあるが……、急を要する話から伝えよう。
ボクは今、特殊部隊に追われている』
『特殊部隊……!』
『それは、貴女を攫った例の?』
『ああ、乃木平と名乗る男だ』
『ならば、立ち話は危険です。今すぐ身を隠すべきだ』
果たして、スヴィアと創たちの接触は何事もなくおこなわれた。
創がうまく合流位置を調整し、診療所の棟と棟の間へと誘導したのだ。
診療所内からの狙撃も、商店街や山からの狙撃もほぼ遮断可能な位置取り。
狙撃が可能な数カ所のスポットと、放物線を描いて飛んでくる爆発物の投擲にさえ警戒すれば問題ないだろう。
『キミたちと、生きて再会できるとは思ってもいなかった……。
どう言葉をかけるべきなのか……。
ともかく、苦労をかけてしまったようだね……』
『そんなことないっ! 私たちの力が足りなかっただけ……!
それより、もうあの時みたいなことは絶対にしないで!』
『ご安心を。あのようなことは二度と起こさせません』
『はは、頼もしい、ね……』
ああ、煩い。
スヴィアと雪菜たちの会話に耳を立てつつ、茶子はそう心中で独り言つ。
本音を言えば、今すぐにでも学生どものお守りなんざ放棄して哉太とうさぎを探しに行きたい。
茶子は私情を抑えて、全体の利益を選んでいるのに、雪菜が私情で推定敵性勢力に先手を譲りかけたのが腹立たしい。
私怨だと分かっているが、手前だけ何の努力もなく探し人に遭えたのがなんとも気に食わない。
何より、白い回廊にいたときか抜けた後か、何者かがぼそぼそと囁きかけてくるのが鬱陶しい。
――何者も何も、そんなことをするのはイヌヤマイノリ以外にあり得ないのだろうが。
『虎の心(いのう)』が通用しているからこの程度で済んでいるのか、イヌヤマイノリの祟りは異能ではないから『虎の心』では防ぎきれないのか、それは分からない。
確かなのは、嫌がらせとしては最上級だということだ。
平常心がかき乱される。
『ただ、その仔細を聞く時間も、再会を喜び合う時間もないんだ。
前置きは省く。研究所の上層部と会話をすることに成功した。
18時時点で村に展開している特殊部隊は二名。正常感染者は十一名。これがすべてだ』
『たった、じゅう、いち?』
その衝撃に雪菜は言葉を失いかける。
茶子としても聞き逃せない情報だ。
哉太、うさぎ、茶子、リン、雪菜、創、アニカ、スヴィアで八名。
あのマイクロバスに乗っていた人間がほぼすべての生き残りだった。スヴィアはそう言っている。
つまり、認識していない正常感染者は残りはたった三名。
元の数を知らないためどれほどの村人が命を落としたのかは分からないが、その語り口から多くの命が失われたのだろうことは分かる。
『待ってください。
18時時点で11人ということですが……生き残りの中に
山折 圭介と、ハヤブサⅢという名前はありましたか?』
茶子が聞きたい情報を、創は抜かりなく尋ねる。
ハヤブサⅢの動向如何では、目的に大幅な修正が加わりかねない。
『山折君の名はあった。ちょうど数十分前、神楽くんと共に特殊部隊を一人撃退したようだ。
そして最後の一人は、……」
茶子はそこで僅かな違和感を覚える。
何かを逡巡するような妙な間が空いた。
「失礼。最後の一人は、日野くんだ。
ハヤブサⅢ――
田中 花子さんは、乃木平たちによって討ち取られたと、ほかならぬ本人から聞きだした』
師匠と同格の超一流エージェントですら命を落としたことに創は衝撃を受ける。
微塵斬りにしても死ななそうな女を殺したことに茶子は特殊部隊の実力を想定よりも上方修正するが、それもそこそこに思考にふける。
スヴィアの証言は不可解なことが多かった。
あの状況で山折圭介は見逃されたということだろうか。
イヌヤマイノリが圭介に憑りついている可能性もあるが、あのお春と共に特殊部隊を撃退したという情報がその予測確度にモザイクをかける。
加えて、日野珠の名を挙げる前に、なにやら逡巡するような不自然な間があった。
珠の名を出すことを戸惑ったのか。
……それとも、ハヤブサⅢこそが最後の生存者なのか?
(仮にヤツが死んだのなら、この発信機はなんだ?
この小型発信機に映っている、移動中の人間は一体誰だ?)
残り人数は18時時点で13人。消去法で考えればおのずと答えは絞られるのだが。
「リンちゃん。あのおねえさんのお話を聞きに行っていいかな?」
「うん、いいよ! なかまはずれはよくないもんね!
でも、セツナおねえちゃんはこわいから、なにかあったらまもってね」
「リンちゃんには絶対に手は出させないよ。
それと、スヴィアおねえさんは怪しいヤツだからな。言ってることを丸っきり信じちゃダメだよ」
「スヴィアおねえちゃんはわるいこなの?」
「そうね。村をめちゃくちゃにした悪いヤツの仲間かもしれない。
もしかしたらウソをついてるかもしれないから、騙されないようにしっかり話を聞かないとな」
「わかった。リンもがんばる!」
鼻息をふんと吹き出して気張るリンを微笑ましく思っていると、ふと視線を感じた。
出所はスヴィア。一瞬だけ目が合う。
人懐っこさの仮面で覆った瞳で、彼女に視線を返した。
「……おねえちゃんたち! だいじなおはなしするならリンたちもいれてよ~!!」
ひそひそ話を終えたリンが、とたとたとスヴィアたちの会話に割り込み、自分たちも入れろと主張する。
茶子も特殊部隊への見張りを取りやめ、会話をする三人のところに向かった。
■
「追っ手は大丈夫なんですか?」
二人を迎える雪菜の言葉にはどこかトゲがある。
そのわずかな不快感は、知己三人の会話に部外者が入ってくることへの反発もあるのだろう。
「特に姿が見当たらなかったっすからね~。大丈夫でしょ。
昨日ぶりっす、スヴィア先生」
「ああ虎尾さん、昨日ぶりです」
誰だよお前はとあんぐり口を開ける雪菜。
対して、スヴィアはごく自然に会話に応じる。
この得体の知れない女は、村ではそう振る舞っていたのだろうと、雪菜は自分を無理やり納得させた。
まるで百面相、本当に信用ならない。
「哀野くん、ちょうどいいタイミングだ。
彼女らにも、話を聞くかどうかの選択を問うべきだ。
これから話す事実は、研究所の最重要機密事項だから」
「最重要機密……。先生はそれを知ったから、特殊部隊に追われている、っていうことですか?」
スヴィアが鷹揚に頷く。
秘密を知ったことで消される立場になったことを認める。
そして同時に、それは今ここでスヴィアの話を聞くのか、スヴィアから何も聞かずにこの場を離れるのかという選択が提示されたことを意味する。
だが……。
「つかぬことを伺いますが、その最重要機密とは『Z計画』のことでは?」
「……なぜ、それを?」
これから話すべき内容に対して創に先手を取られ、スヴィアは一瞬呆けた。
ただ、創の異質な雰囲気からするに、彼がその仔細を知っていたとしてもどこか納得はできる。
あるいは、隣にいる研究所の関係者『Ms.Darjeeling』から聞いたのか。
「それは、僕が……」
「あんたのご友人から聞いたんすよ。
未名崎錬っていう研究員に、覚えはありますよね?」
正体を明かそうとする創を遮るように会話に割り込み、出所を錬だと上塗りする茶子。
実際『Z計画』について哉太たちに話したのは彼なので、何も間違ってはいない。
「錬……? 彼は無事だったのかい? 一体どうやって……」
「その質問には答えられないっすよー。
……あんたがヤツらの一味じゃない保証はない」
一回り気温が下がったような冷たい声色。
急造の人懐っこさの仮面の奥に、冷酷な意思が見え隠れする。
「そもそもスヴィア先生さ、アンタ、本当に特殊部隊に追われていたんすか?」
「それは……どういう意味だい?」
「ハヤブサⅢ――花子さん、だっけ?
あの女につけられた発信機をあたしらは持ってるんすよ。
今、診療所の裏から北東のほうへ走り出してるみたいだ。
――答えな。ハヤブサⅢの死と、特殊部隊に追われているって証言。
何がウソだ? 誰と裏で手を組んでいる?」
普段なら刀の一本や二本喉元に突き付けて尋問するのだが、それをやるとまた学生カップルが騒ぎ出すだろう。
故に言葉のみ。だが、その気迫は死神の刃を思わせる冷たく鋭いものだ。
肝の小さい人間が正面から受ければ、それだけで降伏の意を示してしまうだろう。
茶子の指摘に、スヴィアは息を呑む。
明らかに動揺の色が見える。
それが肯定なのか否か、まだ判別はつかない。
茶子は研究所の関係者を信用しない。
教師として信頼を勝ち取り、温和な人格者を装って裏工作に励むくらい、連中は平気でおこなう。
実際、スヴィア以外にも研究員が教員として紛れ込んでいることは把握している。
仮にシロであったとしても、撹乱のために送り込まれた、あるいは偽情報を広げるために解き放たれたなどの線もある。
研究所、特殊部隊、ハヤブサⅢ。
誰も彼も、村に仇為す者ども。
そして誰も彼もが、一筋縄ではいかない相手だ。
■
「待ってください、虎尾さん、スヴィア先生。まずは事実のすり合わせをおこなうべきだ」
にわかに高まる緊張感は、創のとりなしによって、いったんの落ち着きを見せた。
「ソウおにいちゃん、チャコおねえちゃんはウソつきなんかじゃないよ!」
「白々しい。そっちこそ、言いがかりに隠し事ばっかり……!」
明らかに不満を高める雪菜を、左手で制すことで牽制する。
そして頬を膨らませたリンが放つ牽制は、右手を自身の額に当てることでやり過ごす。
だが、それでも頭のどこかで痺れるような気持ち悪さが残る。
「発信機が移動している件については事実です。
ただし、単純に誰かに拾われた可能性だってある。
特殊部隊が所持しているのか、
日野 珠さんがその異能で発信機を見つけ出したのか。
スヴィア先生、答えられますか?」
「特殊部隊……だと思う。
日野くんは午後2時前に花子さんと別れた。
未来予知でもできない限り、そんな行動はとりえない。
少なくとも、当時の彼女たちにはそんな異能はなかった」
「ほーん、じゃあ特殊部隊に追われてるってのが虚偽報告ってわけね」
「虚偽……? その言い方はないんじゃないですか!?」
「虚偽も何も、その通りだろ。それともなにか、ただの自意識過剰ってオチだなんて言わねーよな?
大した事ない情報持って飛び出した挙句、追っ手もいないのに殺されるから助けて~って、ちょっと笑っちゃうね。
特殊部隊から逃げ出せてすごいっすねー。向こうに泳がされたんでなけりゃな」
「先生を侮辱しないで……!」
「二人とも、少し抑えていただけませんか……!」
創が不快感を口調ににじませ割って入り、茶子はこわいこわいと両手をあげて口を閉じる。
そしてリンがスヴィアを見る目も、何やら険しくなっているように思えた。
その軽薄な煽り口調とは裏腹に、その目はスヴィアの様子を冷徹に見据えている。
茶子の煽りに対して怒り出すか、それとも否定するか、冷静を装って的確な回答を返すか?
リアクションをつぶさに観察するが、スヴィアは動揺を隠さず、信じられないと、口をパクパクして固まっているだけだ。
(本当にシロなのか?
未名崎のヤツと繋がってる元研究員の女が?)
茶子の眉間に皺が寄る。
つい先日、研究所パスの不自然な申請があった。
それについて錬に問い詰めたところ、『まず自分を疑え』とご高説を垂れ流された。
それがブルーバードを蹴落として赴任してきた元研究員かつ錬の元上司、スヴィアが赴任した五日後のことだ。
その後ノートPCを持ち出された痕跡も発見され、スヴィアとの密談があったことは状況的に間違いない。
これで本当にシロだというのだろうか。
何らかの意図を以って接触してきた上でこの反応を返せるとしたら、大した
タヌキである。
「少なくとも『Z』はそう簡単に持ち出すことは許されない機密事項だ。
命を狙われるに足る要素だと考えていいはず。
当時の状況は、どうでしたか?」
「あ……ああ、そうだね。経緯を説明しよう」
どこかうわのそらのまま、スヴィアは研究所との会談内容を語り始めた。
生物災害を起こしたのが錬や烏宿副部長をはじめとした過激派の暴走であるという確証。
秘密裏に進められていた『Zデー』の確かな証拠と、研究所の設立目的。
特殊部隊の独断専行による村への展開と、研究所との和解。
生物災害が収束したところで全員保護の約束を取り付けたハヤブサⅢの交渉。
創の異能によって女王ウイルスを否定する解決案と、その却下。研究所との協力の決裂。
そして、……珠の「Zウイルス」への進化だけは言わなかった。言えなかった。
Ms.Darjeelingに特殊部隊と同じ酷薄さを感じ取ったから。
そして、言ってはいけないという直感が働いたから。
ハッピーエンドを見つけると啖呵を切った。
だのに、ウイルスの治療以前に珠の身すら危ぶまれている。
特殊部隊の乃木平は、てっきり機密を知った自分を追ってくると思っていた。
なのに、彼はスヴィアを無視し、どこかへと向かっていった。
いや、おそらく珠のところに向かったのだ。
ならば一体どうすればいいのか、答えがまったく出ない。
創はきっと全面的に協力してくれるだろう。
雪菜だって、理解を示してくれるかもしれない。
けれど、Ms.Darjeelingはどうだ?
黒木から盗み聞いた会話では、特殊部隊のベテランに太鼓判を押される実力者かつ、特殊部隊に等しい冷酷さ。
茶子の協力を得て乃木平を退けても、返す刀で珠を殺されては意味がない。
彼女は生粋の村民かつ、研究所の関係者だ。
女王を目の前にして、あるかないかも分からない治療手段を一緒に探してくれるほど優しくはないだろう。
「……あとは、乃木平本人に、秘密を知った以上生かしてはおけないと銃口を向けられ、脱出口に突き落として命からがら逃げだしてきた、ということだ」
珠の件を除き、すべての情報を告発した。
だが、思考に費やせたのはごくわずかな時間だ。
空港の手荷物検査官のように、一つの虚偽も見逃すまいという茶子の視線。
その裏で、リンもまた冷徹な目でスヴィアを見据えている。
二人を出し抜ける案も、すべての要素を掬いきる閃きも一向に浮かばない。
「特殊部隊に銃を向けられて、ねえ。
……ありえない。仮にあたしが特殊部隊なら、無言で撃ち抜く」
雪菜が目を細める。
たとえばの話なのだが、雪菜にとっては茶子が無言でスヴィアを斬り捨てられる人間だと言い放ったようにしか聞こえなかった。
「……ちなみにその特殊部隊は今朝、無駄な抵抗はやめたほうが賢明だって警告してきたんですけど」
「だったらそいつはよっぽどの無能か新人か、あるいは警察あたりからの転向組だろ。
山折村(うち)の警官は警告なんざせずに撃ってくるけどな」
「もう一つ可能性があります。当時のその言動自体が布石だったということです。
将来的にボクらを欺けるように、あるかないかも分からない未来を見据えて撹乱のための布石をバラまいていた」
古民家群で戦った特殊部隊のことを考えると、十分にあり得る可能性だ。
彼もまた、いるかいないか分からない狙撃手をあぶり出すために、創を撃ち抜く絶好の機会を不意にした。
乃木平が当時スヴィアたちの殺害を狙っていたのは確かだろうが、碓氷や小田巻と手を組んでいたのだ。
彼らの裏切りに用心して、いざというときの撹乱に偽情報を流しておくのは手が込んでいるがあり得なくもない。
そんなまわりくどいやり方をするヤツなんていないだろと思ったが、ハヤブサⅢの顔を浮かべて茶子も考え自体は否定しない。
あの女は素でそういうことをやりそうだ。
「それで結局、その特殊部隊だかはどこへ?」
「仮に僕たちをひとまとめにして一網打尽にするにしても、時間が経ちすぎています。
可能性としては元々別のターゲットがいて、その邪魔立てを防ぐために先生を追い立てて僕らを足止めした、ということでしょうか。
山折さんたちに撃退された特殊部隊の仲間を助けにいったという線もありますが、特殊部隊が任務よりも部隊員の救出を優先するとは考えにくい」
「あたしらをほったらかしてでも狙う価値のある人間、ね。
……先生。正直に言ってくれるかしら?
本当に話してくれたことでさっきので全部?」
「それは……」
茶子が笑顔を張り付けて尋ねる。
それは、肉食獣がテイスティングをしているようにしか思えなかった。
スヴィアの瞳が今度こそ揺れる。水晶体に跳ね返る月光の軌道が、ふるふると乱反射する。
呼吸が、目に見えて荒くなる。
機密情報を持ち逃げした敵対者よりも、殲滅すべき正常感染者よりも、優先すべきことなど多くはない。
そして仮に足止めに遣わされたのなら、それは一体誰の足止めだ?
そんなの、決まってる。
「なあ先生、別に怒ったりしないから。
女王が誰か、もう分かってるんじゃない?
正直に言いなさい」
正常感染者よりも優先して狙うべきは、女王感染者のみ。
「正直に言いなさい」
このメンバーで足止めしたい候補がいるなら、それは村人とのかかわりの深い茶子か創。
「正直に言いなさい」
その中で特に親しい生き残りとなれば。
特殊部隊が女王感染者を殺しに行ったという推測が正しいのなら、最適解はなりふり構わず発信機に従って特殊部隊を追うことだ。
女王である時点で相当状況は悪いが、その行動を取ればそれ以上に悪い方向には転ばない。
だが、その解を選ぶことはできなかった。
茶子にとっては、親友の近親者と想い人が村の敵だと告発されるかされないか。
運命の分岐点を先延ばしにすることなどできなかった。
故に執拗にスヴィアに問いかけた。
「チャコおねえちゃん!」
リンの呼びかけに、茶子はハッと正気を取り戻し、身を引く。
「ダメだよ、スヴィアおねえちゃん、すごくこわがってる。
それじゃ、ウソつかれちゃうよ」
いつの間にか、リンが茶子の手を握り、その不安に寄り添っていた。
幼いころの『あたし』の呼びかけによって心の深奥にある不安は僅かに取り払われる。
『虎の心』は、リンの献身を受け入れた。
「だから、リンにまかせて!」
そこが、悪夢の一丁目。
■
――リンを、あいして。
「……ぁ」
スヴィアの中に安堵感が広がる。
――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。
――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。
――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。
何を不安に思っていたのだろう。
彼女にすべてを話してしまえばいいじゃないか。
だって、こんなに健気で愛らしい少女を悲しませてどうなるというんだ。
スヴィアの迷いが取り除かれ、思考がクリアになる。
暗闇が晴れ渡り、美しい世界が広がる。
その美しい世界で大きく手を振る愛らしい少女に手を振り返す。
――先生。
後ろから囁きかける声があった。
振り向けば、そこにいた珠が悲しそうな顔をする。
すまない、と謝罪しながらも、愛らしい少女に手を伸ばそうとしたそのとき。
――螂ウ邇を、あいして。
珠が囁いた。
――螂ウ邇を、あいして。
――螂ウ邇を、あいして。
――螂ウ邇を、あいして。
「……ぇ? ……ぁ?」
スヴィアは無数のリンと珠に取り囲まれていた。
――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。
――リンを、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――リンを、あいして。――リンを、あいして。
――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。
――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――リンを、あいして。――螂ウ邇を、あいして。――螂ウ■を、あいして。
――リ■を、あいして。――螂ウ■を、あいして。――リ■を、あいして。――螂ウ■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――螂ウ■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――リ■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
「ああ、ああああ………!!」
とめどなく囁かれる愛の奔流に弄ばれ、頭頂から足先まで真っ二つに引き裂かれるかのごとく。
魂が両極から引っ張られ、悲鳴をあげる。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」
『 !!!!』
それは人間のキャパシティをはるかに超えた愛の津波。
スヴィアというダムでは到底支えきれない莫大な囁きだ。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。――■■を、あいして。
ダムが決壊する。愛が溢れ出す。
二人の少女からスヴィアに向けた熱烈な愛のアプローチは、スヴィアを増幅器として、あたりにまき散らされた。
「ぐうぅッ! あ、頭が……!」
「あ……、何この音……この音……!?」
「なんだ!?」
創が頭を押さえてうずくまる。
雪菜が頭を割るような声に戸惑う。
茶子だけは、何も変化がなく困惑する。
それは、スヴィアがこれまで意図して使わなかった超音波。
スヴィアの肉体が最大の危機に瀕したことで、宿主を『守る』ために暴発した。
愛の囁きを周囲に撒き散らすデバイスは、人間の大人には聞き取れない高周波音。俗にいうモスキート音である。
故に。
「きゃああああああああ、なにこれえええぇぇぇっ!!!」
その影響を最も受けるのは、最も幼いリンであった。
「先生……、すみませんっ!」
スヴィアがリンの異能の影響を受け、何かが暴発したことは確実。
頭から右手を離せばすぐにまた愛の囁きが創の人格を覆い尽くそうとする非常事態。
周囲の様子に気を払う余裕はない。
そして手をこまねく理由がない。
創は自らの異能の全力を以って、スヴィアの受けているウイルスの干渉を否定した。
ウイルスの干渉がなかったことにされていく。
超音波が収まり、リンの異能は収まり……。
「ぐぶ……」
「!?」
そしてスヴィアは血を吐いた。
茶子への愛が押し流されていく。
リンの愛が、茶子への愛が、よく分からないナニカによって覆われていく。
「イヤ! イヤ! イヤだああああ! チャコおねえちゃん、リンをおいていかないでぇッ!!」
「リンちゃん!?」
はじめて取り乱した様子を見せるリンに動揺し、茶子がその手をぎゅっと握り返す。
悪夢の、二丁目。
「チャコおねえちゃん! リンをまもってっ!!」
何が起きているかも分からないまま、リンは王子様へと助けを求める。
リンの異能が茶子を覆った。
■
『虎の心』は茶子へと害を為す精神干渉を跳ね返す異能である。
その対象は、茶子が受け入れるのを拒否したものと、茶子が気付いてすらいない干渉の二つ。
逆に言えば、茶子自らが受け入れることを決めたのであれば、跳ね返す対象とはならない。
そう、魔王撃滅作戦にて疑似的な鳥獣慰霊祭を開催したとき、茶子は意志をもってリンの言霊をその身に宿した。
精神干渉を受け入れたのだ。リンからの前向きな精神干渉を受け、魔王を退けたのだ。
リンはいつぞやの自分自身だ。
光闇入り混じる山折村において、彼女は哉太に次いで守り切りたい存在だ。
その献身は受け入れたいと思っているし、彼女に命の危機があれば守りきって当然だ。
ただ、それだけの素朴な感情だった。
だから。
――リンを、まもって。
『自分自身』という最上位の特権を付与されたことで、少女の言葉はすり抜けるように防御壁を通過し、茶子の精神へと染み渡った。
そして、哉太よりリンを優先するように上書きされた。
それと抱き合わせのように入り込んできた僅かな意思により、女王感染者が誰なのかを聞き出す意思は霧散した。
リンを守ることへの納得によって押し流された。
これは今まさにこのときこの時刻、女王からアニカが受けているような、無理に相手を従わせるものとはまた性質が違う。
微弱な意思は意識しなければ自分のものなのか他人のものなのか切り分けができない。
仮に意思強制や眷属化と称される類の事象であったとしても、自分自身が納得して受け入れたのなら、それは自分の意志なのだ。
スヴィアや雪菜と違って、茶子がリンの言葉を聞き入れない理由はどこにもない。
リンは茶子で、茶子はリンなのだから。
過去の自分を目の前にして、彼女はこの土壇場で、自分を疑わなかった。
つい先ほど雪菜に述べたように、茶子はするりとアウトドアナイフを鞘から抜き去って。
音もなくスヴィアの心臓目がけて投げつけた。
スヴィアの暴走が誘発されてから、ここまでに僅か二十秒。
茶子の凶行に気付いたのはたった一人。
茶子とリンに警戒を払っていた雪菜だけが、茶子の空気が変わったことを見逃さず。
けれども、ナイフを弾く技量もない彼女にできることは、ナイフの軌道上に割り込むことだけで。
「ぐ、ふっ……!」
飛来する刃から恩師を庇い、ずぶりとその身にそれを食いこませた。
雪菜は茶子とリンを明確な敵とみなした。
■
「スヴィア先生!? しっかりしてください!」
遠くで創の声が聞こえる。
肉体は、今のでついに限界を迎えたらしい。
結局、何もできなかった。
全員を救おうとしてただ一人も救えず、荒野に一人力尽きるのみ。
……どだい、耐えるなど無理な話だったのだ。
凶行にはしった友人を止めることができず。
生徒たちと望まぬ形で切り離され。
銃弾とナイフによって肉体と臓腑をかきまわされ。
瀕死の肉体を押して頭脳を酷使し。
悍ましい祟り神の呪いをその身に受け。
白兎の御守りもないまま女王が生まれ落ちたその瞬間に立ち会い。
そして極めつけとして、見出した希望は絶望へと反転し。
珠を救う方法は見つからず。
今、矜持すらも踏み荒らされた。
むしろ、これで今まで死ななかったほうが奇跡だろう。
それでも、せめて、最期に状況を覆す一助になるような閃きでも出てこないものかと考えるのは、科学者の性なのだろう。
けれど、スヴィアはもう何も考えるべきではなかったのかもしれない。
それはとりとめのない思考だった。
空からスヴィアの脳裏に、ひとつの仮説が舞い降りた。
Zウイルスに進化すれば人間と一体化し、創による治療は不可能になると所長は断じた。
ウイルスの影響を取り除くことは、ウイルスと一体化した人間を否定するに等しい行為だからだと。
だが、それはZウイルスだけなのだろうか?
定着したBウイルスもまた、同じなのではないか?
どうして、負傷に次ぐ負傷を受けておきながら、スヴィアは生きることができたのか。
銃もナイフも、とどめを刺すには至らなかった。特殊部隊の処置は適切だった。
それでも、治療に専念せずに肉体を酷使すれば、いずれその限界は訪れるものだ。
けれど、神経にまで定着したHEウイルスが、肉体の限界をわずかに押し上げていたのだとすれば。
宿主と共存関係にあるウイルスが、宿主の生存のために力を貸すのはごく自然な行為である。
つまるところ。
スヴィアの肉体に、ウイルスはとっくに定着していた。
彼女に蔓延るウイルスはHE-028-B。HE-028-Cではなかったのだとすれば。
今にも肉体が限界を迎えてそうなのは、肉体の疲弊によるものではない。
ウイルスの影響を否定する創の異能によるものであって。
今まさに、自分は創を知らないうちに人殺しにしようとしているのではないか、と。
今すぐ創に伝えなければ。
そう思うも、身体が動かない。口が動かない。
創の右手がウイルスを否定する。
スヴィアの神経と繋がり、スヴィアを生かしていたウイルスを否定する。
やめてくれという言葉が届かない。
創は自分を生かすために、決死の表情でウイルスの影響を否定している。
スヴィアを生かそうという意志が、スヴィアを殺す。
絶望の中、月光にナイフが煌めいた。
いつかの自分の反転。雪菜が自分を庇い、ナイフをその身に受けた。
創はスヴィアを殺し、雪菜は自分のせいで死ぬ。
なぜこんなことになったのか? 自分はただ、生徒たちに生き抜いて、未来に活躍してほしかっただけなのに。
誰か、誰か。
だれか、たすけて。
その想いは。
――せんせい。
届いた。
――先生!
――せんせー。
――こども先生。
――せーんせっ!
――スヴィア先生!
――スヴィアちゃーん!
茶子に黒い霞がまとわりついているのが見えた。
放課後の校庭から聞こえるような、笑い声が聞こえた。
瞳のない子供たちが一人、また一人とスヴィアの名前を呼ぶのが聞こえた。
この世のものとは思えないその呼び声。
けれども、それがなぜか心地よくて。
なぜか涙があふれ出してきて。
彼らの声が自分の中へとなだれ込んだかと思えば。
スヴィアの視界は黒く染まった。
■
――まもらなきゃ。
――まもらなきゃ。
「まもらなきゃ。私が、まもらなきゃ。……絶対に!」
刃が溶け落ち、柄だけになったアウトドアナイフを掴む。
その刃を溶かす血が滴り落ちるアウトドアナイフは、
身体に突き刺されば肉を容赦なく溶かし、生体組織をぐちゃぐちゃに破壊するだろう。
「そうだよね、叶和」
スヴィアを通して発せられていた愛の宣告は聞こえなくなった。
代わりに聞こえるその声は、叶和の声だ。
大切な人を守れと囁きかけてくるその声は叶和のものだ。
当然の話だ。
雪菜の中には、叶和のウイルスが生きている。
クロスブリード。二重能力者。
異なる二種類のウイルスを持ち、彼女の想いを引き継いだ雪菜だからこそ、リンと女王の愛の囁きをその身に受けても自意識は失われない。
そして、異なる二種類のウイルスを持つ雪菜だからこそ。
女王の影響を他の人間の二倍受ける。
遺伝子構造を模して造られた白いダンジョンは、それ自体が女王の囁きに等しい。
遺伝子構造を最初から最後まで漫然と辿れば、その情報を書き込まれたに等しい。そうなれば、眷属として僅かに進行する。
二回繰り返せば、二度転写がおこなわれる。けれど、雪菜だけは四度転写がおこなわれる。
秘密裏におこなわれた転写と雪菜の性質。
増幅されたのは守護の意識。
叶和(女王)と雪菜(女王)に囁かれるまま、線香花火で肉体を活性化。
ナイフの刺さった痛みなどとうにトんでいる。
刃を手にした雪菜はそれを怨敵へと突き出す。
スヴィアを傷つけた二人は許さない。
「哀野さん!?」
ようやく気付いた創の呼びかけに耳を貸さず。
雪菜は姿勢を低くして、突撃兵のようにリンに迫る。
寿命を考えず、線香花火の異能を最大限に施したその身体能力は、活性アンプルを打った肉体スペックに匹敵するだろう。
創では阻止は間に合わない。
「リンちゃん、危ないから下がってな」
「うん、うん!」
雪菜が動き出す兆候を捉えた茶子は、先にリンを下がらせ、雪菜を迎え撃つ。
目で追うのがやっとの超人的な速度の突き刺しだ。
けれど、その実態は速くて力が強いだけ。素人の破れかぶれの特攻だ。
研究所最強がおめおめと受けるはずがない。
自分を殺しに来る人間を生かすほど彼女は優しくはない。
ここに至って、茶子にとっての雪菜の価値はボーダーラインを下回った。
山折村に無用な人材へと格下げされた。
目で追いきれないほど速かろうと、交差する瞬間に相手に合わせて一歩踏み込み、あとは首が通過する時間、通過する空間に長ドスの刃を通すだけ。
八柳流の剣術ですらない。処分にそんなものは必要ない。
「あっ……」
一閃。
ただそれだけで、雪菜の胴と頭を繋ぐ一本の線は分かたれた。
『守らなきゃ……』
長ドスはその一太刀だけで溶け落ちて砕け散ったが、藤次郎の刀があれば何も問題はない。
くるくる首が舞うようなことも、酸の血をまき散らすようなこともなく、雪菜の頭はごとりと地面に落ちる。
前かがみの姿勢のまま分かたれた胴は、噴水のように血を噴き上げながら、後方によたよたと勢いのまま歩いていく。
物珍しくもない。これまで斬り捨ててきたジャガーマンやゾンビと何が違う?
手ごたえは確かだ。今さら罪悪感も何もない。
ゾンビも人間も何人も殺してきた。
生死の読み違えなどありえない。
それが茶子のミス。
『守らなきゃ……』
独眼熊の精巧なフェイクによって欺かれた大田原源一郎が立ち直るまで、およそ五秒。
茶子の戦闘センスがどれだけ優れていようとも、在りし日の大田原と
独眼熊には程遠い。
戦場で死体に構うのはルーキーだけだ。
死んだ人間はさっさと関心から外し、次の敵に構えるのが定石。
だから、もはや興味を無くした雪菜の身体に再び関心を向けなおすならば、時間は潤沢に必要だ。
『守らなきゃ……。死んでも守らなきゃ!』
――がんばれ、雪菜!
語りかけてくる叶和(女王)のエールを受けて、雪菜の生首はにこりと凄惨に笑う。
茶子の関心の死角で、茶子の背後で、線香花火が輝いた。
茶子が気配を感じたときには、もう手遅れだった。
『女王様を、守らなきゃ!』
線香花火の真骨頂。
輝きの消えるその直前こそが最も肉体が活性化する。
フランス革命の折、ギロチンで首を落とされた学者は、二十秒もの間まばたきをしてみせたという。
ならば首と胴を分たれた雪菜は、いま最も生命力に満ちている。
バチバチと火花のように血が弾ける。
地面に舞い落ちた雪菜の首は、首の筋肉と骨だけをバネに、弾ける血を推進力に、再度地面を押し出して宙を舞った。
人を喰らう架空の存在、抜け首のように宙を舞い、伝承のように牙を剥く。
首を落とされてから茶子の肩口に食らいつくまで、五秒。
酸で溶かして尖らせた犬歯はいともたやすく茶子の肩を貫き、唾液を血管に注入する。
「があああああああああぁっ!」
激痛に身をよじらせる中、さらなる悲鳴が差し込まれる。
「チャコおねえちゃんッッ! たすけてえッ……!」
リンは雪菜の首のない胴体に捕らわれようとしていた。
「くそっ、いい加減離せッ!」
雪菜の頭を診療所の壁に打ち付ける。
一度。二度。三度。
『まもらなきゃ……。先生……。叶和……』
脳が露出し、ぐちゃぐちゃになった雪菜の頭がついにごとりと落ちて動かなくなる。
それでも身体は止まらない。
「いや、いやあ!! チャコおねえちゃん! リンをたすけて!」
今の茶子は、過去一番に精神が研ぎ澄まされている。
リンの悲鳴に答えるように、茶子は縮地によって雪菜の胴に迫り、刀を抜き放つ。
――守らなきゃ。
それは、茶子の夢想にすぎなかった。
肉体が追いつかない。脳が指示する通りに肉体が動いてくれない。
茶子の肩口から注入された唾液は、血流にのって、茶子の右半身を壊し続ける。
四肢を失った負傷兵が、四肢が健在だったころの動作を取ろうとして倒れるのはありがちなことだ。
今まさに助けを求めている過去の自分自身の前で、研究所最強は無様に地面に身体を打ち付け鼻から血を流した。
その間に、リンの身体は首のない血塗れの身体に捕らえられた。
「おねえさん、ウソついてごめんなさい!」
お姉さんが気に入らないからウソをついてまほうのカードを隠した。
「もうウソはつかないから!」
パパにとってのいい子でいるためにウソをつき続けた。
「リンをゆるして!!」
自分がウソつきなのを隠すために、みんなのウソを許さなかった。
そんな悪い子を食べにくるのはオオカミではなく、首のないナニカであった。
もう考える頭もない彼女に、言葉など通じるはずがない。
生前の意思だけで突き動かされるその肉体に、手加減などあるはずもなく。
バケツの上で膨れ上がった線香花火がぼとりと落ちるように。
茶子の目の前で、多くの村人を狂わせたその愛らしい美貌はぐずりと溶け落ち、じゅわっという音と共に地面のシミとなった。
そこに残っていたのは、ただ首のない死体が二つ。
茶子は戦いとすら呼べない小競り合いの末に剣士の要を奪われ、そして過去を今再び失った。
■
創は理解を拒否するかのように視線をうつろわせる。
茶子。スヴィア。リン。雪菜。
誰も何もかもが信じられず、立ち尽くす。
たった三十秒ぽっちの出来事だった。
一体だれが悪かったのか、何を間違えたのか。
雪菜は茶子に殺され、リンもまた雪菜に殺された。
スヴィアの脈はもうない。そして心臓の鼓動も感じられない。
ではなぜ自分は動かなかった?
茶子がなんとかすると思った?
リンがスヴィアに過度な異能を使ったことを引きずった?
スヴィアこそ優先して救わなければならないと思った?
事実は一つ。
創はリンが殺されるのを、ただ呆然と眺めていた。
雪菜を、リンを、見殺しにした。
茶子もまた、目の前で起きた出来事に呆けていた。
何故あんな行動を取ったのか、理解できない。
右半身の感覚が鈍いことが理解できない。
ぐったりとしたスヴィアを見ても、何の敵意も湧いてこない。
もはや、ここに生者は二人だけ。
戦意を折られた二人の間に、小競り合いなど起こりようもない。
だから悪夢はすべて終わって――。
否。
「スヴィア先生!?」
まだ悪夢は終わらない。
スヴィアがすくと立ち上がった。
ありえない。確かに脈は止まっていた。
リンの異能を受けて限界を迎え、確かに命を落としていた。
それがただの計測ミスだったならエージェントとして恥じ入ることだが、今となっては地獄に仏である。
創の声を聞き取ったのか、スヴィアの顔を覗き込んで。
くるんと創のほうに向きなおる。
その容貌の異様さに、創は息を呑んだ。
かつてこの地にあった研究所の所長は、新人研究員に問うた。
神を呼び寄せる最も可能性の高い手段はなにか、と。
それは人の想いであると所長は答えた。
身を呈して救済を求め続けたスヴィアの想いが、魔王を呼び寄せた研究員に劣ることがあろうか。
自分を監禁し、家族をも殺した隠山の里への憎悪に劣ることがあろうか。
眼孔に詰まっているのは目玉ではなく、吸い込まれるような漆黒。
そこから、黒い闇が涙のようにぽたぽたと溢れ出ている。
異能かと手を伸ばして触れれば、その体は氷のように冷たい。
まるでゾンビ、いや、死人だ。
――生徒たちの声が聞こえるんだ。
今のはスヴィアの声だったのかと、後追いで創は理解した。
もう、その声は人のものではなかった。
スヴィアのまわりには、黒い霞がまとわりついている。
それは生物災害によって未来を奪われた亡者たちの怨念のように思えた。
山折村古来から蓄積し続けてきた厄ではなく、此度の生物災害で発生した多数の怨念。
何も手立てを打たなければ大田原源一郎の元に向かっていたはずのそれは、すべてスヴィアが肉体へと取り込んだ。
何せこの地下には諸悪の根源の研究所があった。
その研究所は、隠山祈を監禁し、悪神へと変貌せしめた岩戸を拡張したものである。
数百年前にあらゆる呪いの根源を生み出した場所の真上に立ち、強い想いを抱いて散った者に、八百万の神が答えないはずがなかった。
――生徒たちが、ボクを、呼んでいるんだ。
――みんなが助けを求める声が、聞こえるんだ。
――未来を奪われた子供たちを、救わなきゃ。
――ハッピーエンドを掴まなきゃ……。
「スヴィア先生!?」
創の呼びかけに、その黒い瞳を向ける。
『天原少年。日野くんを頼む』
かつて人であったころの声で創に託す。
――みんなの歌が聞こえるんだ。
――みんながボクを呼んでいるんだ。
――もっと生きたかった、と嘆いているんだ。
――だから、ボクはみんなを救わなきゃいけない。
リンの死体を前に呆けた茶子に目もくれず、スヴィアは音すら立てずに歩きだす。
山折村に広がる漆黒の闇。
スヴィア・リーデンベルグだったものは、溶けるように暗闇の中に消えた。
もはや地獄と呼ぶにも生ぬるい惨状に、創は膝から崩れ落ちるしかなかった。
茶子がふらふらと立ち上がり、よろよろと歩き出す。
「どこへ?」
感情のこもらない瞳で創を見つめる。
「哉くんのとこ。
一発、景気づけに殴ってもらうわ」
「当ては?」
「あるわけないだろ」
あまりに疲弊し、恨みつらみすら湧いてこない。
同行するか、別行動か。
二つに一つだが、その先の言葉は紡げなかった。
「逃げ延びたリンちゃんを置いていくことになるんだけど、戻ってきたら連れて行ってくれ。
チャコおねえちゃんがカッコわるくてごめんなって謝っといてくれると助かる」
「虎尾さん……?」
創から見た茶子は歪だった。
彼女は人の感情の動きに明るい。
それこそ、魔王を掌で転がせる程度には会話の組み立てがうまく、人心への理解も深い。
にも関わらず、自身は悪態を隠さず、特定の人物への想いを隠そうとしない。
それは、エージェントとしての訓練を受けていたわけではなく、
野良の強者がエージェントとして取り立てられ、独学で学んだことに端を発するのだろう。
故にそのような歪みと付け入る隙があるのだろうと思っていた。
戦闘に関するセンスも頭の回転も一級品だったために、それらも決してマイナスになっていなかった。
違う。
彼女はすでに壊れていて、パッチワークのように心をつなぎ合わせて自我を保っているのだ。
不和の原因の一人であり、いま、雪菜の仇となった人間。
にもかかわらず、創は何も言い返すことができなかった。
茶子の姿は、遥に出会わなかったときのIFであったと思ったから。
茶子もまた、ふらつきながら暗闇の中に姿を消した。
生ぬるい風が村を吹き抜けていく。
死体と怨念に塗れた悪夢の中、創だけが暗闇の中、立ち尽くしていた。
【哀野 雪菜 死亡】
【リン 死亡】
【スヴィア・リーデンベルグ 怪異化】
※
スヴィア・リーデンベルグだったものからは一切のウイルス反応は消失しました。
【E-2/診療所東/一日目・夜中】
【
虎尾 茶子】
[状態]:異能理解済、疲労(特大)、精神疲労(中)、山折村への憎悪(極大)、朝景礼治への憎悪(絶大)、八柳哉太への罪悪感(絶大)、右半身麻痺
[道具]:ナップザック、医療道具、腕時計、木刀、八柳藤次郎の刀、ピッキングツール、護符×5、モバイルバッテリー、研究所IDパス(L2)、小型発信機
[方針]
基本.協力者を集め、事態を収束させ村を復興させる。
0.哉太を探す
1.―――ごめん、哉くん。
2.…………願望器。
3.小型発信機に従い、ハヤブサⅢと思わしき人物と接触する。
4.有用な人材以外は殺処分前提の措置を取る。
5.顕現した隠山祈を排除する
6.未来人類発展研究所の関係者(特に浅野雅)には警戒。
7.朝景礼治は必ず殺す。最低でも死を確認する。
[備考]
※未来人類発展研究所関係者です。
※リンの異能及びその対処法を把握しました。
※天宝寺アニカらと情報を交換し、袴田邸に滞在していた感染者達の名前と異能を把握しました。
※羊皮紙写本から『降臨伝説』の真実及び『巣食うもの』の正体と真名が『隠山祈(いぬやまのいのり)』であることを知りました。
※月影夜帳が字蔵恵子を殺害したと考えています。また、月影夜帳の異能を洗脳を含む強力な異能だと推察しています。
※『神楽うさぎ』の存在を視認しました。
※『神楽うさぎ』の封印を解いた影響はスヴィアに引き継がれました。
【E-2/診療所中庭/一日目・夜中】
【
天原 創】
[状態]:異能理解済、記憶復活、疲労(絶大)
[道具]:ウエストポーチ(青葉遥から贈られた物)、デザートイーグル.41マグナム(0/8)、スタームルガーレッドホーク(6/6)、ガンホルスター、44マグナム予備弾(30/50)(
ジャック・オーランドから贈られた物)、活性アンプル(青葉遥から贈られた物)、通信機、双眼鏡、袴田伴次のスマートフォン
[方針]
基本.パンデミックと、山折村の厄災を止める
0.???
1.全体目標であるVHの解決を優先。
2.災厄と特殊部隊をぶつけて殲滅させる。
[備考]
※上月みかげは記憶操作の類の異能を持っているという考察を得ています
※過去の消された記憶を取り戻しました。
※山折圭介はゾンビ操作の異能を持っていると推測しています。
※活性アンプルの他にも青葉遥から贈られた物が他にもあるかも知れません。
※『神楽うさぎ』の存在を視認しました。
※軍用通信が解除されたことで小型発信機でハヤブサⅢの通信機を追跡できるようになりました。
最終更新:2024年07月07日 19:28