廃れたビルの屋上。
落後防止用の金網に指を絡ませながら、少女は周囲に広がる光景を忌々しげに見つめていた。
場所はバタリアの中央。年中砂嵐に悩まされる同都市区の中でも、のた打ち回る熱風の暴虐や鬱陶しいざらつきから、いくらか解放されている場所だ。地下連絡網への入り口を中心に、色褪せた中・高層建築物が同心円状に広がっている。外周部に近づくにつれて建物の背丈は低くなっていき、最後は半ば埋もれたスラムが連結する。間を通る舗装路には砂がこびりつき、ひび割れも多い。歪んだ標識に従えば人生の終着点に連れて行ってくれるだろう。
イル・シャロムへと続く大通りを目で辿っていくと、アスファルトと荒野との境界線が曖昧になる付近で黒々とした人工の急斜面が行く手を遮った。それは上部から伸ばした繋留錯を地面に打ち込まれたバンカーにまで繋いで、外側にささくれ立つように斜めに傾いている。表面には幾筋もの溝が走り、かつて空母の甲板であったことがわかるが、遥かに巨大――少女が立ちくらみを覚えるほど巨大すぎた。
少女は反対側に視線を移す。
都市の上を通り過ぎ、そこから少しだけ視点を動かせば、遠近感の概念を残らず剥ぎ取る物体がある。全長1キロメートルの歪な空中都市、いや、旧時代の機動要塞〈マザー〉の遺体だ。それは、五枚――先の巨壁はその一枚を利用したものだ――の甲板を羽のように広げ、もはや高層建築物の如き六つの脚全てを大地に突き刺して、落ちてくる空を支えている。外装にびっしりとこびり付いた亜鉛鉄製の簡易家屋群や張り巡らされたワイヤーを見る限り、大家族(バタリアン)は彼女に依存した生活を送っているのだろう。母の死骸をひとつひとつと解体していきながら、ときには、穴だらけの膣内に潜り込んで砂塵や戦火の嵐をやり過ごすのだ。
ドリルを突き立てて作業に勤しむMTの影がちらつくと、少女は思わずニクバエの情報を脳内デバイスのログから拾い上げてしまった。
動物の死骸に卵を産みつけ、幼虫は肉を食い進んで成長する。過去には、その生態を利用した医療や食品があったようだが、少女はそんな安直な肯定的意見を受け入れたくない。
嫌悪感を内に秘めながら、顎を下げる。
ひしめき合う人、人、人、人の群れ。喧騒を可視化したかのよう。人々の川が目抜き通りいっぱいに流れ、交差路で幾つもの支流に別れていく。方向や速度は一定ではなく、ときより対流し、怒鳴り合う声も聞こえたが、力強い奔流には逆らえず、双方とも遠ざかっていくしかない。路肩にはトレーラーを改造した屋台や露天商の広げたガラクタが並んで、好奇心の水圧を増大させている。
蒸発し、立ち上ってきた欲望と汗臭い熱気に思わず咽せかえる。生気に溢れた喧騒も、憎悪に捕らわれた少女には、汚らわしいものにしか聞こえない。
少女は苦虫を噛み潰す。
奴らは知っているはずだ。マザーはまだ生きている。神経はもはやズタズタに喰い千切られて、抵抗の叫びを上げることもできないだけだ。空っぽになってしまえば楽になれるのに、残虐な寄生虫どもはそれを許さず、彼女を身勝手に延命させる。自分たちの存続のために、彼女を自己変容の苦痛に浸している。
「私には分かるよ、あなたの気持ち」
呟きが漏れる。声は確かに自分のもので、他の誰のでもない。しかし、言葉尻は重い。
やがて、少女――レベッカ・リンストンは網格子から指先を離した。黒のスカーフで全身を包み直し、きびすを返す。
自分の脳にも巣くっているんだ。以前の腐肉に飽きて私の中に潜り込んできた、記憶の残滓を食らう、忌々しい幼子たちが。
だけど、それも今日で終わり。
レベッカの足取りは軽い。爪先を踊らせる。
千載一遇のチャンスが訪れていた。
この地獄から解放されるための一筋の光明。“組織”のくびきから自由になれる、たぶん最後の機会。
思わず空を見上げる。太陽光は一面を覆う灰雲に歪められ、脂ぎった虹色で荒野を彩っている。
それでも、青空はその向こうにあるはずだ。美しい青が、私を待っているはずだった。
「え?」
不意に、レベッカは眉をひそめた。
一瞬だけ、目の奥で白がちらついた。なんだろう。白い粒たちが、しんしんと、下に向かって舞い落ちていったんだ。どこか懐かしい感じがして、胸が熱い。
どうしてだろう?
今の彼女には、その源を辿ることはできない。
最終更新:2012年09月06日 00:46