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 見上げれば、雲が空一面を覆っていた。
 朝方の脂ぎった虹色は最早なく、全体に不気味な灰青色が広がっている。ところどころで緑黄色の水膨れが膨らんで、空を一層低く、閉塞感を強めている。そうした焦げた腫瘍から膿のように滲み落ちる陽光は、何重にも重ねた高空塵層のフィルターを通してきているはずなのに、大気をぼやけさせるほど鋭く、そして熱かった。弱々しい風はアスファルトの照り返しに押されるがまま、ただ表面を撫でるだけにとどまり、中空で途方にくれる熱気すら連れ去ってはくれない。

 でたらめな天気だ、とレベッカは思った。

 予報によれば太陽が姿を見せないまま西の彼方へと落ちるまでに、気温は更に高まっていくらしい。このまま風が意気地を出さず、雲が居座るのであればバタリアには寝苦しい夜が待っているのだと。

 今にも雨が降り出しそうな分厚い雲だというのに。

 そんなレベッカの心内の声を非難するかのように何かが肩を突っぱねた。一歩踏み出し、傾いた上半身を引き上げる。危うく幾千幾万の踏みつけの犠牲になるところだった。
 顎先を周囲に巡らせて、じとりとねめつける。だが、絶えず流動を続ける人波の真っ只中では誰が犯人かは全く見当もつかなかった。人々は立ち止まった少女を避けて進んでいく。

 でたらめなのは何も天気ばかりじゃない。
 そんな不満を口の中で持て余し、彼女は歩みだした。

 病んだ皮膜の下にあっても、人混みは依然として豚の吐瀉物のように混沌とし、一向に和らぐ気配を見せなかった。寧ろ、昼休みに入った労働者たちが連れだってやって来たせいで無秩序の密度を増しているようだ。迷路状に入り組んだ通りはその隅々にまで露店と人々とで満ち満ち、その頭上では雑音が陽炎と踊り狂っている。
 バタリアはバザールの最中だった。
 キャラバンの来訪はいつも突然なものだが、規模の如何は別として、そのときは決まってバタリア中がお祭り騒ぎになる。早朝であろうが深夜であろうが住民たちは不定期市開催の予兆を嗅ぎ取る術に長けていたし、準備も怠っていなかった。といっても、彼らが用意するのはバスケットとそこに入れる小麦粉を練った塊だけらしいが。
 極めて正確に言えば、バタリアの市民は客として来ているのではなかった。レベッカが見てきたなかで、市民の誰ひとりとして何かを買おうとするものはいなかった。珍しい旧世代の遺物を見て回っているだけで、バザールはいわば金の掛からない娯楽――見せ物でしかないのである。自宅から持参した練り物を得意顔でかじりつきながら、数世代にも渡る貧困によって培われた野次馬根性を逞しく発揮している。
 この時間は特に食物系の屋台の周りが酷いようだ。好奇心と空腹感を同時に満たそうという腹づもりらしい。レベッカには吐き気しか呼び起こさない脂っこく生温かい臭いだったが、味気も湿り気もない薄生地には最高の調味料になるようだ。

 レベッカが何気なく見やると、怒りとも呆れともとれる表情が屋台の中で揺らいでいた。
 ミグラントだ。
 彼らは卑しい貧者どもには見向きもしていなかった。矢継ぎ早に商品に伸びる垢だらけの手を叩き落とし、愚かしい疑問とともに飛んでくる小麦のカスを払いながら、道行く同業者相手に声を張り上げている。所属キャラバンのリーダーたちが〈バタリア通商連合〉との大きな商談を済ませている間に、少しでも小遣いを稼いでおこうという算段らしい。

 急進的な工業化の一方で有数の商業都市としても発展したバタリアには、豪商の家系が多数住み着いていた。元は都市から都市へと渡る回遊魚――ミグラントだった彼らが如何なる理由でここに住み着くようになったのかは未だにわからない。
 ただ、彼らなりの誇りというものがあるらしく、今でもバタリア入りしたミグラントが最初に、そして、来訪する度に受ける洗礼というのが、題して“ネジ一本から行政権まで”――度重なる挫折とそれを乗り越えた先に掴んだ輝かしい成功の歴史――つまり、自慢話だった。

 以前のバタリア、それこそ最初期のバタリアは、マザーをはじめとする多数の技術資源を擁していながらも露骨な中央優位政策の煽りを受けて開発が著しく遅れていた。当時の稚拙な解体技術も理由のひとつではあっただろうが、政府は地方の開発とそれが齎す利潤には懐疑的であり、怠惰であり、手間の掛かる技術資源に対してその態度はことさら顕著だった。首都イル・シャロムが地下鉄道の根をのびのびと伸ばしていった一方で、バタリアは荒野に残された採掘施設のカスに過ぎなかったのだ。
 豪商の先祖たちがやって来なければ誰にも見向きも手入れもされず、そのまま芽も出さずに腐っていっただろう。腰の重い行政機関に代わって旧世代遺物のサルベージと取引を一手に請け負ったのは彼らであり、その資金を貸し出したのも同じミグラント〈ボールドウィン〉の一族だったという。やる気のない労働者たちや毎日のように続く砂嵐、そして、突発的な暴風雨(テンペスト)に悩まされ、中央からの査察官には嘲笑われながら、ミグラントたちは必死に働いた。彼らがマザーの死骸を分解し、単なる鉄屑でしかなかったそれらに技術的な価値を付加させたことで、バタリアは資産という名の養分を今まで以上に効率良く吸収できるようになった。バタリアは住民の諦観の覆いを突き破ってぐんぐんと成長した。
 その果実に目を付けた猛禽の如き政府の搾取に耐え、〈バンガード〉による軍事クーデターの嵐に揉まれ、伸びる枝を矯正しようとする行政機関の針金をも自ら引き裂き、遂には荒野を横切る渡り鳥たちの止まり木にまでなったのだ。規模は依然として小さいままだったが、徐々に衰退していった他の地方都市――無法地帯と化したゼラノや旧政府の負け犬が大手を振るうカストリカ、身中の虫を退治するためにバンガードに縋るアルモアダ、半ば軍事要塞に作り変えられたビフレーム、等々――と比べれば十分に成功といえるだろう。ミグラント――いや、愛郷者たちは、少数ながらも、バタリアを取り巻く生態系の支配者だった。バタリア発展の歴史に地元民の名前がひとつも見かけられないのは納得できるだろう。稀に出土する旧世代のログにも散見されるように、変革とは内部にのみ目を向ける者ではなく、外観を知る者によって為されてきた。その変革の良し悪しを問わず。

 実際のところ、バタリアの記録はクーデター直後の混乱期に大部分が損失していて、レベッカにはこの話の真偽を確かめることはできなかった。労働階級に対する明け透けな卑下がふんだんに盛り込まれていて、ボールドウィン家へは未だに三割も返済できていない件には触れてすらいない。スキャンダラスな過剰接待の話もどこへ行ったのだろう。
 ただ、あながち全てが嘘だとは言えなかった。バザールの様子を見れば、確かに、ミグラントと市民との間には深い溝が横たわっている。

 レベッカの注意深い観察によると、もつれ絡み合った人々の流れも二つの本流に区別されていた。支流の一本一本ですら混ざり合うことはない。生まれもった歩調に従って、無意識的に分かれてしまうようだった。閉鎖的な生活を送ってきた一般市民は地面を擦るようなスリ足で粘り強く進み、その歩みは恐ろしいほど遅い。対して、ミグラントは脚の筋肉が心筋に直結しているかのように、ひたすら前へ前へ、落ちている金を拾う以外に立ち止まることはない。

 そのどちらでもないレベッカには、慌ただしいミグラントの急流よりも、一般市民の大流の方が発見される可能性は低いように思われた。野次馬の群れは通りの大部分を占めていたのだ。
 今のところ彼女は黒いスカーフを頭に巻き付け、全身もまた黒衣で覆っていた。路地裏に吊されていたものを下着を含めてワンセット分、軽く拝借したものだ。口元まで隠した外套は砂風の強い地域では別段珍しいものでもなく、着色は様々だがバタリアでも多くの女性が同じような格好をしている。身体のラインも曖昧にし、ひとりひとりを区別するものといえば布と布との合間に見える双眸と鼻筋だけ。レベッカの眼の虹彩はバタリアでは滅多に見かけられない色ではあったが、これだけの大衆の中から彼女だけを探し出すのは難しいだろう。レベッカは発信機の存在を恐れ、パイロットスーツを干上がった旧地下水路内に機体ととも隠していた。隠匿用シートに覆われたそれらが発見されるまでに、数日の猶予があるはずだった。
 その間にできる限り首都から離れる必要がある。レベッカは地下鉄道の駅を目指し、根気よく人々の濁流の中を進んでいた。列車の運転状況やそもそも鉄道が機能しているのかどうかはわからないが、視界に入りしだい乗り込んでみるつもりだった。現在のところバタリア通商連合はバンガードと深い対立関係にある。逆さ鷲たちの巣でもあるイル・シャロム行きの列車は一つもないはずだ。

 ふとレベッカが聞き耳を立てると、疑問符だらけの囁き声が喧騒の多数派になりつつあった。巨大なクラクションが遥か前方から轟いて、周りより頭ひとつ低い少女の上を飛んでいった。警告音の鳴る時間が長くなるにつれて、人々の歩みは徐々に速度を落とし、遂に止まる。何やら静かな興奮が漂っている。

 何だろう。

 レベッカはつまさき立ち、立ち往生した頭と頭との間に、ひそめた眉間を覗かせた。
 彼女は思わず目を疑った。数百メートル先の十字路を、横倒しになった建造物が横切っているのだ。
 少女は背伸びをやめ、かかとを地につけるとかぶりを振った。再度、足裏をいっぱいに伸ばす。顎をくんと上げて、陽炎に目を凝らす。
 建造物に見えたそれは〈デルタランダー〉――エアクッション型輸送機のひとつだった。出力を抑えたホバー移動はさながらナメクジ――デバイスはレベッカが知りたくない情報をあえて拾い上げてくる――が滑る様に似ていて、全長14メートル全幅6メートルという巨大なものだから威圧感は推して測るべし。およそ輸送用とは言えないほど完全武装した鋼鉄の馬を目にしたのは初めてではなかった。だが、レベッカは生身で遭遇することは一生無いと思い込んでいた。
 ふと見渡せば、人々は呆けた表情でデルタランダーを見送っている。ガラクタや油が燃える臭いに向けられていた関心は、今やその積み荷に集中していた。屋台の上のミグラントたちですら手を止めて、見入っている。レベッカは視線に促されるように再び鉄塊へと目を向けた。
 合金の鉤爪にがっしりと固定されているのはACだった。バイザー状の装甲でカメラアイを隠した頭部が、運動エネルギーへの防御に偏向した傾斜の鋭いコアに繋がっている。脚部は、元は軽量タイプだったものを装甲と関節部アクチュエータの補強によって中量級の性能を獲得したものだ。軽量機寄りの中量二脚。高機動戦を謳い文句にするタイプだろう。携行する武装は取り回しに優れたものに絞られていて全体に無駄がない。塗装は黄色でところどころには青のアクセントが入っている。視覚的な効果を考えれば、囮や陽動に適している。広域戦闘における防衛や護送に駆り出されるのだろう。
 ただ、左肩はレベッカの反対側にあって、デバイスはエンブレムを捉えられない。いくら思案しようともエンブレムが確認出来ないのであれば、個人データと機体とを結びつけることは出来なかった。
 だが、ある特徴をレベッカは見つけていた。一見、均一に見える塗装に筋のようなムラがある。弱酸性の雨に長時間晒されて洗われた跡だろうか。
 雨天時の作戦が長引くことはあまり好ましくない。地上に蔓延する汚染物質は水への溶解性が高く、雨に打たれた分だけ乗者への危険性が増す。頭上に雨雲を常に引き連れている、一種の超能力ともいえる体質の被検体をレベッカはひとり知っていた。彼女は雨だけで人を殺せるし、自身もその危険を承知していて作戦を長引かせることはしない。
 だから、再塗装を施して上手く隠し通していたとしても、その涙のような筋はレベッカの記憶に浅く棘を刺した。抜けそうで抜けない棘。永遠に抜けそうにもない棘。

 せき止められていた人々の流れが、デルタランダーの通り過ぎたすぐ後から再開した。数分と経たないうちに向かい側と合流し、十字路の中心で渦巻いた。無数のかかとが打ち鳴らす連なりの音は雑踏の上に湧き上がる。商人のがなり声ともつれ合い、とぐろを巻く。
 前方にあったはずの老婆の1グループが、いつの間にかレベッカのすぐ眼の前にまで迫っていた。ふてぶてしい表情を浮かべた老婆たちに、怯んだ少女の姿は見えていない。そして身勝手な逆転は、少女の背後の労働者たちにも見えていないようだった。レベッカは自身が思っていたより、ACを見つめていたらしい。行動を選択するには距離が足りなかった。
 両方向から高波が襲う。レベッカは残された選択肢に手を伸ばした。身を捩ってやり過ごす、最悪の選択だ。
 粘っこい濁流に揉みくちゃにされる。至極不快な感覚。べたついた他人の肌が布越しながら自分の肌に吸い付くのがわかる。生温かい臭いが自分の中に入り込んでくるのがわかる。距離が、境界線が、自分だけの世界が、他人に浸食されていく。耐えられない感覚。忌まわしい感覚。

 レベッカは軽いパニック状態に陥っていた。
 粟立った肌に浮かぶ汗が着衣を冷たく濡らし、体温を奪っていく。悪寒が脊髄にこびりついて離れない。痛むほど萎んだ頬から甘酸っぱい唾液が滲み出し、噛み締めた歯と歯の隙間を押しのけて舌の裏側に雪崩れ込んでくる。飲み下しても、飲み下しても、止まらない。胸の一部が千切れて巨大な蛇と化す。そして、食道をゆっくりと這い上がっていく。先端が膨れた歪な円錐形の頭が喉を軋ませ、口腔に苦い舌先を覗かせる。咽下しようにも円錐の底部――広がった傘状の部分が引っかかり、酸味の強い唾液は潤滑油となってレベッカの舌裏へと導こうとしている。
 外界では、流れが尚も押し寄せ、レベッカの背と胸を圧迫する。誰も目を向けようとしない。誰も気にとめようともしない。助けを求めているのに、苦しんでいるのに。
 誰も、見てくれない。誰も、聞いてくれない。誰も。誰も。

 少女は孤独だった。人混みの中にいて、ひとりだった。自己の存在が人々から否定されているのを、確かに感じていた。

「ねぇ、帰らなきゃ、“あたし”たち」
 途端、蛇の毒が、デバイスの言葉が、少女の口の中に迸った。少女自身の声が他人の思考を奏でている。
「どうして、拒むの? “組織”は“あたし”たちを愛してくれるのに」
 デバイスの動きは素早かった。毎秒テラバイト単位の擬人思考演算。レベッカには、口元を押さえつけることすら叶わない。
「“組織”だけが必要としてくれるのに」
 歪んだ視界の縁に毒々しい桃色の触手が光り輝いた。デバイスが電火を瞬かせる。数え切れないほど膨大な量の物質が頭の中を跳ね回っていくのがわかる。ドーパミンやノルアドレリン等の、負の感情を誤魔化すモノアミン神経伝達物質だ。
 エンドルフィン類似体によってもたらされた多幸感や興奮が頭蓋の内から脳の皺の隅々にまで染み込んだ。デバイスが熱い柔手を挙げて海馬をさすると、度重なる酷使に痩せこけた馬は悦びにいなないた。侵略者がその背に鞍をつけることを許した。手綱に引かれるまま、膨大な量の文字とイメージの蹄を打ち鳴らし、前頭連合野を駆け抜け、先住民たる“レベッカ”を脳の奥の方へと追い立てる。すぐさま延髄へと反転。桃色の騎兵はオピオイドの剣を抜き、身体と“レベッカ”とを繋ぐ糸を切り裂いた。
 首から下の感覚がぷつりと途絶える。だが、変異の進行は止まらず、その過程は感じることはできないものの、情報として認識できていた。夥しい量の微小生体機械が体内をのた打ちまわり、局所の細胞に対して分裂と成長、あるいは萎縮を促している。あばら骨や大腿骨付近から筋と肉が引き剥がされ、その空隙を新たな細胞が埋めていく。べりりという破裂音やじくじくと細胞が増殖していく音が水の壁を通したように、骨自体の振動から認知できてしまう。オキシトシンを喰らい重みを増す胸。肥大化する臀部、引き締まっていく腹部。
 “アイリーン”の闘争本能が脳髄を誘惑する。身体的充足感に伴う自信や自己顕示欲が中枢を蝕んでいく。
 “レベッカ”は戦慄した。恍惚とした表情を浮かべながら自ら身を差し出す羞恥心や厭世感に。徐々に強くなっていく愛されたいという渇望に。

『“あたし”は亡霊なんかじゃないよ』
 無音の声のイメージが頭の中で言葉を紡ぐ。
『この頭の中にだけ、だけど、確かに実在するもうひとりの――』

 違う。
 私はそんなんじゃないもん。

『いいかげん素直に認めちゃいなよ』――肩をすくめるイメージ――『甘えたいときに甘えられないのは、ツラいでしょ? だから、“あたし”が代わりにやってあげる』

 “レベッカ”は必死に抵抗した。無我夢中に意識を振り回す。無駄だとわかっていながらも、受け入れることはできない。“レベッカ”は“レベッカ”であろうと、もがき、ピンクの闇の中を暴れ狂った。
 何かが“レベッカ”の先端部を握り締めた。
 イメージは、無形の光の雲。温かく、そして、柔らかい。その色は毒々しい蛍光色ではない、純粋な光の色だった。
 その雲は、“レベッカ”の意識を優しく引き寄せ、離れつつあった神経の一筋へと導く。”レベッカ“は驚きながらも、機会は逃がさなかった。負荷に耐えかねて千切れてしまう前に、神経糸に絡みついた。

 突然、少女の両腕が飛び跳ねた。
 短く、それでいて、鋭い悲鳴が足下に落ちていく。伸びきった腕の先を見やると、老婆のひとりがアスファルトに座り込んでいる。いや、ちがう。腰の痛みに喘いでいた。
 無数の視線が少女に集中する。前後左右、あらゆる方向から。彼らは歩行と会話を忘れた。静寂が少女を中心にして広がり、身を刺すスモッグのように肌にまとわりつく。
 デバイスのイメージが、たじろいだ。動揺と嫌悪と好奇とに満ち溢れた目と目と目は、緑と桃色が油絵の具のように混ざり合った不自然な虹彩を捉え始めていたのだ。
 今度はデバイスがパニックに陥る番だった。

 出し抜けに、少女は駆け出した。
 老婆を跨ぎ越し、あらゆる障害を押しのけて、隙間から隙間へ、体を捻込んで、物言わぬ人々の林をひたすら突き進む。アスファルトを蹴飛ばし、両腕を鉈にして掻き分ける。体内のエネルギーを全て使い切ってしまうように、頭を空っぽにしてしまうように、全身をがむしゃらに動かす。ひたすら走る、ひたすら駆ける、ひたすら跳ねる。

 パッと視界が開け、縁石につまづいた。
 下がりきったシャッターに額をしたたかに打ちつける。すぐさま顔を引き剥がし、振り返った。
 人混みは音と動きを取り戻していた。この辺りは現場からは遠く離れていて、まだ伝わっていないのかもしれない。開いてきた道筋は既に残されておらず、さっきの十字路もどの方向にあるかわからない。老婆の金切り声が聞こえたような気がしたが、雑踏の激しい流音の前には確かではなかった。

 そこは屋台と閉じた店とに三面を囲まれた安全地帯だった。トレーラーは片側のタイヤを歩道に深々と乗り上げ、壁との隙間は人が歩ける程の幅はない。鉄道へ向かうには人々でごった返した通りに戻る必要がある。
 少女が流れへ一歩踏み出すと、一段下の排水口にはまったグレーチングがかたんと音をたてた。視線を落とせば、網目の粗い格子越しに渇いた闇がうずくまっている。干上がった排水溝の隅には砂がこびりつき、鱗のようにひび割れていた。周囲を囲む荒野と同様に、この街にも暴風雨はやってくる。ただ、砂の貪欲さの方が天からの施しよりも勝っているのだ。

 少女――レベッカはへたと座り込んだ。呼吸は荒く、胸が激しく上下している。膝に力が入らない。疲労のせいだけではない。今や、別の苦しみがレベッカの胸を内側から圧迫していた。

 デバイスはこの身体が欲しいだけ。
 惑わして奪い取ろうとしているだけ。
 あんなの私じゃない。
 私は絶対に認めない。
 絶対に。

 頬の筋肉が強張り、眼球の表面に霞がかかる。痛んだ鼻筋は肺にわだかまる熱い吐息を眉間へと誘っている。
 堪えきれず、膝を掻き抱いた。そのまま顔をうずめてしまいたかった。赤らんだ頬を誰かに見られるのは辛かった。
 が、胸の前で何かが邪魔になっていた。柔らかいながらも張り詰めていて、先がツンと上を向いた、二房の何かが。

 レベッカがそれを理解するや否や、激痛が身体中を駆け巡った。
 至る所で骨格筋が多種多様な音を立てて元の位置へ戻っていくのだ。余分になった細胞が壊死し、収縮していた別の細胞が膨張する。虹彩が異常な熱を帯びはじめた。
 脳内物質のフィルターを通さない痛みはミキサーか跳弾のように、レベッカの意識を頭蓋の内で掻き混ぜ、蹂躙していく。奥歯を噛み締め、膝頭に額を押し付けても、和らぐことはない。脛に食い込んだ爪は布ごと皮膚を破いてしまいそうだ。白い肌はさらに色褪せて、脂汗がそこら中に浮かびだす。心臓の拍動と呼吸とのリズムが著しく乱れ、薄い合板が心臓に斜めに突き刺さって血流をせき止めているかのようだ。心臓の喘ぐ音は耳の内で何重にも木霊し、喧騒の侵入を拒む。手足の先が大気に溶けていく錯覚。脳が窒息死しかけている。

 死んじゃう。

 まぶたは閉じているのか、開いているのか、どちらも確かではなかった。ただ、世界がぐにゃりと柔らかくなって、白い暗闇が優しく包み込んでくれた。レベッカは誘われるまま温かい闇の中へと沈んでいった。深く、深く、掴めるものは何もない。

 そうか。私、死んじゃうんだ。

 身体が異常に軽くなった。
 レベッカを地面に押しつけていた重い痛みがみるみるうちに消えていく。
 まるで、からだ全体がわたになってしまったよう。天使の羽根につまったわたになったように。
 レベッカは恐る恐る目を開ける。
 世界には以前として色褪せた人々がひしめき合っていた。ここが死後の世界のひとつだったとしたら、連れてきた天使を死ぬまで怨んでいただろう。だが、そうはならなかった。燃え盛る油の臭いが鼻を通り、頬の内側にねとついたからだ。動物的で、不快な生臭さ。
「うええ」
 舌に広がった苦味は呑み下すのも躊躇われる。渇いた唇の間から舌先を押し出すと、涎が筋を引いて落ちた。死滅した体組織の残滓を多く含んだ唾液は色濃く白濁していた。そこに、急激な血圧変動に鼻腔の奥に染み出た血が混ざり、淡いピンク色に変えている。餓えた砂の上でも玉粒となってなかなか滲まなかった。
 レベッカは足裏で擦り込んだ。忌々しげに、砂煙をたてながら、桃色を掻き消した。
 顎の下を拭き取った後にようやく、レベッカは自分がまだ死んでいないことに気がついた。

 膝を胸に押し付けることは容易になっていた。彼女は着衣の胸元を引っ張って中を覗き込んだ。先ほどまでの膨らみは萎縮し、代わりに濃密な湿気がむわりと立ち上った。
 次いでお尻の下に手を潜らせる。濡れた布越しに火照った太腿の温かさを感じるも、高弾力性で張りのあるクッションは無くなり、小ぶりで柔らかい肉がそこにあった。
 最後にスカーフを解いた。汗ばんだうなじにまとわりつく一房の髪を掻き出す。クセっ気の強い毛先を見てみると、端まで脱色しきっていた。

 全てが元通り。

 レベッカが少々薄くなった胸を膨らませた。心臓にあった遮蔽板が外れ、ため息が外界へ羽ばたいていく。



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最終更新:2012年11月09日 20:29