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 ランペイジはレスピレータの内で舌を打った。
 彼の顔は下顎から鼻まで覆う黒い面体のせいで、今まさに巣立とうとする鳥頭人間のようにも見える。

 目の前では巨大な隔壁がゆっくりと開きつつあった。鉤爪状のロックがその解除プロセスを終え切る以前から砂利はゴーグルの向こうで褪せた火花を散らしていた。ゲートの僅かな隙間によって圧縮された砂混じりの気流は錆びたナイフのように肌を小突いてくる。外気が艦内との大きな気圧差を埋めようと、格納庫内に勢いよく吹き込んでいるのだ。
 下顎の左右にある吸気弁と排気弁がフィルターで空気を濾過し、清浄な酸素を提供する。しかし、薄い大気の中からではその量はたかがしれていた。ヘモグロビンが恵みを探して血中を駆け巡っているが、報酬は乏しい。脳髄はエネルギーの節約のため、まず最初に忍耐力を切り捨てたようだった。
 ランペイジは最後まで待てなかった。隔壁が何とか通れるほどに開いた時点で、苛立ちをフットペダルに叩き込んでいた。

 そして、すぐさま後悔した。
 甲板作業車は小さな車体には不釣合な馬力をもっていた。バッテリーエンジンがタイヤを猛転させ、驚異的な速度でランペイジの尻を蹴り飛ばす。ゲート縁の僅かな段差を乗り上げた瞬間、車両が二インチばかり持ちあがり、熱気と光の中へと文字通り飛び出した。合金の床の上を滑空し、片車輪で着地する。楽しむ余裕はなかった。ハンドルは暴れ狂い、ランペイジが主導権を握るまで、三つのS字を描くほどだった。

「か、勘弁してくれ、ランペイジ。ケツがバルブを締めやがるぜ」
 やっと軌道が落ち着いた頃、背後から男が身を乗り出した。剥き出しの頭皮には脂汗が滲んでいる。
 無理もない。甲板作業車は本来一人乗り用であり、後部は台状の駆動部があるだけだ。掴める所といえば、外装取り外し用の取っ手ぐらいだった。
「今日は風が弱いからまだいいけどさ。いつもだったらこうはいかないぜ。大車輪三回転半ウルトラC、トーナメント進出確定だ。考えるだけでも尿道からシャンパンパーティー始めちまいそうだぜ」
「何なんだよ」
 ランペイジは振り向かずに毒づいた。
「我らが隊長殿は言葉遊び検定の通信授業でも始めたってのか? どいつもこいつもくだらねぇジョーク撒き散らしやがって。てめぇの股間にでも披露してやがれってんだ」
「そんなんどうだっていいんだよ」
 男はゴーグルの向こうで眉をひそめ、スキンヘッドに食い込んだ固定紐を緩めた。かさばるアーミーグローブのせいで上手くできない様子。口元はマスクに隠れて見えないが、威嚇するように歯を剥き出しているはずだ。
 男はうなった。
「肝心なのはお前の生存本能がどうなってんだってこと。くそ! 頼むぜ。これ以上、母ちゃんを悲しませたくないんだ」
「へぇ、オシメにまた染みが増えちまうってことかい、お嬢ちゃん?」
「墓ん中で親父と、一番目と三番目の兄貴たちからゲンコツもらうのは俺なんだぜ」
「ミイラのリンチは見てみたい気はするがな」
「労災保険は降りねぇんだ」
「テメェの家庭環境なんか知るか」
「いいかげんにしろ!」
 男が肩を掴んだ。
 ランペイジは振り返った。汗で光輝く卵型の頭を睨みつける。
 男は一秒にも満たなかった空中旅行を三時間も体感したようなはしゃぎ様だった。はだけたフライトスーツの胸元から熱気が漂い、興奮のあまりにゴーグルの内に分厚い霞がかかってすらいる。
 しかし、待て。ゴーグルはマスクとは分離している。なので呼気のせいではない。目から蒸気でも出しているのか。
「甲板上で死にかけたのはこれで八回目だぞ、ランペイジ! 地表からどんだけ高いところにいると思ってんだよ! 少しはその自堕落的人生にレールを引きやがれ!」
「テメェは俺のママか何かなのか? 蹴落とされないだけでも感謝しな」
 そう吐き捨てながらランペイジは振りほどいた。フィルター越しに空気を貪る音が耳障りだ。ランペイジのささくれ立った心をヤスリのように掻き乱してくる。思わずアクセルに掛かった足に力が入ってしまう。
「女々しいヒステリー野郎め、泣いてんじゃねぇよ」
「こんなとこに立ってりゃ誰だって神経質になるだろうが!」
 男は食いしばった歯の隙間から吠えた。透明なアクリルガラスについた水滴が垂れて、枠に溜まる。ゴーグルの中で金魚でも飼えそうだ。

 確かに、甲板は地上から極めて高い場所にあった。
 分厚い合金板を幾つも重ね合わせた空中滑走路はその途切れた先を地平線と見紛うほど広大だ。端に立たなければ足下にある荒野を眺めることはできない。表面には掴めそうな凹凸は全く無く、風の強い日はどこまでも転がっていけるだろう。
 マザーには同じものが他にも四枚存在している。それらはメインシャフトの両側から高低差をつけて展開していて、絶妙な開き具合から“羽”と呼ばれることもあった。そしてここからの転落死はバタリアで最も不名誉な死に方のひとつだった。
 ただ、今日は久しぶりの凪で、末代まで馬鹿にされる危険性は皆無だ。
 空は素晴らしいまでの曇天模様。
 退屈で億劫な哨戒任務にはぴったりで、現にデッキ上では航空機――といっても殆どの機種は回転翼機であり、高速戦闘機の類は見当たらない――が頻繁に離着陸を繰り返している。荷車を幾つも連結した他の作業車が長い尾をくねらせて、ランペイジたちのすぐ傍らを速度を落とすことなく――逆に速度を上げて通り過ぎていく。整備士やパイロットの姿もあるが、動きのひとつひとつが荒々しい。彼らの周りでフラストレーションの湯気立つ様子が目に見えてくるようだ。
 ランペイジは甲板上でやりとりされている負のエネルギーを両手で掬い取って、日頃の感謝を込めてお偉いさん方の頭に振り掛けてやりたい衝動に駆られた。よりにもよってバザールの期間中、更には昼休みに駆り出されるなんて冗談じゃない。
 何より煙草のストックが底をついている。さっさと地上に降りて、新しいパックを開く時のあの感動を味わいたかった。
「テメェなんかくたばっちまえ」
 ランペイジは苛立ちを言葉にした。
「香でも焚いてもらえば、小便クセェのも少しはマシになるだろうよ」
「じゃあ、お前は煙草を鼻にでも突っ込んでもらえ!」
「そりゃあいい。煙草が無い天国なんて地獄極まりないね」
「中毒者め!」
「煙草がありゃどこだって天国さ」
 ランペイジはそこまで言って、後悔した。
 急に、肺の内にどこか物寂しさを感じた。煙草への恋慕は強まり、耐え難い苦痛が胸を締め付ける。
 ランペイジは顔を歪め、痛む心臓をえぐり出すかのように胸に爪を突き立てた。高粘着性の痰が喉にがっしりと絡みつき、呼吸をさらに妨げる。全身の感覚が凍りつく。手足の先が冷たくなり、脂汗が止めどなく噴き出してくる。眼球の表面に霜が下りている。水晶体の向こうで黒色の大地がぐらついている。

「おい、大丈夫かよ」
 スキンヘッドが肩を揺さぶった。
「お前との心中なんてまっぴらごめんだぜ」
「黙ってろ」
 ランペイジは何とか持ち直すと、フィルターの内側に痰を吐いた。口の中はかすかに鉄の味がした。


 羽の側方にこびりついた直方体――高速型MT専用のハンガーに近づくにつれて、彼のむかつきはさらに高まっていった。黒いハッチを背後にしてカーキ色の人影が手を振っているのだった。
「遅かったわね」
 その人物は車から降りた男たちに声をかけた。マスクのせいで声はひどくくぐもっているが、抑揚と音波長は確かに女性のものだ。フライトスーツの胸元にも幾らか膨らみがある。
「あら? 二人とも汗だくじゃない」
 そう言ってゴーグルの内側で目を細めた。童話の中だと、カラスはこんな表情を浮かべて悪巧みするのだった。くちばしのようなレスピレータも様になっている。
「ずいぶんお楽しみだったご様子……」
「勘弁してくれ!」
 スキンヘッドが代わりに答えた。まだ恐怖を引きずっているらしい。今にも女性に掴みかかって甲板から放り投げてしまいそうだ。
「こちとら昼飯もまだなんだよ! ボーリングの球を挟めそうなくらい腹がへっこんじまってやがるぜ、おい!」
「でも、マスクの中に嘔吐して何時間もゲロ越しの空気を吸うよりはマシでしょ?」
「元はといえばお前のせいだろうが!」
「ちょっと、怒鳴らないでくれる? あんたの死んだ婆ちゃんじゃないんだから、ちゃんと聞こえてるわよ。バカ!」
「まぁ、こいつが怒鳴りたくなるのも無理はないわな」
 ランペイジは暇そうな整備士を捕まえ、作業車を格納庫に戻してくるように伝えていた。若者は見るからに嫌そうな態度をとったので、重たいケツを蹴り上げて乗り込むのを手伝ってやった。中指を互いに立てあって感謝の意を示すのも欠かさない。
「バザールの日に呼び出されるんだ、誰だって頭ん中煮えたぎっちまうだろうさ」
「なるほど、これがホントのハードボイルドってヤツね」
 女はランペイジから卵型の禿頭へと視線を移した。
 ランペイジは自分の表情筋がぴくぴくと痙攣を始めたのがわかった。
「くだらねぇ冗談は止めろ。いちいちトサカにきやがる」
「あら、心外だわ」
 女は腰に片手を当てて顎をくんと上げた。
「これからすることを知ったら、感謝されたって足りないくらいなのに」
「だとよ」
 ランペイジが声をかけると、マザー本体の方向を睨みつけていたスキンヘッドが地団駄を踏んだ。
「ああ、そうかい、クソったれ!」
「ちょっと! なによそれ!」
「俺の頭の中にあるライブラリーから感謝の言葉ボキャブラリーを引っ張り出してみても“クソったれ”が眩しいほど煌めいてやがるぜ、クソったれ! 饒舌しがたい最上級のクソったれだ!」
「ちげぇねぇ」
「あのね、あんたたち」
 女は男たちの胸に指を交互に突きつけた。
「何があったのは敢えて聞かないけれど、男のヒステリーはみっともないわよ。喚き散らす男はウチのバカ亭主だけで充分よ」
「その指をこめかみにもってったら完璧だったのにな!」
「この女、寝ぼけてやがるか酸素欠乏症かのどっちかだな」
「あら、知らないの? 私の体液の70%はコーヒーなのよ。もう、冴えて冴えて、冴えまくりよ」
「中毒者め! こいつこそオシメが必要だ!」
「はぁ?」
「カフェインには利尿作用がありやがるのさ!」
「馬鹿じゃないの? そういうのセクハラ――」
 そこで溜め息をつき、まぁいいわ、と続けた。
 何も知らない子供を扱う保母のような態度が二人の男には気にくわない。言い聞かせるのは無駄だと諦めている、あのムカつく態度だ。三児の母がするのだから再現度は極めて高い。高すぎてランペイジの我慢の山脈を越え、その風圧で怒りをせき止めるダムを決壊させてしまいそうだ。
「さっさと説明したらどうだ」
 ランペイジはそう言いながら、口の中で空想の煙草を噛み切った。歯茎がぎしぎしと音をたてる。
「くだらねぇ冗談を披露するために呼んだんじゃねぇんだろ?」
「それはそうね、ランペイジ。今日のあなた、最高に冴えてるじゃない。私が勧めた禁煙セミナーがちゃんと――」
「おい」
「なによ。そんなんじゃモテないわよ、せっかちさん」
 彼女は、ふん、と鼻を鳴らして背を向けた。
「間抜け面晒さないように、熟練のお姉さまが心構えさせてあげてるってのに」
 女性はハンドルを回してハッチを引き開けた。
 男たちは互いを見合い、どちらともなく肩をすくめた。
 扉枠を跨いで、後を追う。足取りは重い。


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最終更新:2012年12月18日 13:55