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神が私たちのためにいれば、誰が私たちに逆らうであろうか。
―――Deus nobiscum, quis contra?





 意識が身体に戻ると、ムーシェは顔を左右に巡らせて、周囲を探る。すると近くにいた黒人か白人の男がすぐに駆け寄ってきて、ムーシェの頭を思い切り蹴飛ばし、意識を頭から砂漠のどこか目掛けてぶっ飛ばす。
 それが何回続いただろうか。何度も頭や腹部を殴られ、背中を強打された所為で記憶が曖昧になっている。押し付けられた煙草の本数も、確実に折れただろう骨の本数も、正常に機能しなくなった部位の名前も、すべてが分からない。
 霞みのような意識をなんとか繋ぎ止め、ムーシェはうっすらと瞼を開く。正体不明の虫に顔中を刺されたかのように、ムーシェの顔は腫れ上がっていた。瞼を開くだけで激痛が走り、怠惰な甘い誘いが脳を揺さぶる。
 しかし、ムーシェは怠惰などには惹かれなかった。今、ムーシェが惹かれているのは、今まで感じたことが無いほどの、生への渇望だった。それは恐れではなく、ただ純粋に、自分を痛めつけた野郎どもを殺してやると言う憤怒によって構築されていた。
 体中が血と唾と汗に塗れ、腫れ上がった口元からはだらしなく唾液が流れ落ち、肋骨は少なくとも二本ほど折れているだろう。左腕はナイフで散々つつかれたせいで、今でも火傷したような痛みが神経に火花を散らせ、右腕に至っては煙草を押し付けられた跡が水ぶくれになり、酷くずきずきする。
 身体の表面がどろどろに濡れていると言うのに、喉はからからで、舌の感覚がほとんどない。胃の中は空っぽで、流れ出た血を補填するだけの栄養が体に残されている可能性は極めて低い。その上、身体の傷はどれも致命傷には至らない、学生のお遊びのようなものばかりだ。

「気分はどうだ。スナイパー」

 ふいに、しわがれた声がムーシェの意識を霧の中から引っ張り上げる。あの指導者ぶった元政府軍の野郎だと、ムーシェは思い、もはや歯ぎしりすらできない自分の身体を激しく憎んだ。
 水を吸い込んだ砂のように重い瞼を上げ、ムーシェが顔を上げると、そこには予想通り、政府軍のコートを羽織った中年の男が立っていた。煙草を咥え、ホルスターにガヴァメントを納め、男らしい立ち姿で、捉えられた男を見下ろしている。

「良いように見えるなら、あんたは相当いかれてるぞ」
「世の中には痛めつけられて喜ぶ奴もいるからな。お前たちはそういう手合いに近いんじゃないか?
 任務のためなら肘や膝が擦り切れても張って進む、スナイパーなんだろう? 糞だって平気で服の中に垂れ流す変態野郎ってわけだ」

 誇りを土足で踏みにじられ、ムーシェは激怒した。血管と言う血管に溶岩が流れ込み、身体を内側から灼熱で焼くような怒りは、椅子に縛られている両腕を振るおうとしたが、縄がぎしぎしと音を立てただけに終わる。
 椅子に縛り付けられた無様な男がもがく様子を見て、中年の男はにやりと笑い、ムーシェの顔目掛けて紫煙を吐き出す。ただでさえ暴行を受けて呼吸が苦しい中、吸い慣れていない紫煙を吸い込み、ムーシェは咽返り、さらに唾液と鼻水を撒き散らす。

「ざまぁないな。お前みたいなのが人殺しだっていうのか。世の中も楽になったもんだ。
 こんな奴が人を殺せるなら、俺だって殺せるに決まってるじゃないか。まったく、呆れたもんだ」
「……お前は人を殺したことが無いのか? まさか……。おい、そんなに老いぼれてまた処女だって? 俺を笑いで殺すつもりなのか?」

 くつくつと肩を震わせて笑いながら、ムーシェはこの哀れな中年の男を見上げ、血の混じった唾を吐き掛けてやった。

 ―――なるほど、ようやく理解したぞ、この老いぼれめ。お前は人を殺すと言うことを、生け贄を捧げることのように思っちまってるんだな?
 とある野郎を殺すため、その引金を引くのに、いちいち聖書のセリフを引用しちまう手合いってわけだ。 
 怒りにまかせてぶっ殺すことはできても、冷静さを保ったまま人を殺せない。ギャングならそれで良いだろうが、ここはダウンタウンじゃない。
 ここは戦場だぞ、分かっているのか?

 いつの間にか声を上げて笑い始めたムーシェに、不愉快に顔を歪めた中年の男が右腕を鞭のように振るう。右頬がプレス機で圧縮されたような感覚を味わった後、脳髄に白い電流が走り、視界が白く明滅した。
 意識が空に飛び立つのをなんとか繋ぎ止めることに成功し、ムーシェが瞼を上げれば、椅子と一緒に身体がひっくり返っていた。
 だが、すぐに中年の男がムーシェを引っ張り上げ、今度は襟元を左手で持ち上げながら、何度も何度も右腕を振るい始めた。肉と肉がぶつかり合う殴打音と、切れ切れになった笑い声が、狂ったように繰り返される。
 視界が真っ白に染まり、殴られていると言う感触すら薄れていく。また意識を失うのかと、ムーシェは思った。だが、意識を失うことに恐怖や安堵は感じていなかった。
 意識のない肉体を痛めつけるのは、楽しくないと考えそうな連中が、ただの肉の塊に銃弾を打ち込むとは思えない。こういう奴らは、意識のある時に、俺の心を圧し折ろうとするはずなのだ。
 殴られ、罵声と唾を浴びせかけられながら、ムーシェは微かに空気が揺れる音が聞こえたような気がしたが、幻聴だろうと決めつけ、中年の男の右フックを受け、意識を手放した。

―――

『―――こちらSpear-1、目的座標まで残り10分ほどで到着する。準備は良いか、野郎共』

 雷の鳴り響く曇天の砂漠を、一機のスーパーハインド攻撃ヘリコプターが、四枚のメインローターを回転させ、二基のターボシャフトエンジンの騒音をまき散らし、降り注ぐ雨粒をその流線型のボディに受けながら、地上高度二百メートルを飛行していた。
 OVA傘下の中堅ミグラントが過去の遺物から基本構造をコピーして作り上げられたガンシップは、蜂の針のように長い銃身の12.7㎜重機関銃のタレットを機首に持ち、センサー類を凝縮したセンサーボールをきょろきょろと動かしながら、ある地点へと急行している。
 その地点とは、ならず者どもがいるとされる場所だ。荒れ果てた大地同様に、頭の中が荒れ果てている阿呆共が、群れをなしている所だ。銃に敬意を払わず、銃を悪徳そのものに変えてしまう、不道徳な輩のアジトだ。そいつらを叩くため、スーパーハインドは地面を這うように進んでいた。
 コクピットに座る男も、射撃手としてタレットを動かしている男も、胴体に設けられたキャビンで各種装備の点検をしている兵士たちも、その地点でなにをするかを心得、何が起きていたとしても動じない覚悟を備えている。

「野郎じゃない人はどうすればいいんですかね?」

 ジャキンッ、と音を立てながら、9ミリ・オートマティック拳銃のスライドを引き、初弾を装填しながら赤毛の女性が言った。
 頭には『This we'll Defend』という在り来たりなモットーが書かれた野球帽を被り、余り気味な髪を後ろでゴムバンドを使い一纏めにしている。
 色あせたブルージーンズにタクティカルブーツを履き、シャツの上にタクティカルベストを着込んだ彼女は、拳銃を太股のカイデックス製ホルスターに収め、二点スリングで吊り下げていた突撃銃を手に持つ。
 旧政府軍特殊部隊が主に使用していた5.56㎜カービン銃。銃身を覆うハンドガードには凹凸があり、その凹凸に合わせて様々な用品を装着できる、高価な玩具のような銃だ。
 今、そのカービン銃にはホログラフィックサイトとフォアグリップが取り付けられ、塗装は砂色一色の状態だった。

『失礼。――紳士淑女の皆様方、我らがリーダーを分捕る準備はできてるか?」
「ああ、出来ているとも。なんたって、我らがリーダーは、ヒーローなんだからね」

 赤毛の女性の隣で、柔和な声を上げるのは、痩せた長身の男だ。政府軍の二線級部隊でよく使われていたオリーヴドラブ一色の戦闘服に、ヘルメットを頭に載せ、ボディアーマーを着込み、サブマシンガンを持っている。
 多くの部品がプレス加工で生産されたサブマシンガンは折り畳み式のストックがついており、長身痩躯の男は既にそれを展開していた。口径は9ミリで、オールスティール製のため重さは4キロ近くあったが、その重さが発砲時の反動を吸収してくれるという利点がある。
 赤毛の女性と長身痩躯な男の他に、キャビンには二人の人影があった。二人は若い男で、赤毛の女性と同じような装備をしているが、目には不安が浮かび、口数も少ない。見る者が見れば、戦闘経験が少ないとすぐ分かる。

『オーライ。だが、こちとら久々の近接航空支援だ。赤外線ビーコンのスイッチが入ってなけりゃ、間違ってぶっ飛ばしちまうかもしれねえ。スイッチの確認はしたか?』
「もちろんですよー。ボクもマルコーさんも……あ、えっと、ジョシュさんとトムさんはまだだったみたいです」

 にこにこと笑いながら、キャビン内に響くパイロットの声に答えた赤毛の女性だったが、ふと横を見ればジョシュと呼ばれた東洋系の男と、トムと呼ばれた白人が、肩に括り付けた赤外線ビーコンのスイッチをオンにしているところだった。
 ジョシュはバラクラバにサングラスを掛け、警官時代から愛用しているらしいサングラスをしているので顔色は窺えなかったが、明らかに恥ずかしがっていた。トムは白い頬を紅潮させ、赤毛の女性と目が合うと、首が捩じ切れんばかりに顔を逸らした。

『―――ったく、馬鹿どもが。ちったぁ男らしいとこ見せろってんだ。キャビンから飛び出たら、そこはもう手取り足取り教えてくれる奴はいないんだぞ』

 パイロットが悪態をつくと、二人の若者は申し訳なさそうに顔を下げ、粛々と武器の動作確認を行い、それぞれの装備を完璧な状態にして安全装置を掛けた。
 赤毛の女性はそんな二人の肩を叩いて、にっこりと笑いながら、かつて抱神者と同じ名前を持つ男に言われたように、大丈夫ですよ、安心してください、と言い、彼らの緊張と不安を拭い去る。
 肩からやや重しが外れた様子の若者二人から遠ざかり、赤毛の女性は長身痩躯の老いぼれ軍医、リチャード・マルコウィッツの近くに腰を下ろし、ふうと息を吐き出す。

「新兵にはよくあるね、ああいうのは。昔はテレビゲームで不安を解消させたりしたものだが、キャンプにゲームはないからなぁ」
「……ボクはそれよりも、その左腕にあるエンブレムの方が気になるんですけどね」

 マルコウィッツがにこやかに昔話を切りだそうとしたのを、赤毛の女性は遮り、オリーブドラブ色の野戦服の左腕に縫い付けられている二つのエンブレムを指差した。
 一つは銃剣の付いたマスケット銃とサーベルが交差し、その下に『Great Duty First』と描かれているもので、それは政府軍の精鋭、強襲上陸部隊のものだった。彼らは後に、海兵隊と呼ばれる組織の設立に関わり、現在では反政府勢力『海兵隊』の一翼を担っている。
 二つ目は黒字に赤い『7』が印字された、ダイヤモンド型のエンブレムで、その下にはラテン語で『Nobiscum Deus』と描かれた、政府軍第7首都独立防衛大隊のものだ。あの悪名高い『埋葬者』を保有していた部隊として知られ、クーデター時には司令部を含め壊滅したと聞く。

「ああ、強襲上陸部隊と第7首都独立防衛大隊のエンブレムかな。見ての通り、私の元所属部隊と、最後に所属していた部隊だよ。言ってなかったかな?」
「言ってませんでしたよ、もぅ。もっと前に言ってくれれば、いろいろお話もできたのに」

 わざとらしく赤毛の女性が頬を膨らませると、マルコウィッツは顎に手をあて、少し間を置いてから、彼女の碧眼を見つめた。

「というと……」
「ボクも元第7首都独立防衛大隊所属なんですよ。まあ、あんまり後方には顔を見せてなかったので、マルコーさんと会ってないのも納得ですけどね」
「まあ、私がやってたのは後方も後方の仕事だからね。エルフィファーレさんのような人とは、無縁な場所だろうし。私も、傷ついた女性を治療するのは士気が下がる」

 肩を竦めながら、マルコウィッツは苦笑する。その苦笑に対して、エルフィファーレはくすりと笑みを返し、華奢な右手をマルコウィッツに差し出した。

「では、タフなリーダーを失うのは、それ以上に士気を下げますよね?」
「その通り。だからこそ、我々がこうやって彼を救出せねば。しかし……スピアーズ、君はいつの間にリーダーに盗聴器をつけたんだね? そんな暇はなかったように思えるが」

 真剣な表情でエルフィファーレの右手をぎゅっと握り、決意を確認し合った後、マルコウィッツは今回の騒動の元凶になった、スーパーハインドのパイロットに向けて問うた。
 キャビンにいる四人が胸元に取り付けたトランシーバーからスピアーズの呻き声が数回聞こえてきた。言い訳でも探しているのだろうとエルフィファーレが推測すると、意を決したようにスピアーズが話始める。

『あいつに盗聴器を付けたわけじゃなくて、あのハンヴィーに予め通信機を積んで、いろいろ聞こえるようにしてたんだよ。あと、あいつの戦闘服にビーコン仕込んどいたんだ。あのビーコン、普通にしてる分には壊れないけど、強い衝撃を受けると壊れる欠陥品なんだけど。んで、通信機からは砲撃音と炸裂音、ついでにビーコンは切れて、ハンヴィーのエンジンがかかった様子もないってわけだ』

 スピアーズが真剣な表情で整備中のスーパーハインドの暖機運転をし始め、マルコウィッツと二人の戦闘員を招集した時は何があったのだろうと思ったが、そういう理由があったのだ。
 あの時はシメオンが危ないと言われて、膝から崩れ落ちそうな身体を叱咤し、スピアーズに了承も取らず、マルコウィッツたちと武器と弾薬を引っ掴んでキャビンに乗り込んだのだっけと、エルフィファーレは数十分前のことをふと思い出す。
 錆の浮いた格納庫から引き出される流線型の攻撃ヘリコプターに、慌ただしく動き回る整備員たち。頭を貫いて響き渡る、二基のターボシャフトエンジンの稼働音。試運転で動き回るのは、機首についている攻撃ヘリの目―――センサーボールだ。
 通常の白兵戦では、圧倒的な火力を恐ろしいほどの精確さで叩き込むことができる攻撃ヘリは、これ以上ないくらいに頼もしい存在だ。歩兵が常に欲している援護は、陸が戦車なら、空は攻撃ヘリとまで言われる。
 そんな攻撃ヘリの腹の中に、エルフィファーレはいる。愛を愛と確認するため。シメオンを生きて取り返すため。理由を探すなら、もっと出てくる。でも、理由なんか必要ない。
 助けたいから助ける。生きていて欲しいから、生きて取り返す。生きて、その隣で一緒に生きていたいから、殺させない。死なせない。

『俺は戻ってくる。その時に、結論を聞かせてくれ。お前がそれでもと言うのなら、俺は俺なりに検討する積りだ』

 幻聴だろうか。エンジン音の切れ目に、シメオンの声が聞こえたような気がして、エルフィファーレははっと顔を上げ、無機質なキャビンの内壁を視界に入れる。
 大気を切り裂くローターブレードの羽音。エンジン音に、ジョシュとトムの何気ない会話。ロザリオをポケットから取出し、マルコウィッツは聖書の一説を呟いている。
 まるで三年前に戻ったみたいだと、エルフィファーレは感傷に浸り掛けたが、すぐに現実に意識を戻す。

「そうですよ……」

 太股のホルスターに収まる9ミリ拳銃とは、違う箇所に収納した45口径拳銃の感触を手で確かめながら、エルフィファーレはぽつりと呟く。
 思うことは、いろいろあった。まだ答えを言っていない、聞いてもいない。気があるようなことを言っておきながら、あの人は今、恐らく危機に陥ってる。
 なら、ボクが助けなければならない。あの人がボクを偶然助けてくれたように、ボクはあの人を助けて、この胸の奥にある気持ちを、思いっきりぶつけないと。

―――そうじゃないと、ボクの気持ちが晴れないんですから。

 しばし、エルフィファーレは胸に手を置きながら、精神を落ち着かせ、集中力を高め、何があっても挫けないと覚悟を決めた。
 目を閉じ、ふうと息を吐き出す。再び彼女が瞼を上げると、その碧眼は獲物を捕らえた鷹のように鋭く、迷いのない真っ直ぐな光りを湛えていた。
 そしてエルフィファーレは、自然と唇を動かし、

「恋する乙女は、文字通り無敵なんです」

 そう、呟いていた。








投稿者:狛犬エルス
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最終更新:2012年11月20日 01:12