利己主義/利他主義


(参考文献:Wikipedia、『プレップ倫理学(拓植尚則)』、『倫理とは何か-猫のアインジヒトの挑戦-(永井均)』)

利己主義

利己主義者とは何よりも自己の利益を追及する者のことである。ここでいう利益とは健康や幸福といった観念だけでなく、地位や名誉や権力などの自分が欲しいと思ったものすべてを含めてよい。思いやりといった利他的なものも含まれる。

利己主義はまず心理的なものと規範的なものに大別される。前者は心理的利己主義(記述的利己主義とも呼ばれる)は、事実として人間は自己の利益を追求するという立場で、近代イギリスのホッブズなどが論じている。後者は倫理的利己主義(規範的利己主義)と呼ばれ、利己的でない人間も含めて自己の利益を追求するべきとする立場で、現代アメリカのランドなどによって論じられている。

もう一つよくなされる分類が、短期的利己主義と長期的利己主義との分類である。短期的利己主義では、長期的に見た自分の利益を考慮せずに現在の自分の欲求を満たそうとする。いまどうしてもタバコが吸いたければ将来肺ガンになることなど意に介さない、刹那的な立場と言えよう。逆に、現在の自分の利益を断念しても全体として見た場合の自分の人生の最大の利益を考えて、いわば理性的に統御して利己的に生きるのが長期的利己主義の立場である。

真正の道徳者のパラドクス

長期的利己主義者は、その方が自分の人生全体の利益になると判断した際には利他的に振る舞うことがある。完璧な長期的利己主義者は外見上道徳的な人間と区別がつかないことが多く、実証主義的見地からはそもそも区別がないとも言える。ゆえに道徳は、利己主義者が自分の長期的な幸福を考えて自分を理性的に統御したときに、多少とも利他的に振る舞わざるを得ないようにさせるシステムになりうる。

長期的利己主義者は、誰にも知られない状況では、自分が道徳的でない行動をすることがありうる一方、自分の人生全体の利益のために道徳に従うこともある。このとき、道徳に従うことそれ自体が利己的なものになる。道徳に従う快さはここに見出される。今ここで道徳に従って行動しておけば、長い目で見て幸福でいられる、と感じられることも快楽の一つだからだ。

逆に、絶対に誰にも知られないと分かっていながら悪を犯さず、道徳的な行動をすることの幸福感が存在するとしても、不思議ではない。その幸福感のために行動するという利己主義もまた考えられるから、そこまで含めると「すべての人は利己主義者である」という普遍的で記述的な利己主義が完成する。

ここでは、ただ道徳的に良いことをしただけで嬉しくなれるか、ただ道徳的に悪いことをしたというだけのことで本当に落胆し不幸になれるか、という実質的な心の在り方が効いてくる。そのような人は、極めて道徳的な人であるが、普遍的で記述的な利己主義者という考え方が同語反復的に当てはまってしまう。利己主義に対立していたはずの真正の道徳的行為が、利己主義に包含されてしまうのである。

倫理的利己主義のパラドクス

倫理的利己主義(以下、単に利己主義とする)においては、利己的でない人間も含めて自己の利益を追求するべき、としている。いわば、利己主義を推奨しているのだ。利己主義を推奨するというのは、道徳的でない人間になることを推奨する。道徳的に善いことをしただけで嬉しくなったり、道徳的に悪いことをしただけ悲しくなったりする人間であることをやめよう、と呼び掛けようとするのだ。だが、それは自分に対して不利益になる可能性がある。

だが、本当の利己主義者が他人にも利己主義になって欲しいと思って呼び掛けようとするのは、実はその人のためを思うからなのだ。例え自分の利己主義にとっては利益にならず、むしろ害になる可能性があったとしても、他人に道徳なんか本気で気にするのはやめろよ、と言いたくなるのは、利己主義者の非利己的な道徳によるのだ。

この利己主義の破れこそが、いわば利己主義者の愛のようなものであり、利己主義の逆説なのだ。そもそも、主義と名のつく以上、誰か他の人に対して推奨し、思想を共有するものでなければならない。ゆえに、利己主義が主義たること自体、実は大きな矛盾をおかしているのだ。利己主義は語ることができないものなのだ。

ニーチェと利己主義

ニーチェの思想には、上記の利己主義のパラドクス――真の道徳者と長期的利己主義者は、外見上の区別がつかないこと、利己主義を他人に語ろうとすることができないこと――がはっきりと表れているようだ。たとえば「ツァラトストラはかく語りき」の祭司たちの章を読んでみよう。

 或時、ツァラトストラは弟子たちに合図して、かれらに次の言葉を語った。
「ここに祭司たちがいる。かれらはわが敵である。しかはあれど、
なんじらはかれらの傍を行くには、静かに、また眠る剣をもて過ぎりゆけよ!
 かれらの間にも勇者がいる。かれらの中の多くの者は、苦しむこと多きに過ぎた。
――この故に、かれらは他人をも苦しませんとする。
 かれらは悪しき敵である。かれらの謙抑より以上に、復讐の念の深いものはない。
かれらを攻むるものはたちまちに汚される。
 さあれ、わが血液はかれらの血液と相通じている。われはかれらの血液に於て、
わが血液が尊敬されんことを欲する。」――
 しかし、かれらが行き過ぎたときに、ツァラトストラは苦痛に襲われた。
彼しばらくこの苦痛と闘った後、かく言いはじめた。――
 この祭司らはわが心を傷ましむる。かれらはわが感興を害する。しかし、かかる事はなお、
われが人間の中に交ってより経し瑣事にすぎぬ。
 われはかれら祭司たちと苦難を共にする。また、してきた。かれらは囚われの徒であり、
印を烙かれた者である。かれらが救い主と呼ぶかの者が、
かれらを桎梏の中に縛いだのである。
 謬まれる価値と妄想の言葉との桎梏の中に縛いだのである!
ああ、何人かあって、かれらをかれらの救い主より救い出すを得るならば!
――新潮文庫『ツァラトストラはかく語りき』より引用

祭司たちは真正の道徳者であり、ツァラトストラは利己主義者である。ツァラトストラは既に、「神は死んだ!」ことに気づいている。にもかかわらず、彼の「血液はかれらの血液と相通じている」。ということはつまり、神の死とは全く無関係に、いや神の死を越えて、彼には祭司たちと共有している感情(血は感情のメタファともいえる)があるのだ。この感情が利己心である。真正の道徳者が利己心を共有している(あるいは外見上そう見做されてしまう)という事態がここに言い表されている(真正の道徳者のパラドクス)。

また、ツァラトストラが「かれら祭司たちと苦難を共にする」のは、ツァラトストラの立場を祭司たちに「推奨する」ことができないからであり、これは利己主義者が利己主義を伝えることができないのと同じことなのだ。「救い主」とはもちろんキリストのことだ。ここでツァラトストラは祭司たちをキリスト教道徳のうちに囚われた存在として見出すのであるが、口で言って祭司たちにキリスト教道徳を辞めさせることもできない、なぜならそもそも伝達することが不可能だから(倫理的利己主義のパラドクス)。

独我論との関連―「言うことに意味がないと同時に言われるべき必然性のある主張」

「倫理的利己主義のパラドクス」の問題から分かるように、倫理的利己主義はヴィトゲンシュタインの主張する独我論と同様に「伝達することができない」という不可能をもつ。

- 5.6 
 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。 
 5.61 
 論理が世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
 それゆえに、論理の内側で「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
そう語ることは、明らかにある種の可能性の排除を前提としているが、しかし、それは事実ではありえな
い。なぜなら、事実であるとすれば、論理は世界の限界を超えなければならない。すなわち、世界の限界
を超えることによってのみ、論理は世界の限界を外側からも見ることができるのだから。
 思考できないことを思考することはできない。思考できないことを語ることもできない。 
- 5.62 
 以上の見解が、独我論はどの程度まで正しいかという問いの鍵となる。
 すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語ることができず、自らを示すだけである。
 世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一のこの言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。 

独我論は当然主張されうる。だが、それを言うこと自体に意味はない。独我論の表すような状況がそもそも純粋実在論と一致しているということもあって、独我論的な状況は語り得ぬもの、つまり「伝達することができない」という不可能を抱えたものとなるのである。

利他主義

言わずもがな、自己の利益よりも他者の利益を優先する考え方である。対義語は利己主義。特に永井均の「倫理とは何か」においては、道徳的であることとまったく同義のものとして扱われる。
最終更新:2011年08月20日 03:47
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