(『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦―』を参考にまとめた。)
倫理学の問題
そもそも「倫理学の問題」を考えるとき、基礎的なこと把握することは大切である。しかし、これの把握が意外にむずかしい。たとえば「何故人を殺してはいけないのか」は倫理学における一般的な問題であり、これにはさまざまな意見対立が考えられる。しかし、これが倫理学的に解かれる場面ばかりではないことがほとんどで、大体は感情的な問題だったり、あるいは問いそのものに答えない遠まわしなものだったりする。ネットの掲示板などで見られる議論は、この類のことに陥っていることが多い。
道徳的な価値
しかし、数多くの倫理学説においても、当然の条件とされている事柄がある。まず、道徳的に悪いことは、自分にとっては善いことでも、他の多くの人にとっては悪いことである。同時に、道徳的に善いことは、自分にとっては悪いことで、他の多くの人にとっては善いことである。この関係を押える上でのポイントは、善悪は価値評価だからその価値を享受する主体と切り離せない、ということだ。それゆえ、ある行為によって、「誰が利益を受け、誰が害悪を受けるのか」の『誰にとって』を曖昧にしてはいけない。
他の価値判断と違って、道徳的な価値判断は、自分にとっての善し悪しと、他の多くの人にとっての善し悪しをはっきりと区別している。傍から見ると時間の無駄であったり、お金の無駄であったりと、自分にとって損なことであり、しかし周りの人間にとっては大いに助かる、そんな行為が、道徳的に善いとされる。そしてその原則はいつも変わらない。逆に言えば、何かをするときに、それが道徳的に善いか悪いかしか考えなくなってしまえば、道徳的行為をされたとしても、前提からしてそれが自分にとって「ためになる」「利益がある」ことが分からなくなる。すべての人が道徳的に善いか悪いかしか考えない世界においては、本来の価値判断のあり方からかけ離れたものとなるため、そもそも道徳的に善いとされることがどんなことなのか分からなくなる恐れがあるため、理想的とはいいがたい。このように、道徳的な価値判断に固執することは、自己破壊的なことなのだ。
筆者の見解
道徳的な善悪判断は、単に「これが好き、これが嫌い」という選好の問題ではない。選好が問題にされる場面があるとすれば、それは選好それ自体は感情的なものだが、その選好の程度に従って価値の序列が定まっているときに限るだろう。基本的に、好き嫌いといった感情的な問題は、善悪の判断とは切り離されて別に考えられるべきだ。だが逆に、強い感情が道徳の原則になることはもちろんある。
好きな行為、嫌いな行為が、道徳的に見て善いかどうかを判断するとき、まず、その好き嫌いに従って行為することによって、「自分にとってよい」という点が満たされているかどうかについて、十分考慮される必要がある。次に、その行為によって、周囲の人間や他の多くの人にどんな影響を与えるかを考え、それに従って道徳的に判断する。どちらにせよ、道徳的な価値評価は、自分にとっての善し悪しと他人にとっての善し悪しが必ず逆転しているのを押さえなければならない。
最終更新:2011年09月30日 17:15